2014/08/05 - 2014/08/12
1位(同エリア422件中)
noelさん
南イタリアの中でも(かつて)貧困の象徴のように見えたこの地になぜか魅かれます。
世界遺産の宝庫であるイタリアですが、多くは古代遺跡やルネッサンス芸術や建築物、
また周囲を海に囲まれた自然・・・と旅人にとって憧憬を抱かせるものが多いと思います。
それに比べて、この地は異質な存在です。
数年前、トルコのカッパドキアで受けた衝撃。
マテーラも似たような歴史を背負っています。
イスラム勢力から逃れてきたカッパドキア、アナトリア、アルメニア、シリアなどのキリスト教の修道僧たち。
どんな思いでここに身を置いたのでしょうか・・・。
そんなことに思いを馳せて訪れてみました。
【2025年12月追記】
この旅行記を投稿した当時には知らなかった、世界遺産以前のかなり前のマテーラについての記述を見かけました。
8世紀や13世紀もそうでしたが、実は20世紀になってからも悲惨な状態だったこのマテーラについて備忘録も兼ねて追記いたしました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
Castello Tramontano
トラモンターノ城
16世紀の初め、Gian Carlo Tramontano(ジアン・カルロ・トラモンターノ伯爵(1450年~1514年12月29日))の要請によって建てられたお城です。
重税を課したために住民によって中断されました。それに対し伯爵は反発したため、住民によって惨殺され、お城は未完成に終わりました。 -
Museo di Palazzo Lanfranchi(ランフランキ宮殿博物館)
ここに国立中世・近代芸術美術館あります。
司教区の神学校を置くことが目的で、17世紀に設計された建物です。 -
イチオシ
マテーラの洞窟住居は1993年ユネスコの世界遺産に登録されました。
洞窟住宅Sassoの複数形がSassiです。
この洞窟住居は石灰岩でできていて、何層にも重なってします。 -
【2025年12月追記】
ここからは、最近読んだ本から新たに知り得たマテーラについて追記します。
その本のタイトルは『キリストはエボリで止まりぬ』
カルロ・レーヴィ著(1902-1975年)です。
歴史にも国家にも見捨てられ、永遠に堪え忍ぶことしかなかったかつての世界です。(このマテーラを含む周辺の地域)
この著者はイタリア系ユダヤ人で、画家、作家、活動家、反ファシスト、医師であり政治犯でした。
その政治犯として流刑に処せられた時の回想録です。 -
【2025年12月追記】
そこでは農民は遠く隔離され、窮乏の中で、生きていました。
乾いた土の上で、死の存在を感じながらです。
「おれたちはキリスト教徒ではない」と彼らは言っていたそうです。
「キリストはエボリ(カンパーニャ州にある町)で止まってしまった」彼らの言葉でキリスト教徒とは、人間のことです。
「おれたちはキリスト教徒ではないし、人間でもない。」そもそも人間と見なされてなくて、獣、荷駄用の家畜扱いだと言います。 また獣ですらなくて、枯れ枝である。小さな枯れ枝であると。
これほどまでに自らを卑下していたとは、現在の様子からは信じられません。
ただ、当時はそうだったのです。 -
【2025年12月追記】
カルロ・レーヴィは1935年反ファシズムの活家として逮捕されました。
そして流刑の地、当時の僻地アリアーノに移送されました。
この当時はこの周辺の地方の方々は野放しの生活をしていたようです。
そして遠く彼方の、キリスト教徒の世界がもたらす苦難を堪え忍び、その重荷を背負い、比較されることに苦しまなければならないと考えていました。
つまり『キリストは、本当にエボリで止まってしまった』のです。 -
【2025年12月追記】
鉄道や道路がサレルノ海岸からそれて、ルカニア(現在のバジリカータ州)の荒廃した土地にはなく、キリストはここまで来ることなく、時間も、個人の魂も、希望も、理性も、歴史さえも、ここまでは来なかったと言うのです。
古代ローマ人も街道筋に駐屯していましたが、山岳地帯や森林地帯には入り込んで来ませんでした。古代ギリシア人もそうでした。
彼らはメタポントやシバリといった、海辺の都市で栄えました。西欧のいかなるものもこの地までもたらさなかったというのです。
いかなる知らせも、この貧しさには向けられたことがありませんでした。
大旅行家たちは自分の世界の境界外には行きませんでした。自分なりの善悪の基準、自分なりの道徳と救済の道しか辿らなかったと言うのです。
このように考えたことは、今までありませんでした。
確かに今でこそ、この世界遺産となった地に、旅行客はこぞって押し寄せます。
ただ、当時は本当に誰も訪れなかったのでしょう。 -
Chiesa di Santa Maria di Idris
サンタ・マリア・ディ・イドリス教会が見えます。 -
ねこがいます。
-
土産物屋さんです。
-
【2025年12月追記】
キリストはユダヤ教のモラリズムの地下の地獄に降りて、その時の扉を打ち壊し、その扉を永遠に封じました。
そんなキリストさえ、この暗黒の土地に、罪も救済もなく、悪とは道徳ではなく、事物の中に常に存在する現世の苦痛であるこの土地に、キリストは降りて来ませんでした。
キリストはエボリで止まってしまったのです。 -
【2025年12月追記】
マテーラは断崖でした。
サンタ・マリーア・デ・イドリス教会で、地面に打ち込まれているように見えました、とあります。
この断崖は逆さまの円錐、この漏斗がサッシです。
つまりサッソ・カヴェオーソとサッソ・バリサーノです。
この逆さ円錐形の地形を、作者はダンテの地獄と同じ形をしていると言うのです。
「新曲」の地獄編・・・それほどまでに作者にとっては、地獄を旅しているかのようだったのでしょうか。 -
洞窟住居跡です。
わかりにくいかもしれませんが、これは寝室より少し下がった地下1階ぐらいには
家畜用のスペースがあります。
そしてそれよりもまた下のスペースには、ワインなどの貯蔵に使用していました。
ただ劣悪な環境から、イタリア政府は洞窟住居を退去するよう、ここに住むことを禁止する法律を制定しました。 -
寝室だった場所です。
-
洞窟になっているのが、おわかりいただけるでしょうか?
台所のようです。 -
マテーラでは数々の映画なども撮影されています。
私のお勧めの映画で、メル・ギブソン監督の
「The Passion of the Christ(パッション)もその一つです。
ゴルゴダの丘を登るキリストのシーンに出ていたらしいです。
エルサレムでの撮影は、難しいでしょうし、当時のエルサレムの環境とそっくりだったといいます。
ちなみにこのポスターは「The Nativity Story」で、キャサリン・ハードウィック監督の作品です。
キリストの誕生を描いた作品で「パッション」の前篇のような映画です。 -
【2025年12月追記】
この地を訪れた当時はエルサレムに行ってはいませんでした。
ですが、書き足している現在、エルサレムにも行ってこの目で見ています。
あの三大宗教が混在している濃密なエルサレム。
このマテーラは、そういったエルサレムの重みも併せ持っているように思います。 -
家畜小屋のスペースです。
確かに衛生的とはいえません。
それでも冬場は暖かかったそうです。 -
【2025年12月追記】
マテーラのかつて洞窟住居有だった所はサッシ地区と呼ばれ、新市街と区別され、そこに作者が訪れた当時、15000人から20000人の極貧家族が暮らしていたようです。
サッシ地区は高台の大聖堂を境にして2つの地区からなり、グラヴィーナ渓谷に面している側がサッソ・カヴェオーソ地区、新市街に通じる側がサッソ・バリサーノ地区と呼ばれてます。
2つの地区を合わせると20000もの人々が住んでいたサッシでは、家族はそれぞれ1つの洞窟の中で寝起きするのが常でした。
かなりの人口密度だったようです。 -
【2025年12月追記】
極度の貧困の結果として、不潔な環境と栄養不良の状態におかれた子供たちの脆弱な肉体には、マラリアが取りつきました。
しかも風土病としてそれが蔓延しているため、50%にも昇る高い幼児死亡率を示しました。 -
【2025年12月追記】
洞窟住居ですが、家畜用と思える細道を通って、環から環へと、下に降りていきます。
道はとても細く、曲がりくねっていました。
家々は谷間の固まった粘土の岩壁を掘った洞窟でした。
正面壁は、斜面の傾きのため、上の方はわずかに出っ張り、下の方は山の稜線に合わせて、突き出していました。
そしてその正面壁と傾斜地との間の狭い空間に道が通っていましたが、それは上の住居から外に出るものにとっては道路であり、下の家のものには屋根だったようです。 -
各集落ごとに、ピチナートと言って広場があります。
人々はそこで交流をはかったのでしょう。 -
お墓です。
-
墓碑もないので、ここを踏まないように歩くのが大変です。
-
【2025年12月追記】
家の扉は暑さのため開け放たれて、洞窟の中は、明かりと空気が扉からしか得られなかったようです。
また、いくつかの家は扉すらありませんでした。
揚げ戸を開けて、階段を下って出入りするのです。
土でできた壁に囲まれたその黒い穴の中に、ベッドや、家具や、干されたぼろきれがあり、床には犬、雌羊、山羊、豚が横たわっていました。
どんな家族も、住居としてこうした洞窟を1つしか持っておらず、男も女も子供も家畜もみな一緒に寝ていました。 -
グラヴィーナ渓谷
-
【2025年12月追記】
子どもは多く暑さの中、ハエに取り囲まれ、ほこりにまみれながら、全裸やぼろを着てました。
多くの貧しく、病気にかかり、ほったらかしにされた子どもたちがいました。
子どもたちはゴミの散らばる中、焼けるような太陽の光の下で、目を半分閉じ、まぶたを赤くはらせたまま、家の戸口に座っていました。
ハエが目の上に止まっても、子供たちはじっとしたままです。
トラホームだったのです。
汚物と窮乏で、子どもたちは老人のようにシワだらけで、飢えのため骸骨のようで、髪はシラミでいっぱい、かさぶただらけでした。
これがイタリアとは思えない記述です。 -
【2025年12月追記】
大部分の子どもたちは、並外れて、ふくれ、大きなお腹でマラリアのため顔は黄色く憔悴してました。
中には熱帯病、カラ・アザール、黒熱病かもしれませんでした。
そして「キニーネをくれ」と言うのでした。
キニーネとはマラリアの特効薬です。
昔は低湿地の空気が毒性を帯びていることがマラリアの原因であるとみなされていました。蚊(ハマダラカ)によって病原菌が媒介されると分かってからは、蚊を駆除できない不衛生な生活環境が最大の問題であることが指摘されるようになりました。
この根底には極度の貧困という現実があったのです。 -
壁ですが、よく見てください。
-
貝殻です。
かつてここ一帯は海岸だったそうです。
昔は海だったかもしれません。 -
ワンちゃんです。
-
【2025年12月追記】
洞窟住居の多くは当時は空き家になっていました。
戸口に大きな壺のようなものが置かれていたり、扉が釘でしっかりと打ちつけてあったようです。そして戸口付近に枯れた背の高い雑草で覆われていたようです。
ただ、そんな中、人が住んでいる家もありました。
それは、空き家になった所へ後から住みついた人たちです。
内部をりフォームして、現代的なインテリアに変えていた人もいたようです。 -
またお土産屋さんです。
マテーラは以前住んでいた人たちが、新市街に移住した後、ここはゴーストタウンになりました。
でも1980年代からサッシの価値を改めて見直すことによって、世界遺産になりました。
またそのおかげで住民たちも街に戻って来ました。
特にアーティストなどは、好んでこの街へ移住してきました。 -
このように観光客用のお土産屋さんも多く、かつてのことは信じられません。
-
【2025年12月追記】
サッソ・バリサーノ地区側の斜面は、当時、無数の洞窟住居群が頂上までびっしりと積み上げられていました。
そして、その頂上に大聖堂があります。(現在もですが)
鐘楼の高さは54mです。
高台にあって垂直に屹立しているため、両サッシ地区のある所から目にすることができます。
当時、『サッシ地区の無秩序な屈曲に対して鐘楼は直線的な秩序のイメージを与え、それがため聖堂や鐘楼は恵まれない住民たちの心の支えになっていたと想像される』との解説があったようですが、どうでしょうか。再びあの言葉が思い出されます。
「エボリからこっちまでは救世主は来なさらなかったのだ。」 -
La casa di Lucio
★★★★のホテルです。
ちなみに泊まってはいませんが・・・。 -
【2025年12月追記】
今では窓辺に花なども飾られて、綺麗で衛生的で当時を思わせるものは数少なくなりました。 -
ちょっと癒されます。
-
この石段が滑りやすいので、ご注意を!
-
【2025年12月追記】
「エボリからこっちまでは救世主は来なさらなかったのだ。」
ただ、不思議なことに、この地ではいくつかのキリスト教関連の映画撮影場所になっています。
先に記載した「パッション」だけでなく、古くは1964年の「奇跡の丘」、今回追記として記載した著書の映画化「エボリ」、他にも「マリア」「マグダラのマリア」等です。不思議なものです。
現在、クリスマスも間近です。
このローマカトリックのお膝元でありながら、「イエス・キリストが来なかった。」当時のマテーラ。
本当はマテーラにこそ、キリストが存命であったら来た事でしょう。
そして奇跡をおこしたり癒してくださったことでしょう。 -
水飲み場です。
また猫ちゃんがいました。 -
【2025年12月追記】
ここでは貧困問題だけでなく、霊的な存在に対しての信仰が色濃く残ってしました。
例を記します。
それは夕方になると天使が怒るのでゴミを捨てることができないと言うものです。
「夕暮れ時、どこの家にも、空から天使が3体降りてきます。1体は扉の前に、2番目はテーブルに、3番目はベッドの枕元に立ちます。家を見張り、守るのです。一晩中、狼も悪霊も中に入れません。
もしゴミを扉から捨てたら、姿の見えない天使の顔にゴミを投げつけることになります。天使は怒って、もう戻って来ないでしょう。
ゴミは明日の朝、太陽が昇って、天使が帰ったあとで捨てます。」
と言う記述がありました。
また、肖像画は描かれた人物から何かを、心像を抜き取ってしまう。そして抜き取ることで、画家はポーズをとった人物に絶対的力を振るうことができる。
多くの人が写真を撮られることを嫌う理由がこれでした。魔術の世界に生きてきるのです。
他にも愛の秘薬(フィルトロ)などは南イタリア各地で見られました。
様々な魔術的な薬の作り方、病気を治療する呪文、心を縛りつける呪文、遠くの人を縛る呪文があったのです。
糸やひもなどの道具を使って病気の治療をしたり、他人に呪いをかけることができると信じていました。
それから、泣き女の風習もありました。
人が亡くなった後、2羽の白黒の蝶は不意に2体の復讐の女神に変身し、彼女たちはベールとリボンを取り、服を乱し、爪で顔を血が出るまで引っ掻き、大きな歩調で部屋中を踊って歩き回り、壁に頭を打ちつけ、唯一の非常に高い音調で、死者の物語を歌い始めました。
この さんずいに弟 泣 儀式はギリシャ・ローマ時代から南イタリアで受け継がれてきた葬送の儀礼の1つですが、まだ、この時代に行われていました。 -
Chiesa di San Francesco d'Assisi
サン・フランチェスコ・ダッシジ教会です。
アッシジの聖フランチェスコは清貧の人でした。
私はこの聖人は好きですが・・・。 -
天使が支えているカーテン中央には、聖母が。
-
Matera 2019 European Capital of Culture
2019年のイベントでヨーロッパ文化の街の開催候補地に、マテーラもなっているようです。 -
右側には聖アントニウス
-
左側には聖フランチェスコ
この教会のある場所には、元は聖ペテロと聖パウロの洞窟教会があったそうです。
ただ13世紀には聖フランチェスコの信仰が、ここバジリカータ州で盛んになりました。
そして元あった地下聖堂の上に、建てられました。 -
Chiesa del Purgatorio
プルガトリオ教会 -
正面のファサードには、骸骨がたくさん刻まれています。
-
【2025年12月追記】
「死と魂の償還」がモチーフになっています。
この哲学的な考察として、ソクラテスは、肉体の死後も魂は存在し続けると説いています。
そして死を恐れるのではなく、受け入れる姿勢を見せています。
このマテーラは当時は劣悪な環境で、死と隣り合わせだったかもしれません。
当時の住民の方々が、このような思想を持っていたかはわかりませんが・・・。 -
【2025年12月追記】
そろそろマテーラを後にします。
そして、マテーラで最初に見たトラモンターノ城。
16世紀の未完のお城が、荒廃した時代を経て、なお現存しているのも、ありがたいことです。
当時彼らは自らを卑下していましたが、このお城が無事に残されているのは、彼らは「本物の人間であったから」本来のキリスト教徒だったのかもしれません。 -
Polizia Locale
イタリア地方警察 -
お願いしたら、女性警察官がポーズをとってくれました。
お仕事が終わったようです。
お疲れ様でした〜!
Arrivederci!
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