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海の日の3連休。土曜日半日仕事をしてから支度して出かけました、<br />伊丹空港から、箕面の滝のライトアップ、京の夏の旅は島原の角屋と輪違屋の特別公開、醒ヶ井の梅花藻、奥の細道結びの地の大垣、蓮の花と輪中の木曽三川公園、千代保稲荷と廻って、各駅停車7時間乗り継いで月曜日23時に帰って来ました。<br />地名的にはかなり地味ですが、なかなか興味深いところを廻れたと思います。<br />珍しく時間に余裕が有ったので、途中であれこれ買い物もして、帰りの荷物が大変な事になりました。<br /><br />此処では宿泊地大垣の様子を載せます。

特典航空券+青春18きっぷ+レンタサイクル+レンタカー・ガソリン3L=PHO的連休part4(大垣)

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2014/07/19 - 2014/07/21

147位(同エリア415件中)

PHOPHOCHANG

PHOPHOCHANGさん

海の日の3連休。土曜日半日仕事をしてから支度して出かけました、
伊丹空港から、箕面の滝のライトアップ、京の夏の旅は島原の角屋と輪違屋の特別公開、醒ヶ井の梅花藻、奥の細道結びの地の大垣、蓮の花と輪中の木曽三川公園、千代保稲荷と廻って、各駅停車7時間乗り継いで月曜日23時に帰って来ました。
地名的にはかなり地味ですが、なかなか興味深いところを廻れたと思います。
珍しく時間に余裕が有ったので、途中であれこれ買い物もして、帰りの荷物が大変な事になりました。

此処では宿泊地大垣の様子を載せます。

旅行の満足度
3.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
レンタカー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 醒ヶ井から大垣までは各駅停車ですがほぼ30分です。<br />よって、まだ6時過ぎたばかりで明るいです。<br /><br />北口は新しく整備され、とても綺麗になっていました。<br />揖斐川、長良川を始め市内に15本の一級河川が流れる大垣は水都と呼ばれています。それに因んで駅前は親水広場(愛称:水都北口オアシス)などを備えた快適な公共空間となりました。

    醒ヶ井から大垣までは各駅停車ですがほぼ30分です。
    よって、まだ6時過ぎたばかりで明るいです。

    北口は新しく整備され、とても綺麗になっていました。
    揖斐川、長良川を始め市内に15本の一級河川が流れる大垣は水都と呼ばれています。それに因んで駅前は親水広場(愛称:水都北口オアシス)などを備えた快適な公共空間となりました。

  • 今年の4月に完成したばかりなので、まだ新しいです。ホント見違えました。

    今年の4月に完成したばかりなので、まだ新しいです。ホント見違えました。

  • その北口から歩いて3分、ショッピングモールアクアウォークの丁度真向かいにベストイン大垣が在ります。道路沿いに広い駐車場が在り、ちょっと昔風の造りです。

    その北口から歩いて3分、ショッピングモールアクアウォークの丁度真向かいにベストイン大垣が在ります。道路沿いに広い駐車場が在り、ちょっと昔風の造りです。

  • 近寄ってみます、ってか此処に宿泊します。

    近寄ってみます、ってか此処に宿泊します。

  • ホテルにチェックインした後、早速向かったアクアウォーク大垣店は、アピタと135の専門店から構成されています。<br />こっちも新しくて綺麗☆だけど、意外と食事出来るところが少ないの。

    ホテルにチェックインした後、早速向かったアクアウォーク大垣店は、アピタと135の専門店から構成されています。
    こっちも新しくて綺麗☆だけど、意外と食事出来るところが少ないの。

  • 駐車場からすぐに目に付いた回転寿司店炙りに入りました。丁度6時半になるところで、席は殆ど埋まっていました。<br />知らなかったんですが、このチェーン店は東海地方のショッピングセンターなどに店舗展開してるのでした。<br /><br />これはアボガド何とかセットで、量のわりには凄く食べ応えが有りました。お陰で自分はかなり食べる方ですが、この時は合計10貫も食べられなかったかも。

    駐車場からすぐに目に付いた回転寿司店炙りに入りました。丁度6時半になるところで、席は殆ど埋まっていました。
    知らなかったんですが、このチェーン店は東海地方のショッピングセンターなどに店舗展開してるのでした。

    これはアボガド何とかセットで、量のわりには凄く食べ応えが有りました。お陰で自分はかなり食べる方ですが、この時は合計10貫も食べられなかったかも。

  • こんなに早くゆっくり出来る事はそうそう無いので、せっかくなのでショッピングエリアを少しぶらついてみる事にしました♪

    こんなに早くゆっくり出来る事はそうそう無いので、せっかくなのでショッピングエリアを少しぶらついてみる事にしました♪

  • 綺麗なお店が並んでますが、日曜日なのにお客さんが少な過ぎませんか?

    綺麗なお店が並んでますが、日曜日なのにお客さんが少な過ぎませんか?

  • 自分はこのお店で、写真に写っているどれかを買いました。半額に惹かれました。

    自分はこのお店で、写真に写っているどれかを買いました。半額に惹かれました。

  • 朝食は無料です。6:30〜9:00に食べられます。<br />食べ放題ではなく、日替わりワンプレートディッシュ・味噌汁・コーヒー・ジュース・牛乳などが並んでいます。<br />ご飯やパン、飲み物はおかわり自由なんですが、食パンとトースターがかけ離れたところに置かれていたり(なので、気が付かず、焼けないならと食パンは取らないまま)、食べさせたいのか疑問に思える配置でした。<br />自分は予めプレートに盛られた和風(?)の惣菜っぽい料理が好きではなく、ロスが多くて勿体無いから食べ放題にしないと言う考え方が裏目に出た感じがしました。<br />納豆は追加料金がかかります。

    朝食は無料です。6:30〜9:00に食べられます。
    食べ放題ではなく、日替わりワンプレートディッシュ・味噌汁・コーヒー・ジュース・牛乳などが並んでいます。
    ご飯やパン、飲み物はおかわり自由なんですが、食パンとトースターがかけ離れたところに置かれていたり(なので、気が付かず、焼けないならと食パンは取らないまま)、食べさせたいのか疑問に思える配置でした。
    自分は予めプレートに盛られた和風(?)の惣菜っぽい料理が好きではなく、ロスが多くて勿体無いから食べ放題にしないと言う考え方が裏目に出た感じがしました。
    納豆は追加料金がかかります。

  • 大垣城を目指していたら、途中で『奥の細道むすびの地記念館』という矢印を見つけました。どんなところかちょっとだけ立ち寄ってみようと車を進めると、こんな赤い橋が・・

    大垣城を目指していたら、途中で『奥の細道むすびの地記念館』という矢印を見つけました。どんなところかちょっとだけ立ち寄ってみようと車を進めると、こんな赤い橋が・・

  • 住吉橋です。

    住吉橋です。

  • 水門川は大垣と桑名を結ぶ運河です。永禄4(1561)年、大垣城主氏家直元が、城池改築のさい開削したと伝えられています。水運の要路で、明治16(1883)年には大垣、桑名間に定期汽船が開通し、大いに栄えました。今では美しい住吉燈台が往時のおもかげを偲ばせています。

    水門川は大垣と桑名を結ぶ運河です。永禄4(1561)年、大垣城主氏家直元が、城池改築のさい開削したと伝えられています。水運の要路で、明治16(1883)年には大垣、桑名間に定期汽船が開通し、大いに栄えました。今では美しい住吉燈台が往時のおもかげを偲ばせています。

  • 芭蕉も舟で下った水門川は、大垣と桑名を結ぶ輸送経路として、明治時代に入っても物資や人の流れが多くたいへん賑やかな港であったといわれ、昭和初期には年間約1万もの船が行き来していたと言われています。 <br />

    芭蕉も舟で下った水門川は、大垣と桑名を結ぶ輸送経路として、明治時代に入っても物資や人の流れが多くたいへん賑やかな港であったといわれ、昭和初期には年間約1万もの船が行き来していたと言われています。

  • 住吉灯台は元禄年間(1688〜1704)前後に港の標識の夜間の目印として建てられました。高さ8m、四角の寄棟造りで、最上部四方には油障子がはめ込んであり、形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値が有ると言われています。<br />

    住吉灯台は元禄年間(1688〜1704)前後に港の標識の夜間の目印として建てられました。高さ8m、四角の寄棟造りで、最上部四方には油障子がはめ込んであり、形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値が有ると言われています。

  • そういう説明がなされています。

    そういう説明がなされています。

  • 「四季の路」は市街地を流れる水門川沿いに造られた遊歩道で、大垣駅東の愛宕神社から、大垣駅通りを横切り、八幡神社前を通って、船町の奥の細道むすびの地に至る2.2kmにおよびます。この遊歩道全体は、車道と分離され、分離帯には市の木(橘)と市の花(サツキ)が主体に植えられています。

    「四季の路」は市街地を流れる水門川沿いに造られた遊歩道で、大垣駅東の愛宕神社から、大垣駅通りを横切り、八幡神社前を通って、船町の奥の細道むすびの地に至る2.2kmにおよびます。この遊歩道全体は、車道と分離され、分離帯には市の木(橘)と市の花(サツキ)が主体に植えられています。

  • 四季の路ルート、句碑などの説明

    四季の路ルート、句碑などの説明

  • ホンのちょこっとしか歩けませんでしたが、今度は是非踏破したいと思います。やっぱり桜の季節かな?

    ホンのちょこっとしか歩けませんでしたが、今度は是非踏破したいと思います。やっぱり桜の季節かな?

  • この道標は文政年間(1818〜1830)、大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立されました。「左 江戸道」「右 京みち」の道案内がなされています。

    この道標は文政年間(1818〜1830)、大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立されました。「左 江戸道」「右 京みち」の道案内がなされています。

  • 船町湊は水門川の川湊で、慶長年間(1596-1615年)から整備が始まり水運が発達しました。この場所は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終え、伊勢に向かって船出をした場所です。<br />

    船町湊は水門川の川湊で、慶長年間(1596-1615年)から整備が始まり水運が発達しました。この場所は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終え、伊勢に向かって船出をした場所です。

  • 京橋

    京橋

  • 此処が大垣城西総門(京口門)跡

    此処が大垣城西総門(京口門)跡

  • その説明板

    その説明板

  • 住吉灯台から下へ降りられる石段が在り、川べりを歩けるようになっています。車を乗り降りするより、此処を歩いた方が涼しかったかも。

    住吉灯台から下へ降りられる石段が在り、川べりを歩けるようになっています。車を乗り降りするより、此処を歩いた方が涼しかったかも。

  • 南 伊勢と刻まれています。って事はこの辺りが奥の細道むすびの地で、芭蕉翁の立像や説明板なども在ったはずでしたが、何しろツレが車の中で待っていたので、探さずに、急ぎ戻ってしまいました。

    南 伊勢と刻まれています。って事はこの辺りが奥の細道むすびの地で、芭蕉翁の立像や説明板なども在ったはずでしたが、何しろツレが車の中で待っていたので、探さずに、急ぎ戻ってしまいました。

  • 写真撮ったのに、これが何だか判らず。

    写真撮ったのに、これが何だか判らず。

  • 『奥の細道むすびの地記念館』は、大垣市制90周年を記念し「憩いと賑わいの空間」づくりの拠点として整備されました。なお周辺整備も含めた事業費は約40億円。芭蕉と親交のあった俳人、谷木因邸跡地に建てられています。

    『奥の細道むすびの地記念館』は、大垣市制90周年を記念し「憩いと賑わいの空間」づくりの拠点として整備されました。なお周辺整備も含めた事業費は約40億円。芭蕉と親交のあった俳人、谷木因邸跡地に建てられています。

  • 今を遡ること325年。<br />徳川幕府が繁栄を極めた元禄時代に、俳人・松尾芭蕉は江戸深川を旅立ち、約5か月をかけて全行程約2400キロメートルを旅し、ここ大垣市で「奥の細道」紀行を終えました。<br />歴史と文化が息づくこの”むすびの地・大垣”に、2012年4月『奥の細道むすびの地記念館』がオープンしました。<br /><br />

    今を遡ること325年。
    徳川幕府が繁栄を極めた元禄時代に、俳人・松尾芭蕉は江戸深川を旅立ち、約5か月をかけて全行程約2400キロメートルを旅し、ここ大垣市で「奥の細道」紀行を終えました。
    歴史と文化が息づくこの”むすびの地・大垣”に、2012年4月『奥の細道むすびの地記念館』がオープンしました。

  • 『奥の細道むすびの地記念館』は、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介する「芭蕉館」、大垣の歴史や文化・芸術を築き上げた幕末の先賢の偉業を紹介する「先賢館」、大垣市と西美濃地域の観光情報や全国の芭蕉関連施設を紹介する「観光・交流館」の3館と、大垣藩藩老・小原鉄心の別荘で、市指定文化財である「無何有荘大醒しゃ(木へんに射)」から構成されています。

    『奥の細道むすびの地記念館』は、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介する「芭蕉館」、大垣の歴史や文化・芸術を築き上げた幕末の先賢の偉業を紹介する「先賢館」、大垣市と西美濃地域の観光情報や全国の芭蕉関連施設を紹介する「観光・交流館」の3館と、大垣藩藩老・小原鉄心の別荘で、市指定文化財である「無何有荘大醒しゃ(木へんに射)」から構成されています。

  • 此処から見えるのはその前の鉄心門だけです。昔の鉄心邸の裏門だったそうです。

    此処から見えるのはその前の鉄心門だけです。昔の鉄心邸の裏門だったそうです。

  • 「大醒しゃ(木へんに射)」は、大垣藩の藩老小原鉄心が安政3(1856)年、大垣城下の北、林村(現・大垣市林町)に設けた別荘「無何有荘」の一亭です。 <br />詳しい事はこちらの説明板にてお願いします。

    「大醒しゃ(木へんに射)」は、大垣藩の藩老小原鉄心が安政3(1856)年、大垣城下の北、林村(現・大垣市林町)に設けた別荘「無何有荘」の一亭です。
    詳しい事はこちらの説明板にてお願いします。

  • その「無何有荘大醒しゃ(木へんに射)」<br />無可有とは、自然のままで何の作為も無いこと。また、そのような状態を言います。<br />

    その「無何有荘大醒しゃ(木へんに射)」
    無可有とは、自然のままで何の作為も無いこと。また、そのような状態を言います。

  • 不似合いなんだけど、何となく良い感じのバナナの木

    不似合いなんだけど、何となく良い感じのバナナの木

  • 戌亥櫓。車を停めて捜し歩くうちに、これが見えたので大垣城が此処だと判りました。<br /><br />お城って言うから、てっきり「城入り口」的な交差点や案内が大通りに面しているとか、天主閣が遠目から見えるとかって思ったら大間違い。駐車場探しにも苦労しました。<br />ホント町中と言うか、奥まったところに在ります。

    戌亥櫓。車を停めて捜し歩くうちに、これが見えたので大垣城が此処だと判りました。

    お城って言うから、てっきり「城入り口」的な交差点や案内が大通りに面しているとか、天主閣が遠目から見えるとかって思ったら大間違い。駐車場探しにも苦労しました。
    ホント町中と言うか、奥まったところに在ります。

  • 此処はお城の北側に当たります。案内図を見ると桜の頃に来て見たくなりますね。

    此処はお城の北側に当たります。案内図を見ると桜の頃に来て見たくなりますね。

  • 大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4(1535)年に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。<br />昭和11(1936)年に国宝に指定されましたが、昭和20(1945)年7月戦災で焼失。昭和34(1959)年4月、4層4階の天守を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなっています。

    大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4(1535)年に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。
    昭和11(1936)年に国宝に指定されましたが、昭和20(1945)年7月戦災で焼失。昭和34(1959)年4月、4層4階の天守を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなっています。

  • 水之手門跡。<br /><br />復元された本丸ですが、天主だけでなく本丸全体を復元してあるのが良いですね。遺構として残っているのは移築されたという門と石垣くらいなものだそうなのですが、周りを囲む塀や櫓等もちゃんと復元されているのです。

    水之手門跡。

    復元された本丸ですが、天主だけでなく本丸全体を復元してあるのが良いですね。遺構として残っているのは移築されたという門と石垣くらいなものだそうなのですが、周りを囲む塀や櫓等もちゃんと復元されているのです。

  • その残されていた石垣です。丁度角のところに明治29年の洪水の痕が刻まれています。

    その残されていた石垣です。丁度角のところに明治29年の洪水の痕が刻まれています。

  • 近寄って見ると碑も建てられていて、石に線が刻まれているのが判ります。

    近寄って見ると碑も建てられていて、石に線が刻まれているのが判ります。

  • 其処だけをアップで撮ります。この時代(明治期)はまだ横書きの文字も右から左に読むのです。

    其処だけをアップで撮ります。この時代(明治期)はまだ横書きの文字も右から左に読むのです。

  • 入って来た戌亥櫓を振り返ってみます。だって、新し過ぎるでしょ。

    入って来た戌亥櫓を振り返ってみます。だって、新し過ぎるでしょ。

  • さて、行く先には天主が見えています。<br />天守と戌亥櫓は平成23(2011)年に屋根瓦の葺き替えと外壁工事が行われた為、尚一層綺麗です。

    さて、行く先には天主が見えています。
    天守と戌亥櫓は平成23(2011)年に屋根瓦の葺き替えと外壁工事が行われた為、尚一層綺麗です。

  • 天守は明治維新でも取り壊されることは無かったのに、太平洋戦争時の空襲により焼失してしまい、現在建つこの天守は戦後の昭和34(1959)年に復興されたものです。

    天守は明治維新でも取り壊されることは無かったのに、太平洋戦争時の空襲により焼失してしまい、現在建つこの天守は戦後の昭和34(1959)年に復興されたものです。

  • 最初に天守を上げたのは伊藤祐盛で、慶長年間の事であったと伝わっています。<br />全国的にも珍しい4層の天主を持ち、戦災で焼失する以前、大垣城の天守は旧国宝に指定されていました。

    最初に天守を上げたのは伊藤祐盛で、慶長年間の事であったと伝わっています。
    全国的にも珍しい4層の天主を持ち、戦災で焼失する以前、大垣城の天守は旧国宝に指定されていました。

  • 慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは西軍・石田三成の本拠地にもなり、本戦部隊が関ケ原に移動した後も壮絶な攻防戦が繰り広げられました。<br />戦国の世が去った江戸時代、寛永12(1635)年以降には戸田家11代が十万石の城主を続け、明治の廃藩置県を迎えました。

    慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは西軍・石田三成の本拠地にもなり、本戦部隊が関ケ原に移動した後も壮絶な攻防戦が繰り広げられました。
    戦国の世が去った江戸時代、寛永12(1635)年以降には戸田家11代が十万石の城主を続け、明治の廃藩置県を迎えました。

  • 東門

    東門

  • 大垣城についての説明が書かれています。

    大垣城についての説明が書かれています。

  • こうして緑に囲まれているせいで、余計に周囲から見え難いのです。

    こうして緑に囲まれているせいで、余計に周囲から見え難いのです。

  • 日曜日でしたが訪れる人は少なかったです。

    日曜日でしたが訪れる人は少なかったです。

  • 西門から出て、天主を仰ぎ見ます。

    西門から出て、天主を仰ぎ見ます。

  • 鉄門跡

    鉄門跡

  • お城のすぐ下、南側に在る麋城(びじょう)の滝です。

    お城のすぐ下、南側に在る麋城(びじょう)の滝です。

  • 人工の滝ですが、とても涼しげでした。

    人工の滝ですが、とても涼しげでした。

  • 隣接する公園。ミストが出てました、凄い!

    隣接する公園。ミストが出てました、凄い!

  • つい今見て来た風景がマンホールに描かれていました。<br />

    つい今見て来た風景がマンホールに描かれていました。

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