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釜無川と塩川に挟まれた小淵沢から南北に伸びる七里岩(しちりいわ)台地を背後とする地に大龍山満福寺(まんぷくじ、山梨県韮崎市穴山町)があります。<br /><br />この寺は戦国時代の武田信虎ー晴信(信玄)ー勝頼時代に一門衆筆頭として名を連ねた武将穴山信君(あなやま・のぶきみ、1541~1582、法名:梅雪)の祖と言われている穴山義武(あなやま・よしたけ)の菩提寺とされています。<br /><br />義武は甲斐守護である武田信武(たけだ・のぶたけ、1292~1359)の五男で、当時は共に甲斐源氏一族である逸見・武田の両氏が激しく対立しており信武はこの事態に対処するため義武を養子として穴山氏に送り込み逸見氏に備えたとも言われています。<br /><br />義武は修理大夫の官途名を称して父信武と共に足利尊氏を支えて南北朝時代では北朝方に属して戦い、後に信濃守の受領名を称するに至ります。<br /><br />延文4年(1359)二代将軍足利義詮(よしあきら)の援軍要請を受けた関東管領である畠山国清(はたけやま・くにきよ、生誕不詳~1362)の上洛には彼に従って兄の武田信成(たけだ・のぶなり、生誕不詳~1394)と共に従軍しています。<br /><br />穴山氏初代の義武には実子が居らず武田氏本家甥の信春の子信元を養子として迎えその名を満春(みつはる、生没不詳)と改名します。<br /><br />満春は関東管領の上杉氏憲(うえすぎ・うじのり、生誕不詳~1417)が起こした乱(上杉禅秀の乱)には兄信満と共に氏憲に加担し鎌倉公方である足利持氏(あしかが・もちうじ、1398~1439)と戦いますが氏憲側の敗北となり信満は自害、満春は難を逃れるため高野山に入り出家します。<br /><br />しかしながら対立する鎌倉府の推す逸見氏の守護補任を嫌う幕府は敢えて満春に武田宗家を継がせることにし、満春は武田信元と名を変えて甲斐に戻り守護となります。<br /><br />満春には子がいなかった為後継は武田氏本家の信重の子信介(のぶすけ、生誕不詳~1450)でこの信介の頃に、甲斐南部に位置する河内地方(現在の南巨摩・西八代郡一帯)に本格的に入るまでは七里岩に居館を構えていたものと思われます。<br /><br /><br />2023年9月25日追記<br /><br />境内には当該寺の沿革について紹介されています。<br /><br />『 大 龍 山 満 福 寺<br /><br />曹洞宗、山号は大龍山、後方に七里岩片山を背負い、前方を桐ノ木川(塩川)が流れる、本尊は薬師如来である。<br /><br />寺記に文亀2年(1501)開創とあるが穴山氏は南北朝初期、武田信武の子、義武が興した家であるから寺の発祥は古い。<br /><br />文亀2年に穴山信懸が寺を最高して明江徳瞬和尚を請じ曹洞宗に改宗して開山と仰いだ年と考えられ、また梅雪は外護に努めた名将なので中興開基とされたのである。<br /><br />寺宝に涅槃図(長谷川三郎兵衛筆)十六善神図などがある。境内に市指定史跡「穴山氏の墓」がある。寺記に信君の墓とあるが、むしろ室町初期の穴山義武、満春とみる方がより近い。<br />       昭和57年10月<br />                   韮 崎 市 』<br /><br />

甲斐穴山 南北朝初期における守護大名武田氏の庶流で河内地方を半独立的に領有した戦国武田氏の一門衆の筆頭穴山氏菩提寺である『満福寺』散歩

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2014/09/23 - 2014/09/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

釜無川と塩川に挟まれた小淵沢から南北に伸びる七里岩(しちりいわ)台地を背後とする地に大龍山満福寺(まんぷくじ、山梨県韮崎市穴山町)があります。

この寺は戦国時代の武田信虎ー晴信(信玄)ー勝頼時代に一門衆筆頭として名を連ねた武将穴山信君(あなやま・のぶきみ、1541~1582、法名:梅雪)の祖と言われている穴山義武(あなやま・よしたけ)の菩提寺とされています。

義武は甲斐守護である武田信武(たけだ・のぶたけ、1292~1359)の五男で、当時は共に甲斐源氏一族である逸見・武田の両氏が激しく対立しており信武はこの事態に対処するため義武を養子として穴山氏に送り込み逸見氏に備えたとも言われています。

義武は修理大夫の官途名を称して父信武と共に足利尊氏を支えて南北朝時代では北朝方に属して戦い、後に信濃守の受領名を称するに至ります。

延文4年(1359)二代将軍足利義詮(よしあきら)の援軍要請を受けた関東管領である畠山国清(はたけやま・くにきよ、生誕不詳~1362)の上洛には彼に従って兄の武田信成(たけだ・のぶなり、生誕不詳~1394)と共に従軍しています。

穴山氏初代の義武には実子が居らず武田氏本家甥の信春の子信元を養子として迎えその名を満春(みつはる、生没不詳)と改名します。

満春は関東管領の上杉氏憲(うえすぎ・うじのり、生誕不詳~1417)が起こした乱(上杉禅秀の乱)には兄信満と共に氏憲に加担し鎌倉公方である足利持氏(あしかが・もちうじ、1398~1439)と戦いますが氏憲側の敗北となり信満は自害、満春は難を逃れるため高野山に入り出家します。

しかしながら対立する鎌倉府の推す逸見氏の守護補任を嫌う幕府は敢えて満春に武田宗家を継がせることにし、満春は武田信元と名を変えて甲斐に戻り守護となります。

満春には子がいなかった為後継は武田氏本家の信重の子信介(のぶすけ、生誕不詳~1450)でこの信介の頃に、甲斐南部に位置する河内地方(現在の南巨摩・西八代郡一帯)に本格的に入るまでは七里岩に居館を構えていたものと思われます。


2023年9月25日追記

境内には当該寺の沿革について紹介されています。

『 大 龍 山 満 福 寺

曹洞宗、山号は大龍山、後方に七里岩片山を背負い、前方を桐ノ木川(塩川)が流れる、本尊は薬師如来である。

寺記に文亀2年(1501)開創とあるが穴山氏は南北朝初期、武田信武の子、義武が興した家であるから寺の発祥は古い。

文亀2年に穴山信懸が寺を最高して明江徳瞬和尚を請じ曹洞宗に改宗して開山と仰いだ年と考えられ、また梅雪は外護に努めた名将なので中興開基とされたのである。

寺宝に涅槃図(長谷川三郎兵衛筆)十六善神図などがある。境内に市指定史跡「穴山氏の墓」がある。寺記に信君の墓とあるが、むしろ室町初期の穴山義武、満春とみる方がより近い。
       昭和57年10月
                   韮 崎 市 』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 穴山氏の墓案内<br /><br />国道141号に出る手前の通を案内板により左折します。<br /><br /><br /><br />

    穴山氏の墓案内

    国道141号に出る手前の通を案内板により左折します。



  • 満福寺遠景<br /><br />七里岩の東麓に位置する満福寺が遠くに見えます。

    満福寺遠景

    七里岩の東麓に位置する満福寺が遠くに見えます。

  • 満福寺白壁<br /><br />稲刈りを直前にした田圃を過ぎてようやく寺院に到着します。<br /><br /><br /><br />

    満福寺白壁

    稲刈りを直前にした田圃を過ぎてようやく寺院に到着します。



  • 満福寺正門<br /><br />左右の石柱には「満福寺」と「大龍山」と刻されています。

    満福寺正門

    左右の石柱には「満福寺」と「大龍山」と刻されています。

  • 大龍山満福寺説明

    大龍山満福寺説明

  • 境内に立つ観音像<br /><br />

    境内に立つ観音像

  • 満福寺本堂<br /><br />漕洞宗の寺院で御本尊は薬師如来となっています。

    満福寺本堂

    漕洞宗の寺院で御本尊は薬師如来となっています。

  • 本堂扁額<br /><br />「大龍山」と刻された山号が見えます。<br />

    本堂扁額

    「大龍山」と刻された山号が見えます。

  • 武田信虎室和歌

    武田信虎室和歌

  • 穴山氏墓案内

    穴山氏墓案内

  • 穴山氏墓への路<br /><br />案内板の先を登ります。

    穴山氏墓への路

    案内板の先を登ります。

  • 穴山氏墓

    穴山氏墓

  • 穴山氏墓<br /><br />韮崎市史跡に指定されています。

    イチオシ

    穴山氏墓

    韮崎市史跡に指定されています。

  • 穴山氏墓近景<br /><br />法名が刻されず特定できませんが穴山氏始祖の義武の宝篋印塔と思われます。

    穴山氏墓近景

    法名が刻されず特定できませんが穴山氏始祖の義武の宝篋印塔と思われます。

  • 満福寺境内風景

    満福寺境内風景

  • 鐘楼堂

    鐘楼堂

  • 満福寺境内風景

    満福寺境内風景

  • 山岳風景<br /><br />満福寺山門より東方向の山岳風景を捉えます。手前には清里ライン(国道141号)そしてその向こうには中央自動車道路が走っています。

    山岳風景

    満福寺山門より東方向の山岳風景を捉えます。手前には清里ライン(国道141号)そしてその向こうには中央自動車道路が走っています。

  • 穴山氏墓<br /><br />満福寺を出ると路傍に穴山氏墓の案内板があります。<br />

    穴山氏墓

    満福寺を出ると路傍に穴山氏墓の案内板があります。

  • JR中央線穴山駅舎<br /><br />いわゆる無人駅ですが山小屋風の駅舎は比較的新しい様相を示し、背後の山岳とあいまった景色は格別です。

    JR中央線穴山駅舎

    いわゆる無人駅ですが山小屋風の駅舎は比較的新しい様相を示し、背後の山岳とあいまった景色は格別です。

  • 駅前の石碑

    駅前の石碑

  • 駅ホームへの連絡路<br /><br />谷間に設置されたホームに繋がる連絡路を歩きます。

    駅ホームへの連絡路

    谷間に設置されたホームに繋がる連絡路を歩きます。

  • 穴山駅ホーム<br /><br />連絡通路から甲府方面ホームを捉えます。

    穴山駅ホーム

    連絡通路から甲府方面ホームを捉えます。

  • 穴山駅ホーム<br /><br />同じく小淵沢方面ホームを眺めます。

    穴山駅ホーム

    同じく小淵沢方面ホームを眺めます。

  • 穴山氏案内板<br /><br />ホームには大きく「穴山氏発祥の地」と記載された大きな案内板が設置されています。

    穴山氏案内板

    ホームには大きく「穴山氏発祥の地」と記載された大きな案内板が設置されています。

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