2008/04/25 - 2008/04/25
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ムッシュさん
旧街道「中山道」を大宮宿・氷川神社より桶川宿までウォーキングした。
都心に近い平野部だけに大半が住宅街で、道中に昔の面影は有る訳もありません。街道の面影を最も残していたのは、今回のゴールでもある桶川宿です。
当時の蔵を残す島村家の歴史的資料には感動的でした。
皆様も機会あれば一度伺って下さい。
普段歩くこともない地区ですので、拙い歴史知識をかき出しながらお勉強がてらの観光です。
表紙フォトは、著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽街道 桶川宿 英泉画】
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曾街道 上尾 英泉】06
加茂神社
英泉の木曽街道の絵に描かれた有名な神社。京都上加茂神社を勧請したと伝わる加茂宮村の鎮守。
しかし、上尾宿となっている。 -
【加茂神社由緒】
当神社の創立は、文化7年徳川幕府によって作られた。新篇武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請の年代詳かならず」と記されているが、社前に寶暦三年四月、弘化二年十二月と刻まれたもの又、文政十年八月御迁宮と刻まれた石灯篭もあるので相当古い御鎮座であることがわかる
その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝え、別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて来ました。
幕府の参勤交代の時代、加賀の堀丹波の守が仲仙道を往来の砌りその妻女が遽かに産気を催したので当社に立寄り御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰着の後、玉の如き男子の出生を見たと云う。安産御礼の為奉納したという幣帛は現存しています。
昔から生産、安産、守護の神として信仰が厚く、上加茂宮村、加茂宮村、鍛冶村を始め近郷からの参詣も多い。
明治41年附近数社を合祀して翌42年神撰、幣帛共進の神社として改めて村社に指定された。祭神の合祀により衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等が加え祀られ御利益も増えました。大正8年不幸拝殿を焼失したが、本殿は御神威により御安泰であったので当時の氏子等は力を協せ直ちに拝殿を再建し同時に社務所をも新築しました。以来60年、神楽殿も古びて危険となり、その上社所も手狭で不便となったため昭和の大造営が遂行された。 -
【加茂神社】
京の上賀茂神社を勧請したもので、旧加茂宮村の鎮守です。
参勤交代の折、加賀堀丹波守の妻女が産気づき、当社に祈願すると陣痛が治まり、国許で玉の如き男子を出生したところから安産の神と親しまれています。
英泉の木曽街道の絵に描かれた有名な神社。京都上加茂神社を勧請したと伝わる加茂宮村の鎮守。江戸時代より上尾の名所として、親しまれている。 -
【南方神社】山門
南方(みなみかた)神社という
この神社を過ぎると、いよいよ上尾宿に入る
通称「お諏訪さま」 -
【南方(みなかた)神社】さいたま市北区吉野町2丁目
吉野村の鎮守です。地元では、”お諏訪さま”呼ばれ、親しまれている -
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【上尾宿総鎮守「氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ」】
氷川鍬神社は寛永9年(1632)の創建で上尾宿の総鎮守です、五穀を司る農耕神として小さな鍬二丁を祀っています。
境内には菅原道真公を祀る二賢堂跡もある。二賢堂は天明8年(1788年)に建てられた学舎。
もともとはご神体が小さな鍬二丁であったため鍬太神宮と呼ばれていたが、後に氷川女体神社と合祀したので氷川鍬神社と名を変えた
この右手の石碑には【二賢堂(じけんどう)】の説明
学僧の雲室上人が天明8年(1788年)、ここに学舎を建てた学門の神様菅原道真と儒学の朱子を合わせて祀ったことにより二賢堂と名付けたとのこと。
氷川鍬神社は「武蔵国足立群御鍬大神宮畧来」によると百九代明正天皇の御代、寛永9年(1632年)の御創立と伝えられます。
御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道真公・木之花咲耶姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべて下さる神であり、疾病除け、招福、豊作の神であります。
稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表される神であり、菅原道真公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さまの神さまで、大山祇神という尊い神さまの御子神さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通稱「お鍬さま」と呼ばれております。
氷川鍬神社は,明治41年(1908)に周囲の神社が合祀された後の名で,もとは江戸初期の万治年間(1658~1661)に創建されたと伝えられる御鍬太神宮である。三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち,白幣をかざして踊り歩きながら上尾宿に来た。童子たちは鍬を残し,いずこにか消え失せてしまったという。残された鍬を祭ったのが,神社の起源と伝えられご神体は小鍬である。 -
【埼玉 上尾市 氷川鍬神社】
上尾宿の総鎮守、氷川鍬(ひかわくわ)神社
<御祭神>
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
應神天皇(おうじんてんのう)※第15代天皇270年~310年
木之花咲耶姫命(このはなさくやひめ)
菅原道實公(すがわらみちざねこう)
須佐之男命(すさのおのみこと) -
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【上尾身代り拭い不動尊 遍照院へんしょういん】上尾市上町1丁目
開山は室町前期の1394年(応永元年)。
仏教の宗派的には「真言宗智山派」であり、正式には「日乗山秀善寺 遍照院」といいます。本尊は興教大師作の不動明王で、不動明王像は江戸時代に造られたものだと伝わっています。
江戸時代、遍照院はお寺の領地として20石を与えられました。これは市内で最高の石高なのだそう。だから現在でも、上尾市内で特に大きなお寺なんですね。旧中山道のそばにあるので、周辺はさぞかしにぎわったことだろうと想像できます。
上尾市の遍照院は仁和寺の末寺
余談ですが、武蔵野国についてまとめた『新編武蔵風土記稿』によると、上尾の遍照院は、真言宗御室派のお寺である京都の仁和寺の末寺なのだそうです -
遍照院にある【”遊女お玉さんの墓”】
遊女であったお玉は前田侯の参勤通行の際、小姓に見染められ江戸行となりましたが悪い病をうつされ二年で上尾に戻され、二十五歳で亡くなりました、遊女屋の主は憐れみ篤く弔いました。
「廓室妙顔信女」と彫ってある。
真言宗智山派日乗山秀善寺遍照院は、応永元年(1394)の創建で、本尊は大聖(だいしょう)不動明王です。 -
【中山道上尾宿彩の国平成の道標】があります、この辺りが上尾宿京口です。
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【旧跡木戸址碑】(桶川市東2丁目1)
ここが桶川宿の江戸口(東口)。桶川宿に到着です!
桶川宿は、江戸から出た旅人が最初に宿泊することが多い場所であった。現在の町並みは、寛永12年(1635)にほぼ完成し、周辺の土地は口紅や食紅の原料となるベニバナの生産地として、出羽の最上に次ぐ全国2番目の生産量を誇るようになり、その問屋が店を並べるようになったため繁盛した。荒川の太郎右衛門河岸から江戸へと出荷され売りさばかれたが、明治以降は化学染料の普及でべにばなは衰退。「南の木戸」の石碑が建っており、江戸側の入り口である。朝夕には木戸番によって開け閉じされ、日中も木戸番が見張をしていた。 -
今も営業してる宿場で唯一の【旅籠”武村旅館”】桶川市南一丁目
嘉永5年(1852年)築の旅篭「紙屋半次郎」跡。明治天皇巡幸の供をした山岡鉄舟が宿泊しました(国登録有形文化財)。看板にはビジネス旅館と表示あり。格子の玄関に風情が残る。
桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くあった。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840年ころ)には、36軒を数えたという。
この【武村旅館】は、宿場町当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物である。
皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)には、ここで紙屋半次郎が旅籠を営んでいた。当時の間取りは現在もほぼ引き継がれている。創業200年の現役旅館である -
天保7年(1836年)の建築で、木造3階建ての珍しい土蔵。
【国の有形文化財”島村家”住宅土蔵】
“丸に木の字”の木嶋屋を屋号とする商人は5軒もあり、紅花取引の中心となっていました。その総本家にあたるのが島村家。天保7年(1836年)築の木造3階建ての堂々たる土蔵は国の有形文化財に指定されています。
桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋であった。
100円の入場料で蔵内を見学できる。 -
【”島村家”】内部見学
桁行六間、梁間三間の木造三階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保7年(1836)の建築と伝えられています。島村家は中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼板には当時の屋号の一字をとった「木」の字が刻まれています。
また、この土蔵の建築工事は、天保の大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くの民が飢えから救われたことから、「お助け蔵」といわれたとの伝承も残されています。
現在は、黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさせる堂々とした土蔵です。 -
”島村家”、蔵内の展示物。【屋号の入った鬼瓦】(フォト左側の瓦)
【木嶋屋総本家】
“丸に木の字”の木嶋屋を屋号とする商人は5軒もあり、紅花取引の中心となっていました。その総本家にあたるのが島村家。
その他には島村家代々の家族が使っていた生活用品(長火鉢・煙草入れ・鏡台・長持ち・火鉢・農耕具・そろばん・天秤計り・食器・古銭・屏風・麻蚊帳・屏風・雛人形・・・・・・・)がどっさり展示されている。 -
”島村家”、蔵内の展示物。酒の看板。
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”島村家”、蔵内の展示物。
江戸時代の百科事典らしい。きれいな印刷です。 -
”島村家”、蔵内の展示物
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”島村家”、蔵内の展示物
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”島村家”、蔵内の展示物.
地図です -
”島村家”、蔵内の展示物
外人のお雛様 -
”島村家”、蔵内。一本物の大梁。幅4~50cmもあるかという梁材に圧倒される。
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”島村家”
古い新聞が残っていた。 -
”島村家”
嶋村家は、屋号を「木嶋屋総本家」と呼ばれ、先祖は上村の農家島村藤右衛門より出家。4代目文次郎は商法を志して商売に、材木、白縞を売買して木嶋屋を名乗った。後、最高潮に木嶋屋を発展させたのは源右衛門(五代目)のときであった。穀物問屋、紅花の取引で大きな富を築いた。
畑88反、山林40反と大地主となった。畑は小作人28人に貸して、収穫時には米俵が200俵大八車によって納められた。小作人は米を大八車で昼時に納めると必ずサバの煮つけが出るので楽しみにしていたようだ。毎年京都から紅花を扱う商人が総本家に買い付けに来た。 -
桶川の中山道宿場資料館】桶川市寿一丁目
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽街道 桶川宿 英泉】
(農作業風景と軒先にタバコの葉)
桶川宿:日本橋から10里14町(約41km)
家347軒、人口1400人、本陣1軒、脇本陣2 軒、旅籠36軒。
中山道で2000人規模以上の宿場は、蕨、板橋、鴻巣、熊谷、本庄、高崎の6宿。 -
桶川駅近くの西公園。今回のゴールです。次回の出発点です。
次へ 中山道NO-4桶川宿から鴻巣宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10243391/
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