宇佐・豊後高田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
九州、大分県宇佐市といえば、全国八幡宮の総本社である宇佐神宮が有名ではないでしょうか。また宇佐市には百田尚樹さん作、「永遠の0」の映画撮影に使用されたという、零戦の実物大模型があり、これは現在、宇佐市平和資料館にて展示されています。<br /><br />先日、兵庫県加西市の旧海軍姫路航空隊鶉野飛行場を訪れた際、そこでご案内頂いた地元郷土史家の方から、こういった戦争遺跡の保存に九州の宇佐市が積極的に取り組んでいる、というお話をお聞きする機会がありました。それ以来、この宇佐市の戦争遺跡などに興味が湧き、是非一度訪ねてみたく、今回ここを訪れてみることにしました。  <br /><br />兵庫県加西市の旧海軍姫路航空隊鶉野飛行場の旅行記です。<br /><br />  http://4travel.jp/travelogue/10888541<br /><br />「加西 鶉野飛行場展 記念講演 残された技術 飛行艇」<br /> H26年8月10日にアスティア加西での講演会の模様です。<br /><br />  http://4travel.jp/travelogue/10916199<br /><br /><br /> これまでは先の戦争に関する事柄は全て負の側面のみが強調され、話すことすらタブー、といった雰囲気が強かったように思います。しかし、戦後70年、世間も戦後から脱却出来つつあるのか、最近ではこの戦争に対して正面から向き合い、正しい認識を模索すべきといった流れにようやく変わりつつあるような気がします。そういった中、知らぬままに悪いものには蓋を、というのではなく、きちんとその中身を理解した上で事実としてどのようなことが起き、これらを今後の教訓としてどう活かすか、そういった点でも戦争遺跡の保存は、未来に対して重要な意味があるように思われます。<br /><br /> 大分県宇佐市は、仏の里、国東半島の付根部分に位置し、周防灘に面した海岸部分に広い平野部が開け、ここに旧海軍宇佐航空隊がありました。この航空隊は、日中戦争の進む中、昭和14年に艦上爆撃機、攻撃機の搭乗員養成を目的に開設されたそうです。ここでは、99式艦上爆撃機や97式艦上攻撃機による訓練が主に行われ、ここで育った多くの搭乗員たちが、あのハワイ真珠湾攻撃にも参加していったということです。<br /><br /> 今回は、宇佐海軍航空隊に関連する戦争遺跡を巡ってみることとし、まず最初に宇佐市平和資料館を訪れてみました。ここでは、宇佐航空隊に関する詳しい情報をまず入手し、これから巡ろうとする実際に滑走路があった跡など、旧航空隊関連施設があった場所などの情報を得ることとしました。更に、ここにある映画「永遠の0」で使用されたゼロ戦、零式艦上戦闘機二一型の実物大模型なども、当然じっくりと観察してきました。<br /> この宇佐市平和資料館では、映画「永遠の0」の零戦だけでなく旧宇佐航空隊の施設に関する展示も多くあり、また地元の方々によってまとめられた資料なども充実しており、ここで得た情報を元に実際に滑走路跡など、旧施設があった場所を順に巡ってみました。<br /><br />なお、今回の旧海軍宇佐航空隊関連施設を巡るにあたっては、先ず宇佐神宮に詣で、この旅の安全と共に多くの素晴らしい発見があることを祈ってまいりました。<br /><br />また、宇佐市は多くの美味しい唐揚げ屋さんがあるということから、地元グルメとして宇佐の唐揚げも頂いてみました。<br />

旧海軍宇佐航空隊 「永遠の0」の零戦と戦争遺跡

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2014/07/21 - 2014/07/21

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Tam-K

Tam-Kさん

九州、大分県宇佐市といえば、全国八幡宮の総本社である宇佐神宮が有名ではないでしょうか。また宇佐市には百田尚樹さん作、「永遠の0」の映画撮影に使用されたという、零戦の実物大模型があり、これは現在、宇佐市平和資料館にて展示されています。

先日、兵庫県加西市の旧海軍姫路航空隊鶉野飛行場を訪れた際、そこでご案内頂いた地元郷土史家の方から、こういった戦争遺跡の保存に九州の宇佐市が積極的に取り組んでいる、というお話をお聞きする機会がありました。それ以来、この宇佐市の戦争遺跡などに興味が湧き、是非一度訪ねてみたく、今回ここを訪れてみることにしました。  

兵庫県加西市の旧海軍姫路航空隊鶉野飛行場の旅行記です。

  http://4travel.jp/travelogue/10888541

「加西 鶉野飛行場展 記念講演 残された技術 飛行艇」
 H26年8月10日にアスティア加西での講演会の模様です。

  http://4travel.jp/travelogue/10916199


 これまでは先の戦争に関する事柄は全て負の側面のみが強調され、話すことすらタブー、といった雰囲気が強かったように思います。しかし、戦後70年、世間も戦後から脱却出来つつあるのか、最近ではこの戦争に対して正面から向き合い、正しい認識を模索すべきといった流れにようやく変わりつつあるような気がします。そういった中、知らぬままに悪いものには蓋を、というのではなく、きちんとその中身を理解した上で事実としてどのようなことが起き、これらを今後の教訓としてどう活かすか、そういった点でも戦争遺跡の保存は、未来に対して重要な意味があるように思われます。

 大分県宇佐市は、仏の里、国東半島の付根部分に位置し、周防灘に面した海岸部分に広い平野部が開け、ここに旧海軍宇佐航空隊がありました。この航空隊は、日中戦争の進む中、昭和14年に艦上爆撃機、攻撃機の搭乗員養成を目的に開設されたそうです。ここでは、99式艦上爆撃機や97式艦上攻撃機による訓練が主に行われ、ここで育った多くの搭乗員たちが、あのハワイ真珠湾攻撃にも参加していったということです。

 今回は、宇佐海軍航空隊に関連する戦争遺跡を巡ってみることとし、まず最初に宇佐市平和資料館を訪れてみました。ここでは、宇佐航空隊に関する詳しい情報をまず入手し、これから巡ろうとする実際に滑走路があった跡など、旧航空隊関連施設があった場所などの情報を得ることとしました。更に、ここにある映画「永遠の0」で使用されたゼロ戦、零式艦上戦闘機二一型の実物大模型なども、当然じっくりと観察してきました。
 この宇佐市平和資料館では、映画「永遠の0」の零戦だけでなく旧宇佐航空隊の施設に関する展示も多くあり、また地元の方々によってまとめられた資料なども充実しており、ここで得た情報を元に実際に滑走路跡など、旧施設があった場所を順に巡ってみました。

なお、今回の旧海軍宇佐航空隊関連施設を巡るにあたっては、先ず宇佐神宮に詣で、この旅の安全と共に多くの素晴らしい発見があることを祈ってまいりました。

また、宇佐市は多くの美味しい唐揚げ屋さんがあるということから、地元グルメとして宇佐の唐揚げも頂いてみました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
交通手段
レンタカー ANAグループ

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  • 今回巡った宇佐航空隊関連の戦争遺跡の位置関係を以下に示します。<br />これらは平和資料館の展示や文献、実際に現地を歩いた結果を元に、googleマップ上に位置関係を示してみました。<br /><br />①滑走路跡<br />②航空隊モニュメント<br />③城井1号掩体壕史跡公園<br />④誘導路跡<br />⑤中型掩体壕<br />⑥畑田地区掩体壕群<br />⑦地下通信所<br />⑧無線受信所<br />⑨レンガ建物<br />⑩エンジン調整室<br />⑪生き残門(蓮光寺)<br />⑫柳ケ浦小学校<br />⑬航空隊踏切<br /><br />出典<br /> 宇佐の戦争遺跡 宇佐海軍航空隊、豊の国宇佐市塾、宇佐市<br /> 宇佐市平和資料館、宇佐市教委員会(資料館パンフレット)<br /> 宇佐の戦争遺跡 平和への願い、城井1号掩体壕史跡公園パンフレット<br /> 宇佐航空隊の世界1、豊の国宇佐市塾、宇佐市<br />関連HP<br /> 宇佐市平和資料館HP<br />  http://www.city.usa.oita.jp/soshiki/43/10964.html<br /> 

    今回巡った宇佐航空隊関連の戦争遺跡の位置関係を以下に示します。
    これらは平和資料館の展示や文献、実際に現地を歩いた結果を元に、googleマップ上に位置関係を示してみました。

    ①滑走路跡
    ②航空隊モニュメント
    ③城井1号掩体壕史跡公園
    ④誘導路跡
    ⑤中型掩体壕
    ⑥畑田地区掩体壕群
    ⑦地下通信所
    ⑧無線受信所
    ⑨レンガ建物
    ⑩エンジン調整室
    ⑪生き残門(蓮光寺)
    ⑫柳ケ浦小学校
    ⑬航空隊踏切

    出典
     宇佐の戦争遺跡 宇佐海軍航空隊、豊の国宇佐市塾、宇佐市
     宇佐市平和資料館、宇佐市教委員会(資料館パンフレット)
     宇佐の戦争遺跡 平和への願い、城井1号掩体壕史跡公園パンフレット
     宇佐航空隊の世界1、豊の国宇佐市塾、宇佐市
    関連HP
     宇佐市平和資料館HP
      http://www.city.usa.oita.jp/soshiki/43/10964.html
     

  • 先ず宇佐市に入って最初に立ち寄ったのがここ、宇佐神宮です。<br />宇佐神宮は、全国八幡神社の総本山、ここではこれから宇佐市をを巡るに際し、旅の安全、ならびに多くの宇佐航空隊に関する戦争遺跡などを順調に巡ることができるよう、お祈りしてきました。

    先ず宇佐市に入って最初に立ち寄ったのがここ、宇佐神宮です。
    宇佐神宮は、全国八幡神社の総本山、ここではこれから宇佐市をを巡るに際し、旅の安全、ならびに多くの宇佐航空隊に関する戦争遺跡などを順調に巡ることができるよう、お祈りしてきました。

    宇佐神宮 寺・神社・教会

  • 宇佐神宮の参拝については、以下の旅行記で別途作成しています。<br /><br />夏の宇佐神宮、<br /> http://4travel.jp/travelogue/10913788

    宇佐神宮の参拝については、以下の旅行記で別途作成しています。

    夏の宇佐神宮、
     http://4travel.jp/travelogue/10913788

    宇佐神宮 寺・神社・教会

  • ⑮宇佐市平和資料館<br />ここは宇佐市における旧海軍航空隊に纒わる様々な資料が展示されています。また、映画「永遠の0」関連のパネル、そして映画で使用された零戦の実物大模型が展示されています。<br /><br />〒879-0455<br />宇佐市大字閤440番地の5<br />宇佐市平和資料館<br />Tel/Fax  (0978)33-1338

    ⑮宇佐市平和資料館
    ここは宇佐市における旧海軍航空隊に纒わる様々な資料が展示されています。また、映画「永遠の0」関連のパネル、そして映画で使用された零戦の実物大模型が展示されています。

    〒879-0455
    宇佐市大字閤440番地の5
    宇佐市平和資料館
    Tel/Fax  (0978)33-1338

  • 実はこの宇佐市平和資料館へ行くにあたっては、その位置が非常にわかりずらく、近くまで来た段階で、地元の人、数人に平和資料館の場所を聞いてみたのですが、「そういえばそんなのができたっていうことは何年か前に聞いたなぁ、詳しい場所はわからんなぁ」などとの答え、地元ではあまり浸透していないようですね。<br />しかしながら、何人かに聞いた末、ようやく辿りつくことができました。<br />なお、この資料館は通沿いにこれといった標識がなく、あえて言うなら写真の青い看板「宇佐土地改良区事務所」が唯一の目印、ここの路地を入り込むと正面に平和資料館が見えてきます。

    実はこの宇佐市平和資料館へ行くにあたっては、その位置が非常にわかりずらく、近くまで来た段階で、地元の人、数人に平和資料館の場所を聞いてみたのですが、「そういえばそんなのができたっていうことは何年か前に聞いたなぁ、詳しい場所はわからんなぁ」などとの答え、地元ではあまり浸透していないようですね。
    しかしながら、何人かに聞いた末、ようやく辿りつくことができました。
    なお、この資料館は通沿いにこれといった標識がなく、あえて言うなら写真の青い看板「宇佐土地改良区事務所」が唯一の目印、ここの路地を入り込むと正面に平和資料館が見えてきます。

  • 宇佐海軍航空隊の正門にあった門柱の模型<br />宇佐航空隊は、昭和14年10月に練習用航空隊として設立され、主に艦上攻撃機や感情爆撃機搭乗員の訓練が行われていました。ここでは操縦に関するある程度の基礎訓練を終了し、実戦的な運用段階に入った搭乗員の訓練が主体に行われていたようです。昭和16年には空母翔鶴搭乗員の99式艦上爆撃機や97式艦上攻撃機による訓練がここで実施され、この後、ここで育った搭乗員たちは、ハワイ真珠湾攻撃へと向かって行きました。<br />当初、この航空隊は実戦的な訓練の実施が目的として開設されましたが、その後、戦局の悪化による米、空母機動部隊艦載機による九州南部の神風特別航空隊などの配備された基地への空襲の増加にしたがい、一時九州北部のこの航空隊に退避してくる機もあったようです。<br />このような戦局の悪化に従い、宇佐航空隊でも空襲に対する備えとして、昭和18年頃から多くの掩体壕の設置が進められていったようです。そして、昭和20年には全くもっておぞましい、兵器というのもはばかれる人間爆弾、「桜花」が一式陸攻30機と共に宇佐に配備、通称神雷隊と呼ばれた第721航空隊です。旧滑走路東側に今も残る中型掩体壕は正にこの一式陸攻を格納するためのものでした。<br />更に宇佐では八幡護皇隊艦爆・艦攻隊が組織され、昭和20年4月から5月にかけて沖縄に向け、特攻に出撃していったそうです。<br />その後、4月末にはB29などによる大規模な空襲が行われ、これによってこの航空隊の機能はほぼ喪失、終戦へと至ったようです。

    宇佐海軍航空隊の正門にあった門柱の模型
    宇佐航空隊は、昭和14年10月に練習用航空隊として設立され、主に艦上攻撃機や感情爆撃機搭乗員の訓練が行われていました。ここでは操縦に関するある程度の基礎訓練を終了し、実戦的な運用段階に入った搭乗員の訓練が主体に行われていたようです。昭和16年には空母翔鶴搭乗員の99式艦上爆撃機や97式艦上攻撃機による訓練がここで実施され、この後、ここで育った搭乗員たちは、ハワイ真珠湾攻撃へと向かって行きました。
    当初、この航空隊は実戦的な訓練の実施が目的として開設されましたが、その後、戦局の悪化による米、空母機動部隊艦載機による九州南部の神風特別航空隊などの配備された基地への空襲の増加にしたがい、一時九州北部のこの航空隊に退避してくる機もあったようです。
    このような戦局の悪化に従い、宇佐航空隊でも空襲に対する備えとして、昭和18年頃から多くの掩体壕の設置が進められていったようです。そして、昭和20年には全くもっておぞましい、兵器というのもはばかれる人間爆弾、「桜花」が一式陸攻30機と共に宇佐に配備、通称神雷隊と呼ばれた第721航空隊です。旧滑走路東側に今も残る中型掩体壕は正にこの一式陸攻を格納するためのものでした。
    更に宇佐では八幡護皇隊艦爆・艦攻隊が組織され、昭和20年4月から5月にかけて沖縄に向け、特攻に出撃していったそうです。
    その後、4月末にはB29などによる大規模な空襲が行われ、これによってこの航空隊の機能はほぼ喪失、終戦へと至ったようです。

  • 平和資料館内の中央に展示された零戦、三菱零式艦上戦闘機二一型の実物大模型、<br />零戦はハワイのフォード島にある航空機博物館に実物で展示されていたものを見ましたが、ハワイのものは何となく安っぽく見え、それは展示品周辺のデコレーションのセンスの無さもあったかもしれません。しかし、ここで見た零戦、意外と迫力があり、よりレアリティーな感じが伝わてきた気がします。<br /><br />真珠湾の旅行記です。<br /> http://4travel.jp/travelogue/10765127<br />

    イチオシ

    平和資料館内の中央に展示された零戦、三菱零式艦上戦闘機二一型の実物大模型、
    零戦はハワイのフォード島にある航空機博物館に実物で展示されていたものを見ましたが、ハワイのものは何となく安っぽく見え、それは展示品周辺のデコレーションのセンスの無さもあったかもしれません。しかし、ここで見た零戦、意外と迫力があり、よりレアリティーな感じが伝わてきた気がします。

    真珠湾の旅行記です。
     http://4travel.jp/travelogue/10765127

  • 先日、元零戦パイロット笠井智一さんのお話をお聞きする機会がありました。<br />ここで笠井さんは零戦について、その運動性能の高さからアメリカの戦闘機が発展を重ね、グラマンF6Fなどが登場した後もドックファイトでは絶対に負けなかったそうです。米軍自身、零戦に対する対処法として、先ずレーダーによる索敵、高出力を生かして進行してくる日本機の方向、高度を把握し、会敵位置においてより高い高度で待ち伏せすることにより、ゼロ戦1機に対して複数機で斜め後方から急降下にて一撃で仕留める。これが唯一の零戦を叩く手段であると言われていたそうです。対戦後半になれば米軍は絶対的な物量で向かってくる、こうのような状況で常に1対多での空中戦を強いられ、さすがの零戦も苦戦を強いられていった。<br />ただ、終戦直前に笠井さんが紫電改に搭乗された際、これなら絶対に負けない、そんな自信がありありと沸き起こったそうです。

    先日、元零戦パイロット笠井智一さんのお話をお聞きする機会がありました。
    ここで笠井さんは零戦について、その運動性能の高さからアメリカの戦闘機が発展を重ね、グラマンF6Fなどが登場した後もドックファイトでは絶対に負けなかったそうです。米軍自身、零戦に対する対処法として、先ずレーダーによる索敵、高出力を生かして進行してくる日本機の方向、高度を把握し、会敵位置においてより高い高度で待ち伏せすることにより、ゼロ戦1機に対して複数機で斜め後方から急降下にて一撃で仕留める。これが唯一の零戦を叩く手段であると言われていたそうです。対戦後半になれば米軍は絶対的な物量で向かってくる、こうのような状況で常に1対多での空中戦を強いられ、さすがの零戦も苦戦を強いられていった。
    ただ、終戦直前に笠井さんが紫電改に搭乗された際、これなら絶対に負けない、そんな自信がありありと沸き起こったそうです。

  • 映画「永遠の0」、零戦パイロット宮部久蔵役をされた岡田准一さん、岡田准一さんといえば今年2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で黒田官兵衛役をされています。この宇佐も戦国時代後期、秀吉の九州征伐後、豊前六郡を与えられた黒田官兵衛の治世下にあった地でもあります。<br /><br /> 中津の官兵衛ゆかりの旅行記です。<br />  http://4travel.jp/travelogue/10913146<br /><br />「永遠の0」では、宮部久蔵は零戦の初期型である二一型に終始搭乗、最後の沖縄近海の米空母機動部隊への特攻に際しても、より高性能の五二型で出撃するところ、これを後輩の二一型と交換、最後までこの二一型での飛行にこだわったというストーリーになっていました。

    イチオシ

    映画「永遠の0」、零戦パイロット宮部久蔵役をされた岡田准一さん、岡田准一さんといえば今年2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で黒田官兵衛役をされています。この宇佐も戦国時代後期、秀吉の九州征伐後、豊前六郡を与えられた黒田官兵衛の治世下にあった地でもあります。

    中津の官兵衛ゆかりの旅行記です。
      http://4travel.jp/travelogue/10913146

    「永遠の0」では、宮部久蔵は零戦の初期型である二一型に終始搭乗、最後の沖縄近海の米空母機動部隊への特攻に際しても、より高性能の五二型で出撃するところ、これを後輩の二一型と交換、最後までこの二一型での飛行にこだわったというストーリーになっていました。

  • 零戦のコックピット、とても狭い空間です。<br />零戦の高い能力のひとつにその長い航続距離があります。ガダルカナル攻防戦ではラバウルから片道1000キロ、往復と現地での戦闘を合せて八時間もの長時間、このような狭い空間で過ごすというのは何とも過酷としか言いようがありません。<br />3時間以上のフライトはビジネスじゃなきゃ耐えれないよぉー。。。このようなことを平気で言える今の時代、戦時中のこの過酷な状況は想像だに出来ない世界かもしれません。竹槍でB29が落ちると本気で考えたかはともかく、いくらあの時代でも根性では結局のところ何ほどの役にも立たない、現実から目を背けた結果でしょうか。。。

    零戦のコックピット、とても狭い空間です。
    零戦の高い能力のひとつにその長い航続距離があります。ガダルカナル攻防戦ではラバウルから片道1000キロ、往復と現地での戦闘を合せて八時間もの長時間、このような狭い空間で過ごすというのは何とも過酷としか言いようがありません。
    3時間以上のフライトはビジネスじゃなきゃ耐えれないよぉー。。。このようなことを平気で言える今の時代、戦時中のこの過酷な状況は想像だに出来ない世界かもしれません。竹槍でB29が落ちると本気で考えたかはともかく、いくらあの時代でも根性では結局のところ何ほどの役にも立たない、現実から目を背けた結果でしょうか。。。

  • 平和資料館にはコックピット部を切り出した部分も展示されてありました。<br />これも撮影用としてつくられたもののようです。

    平和資料館にはコックピット部を切り出した部分も展示されてありました。
    これも撮影用としてつくられたもののようです。

  • シートに腰掛けてみましたが、その狭さに全く閉口しました。狭ますぎて操縦桿すら自由に動かせない、更に硬いシート、リクライニングなど全く無関係な垂直の背もたれ、これではまともに飛べそうもありません。ましてや長駆の末の戦闘、想像を絶します。

    シートに腰掛けてみましたが、その狭さに全く閉口しました。狭ますぎて操縦桿すら自由に動かせない、更に硬いシート、リクライニングなど全く無関係な垂直の背もたれ、これではまともに飛べそうもありません。ましてや長駆の末の戦闘、想像を絶します。

  • 装備されていた機銃なども展示されてありました。13mm機銃なので五二型のものでしょうか、また20mm機銃弾や模擬爆弾、宇佐はそもそも艦爆、艦攻の航空隊、爆撃などの訓練がメインだったので、そこで使用されていたものですね。<br />今回は行けませんでしたが、海岸線には爆撃訓練用の標的となったコンクリートの円柱状の構造物が残っているそうです。

    装備されていた機銃なども展示されてありました。13mm機銃なので五二型のものでしょうか、また20mm機銃弾や模擬爆弾、宇佐はそもそも艦爆、艦攻の航空隊、爆撃などの訓練がメインだったので、そこで使用されていたものですね。
    今回は行けませんでしたが、海岸線には爆撃訓練用の標的となったコンクリートの円柱状の構造物が残っているそうです。

  • 昭和20年、アメリカのB29などによる爆撃を受けた後に撮影された宇佐航空隊の全景、特に滑走路、エプロンが集中的に攻撃を受け、多くの穴ができているのがわかります。<br /><br />この爆撃で宇佐航空隊はほぼ壊滅状態となってしまったそうです。

    昭和20年、アメリカのB29などによる爆撃を受けた後に撮影された宇佐航空隊の全景、特に滑走路、エプロンが集中的に攻撃を受け、多くの穴ができているのがわかります。

    この爆撃で宇佐航空隊はほぼ壊滅状態となってしまったそうです。

  • 無線機、この時代の日本の無線機はほとんどまともに使えなかった、現在の高い技術もこのような技術的な辛酸を舐めた後、さらなる努力、改良の積み重ね、ノーハウの積算により現在の技術立国へとなり得たのでしょうか。

    無線機、この時代の日本の無線機はほとんどまともに使えなかった、現在の高い技術もこのような技術的な辛酸を舐めた後、さらなる努力、改良の積み重ね、ノーハウの積算により現在の技術立国へとなり得たのでしょうか。

  • 映画「永遠の0」のコーナー

    映画「永遠の0」のコーナー

  • 百田直樹さんのサインもありました。

    百田直樹さんのサインもありました。

  • 平和資料館前の宇佐市観光協会、こちらで宇佐平野に広がる滑走路跡などの道筋を教えて頂きました。<br />滑走路跡は現在ではフラワーロード2号線と呼ばれているようで、この平和資料館からは比較的簡単に行くことができました。<br />この資料館を出てすぐの通りを左折し、暫く進むと右手にセブン・イレブンがあり、その先の交差点を左折、すると国道10号線の辛島交差点、ここを更に直進して行くと旧滑走路跡、フラワーロード2号線に到達することができました。

    平和資料館前の宇佐市観光協会、こちらで宇佐平野に広がる滑走路跡などの道筋を教えて頂きました。
    滑走路跡は現在ではフラワーロード2号線と呼ばれているようで、この平和資料館からは比較的簡単に行くことができました。
    この資料館を出てすぐの通りを左折し、暫く進むと右手にセブン・イレブンがあり、その先の交差点を左折、すると国道10号線の辛島交差点、ここを更に直進して行くと旧滑走路跡、フラワーロード2号線に到達することができました。

  • ①旧滑走路跡の上を通るフラワーロード2号線①<br />ここには幅80m、南北に長さ1800mのコンクリート製の滑走路がありました。<br />ただし、ここは戦後、コンクリートはすべて掘り返され、田んぼに戻されたようです。

    イチオシ

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    ①旧滑走路跡の上を通るフラワーロード2号線①
    ここには幅80m、南北に長さ1800mのコンクリート製の滑走路がありました。
    ただし、ここは戦後、コンクリートはすべて掘り返され、田んぼに戻されたようです。

  • 旧滑走路の南端に当たる位置に航空隊のモニュメント②があります。

    旧滑走路の南端に当たる位置に航空隊のモニュメント②があります。

  • 旧滑走路に沿って走るこの道、フラワーロード2号線①は2キロ以上の直線となっており、その先にはJR日豊線をまたぐ陸橋となっています。この道を北に向かって進み、そして日豊線をまたぐ陸橋の上り坂に達することで、あたかも滑走路から離陸するような気分を味わうことができました。<br />大空を自由に飛ぶことができる飛行機、パイロットは生死をかけた戦闘もありますが、大空に舞い上がってしまえば空中散歩といった清々しい気分もきっと味わう時間もあったのではないでしょうか。今回は軽四のレンタカー、全く高速とは縁がない鈍足のドライブでしたが、ここで何となく当時のパイロットの気分を味わえたような気がします。

    旧滑走路に沿って走るこの道、フラワーロード2号線①は2キロ以上の直線となっており、その先にはJR日豊線をまたぐ陸橋となっています。この道を北に向かって進み、そして日豊線をまたぐ陸橋の上り坂に達することで、あたかも滑走路から離陸するような気分を味わうことができました。
    大空を自由に飛ぶことができる飛行機、パイロットは生死をかけた戦闘もありますが、大空に舞い上がってしまえば空中散歩といった清々しい気分もきっと味わう時間もあったのではないでしょうか。今回は軽四のレンタカー、全く高速とは縁がない鈍足のドライブでしたが、ここで何となく当時のパイロットの気分を味わえたような気がします。

  • 旧滑走路の南端から東を望むといくつかのドーム状の盛り上がったものが見えます。これが城井地区に点在する掩体壕、飛行機を爆撃から退避する防空壕のような施設です。

    旧滑走路の南端から東を望むといくつかのドーム状の盛り上がったものが見えます。これが城井地区に点在する掩体壕、飛行機を爆撃から退避する防空壕のような施設です。

  • この地区の中心となるのが城井1号掩体壕です。

    この地区の中心となるのが城井1号掩体壕です。

  • 城井1号掩体壕は、宇佐市の史跡に認定され、周囲もあわせて城井1号掩体壕史跡公園として整備されています。

    城井1号掩体壕は、宇佐市の史跡に認定され、周囲もあわせて城井1号掩体壕史跡公園として整備されています。

    城井一号掩体壕史跡公園 名所・史跡

  • ③史跡公園の平和記念碑越しに見る城井1号掩体壕、ここには戦闘機が1機格納できるようになっており、胴体部分が入る中央部が高い位置まで開口があり、両翼は翼の高さに合わせ、低い位置での開口となっており、外観は半球体を半分に割ったような形状となっており、天井部は分厚いコンクリートで覆われています。

    イチオシ

    ③史跡公園の平和記念碑越しに見る城井1号掩体壕、ここには戦闘機が1機格納できるようになっており、胴体部分が入る中央部が高い位置まで開口があり、両翼は翼の高さに合わせ、低い位置での開口となっており、外観は半球体を半分に割ったような形状となっており、天井部は分厚いコンクリートで覆われています。

  • 掩体壕前の平和記念碑、球体が載る記念碑の台には、東大寺別当揮毫による鎮魂の二文字が記されています。

    掩体壕前の平和記念碑、球体が載る記念碑の台には、東大寺別当揮毫による鎮魂の二文字が記されています。

  • 宇佐飛行隊から神風特攻隊として飛び立った八幡護皇隊の搭乗員の名が記された石碑がありました。

    宇佐飛行隊から神風特攻隊として飛び立った八幡護皇隊の搭乗員の名が記された石碑がありました。

  • 城井1号掩体壕、

    イチオシ

    城井1号掩体壕、

  • 掩体壕の中には何やらプロペラのようなものが置いてありました。

    掩体壕の中には何やらプロペラのようなものが置いてありました。

  • 近づくとエンジンにプロペラが付いたものがあります。<br />これは、杵築沖の海中から引き上げられた零戦のエンジンとプロペラだそうです。

    近づくとエンジンにプロペラが付いたものがあります。
    これは、杵築沖の海中から引き上げられた零戦のエンジンとプロペラだそうです。

  • エンジンに近づいて見てみると相当損傷しており、シリンダなどもバラバラになっており、内部がむき出しの状態でした。

    エンジンに近づいて見てみると相当損傷しており、シリンダなどもバラバラになっており、内部がむき出しの状態でした。

  • 掩体壕の奥の部分です。小さな明かり取りの丸い穴があります。

    掩体壕の奥の部分です。小さな明かり取りの丸い穴があります。

  • 掩体壕の中には千羽鶴が置かれてありました。

    掩体壕の中には千羽鶴が置かれてありました。

  • 城井1号掩体壕史跡公園は、芝の広場と駐車場が整備されており、またこの周辺にはすぐ近くに2つの掩体壕がありますが、どちらも個人所有のもののようで、内部は倉庫などとして使用されていました。<br />城井1号掩体壕の南にある掩体壕、ここは個人の住居の敷地内にあります。

    城井1号掩体壕史跡公園は、芝の広場と駐車場が整備されており、またこの周辺にはすぐ近くに2つの掩体壕がありますが、どちらも個人所有のもののようで、内部は倉庫などとして使用されていました。
    城井1号掩体壕の南にある掩体壕、ここは個人の住居の敷地内にあります。

  • 城井1号掩体壕の駐車場のすぐ近くにある掩体壕、ここも倉庫として使用されています。

    城井1号掩体壕の駐車場のすぐ近くにある掩体壕、ここも倉庫として使用されています。

  • 宇佐平野の広大な田園風景の中にポツリ、ポツリと掩体壕が点在する光景、

    宇佐平野の広大な田園風景の中にポツリ、ポツリと掩体壕が点在する光景、

  • 城井1号掩体壕史跡公園から再び旧滑走路後を北に暫く進むと、左へ伸びる細い道④があります。<br />ここは一式陸攻が通った誘導路といわれ、その幅がちょうど双発の中型機である一式陸攻の主翼下につく2本の主脚の間隔と合っているそうです。一式陸攻はこの奥にあった中型掩体壕へ向かい、この誘導路を行き来していたのでしょうか。

    城井1号掩体壕史跡公園から再び旧滑走路後を北に暫く進むと、左へ伸びる細い道④があります。
    ここは一式陸攻が通った誘導路といわれ、その幅がちょうど双発の中型機である一式陸攻の主翼下につく2本の主脚の間隔と合っているそうです。一式陸攻はこの奥にあった中型掩体壕へ向かい、この誘導路を行き来していたのでしょうか。

  • ④誘導路を進むと左に無蓋型掩体壕跡が左にあります。<br />無蓋型掩体壕は、周囲のみ土嚢を積み上げ、屋根は草木などでカムフラジューするタイプの壕、ここは大きく一式陸攻が格納されていものだったようです。

    ④誘導路を進むと左に無蓋型掩体壕跡が左にあります。
    無蓋型掩体壕は、周囲のみ土嚢を積み上げ、屋根は草木などでカムフラジューするタイプの壕、ここは大きく一式陸攻が格納されていものだったようです。

  • 広い田園の中に突然現れた大きなコンクリート構造物、一式陸攻を格納するという中型掩体壕です。<br />この宇佐に入った一式陸攻といえば、やはり神雷部隊の人間爆弾「桜花」を搭載してきたもの、特攻専用の機体ということでこの桜花というものにはどうにも馴染めません。

    広い田園の中に突然現れた大きなコンクリート構造物、一式陸攻を格納するという中型掩体壕です。
    この宇佐に入った一式陸攻といえば、やはり神雷部隊の人間爆弾「桜花」を搭載してきたもの、特攻専用の機体ということでこの桜花というものにはどうにも馴染めません。

  • 巨大な中型掩体壕<br />一式陸攻が中に入るだけあって、相当に大きなものです。

    イチオシ

    巨大な中型掩体壕
    一式陸攻が中に入るだけあって、相当に大きなものです。

  • 三菱一式陸上攻撃機、海軍の主力陸上攻撃機で全長約20m、翼幅約25m、双発の爆撃機で通常約800kgまでの爆弾や魚雷を搭載し、7名の搭乗員で爆撃に行くものです。ただし、この宇佐航空隊に宮崎からきた30機は、人間爆弾「桜花」を搭載する機体、桜花自身が約2トンであったことから、桜花を搭載しての出撃は既に過積載、速度も上がらず、苛烈な米護衛戦闘機による要撃、そして戦闘機の攻撃をかわせても近接雷管による高射砲の射撃にさらされる、ほぼ桜花を投下すべき地点までたどり着くことする困難な状況だったような気まします。これが本当に有効な作戦だったのか、全くもって疑問に感じずにはいられない気がします。

    三菱一式陸上攻撃機、海軍の主力陸上攻撃機で全長約20m、翼幅約25m、双発の爆撃機で通常約800kgまでの爆弾や魚雷を搭載し、7名の搭乗員で爆撃に行くものです。ただし、この宇佐航空隊に宮崎からきた30機は、人間爆弾「桜花」を搭載する機体、桜花自身が約2トンであったことから、桜花を搭載しての出撃は既に過積載、速度も上がらず、苛烈な米護衛戦闘機による要撃、そして戦闘機の攻撃をかわせても近接雷管による高射砲の射撃にさらされる、ほぼ桜花を投下すべき地点までたどり着くことする困難な状況だったような気まします。これが本当に有効な作戦だったのか、全くもって疑問に感じずにはいられない気がします。

  • 中型掩体壕の正面に回ってみると、大きな開口が見えました。ただし、ここもどうやら個人の敷地内にあるようで、これ以上中への進入は控えることとしました。<br /><br />この中型掩体壕、中型とはいえこの大きさ、そして大きな開口、やはり双発の爆撃機が入るだけの規模を感じます。

    中型掩体壕の正面に回ってみると、大きな開口が見えました。ただし、ここもどうやら個人の敷地内にあるようで、これ以上中への進入は控えることとしました。

    この中型掩体壕、中型とはいえこの大きさ、そして大きな開口、やはり双発の爆撃機が入るだけの規模を感じます。

  • 旧滑走路の南端、②航空隊モニュメントがあった位置から南にまっすぐ進む細い田んぼの中を行く道に入ります。<br />おそらくこの道もかっての誘導路あとではないでしょうか。

    旧滑走路の南端、②航空隊モニュメントがあった位置から南にまっすぐ進む細い田んぼの中を行く道に入ります。
    おそらくこの道もかっての誘導路あとではないでしょうか。

  • 田圃の中の道を進むとその先に⑥掩体壕がひとつ見えてきました。<br />この辺りは畑田地区という地名で、周辺にはいくつかの掩体壕が点在しています。ここも城井1号掩体壕と同じく、戦闘機など小型機を格納する壕です。

    田圃の中の道を進むとその先に⑥掩体壕がひとつ見えてきました。
    この辺りは畑田地区という地名で、周辺にはいくつかの掩体壕が点在しています。ここも城井1号掩体壕と同じく、戦闘機など小型機を格納する壕です。

  • この⑥掩体壕も個人所有らしく、内部は倉庫として使われていました。

    この⑥掩体壕も個人所有らしく、内部は倉庫として使われていました。

  • 更にその先にもうひとつの掩体壕が、

    更にその先にもうひとつの掩体壕が、

  • ホームセンターの前にも掩体壕がありました。

    ホームセンターの前にも掩体壕がありました。

  • ここも中は個人の倉庫として使用されているようです。<br /><br />掩体壕は内部が広く、分厚いコンクリートで囲まれた構造であるため、撤去するには相当の工事となります。戦後、かっての航空隊の地は農地として開かれ、村落なども形成され、その中でこれら掩体壕も個人の持ち物となり、倉庫としては非常に重宝されたのではないでしょうか。

    ここも中は個人の倉庫として使用されているようです。

    掩体壕は内部が広く、分厚いコンクリートで囲まれた構造であるため、撤去するには相当の工事となります。戦後、かっての航空隊の地は農地として開かれ、村落なども形成され、その中でこれら掩体壕も個人の持ち物となり、倉庫としては非常に重宝されたのではないでしょうか。

  • 旧滑走路及びその周辺の掩体壕をひと通り巡った後、次は旧格納庫やエプロンがあったと思しき区域へ向かってみました。<br />ちょうどこの辺りにはこの看板にもあるように、通信関連施設や飛行機の整備に関する施設の一部が現存しています。これらの位置は目標物が周りになく、非常にわかりにくく、同じところを何度もぐるぐる回りながらようやく見つけることができました。

    旧滑走路及びその周辺の掩体壕をひと通り巡った後、次は旧格納庫やエプロンがあったと思しき区域へ向かってみました。
    ちょうどこの辺りにはこの看板にもあるように、通信関連施設や飛行機の整備に関する施設の一部が現存しています。これらの位置は目標物が周りになく、非常にわかりにくく、同じところを何度もぐるぐる回りながらようやく見つけることができました。

  • 先ず最初に見つけたのが、広大な田圃が広がるその中に突然現れる不自然なコンクリート構造物、ほとんどが土と草に覆われ、注意深く見ていないとツイ見逃してしまう、田圃の真ん中を走る細い未舗装の農道沿いに⑦地下電信室跡がありました。

    先ず最初に見つけたのが、広大な田圃が広がるその中に突然現れる不自然なコンクリート構造物、ほとんどが土と草に覆われ、注意深く見ていないとツイ見逃してしまう、田圃の真ん中を走る細い未舗装の農道沿いに⑦地下電信室跡がありました。

  • 横から見ると直角三角形が立ったような形状の地下へと伸びる階段の入口がいくつか整然と並んでいます。<br />おそらくこの階段を下った地下に通信機器が置かれた部屋があったと思われます。

    横から見ると直角三角形が立ったような形状の地下へと伸びる階段の入口がいくつか整然と並んでいます。
    おそらくこの階段を下った地下に通信機器が置かれた部屋があったと思われます。

  • 地下への入口、ほとんど途中で土に埋まってしまっており、中に入るのは難しそうでした。

    地下への入口、ほとんど途中で土に埋まってしまっており、中に入るのは難しそうでした。

  • ⑦の地下電信室のすぐ南に⑨無線受信室跡と思われるこれもほとんでが土に埋もれ、周囲に草が生い茂る中、所々コンクリートが顔を覗かせていました。<br />ここはその周囲がうっそうと茂る草原となっているため、あまり近くまで行くことができませんでした。

    ⑦の地下電信室のすぐ南に⑨無線受信室跡と思われるこれもほとんでが土に埋もれ、周囲に草が生い茂る中、所々コンクリートが顔を覗かせていました。
    ここはその周囲がうっそうと茂る草原となっているため、あまり近くまで行くことができませんでした。

  • ⑩レンガ建物<br />ここはかってパラシュートの整備などに使われていた建物だったそうです。<br />レンガ造りの建物の原型はそれなりに残されています。

    ⑩レンガ建物
    ここはかってパラシュートの整備などに使われていた建物だったそうです。
    レンガ造りの建物の原型はそれなりに残されています。

  • ⑩レンガ建物のそばに近寄ってみると、その壁面には無数の弾痕跡があります。<br />米艦載機による激しい銃撃を浴びたものでしょう、

    ⑩レンガ建物のそばに近寄ってみると、その壁面には無数の弾痕跡があります。
    米艦載機による激しい銃撃を浴びたものでしょう、

  • ⑪エンジン調整室跡<br />ここでエンジンの整備などが行われていたようです。

    ⑪エンジン調整室跡
    ここでエンジンの整備などが行われていたようです。

  • ⑩エンジン調整室<br />この建物も相当の銃撃を受けたらしく、壁面にはたくさんの弾痕がありました。

    ⑩エンジン調整室
    この建物も相当の銃撃を受けたらしく、壁面にはたくさんの弾痕がありました。

  • ⑩エンジン調整室の前でこの近くにお住まいの方にお話を伺うことができました。<br />この辺りは飛行機の格納庫が幾つもならび、この東側には広いコンクリートのエプロンがり、更にこのコンクリートエプロンと滑走路との間にも地面を整地して硬めた広いエプロンがあったそうです。また、写真のお家、これは⑩エンジン調整室のすぐ横にあるのですが、この裏側には巨大な燃料タンクが3つ並んでいたそうです。そしてその更に向こう側(西の方向)には、日豊本線柳ケ浦駅から伸びる航空隊への物資運搬用の引込線もあったそうです。<br />また、お話をしている中で、硫黄島の激戦の中、生き延びられたという90過ぎの方がこの近くになおもご存命ということでした。

    ⑩エンジン調整室の前でこの近くにお住まいの方にお話を伺うことができました。
    この辺りは飛行機の格納庫が幾つもならび、この東側には広いコンクリートのエプロンがり、更にこのコンクリートエプロンと滑走路との間にも地面を整地して硬めた広いエプロンがあったそうです。また、写真のお家、これは⑩エンジン調整室のすぐ横にあるのですが、この裏側には巨大な燃料タンクが3つ並んでいたそうです。そしてその更に向こう側(西の方向)には、日豊本線柳ケ浦駅から伸びる航空隊への物資運搬用の引込線もあったそうです。
    また、お話をしている中で、硫黄島の激戦の中、生き延びられたという90過ぎの方がこの近くになおもご存命ということでした。

  • ⑪生き残門<br />宇佐航空隊の西、駅館川の堤防沿いにある蓮光寺の山門、⑪生き残門です。<br />この辺りは当時から集落になっており、航空隊に配属になった多くの若者たちがこの集落の中の民家などに下宿していたそうです。<br />昭和20年4月のB29による空襲は激しいものであったそうで、この集落も大半が消失し、蓮光寺の本堂も焼け落ちたのですが、奇跡的にこの山門だけが難を逃れたそうです。この空襲では多くの民間人も犠牲になり、空襲が何日も続く中、兵士や焼け出された住民たちは、駅館川対岸の山の麓に掘られた壕の中で何日も耐え忍んでそうです。

    ⑪生き残門
    宇佐航空隊の西、駅館川の堤防沿いにある蓮光寺の山門、⑪生き残門です。
    この辺りは当時から集落になっており、航空隊に配属になった多くの若者たちがこの集落の中の民家などに下宿していたそうです。
    昭和20年4月のB29による空襲は激しいものであったそうで、この集落も大半が消失し、蓮光寺の本堂も焼け落ちたのですが、奇跡的にこの山門だけが難を逃れたそうです。この空襲では多くの民間人も犠牲になり、空襲が何日も続く中、兵士や焼け出された住民たちは、駅館川対岸の山の麓に掘られた壕の中で何日も耐え忍んでそうです。

  • ⑫柳ケ浦小学校<br />小学校の周囲を囲うコンクリートを見るといくつもの弾痕跡が残っています。

    ⑫柳ケ浦小学校
    小学校の周囲を囲うコンクリートを見るといくつもの弾痕跡が残っています。

  • 戦後70年を経ても壁面のコンクリートに生々しく残る弾痕跡、<br />このあたりも激しい空襲に襲われたようです。

    戦後70年を経ても壁面のコンクリートに生々しく残る弾痕跡、
    このあたりも激しい空襲に襲われたようです。

  • 柳ケ浦小学校には、航空隊の正門位あった門柱が保存されてありました。<br />これは長らく地中に埋もれていたそうですが、平成4年に工事現場で偶然発見されたそうです。

    柳ケ浦小学校には、航空隊の正門位あった門柱が保存されてありました。
    これは長らく地中に埋もれていたそうですが、平成4年に工事現場で偶然発見されたそうです。

  • ⑬航空隊踏切

    ⑬航空隊踏切

  • 柳ヶ浦駅の踏切、ここには今も航空隊の文字が記されています。

    柳ヶ浦駅の踏切、ここには今も航空隊の文字が記されています。

  • ⑬航空隊踏切から柳ケ浦高校の前を通る道筋に宇佐名物、唐揚げ屋さんを発見、<br />宇佐唐揚げ特選12店にも選ばれている大福さんです。<br />

    ⑬航空隊踏切から柳ケ浦高校の前を通る道筋に宇佐名物、唐揚げ屋さんを発見、
    宇佐唐揚げ特選12店にも選ばれている大福さんです。

  • 醤油風味を注文、<br />お肉はとってもジューシー、表面の衣もサックとして醤油味もほどよく本当に美味しかったです。

    醤油風味を注文、
    お肉はとってもジューシー、表面の衣もサックとして醤油味もほどよく本当に美味しかったです。

  • 宇佐に来るにあたって4トラ仲間からの情報で、元パイロットがやっておられた民宿がある聞き、これはここに泊まるしかないと何度も予約の電話をしたのが、、、<br />JR宇佐駅すぐの民宿、みずほ荘、何度か電話をしたのですが応答がなく、そして実際に現地に来てみて驚きました。<br />閉鎖されていたようです。残念です。

    宇佐に来るにあたって4トラ仲間からの情報で、元パイロットがやっておられた民宿がある聞き、これはここに泊まるしかないと何度も予約の電話をしたのが、、、
    JR宇佐駅すぐの民宿、みずほ荘、何度か電話をしたのですが応答がなく、そして実際に現地に来てみて驚きました。
    閉鎖されていたようです。残念です。

  • 今回、この宇佐市に点在する数々の戦争遺跡、そして宇佐市平和資料館での零戦の展示などを見てきました。この宇佐市でも掩体壕などの遺跡の多くが個人所有であり、全てを行政が管理することはまだ難しいようですね。できることなら全ての施設が行政の管理下に置かれ、適切に維持管理されると共に、一般に向けても展示するというのが理想なのでしょうが、予算や人員など多くの課題があることは事実です。<br />ただ、映画「永遠の0」の零戦を誘致し、資料館として展示したことは、宇佐市にとって戦争遺跡をPRしていく上で大きなアドバンテージだといえるでしょう。<br />より多くの人々に過去の遺産を見て頂き、先の戦争に関する理解をより深めてもらい、同時に地域の経済活動の活性化にもつなげる、こうゆうウィン、ウィンの関係が成立できるといいですね。

    今回、この宇佐市に点在する数々の戦争遺跡、そして宇佐市平和資料館での零戦の展示などを見てきました。この宇佐市でも掩体壕などの遺跡の多くが個人所有であり、全てを行政が管理することはまだ難しいようですね。できることなら全ての施設が行政の管理下に置かれ、適切に維持管理されると共に、一般に向けても展示するというのが理想なのでしょうが、予算や人員など多くの課題があることは事実です。
    ただ、映画「永遠の0」の零戦を誘致し、資料館として展示したことは、宇佐市にとって戦争遺跡をPRしていく上で大きなアドバンテージだといえるでしょう。
    より多くの人々に過去の遺産を見て頂き、先の戦争に関する理解をより深めてもらい、同時に地域の経済活動の活性化にもつなげる、こうゆうウィン、ウィンの関係が成立できるといいですね。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • konomiさん 2014/09/25 20:38:51
    皇紀2600年製
    0戦ですね。
    名機ですね。
    今、皇紀という文字を入れようとして、なんと2順してしまいました。
    それほど現在ではなじみがないということでしょうか。
    今の10代の人は皇紀と言ってもわからない人が多いのではないかと思います。
    かくいう私も、航空機に興味がなけれければ知る由もなかったと思います。

    迫力ありますね。
    素晴らしいです。
  • 気まぐれなデジカメ館さん 2014/07/28 09:13:27
    ご苦労様でした。
    Tam-Kさん、おはようございます。

    宇佐神宮に宇佐海軍関連、ご苦労様でした。

    私も宇佐海軍跡が残る、掩体壕集落に住んでいます。

    滑走路の南の集落で、ホームセンターカワバタの北側150mの地点が居住地です。そしてこの滑走路付近、掩体壕1号や爆弾池の田んぼの中をウォーキングしています。

    いつも見慣れた地元ですが、外の方から見るとこう見えるのかと大変勉強になりました。ありがとうございました。

                           気まぐれモン

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