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鹿島城(かしまじょう、茨城県鹿嶋市城山)は鎌倉時代初期から天正18年(1591)常陸太田に拠点を置く佐竹氏に攻められ落城するまでの約400年間常陸大掾(だいのじょう)氏の一族である鹿島氏の居城でした。<br /><br />そもそも鹿島氏の祖先は鎮守府将軍の平貞盛(たいらの・さだもり、生誕不詳~989)で貞盛の父国香(くにか、生誕不詳~935)は常陸国大掾職となって多くの荘園を所有、貞盛はその領地を後継ぎの維幹(これもと)に与え、多気(現在のつくば市北条城山)に居を構えて常陸国大掾職を継ぎ以降歴代子孫は同職を世襲していることから大掾氏と称することになります。<br /><br />その支族の曾孫の清幹(きよもと)は吉田に居を構え吉田姓を名乗り、清幹の第三子の成幹(しげもと)の代になって鹿島に居を定め鹿島氏と称します。<br /><br />養和元年(1181)3月源頼朝の命により鹿島神宮総追捕使となりますが、これに先立ち頼朝は平氏に誼を通じ頼朝に従わない常陸佐竹秀義(さたけ・ひでよし、1151~1226)を追討するにあたり鹿島神社に起請文を奉納し戦勝を祈願しています。<br /><br />当初政幹(まさもと)は宮本郷栗生村(現在の鹿島市栗生)に居を構えていましたがその後に当地に築城して移り吉岡城と称します。<br /><br />政幹より八世の孫の幹重(もとしげ)は正平23年(1368)には鹿島総大行事に任じられてこの職務はその子孫が世襲します。<br /><br />大永3年(1523)幹重の七世の孫である義幹(よしもと)の代には大土木工事を行い城郭を改修して城門や楼閣に一段と堅固にします。<br /><br />遡れば遠祖である平国香は平将門の乱鎮圧に対し多大な戦功を挙げ、その手柄によって所領を得ることにより常陸国に居住する鹿島氏を含む支族はそれぞれ繁栄を遂げ山城を根城として鹿島・行方(なめかた)方面に広大な領地を以て勢力を拡大します。<br /><br />天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、佐竹義宣(さたけ・よしのぶ、1570~1633)は常陸を中心とする諸将を伴い小田原に参陣、そして小田原北条氏が没落後に行われた奥州仕置の際には義宣は秀吉から本領安堵を得ます。<br /><br />義宣は秀吉公認の常陸国支配を実現するため、先の小田原参陣を怠り秀吉から所領安堵を受けなかった常陸南部を支配する諸豪族への攻略を推し進めます。<br /><br />まず水戸に本領を有する江戸重通(えど・しげみち、1556~1598)の水戸城に攻撃を掛け結城に追放し、次に江戸氏同様に小田原参戦しなかった府中城大掾氏を滅ぼし、そして平姓大掾氏一族が割拠する常陸南部への支配制圧を進めます。<br /><br />鹿島及び行方を支配する大掾氏支族は「南方三十三館」と呼ばれ南北朝時代から佐竹氏と行動を共にし、佐竹氏の勢力が強まるごとに従属する立場でもありましたが他方自立性も強く、常陸国統一を目指す佐竹氏は彼らの存在を排除する行動に移ります。<br /><br />天正19年(1591)2月当主佐竹義宣は鹿島城主の清秀(きよひで、?~1591)をはじめ行方・手賀・他3城主を常陸太田の鶴来城に梅見の宴に誘い、頃合いを見て全員を討取ります。<br /><br />同時に義宣は家臣に命じ謀殺した大掾氏一族の居城に向けて討伐軍を送り込み鉾田を始めとして次々と当主不在となった城を攻め落とし鹿島城にも攻撃を加えます。<br /><br />騙し討ちに遭い清秀が謀殺された報を知った鹿島城では家老たちがやがて襲うであろう佐竹軍を迎撃するべくその態勢を取りますが、大砲による攻撃を受け鹿島城は落城します。<br /><br />こうして佐竹義宣は念願の常陸国統一を果たし54万6千石を有する大大名となり、拠点を北部の常陸大宮から中央の水戸に移して江戸氏居住の城郭を改修・拡大し、他方では豊臣臣下となって朝鮮戦役に従事します。<br /><br />慶長4年(1600)関ヶ原戦いでは徳川家康率いる東軍の勝利となり、石田三成側に加担したとされた佐竹義宣は伏見城にて家康より石高不明のまま出羽国秋田に国替えを突然言い渡され直ちに新知行地に赴くよう厳命が下されます。<br /><br />佐竹氏が常陸を離れたので鹿島氏の旧臣たちは家康に鹿島家の再興を嘆願、これに対し家康は先の鹿島城落城時に下総に落ち延びた清秀の子どもである伊勢寿丸の再興を認め旧の惣大行事職を継がせることになり鹿島氏は存続します。<br /><br /><br />2022年6月19日追記<br /><br />現地建立の案内板には下記の通り説明があります。<br /><br />『 史跡 鹿 島 城 (別称 吉岡城)址<br /><br />鎌倉時代初期約800年前の昔から、室町時代の天正19年(1591)に佐竹氏によって落城するまでの約400年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城であった。<br /><br />永正の終りの頃(1520年前後)吉幹が大改造をおこない、それが高天原合戦(内紛)につながったと鹿島治乱記はいう。<br /><br />現在本丸跡が城山とされ、二の丸跡他は県立鹿島高等学校、新町の区域などになっている。<br /><br />昭和59年の発掘調査によって、治乱記でいう茅葺きの痕跡や、地鎮等の催祀的遺物、墨書土器等も出土した。<br /><br />城主後裔の鹿島家の協力を得て昭和63年より城山公園として開園、毎年整備を進めて四季を楽しめる場となった。特に桜やつつじの頃は、市民の散策する姿が絶えない。<br />              鹿嶋市教育委員会 』

常陸鹿島 常陸国統一実現に向けて南進する佐竹氏の謀殺で滅亡も後に家康裁量で再興された平貞盛を祖とし後裔の大掾氏傍流の鹿島氏本拠『鹿島城』訪問

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2014/09/26 - 2014/09/26

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滝山氏照

滝山氏照さん

鹿島城(かしまじょう、茨城県鹿嶋市城山)は鎌倉時代初期から天正18年(1591)常陸太田に拠点を置く佐竹氏に攻められ落城するまでの約400年間常陸大掾(だいのじょう)氏の一族である鹿島氏の居城でした。

そもそも鹿島氏の祖先は鎮守府将軍の平貞盛(たいらの・さだもり、生誕不詳~989)で貞盛の父国香(くにか、生誕不詳~935)は常陸国大掾職となって多くの荘園を所有、貞盛はその領地を後継ぎの維幹(これもと)に与え、多気(現在のつくば市北条城山)に居を構えて常陸国大掾職を継ぎ以降歴代子孫は同職を世襲していることから大掾氏と称することになります。

その支族の曾孫の清幹(きよもと)は吉田に居を構え吉田姓を名乗り、清幹の第三子の成幹(しげもと)の代になって鹿島に居を定め鹿島氏と称します。

養和元年(1181)3月源頼朝の命により鹿島神宮総追捕使となりますが、これに先立ち頼朝は平氏に誼を通じ頼朝に従わない常陸佐竹秀義(さたけ・ひでよし、1151~1226)を追討するにあたり鹿島神社に起請文を奉納し戦勝を祈願しています。

当初政幹(まさもと)は宮本郷栗生村(現在の鹿島市栗生)に居を構えていましたがその後に当地に築城して移り吉岡城と称します。

政幹より八世の孫の幹重(もとしげ)は正平23年(1368)には鹿島総大行事に任じられてこの職務はその子孫が世襲します。

大永3年(1523)幹重の七世の孫である義幹(よしもと)の代には大土木工事を行い城郭を改修して城門や楼閣に一段と堅固にします。

遡れば遠祖である平国香は平将門の乱鎮圧に対し多大な戦功を挙げ、その手柄によって所領を得ることにより常陸国に居住する鹿島氏を含む支族はそれぞれ繁栄を遂げ山城を根城として鹿島・行方(なめかた)方面に広大な領地を以て勢力を拡大します。

天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、佐竹義宣(さたけ・よしのぶ、1570~1633)は常陸を中心とする諸将を伴い小田原に参陣、そして小田原北条氏が没落後に行われた奥州仕置の際には義宣は秀吉から本領安堵を得ます。

義宣は秀吉公認の常陸国支配を実現するため、先の小田原参陣を怠り秀吉から所領安堵を受けなかった常陸南部を支配する諸豪族への攻略を推し進めます。

まず水戸に本領を有する江戸重通(えど・しげみち、1556~1598)の水戸城に攻撃を掛け結城に追放し、次に江戸氏同様に小田原参戦しなかった府中城大掾氏を滅ぼし、そして平姓大掾氏一族が割拠する常陸南部への支配制圧を進めます。

鹿島及び行方を支配する大掾氏支族は「南方三十三館」と呼ばれ南北朝時代から佐竹氏と行動を共にし、佐竹氏の勢力が強まるごとに従属する立場でもありましたが他方自立性も強く、常陸国統一を目指す佐竹氏は彼らの存在を排除する行動に移ります。

天正19年(1591)2月当主佐竹義宣は鹿島城主の清秀(きよひで、?~1591)をはじめ行方・手賀・他3城主を常陸太田の鶴来城に梅見の宴に誘い、頃合いを見て全員を討取ります。

同時に義宣は家臣に命じ謀殺した大掾氏一族の居城に向けて討伐軍を送り込み鉾田を始めとして次々と当主不在となった城を攻め落とし鹿島城にも攻撃を加えます。

騙し討ちに遭い清秀が謀殺された報を知った鹿島城では家老たちがやがて襲うであろう佐竹軍を迎撃するべくその態勢を取りますが、大砲による攻撃を受け鹿島城は落城します。

こうして佐竹義宣は念願の常陸国統一を果たし54万6千石を有する大大名となり、拠点を北部の常陸大宮から中央の水戸に移して江戸氏居住の城郭を改修・拡大し、他方では豊臣臣下となって朝鮮戦役に従事します。

慶長4年(1600)関ヶ原戦いでは徳川家康率いる東軍の勝利となり、石田三成側に加担したとされた佐竹義宣は伏見城にて家康より石高不明のまま出羽国秋田に国替えを突然言い渡され直ちに新知行地に赴くよう厳命が下されます。

佐竹氏が常陸を離れたので鹿島氏の旧臣たちは家康に鹿島家の再興を嘆願、これに対し家康は先の鹿島城落城時に下総に落ち延びた清秀の子どもである伊勢寿丸の再興を認め旧の惣大行事職を継がせることになり鹿島氏は存続します。


2022年6月19日追記

現地建立の案内板には下記の通り説明があります。

『 史跡 鹿 島 城 (別称 吉岡城)址

鎌倉時代初期約800年前の昔から、室町時代の天正19年(1591)に佐竹氏によって落城するまでの約400年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城であった。

永正の終りの頃(1520年前後)吉幹が大改造をおこない、それが高天原合戦(内紛)につながったと鹿島治乱記はいう。

現在本丸跡が城山とされ、二の丸跡他は県立鹿島高等学校、新町の区域などになっている。

昭和59年の発掘調査によって、治乱記でいう茅葺きの痕跡や、地鎮等の催祀的遺物、墨書土器等も出土した。

城主後裔の鹿島家の協力を得て昭和63年より城山公園として開園、毎年整備を進めて四季を楽しめる場となった。特に桜やつつじの頃は、市民の散策する姿が絶えない。
              鹿嶋市教育委員会 』

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 鹿島神宮駅周辺地図

    鹿島神宮駅周辺地図

  • 鹿島市観光マップ

    鹿島市観光マップ

  • 空堀<br /><br />

    空堀

  • 空堀<br /><br />本丸を隔てる深い空堀はしっかりと保存されています。

    空堀

    本丸を隔てる深い空堀はしっかりと保存されています。

  • 土橋<br /><br />左右は深い空堀にし唯一の土橋を渡って侵入する敵を一斉に襲う仕組みとしています。

    土橋

    左右は深い空堀にし唯一の土橋を渡って侵入する敵を一斉に襲う仕組みとしています。

  • 空堀<br /><br />土橋から捉えた空堀は深い薮に覆われています。

    空堀

    土橋から捉えた空堀は深い薮に覆われています。

  • 本丸虎口<br /><br />すっかり公園化されてだだっ広い敷地だけが眼に留まり、遺構らしきものは見当たりません。

    本丸虎口

    すっかり公園化されてだだっ広い敷地だけが眼に留まり、遺構らしきものは見当たりません。

  • 本丸風景<br /><br />跡地を見渡しますがほぼ同一高さの敷地で居館等の配置がよくわかりません。

    本丸風景

    跡地を見渡しますがほぼ同一高さの敷地で居館等の配置がよくわかりません。

  • 鹿島城跡説明i板<br /><br />「 史跡 鹿島城(別称 吉岡城)址<br /><br />鎌倉時代初期約八百年前の昔から、戦国時代の天正19年(1591)に佐竹氏によって落城するまでの約400年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城であった。<br /><br />永正の終りの頃(1520年前後)義幹が大改造をおこない、それが高天原合戦(内紛に)つながったと鹿島治乱記はいう。<br /><br />現在本丸跡が城山とされ、二の丸他は県立鹿島高等学校、新町の区域などの区域になっている。<br /><br />昭和59年の発掘調査によって、治乱記でいう萱葺きの痕跡や、地鎮等の祭祀的遺物、墨書土器等も出土した。<br /><br />城主後衛の鹿島氏の協力を得て昭和63年より城山公園として開園、毎年整備を進めて詩季を楽しめる場となった。特に桜やつつじの頃は、市民の散策する姿が絶えない。<br /><br />マルに れ 歴史にのこる鹿島城(鹿島市文化財受講かるたより)<br />                          鹿嶋市教育委員会 」<br /><br />                <br /><br /><br />

    鹿島城跡説明i板

    「 史跡 鹿島城(別称 吉岡城)址

    鎌倉時代初期約八百年前の昔から、戦国時代の天正19年(1591)に佐竹氏によって落城するまでの約400年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城であった。

    永正の終りの頃(1520年前後)義幹が大改造をおこない、それが高天原合戦(内紛に)つながったと鹿島治乱記はいう。

    現在本丸跡が城山とされ、二の丸他は県立鹿島高等学校、新町の区域などの区域になっている。

    昭和59年の発掘調査によって、治乱記でいう萱葺きの痕跡や、地鎮等の祭祀的遺物、墨書土器等も出土した。

    城主後衛の鹿島氏の協力を得て昭和63年より城山公園として開園、毎年整備を進めて詩季を楽しめる場となった。特に桜やつつじの頃は、市民の散策する姿が絶えない。

    マルに れ 歴史にのこる鹿島城(鹿島市文化財受講かるたより)
                              鹿嶋市教育委員会 」

                    


  • 本丸跡<br /><br />低木の樹林が辺り一面に広がっています。

    本丸跡

    低木の樹林が辺り一面に広がっています。

  • 本丸跡<br /><br />本丸右手には芝生が養生中のように見えます。

    イチオシ

    本丸跡

    本丸右手には芝生が養生中のように見えます。

  • 本丸跡<br /><br />本丸を左右に分ける小路があり、ここを通って本丸の西端部に向かいます。

    本丸跡

    本丸を左右に分ける小路があり、ここを通って本丸の西端部に向かいます。

  • 鹿島城址記念石碑<br /><br />石碑と共に城に関する説明板が立っています。

    鹿島城址記念石碑

    石碑と共に城に関する説明板が立っています。

  • 鹿島城址に関する記念碑

    鹿島城址に関する記念碑

  • 本丸風景<br /><br />西端から北浦方向の風景を捉えます。

    本丸風景

    西端から北浦方向の風景を捉えます。

  • 本丸風景<br /><br />北浦方向を更に眺めます。橋が2本走っており、手前が自動車用で向こう側がJR線が走る鉄橋と思われます。

    イチオシ

    本丸風景

    北浦方向を更に眺めます。橋が2本走っており、手前が自動車用で向こう側がJR線が走る鉄橋と思われます。

  • 土塁<br /><br />本丸を囲む部分は高くなってその部分が遊歩道ですが、どうやら往時は相当の高さを維持した土塁であったと思われます。

    土塁

    本丸を囲む部分は高くなってその部分が遊歩道ですが、どうやら往時は相当の高さを維持した土塁であったと思われます。

  • 鹿島城跡説明

    鹿島城跡説明

  • 本丸展望<br /><br />北浦方向を一望します。

    本丸展望

    北浦方向を一望します。

  • 遊歩道<br /><br />本丸の端は遊歩道となっていますが、土が盛ってあり土塁と思われます。

    遊歩道

    本丸の端は遊歩道となっていますが、土が盛ってあり土塁と思われます。

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