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2014年夏、兵庫県加西市、田園風景の中を走るローカル線、北条鉄道の終着、北条町駅、その駅前にある複合商業ビル、アスティア加西で「加西・鶉野飛行場展」が開催されました。<br />鶉野飛行場は、旧日本海軍姫路航空隊の施設で、昭和18年10月に航空機搭乗員の養成を目的として設立されました。この飛行場は、加西市の中央部にある鶉野台地にあり、南北1200m、幅60mの滑走路跡を中心に、防空壕や対空機銃陣地跡など様々な関連施設が今も残る、貴重な戦争遺産のひとつです。<br />今回、開催された「加西・鶉野飛行場展」では、鶉野飛行場に関するパネル展や当時を偲ぶ品々の展示に加え、記念講演会なども開催されました。<br /><br />記念講演会<br /><br /> 8月10日(日)13:30〜 「残された技術 飛行艇」<br /><br /> 8月17日(日)13:30〜 「姫路海軍航空隊の練習生たち」<br /><br />最初の講演会「残された技術 飛行艇」では、新明和工業で大型飛行艇の整備、開発などを手掛けてこられた碇紀夫さんを迎え、名機「紫電改」を世に創出した川西航空機の設立から、戦後を経て新明和で受け継がれた航空機製造技術、そして、飛行機を製造する側からの体験談やご苦労された点などを伺うことができました。<br />また、この講演会には旧海軍で実際に二式大艇に搭乗されという、喜田又雄さんもお越しになっておられました。ここでは喜田さんから飛行機を操る側からのお話も交えてお聞きすることができました。それにしても元海軍パイロット、喜田さんの御元気な登場には驚かされました。<br />この講演会では、川西航空機から受け継がれた新明和での技術、喜田さんからの大戦当時における実際の飛行の模様など、大変有意義なお話をお聞きすることができました。<br />川西航空機は、二式大艇という当時としては世界最高性能の大型飛行艇を製造していました。そして、現在では新明和工業として海上自衛隊の救難飛行艇US-2を製造しており、これは昨年、太平洋をヨットで横断中に遭難したキャスターの辛坊治郎さんらを嵐の海から無事救助した飛行艇です。その時の辛抱さんの言葉が印象的でした。「この国の国民でよかった」 あの荒れた海に着水し、救助活動が可能だったのは世界でも日本だけだったかもしれません。US-2の世界最高性能の飛行艇技術、そして海上自衛隊の救難に対する世界最高水準の技術、この組み合わせがあったからこその快挙、戦前から続く確実な技術の伝承と蓄積、これこそメイド・イン・ジャパンの根源であり、誇と言えるでしょう。<br /><br />今回の飛行場展初日、あいにくの台風直撃でなかなか出足が良くありませんでした。それでも講演会には30名くらいの方が来られ、熱心に耳を傾けておられました。<br />また、今回ここで行われていたパネル展示等の会場には、当時を知る地元の方々も多くお見えになっており、パネル展や展示品を見ていると、その横で自然な形で当時のお話をして頂け、正に生の声を聞く機会にも恵まれました。<br />まもなく戦後70年が経とうとしている現在、先の戦争を体験された方々もかなりの高齢となられました。戦争に対する記憶は戦後長い間、負の側面のみが強調され、語るのもタブーといった空気が漂っていたような気がします。しかし、こういった体験を風化させることなく教訓として語り継いでいく、これから未来を築いていく上で非常に重要なことではないでしょうか。その意味でも「加西 鶉野飛行場展」、こういった企画が開催されるということは、歴史の再認識や議論の場ともなり、地域にとっても色んな意味で意義のあることだと感じました。

加西・鶉野飛行場展@アスティア加西 「残された技術 飛行艇」

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2014/08/10 - 2014/08/10

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Tam-K

Tam-Kさん

2014年夏、兵庫県加西市、田園風景の中を走るローカル線、北条鉄道の終着、北条町駅、その駅前にある複合商業ビル、アスティア加西で「加西・鶉野飛行場展」が開催されました。
鶉野飛行場は、旧日本海軍姫路航空隊の施設で、昭和18年10月に航空機搭乗員の養成を目的として設立されました。この飛行場は、加西市の中央部にある鶉野台地にあり、南北1200m、幅60mの滑走路跡を中心に、防空壕や対空機銃陣地跡など様々な関連施設が今も残る、貴重な戦争遺産のひとつです。
今回、開催された「加西・鶉野飛行場展」では、鶉野飛行場に関するパネル展や当時を偲ぶ品々の展示に加え、記念講演会なども開催されました。

記念講演会

 8月10日(日)13:30〜 「残された技術 飛行艇」

 8月17日(日)13:30〜 「姫路海軍航空隊の練習生たち」

最初の講演会「残された技術 飛行艇」では、新明和工業で大型飛行艇の整備、開発などを手掛けてこられた碇紀夫さんを迎え、名機「紫電改」を世に創出した川西航空機の設立から、戦後を経て新明和で受け継がれた航空機製造技術、そして、飛行機を製造する側からの体験談やご苦労された点などを伺うことができました。
また、この講演会には旧海軍で実際に二式大艇に搭乗されという、喜田又雄さんもお越しになっておられました。ここでは喜田さんから飛行機を操る側からのお話も交えてお聞きすることができました。それにしても元海軍パイロット、喜田さんの御元気な登場には驚かされました。
この講演会では、川西航空機から受け継がれた新明和での技術、喜田さんからの大戦当時における実際の飛行の模様など、大変有意義なお話をお聞きすることができました。
川西航空機は、二式大艇という当時としては世界最高性能の大型飛行艇を製造していました。そして、現在では新明和工業として海上自衛隊の救難飛行艇US-2を製造しており、これは昨年、太平洋をヨットで横断中に遭難したキャスターの辛坊治郎さんらを嵐の海から無事救助した飛行艇です。その時の辛抱さんの言葉が印象的でした。「この国の国民でよかった」 あの荒れた海に着水し、救助活動が可能だったのは世界でも日本だけだったかもしれません。US-2の世界最高性能の飛行艇技術、そして海上自衛隊の救難に対する世界最高水準の技術、この組み合わせがあったからこその快挙、戦前から続く確実な技術の伝承と蓄積、これこそメイド・イン・ジャパンの根源であり、誇と言えるでしょう。

今回の飛行場展初日、あいにくの台風直撃でなかなか出足が良くありませんでした。それでも講演会には30名くらいの方が来られ、熱心に耳を傾けておられました。
また、今回ここで行われていたパネル展示等の会場には、当時を知る地元の方々も多くお見えになっており、パネル展や展示品を見ていると、その横で自然な形で当時のお話をして頂け、正に生の声を聞く機会にも恵まれました。
まもなく戦後70年が経とうとしている現在、先の戦争を体験された方々もかなりの高齢となられました。戦争に対する記憶は戦後長い間、負の側面のみが強調され、語るのもタブーといった空気が漂っていたような気がします。しかし、こういった体験を風化させることなく教訓として語り継いでいく、これから未来を築いていく上で非常に重要なことではないでしょうか。その意味でも「加西 鶉野飛行場展」、こういった企画が開催されるということは、歴史の再認識や議論の場ともなり、地域にとっても色んな意味で意義のあることだと感じました。

旅行の満足度
4.0
観光
3.5
交通手段
自家用車

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  • 加西・鶉野飛行場展<br /><br />兵庫県加西市北条町 アスティア加西3F ねひめホール<br /> パネル展示 2014年8月10日(日)〜17日(日)<br /><br /> 3Fホールのシューケース内の展示は8月31日まで開催<br /><br />加西・鶉野飛行場展のFacebookページです。<br /> https://www.facebook.com/uzurano?fref=nf<br /> 

    加西・鶉野飛行場展

    兵庫県加西市北条町 アスティア加西3F ねひめホール
     パネル展示 2014年8月10日(日)〜17日(日)

     3Fホールのシューケース内の展示は8月31日まで開催

    加西・鶉野飛行場展のFacebookページです。
     https://www.facebook.com/uzurano?fref=nf
     

  • 鶉野飛行場跡、<br /><br />加西市の中央部、鶉野台地に築かれた旧海軍姫路航空隊の滑走路跡です。<br /><br />表面のコンクリートなどの損傷は相当激しいですが、ほぼ当時のままの規模で滑走路跡が現存しています。<br /><br />また、周囲には地下防空指揮所跡やコンクリート製防空壕、高射砲陣地跡などが幾つも点在しています。<br /><br />これだけの規模でかっての施設跡が存在する加西市の鶉野、とても貴重な場所ではないでしょうか。

    イチオシ

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    鶉野飛行場跡、

    加西市の中央部、鶉野台地に築かれた旧海軍姫路航空隊の滑走路跡です。

    表面のコンクリートなどの損傷は相当激しいですが、ほぼ当時のままの規模で滑走路跡が現存しています。

    また、周囲には地下防空指揮所跡やコンクリート製防空壕、高射砲陣地跡などが幾つも点在しています。

    これだけの規模でかっての施設跡が存在する加西市の鶉野、とても貴重な場所ではないでしょうか。

  • 北条鉄道 北条町駅のまん前にアスティア加西はあります。

    北条鉄道 北条町駅のまん前にアスティア加西はあります。

  • 今回、この「加西 鶉野飛行場展」が開催されているのは、アスティア加西3F、「ねひめホール」です。<br />また、8月10日と17日の記念講演会もアスティア加西3Fの多目的ホール(約100名収容)で開催されます。

    今回、この「加西 鶉野飛行場展」が開催されているのは、アスティア加西3F、「ねひめホール」です。
    また、8月10日と17日の記念講演会もアスティア加西3Fの多目的ホール(約100名収容)で開催されます。

  • 「加西 鶉野飛行場展」が開催されているねひめホールです。

    「加西 鶉野飛行場展」が開催されているねひめホールです。

  • ねひめホール中央にて鶉野飛行場や紫電改、そして川西航空機などに関するパネル展が行われています。

    ねひめホール中央にて鶉野飛行場や紫電改、そして川西航空機などに関するパネル展が行われています。

  • 会場中央には、当時鶉野飛行場で活躍した97式艦上攻撃機や紫電改などのモデルも展示されいました。

    会場中央には、当時鶉野飛行場で活躍した97式艦上攻撃機や紫電改などのモデルも展示されいました。

  • 3Fホールのショーケース内にもたくさんの展示があります。<br />零戦に積まれた20mm機関砲(模型)や当時使われていた品々などたくさんの展示がありました。

    3Fホールのショーケース内にもたくさんの展示があります。
    零戦に積まれた20mm機関砲(模型)や当時使われていた品々などたくさんの展示がありました。

  • 紫電改の模型、1/6スケール、大きくて迫力があります。<br />地元の方の手作りだそうです。

    紫電改の模型、1/6スケール、大きくて迫力があります。
    地元の方の手作りだそうです。

  • 記念講演会 「残された技術 飛行艇」<br /><br />8月10日(日) この日は台風の直撃により大荒れの幕開けとなりました。<br />それでも約30名の方々がお見えになり、13:30から記念講演会は予定通り開催されました。<br />開演に際し、鶉野平和記念の碑苑保存会 会長 三宅通義さんからのご挨拶がありました。<br /><br />戦後飛行場の資料は全て焼かれ何もない状態、戦後50年の頃から姫路海軍航空隊や川西航空機関連の方々への聞き取り調査や全国各地での調査が行われ、飛行場の全貌が徐々に明らかになってきました。戦後七十年が経とうとしている現在、この貴重な戦争遺産である飛行場がここにあったという事実、これをより多くの人々に伝えることが保存会の使命、今回の飛行場展では新たなパネルに加え、多くの方々からお持ちいただいた品々を展示、ゆっくりと見て頂きたい旨、話されました。<br />また、地元の皆さん、教育委員会、川西後進者、新明和OBや社員の方々、その他多くの方々の支えに対し、感謝お言葉もありました。<br />更に、国道372号線のバイパスが飛行場横を通るという計画に関するお話、来年飛行場が国から加西市に払い下げられ、戦争遺跡公園として整備される。ここ数年のあいだに大きく変わるというようなお話もありました。<br />鶉野飛行場周辺についてはこれからしばらく目を離せませんね。

    記念講演会 「残された技術 飛行艇」

    8月10日(日) この日は台風の直撃により大荒れの幕開けとなりました。
    それでも約30名の方々がお見えになり、13:30から記念講演会は予定通り開催されました。
    開演に際し、鶉野平和記念の碑苑保存会 会長 三宅通義さんからのご挨拶がありました。

    戦後飛行場の資料は全て焼かれ何もない状態、戦後50年の頃から姫路海軍航空隊や川西航空機関連の方々への聞き取り調査や全国各地での調査が行われ、飛行場の全貌が徐々に明らかになってきました。戦後七十年が経とうとしている現在、この貴重な戦争遺産である飛行場がここにあったという事実、これをより多くの人々に伝えることが保存会の使命、今回の飛行場展では新たなパネルに加え、多くの方々からお持ちいただいた品々を展示、ゆっくりと見て頂きたい旨、話されました。
    また、地元の皆さん、教育委員会、川西後進者、新明和OBや社員の方々、その他多くの方々の支えに対し、感謝お言葉もありました。
    更に、国道372号線のバイパスが飛行場横を通るという計画に関するお話、来年飛行場が国から加西市に払い下げられ、戦争遺跡公園として整備される。ここ数年のあいだに大きく変わるというようなお話もありました。
    鶉野飛行場周辺についてはこれからしばらく目を離せませんね。

  • 当日はあいにくの台風直撃、にもかかわらず大勢の方々がおみえになり、熱心に聴講されておられました。

    当日はあいにくの台風直撃、にもかかわらず大勢の方々がおみえになり、熱心に聴講されておられました。

  • 記念講演会、最初は上谷さんと碇さんとの対談、鶉野飛行場に非常にゆかりの深い川西航空機とその技術を受け継いだ新明和での航空機製造などに関するお話です。

    記念講演会、最初は上谷さんと碇さんとの対談、鶉野飛行場に非常にゆかりの深い川西航空機とその技術を受け継いだ新明和での航空機製造などに関するお話です。

  • ここで、講師を勤められる「鶉野平和祈念の碑苑保存会」上谷昭夫さんのプロフィールについてご紹介しておきます。<br />上谷さんは、昭和13年生まれ、兵庫県高砂市御在住で、現在は兵庫県いなみ野学園の郷土史研究に関する准講師や北条鉄道法華口駅のボランティア駅長さんも勤められておられます。また、この鶉野飛行場の戦争遺跡を巡るガイドとしてもご活躍され、これまでに延べで千人以上の方々をご案内頂いそうです。更に、加古川飛行場を記録する会、これは兵庫県加古川市に存在した、加西の鶉野のような飛行場ですが、こちらに関する保存事業にもご尽力されておられます。このように上谷さんは、加西の鶉野飛行場に纒わる戦争遺跡を中心に、加古川飛行場や三木飛行場、そして北条鉄道や加古川線、旧国鉄高砂線などの歴史に関する調査研究にもご尽力されており、近代における郷土史研究に熱心に取り組んでおられます。<br />上谷さんは、お勤めだった職場が鶉野飛行場近くの上下水道会社だったそうです。そして、上谷さんが同社の営業所長をなされていた平成5年、かって姫路海軍航空隊に所属されておられた方がこの鶉野飛行場を訪れられ、偶然のも近くにあった上谷さんの事務所を尋ねられたそうです。その際、その方の話をお聞きになられ、この飛行場にはとても大きな背景が存在するということを上谷さんは感じ取られ、これを機に上谷さんの鶉野飛行場に纒わる調査が始められたそうです。<br />上谷さんが鶉野飛行場に関する調査を始められたところ、終戦直後にここに存在した飛行機は進駐軍によって全て焼かれ、またここの飛行場に関係する書類なども全て焼却されてしまったことことが分かりました。飛行場周辺についても戦後、一般への払い下げや鶉野の開拓事業などにより、多くの遺構が失われていきました。このため、この飛行場に纒わる直接的な資料の入手には大変なご苦労があったそうです。それでも当時の姫路海軍航空隊や川西航空機の方々からの聞き取りや、全国各地に残された当時を記す資料や遺品などの収集を地道に重ねられ、当時の姿を少しずつではありますが解明されていったということです。

    ここで、講師を勤められる「鶉野平和祈念の碑苑保存会」上谷昭夫さんのプロフィールについてご紹介しておきます。
    上谷さんは、昭和13年生まれ、兵庫県高砂市御在住で、現在は兵庫県いなみ野学園の郷土史研究に関する准講師や北条鉄道法華口駅のボランティア駅長さんも勤められておられます。また、この鶉野飛行場の戦争遺跡を巡るガイドとしてもご活躍され、これまでに延べで千人以上の方々をご案内頂いそうです。更に、加古川飛行場を記録する会、これは兵庫県加古川市に存在した、加西の鶉野のような飛行場ですが、こちらに関する保存事業にもご尽力されておられます。このように上谷さんは、加西の鶉野飛行場に纒わる戦争遺跡を中心に、加古川飛行場や三木飛行場、そして北条鉄道や加古川線、旧国鉄高砂線などの歴史に関する調査研究にもご尽力されており、近代における郷土史研究に熱心に取り組んでおられます。
    上谷さんは、お勤めだった職場が鶉野飛行場近くの上下水道会社だったそうです。そして、上谷さんが同社の営業所長をなされていた平成5年、かって姫路海軍航空隊に所属されておられた方がこの鶉野飛行場を訪れられ、偶然のも近くにあった上谷さんの事務所を尋ねられたそうです。その際、その方の話をお聞きになられ、この飛行場にはとても大きな背景が存在するということを上谷さんは感じ取られ、これを機に上谷さんの鶉野飛行場に纒わる調査が始められたそうです。
    上谷さんが鶉野飛行場に関する調査を始められたところ、終戦直後にここに存在した飛行機は進駐軍によって全て焼かれ、またここの飛行場に関係する書類なども全て焼却されてしまったことことが分かりました。飛行場周辺についても戦後、一般への払い下げや鶉野の開拓事業などにより、多くの遺構が失われていきました。このため、この飛行場に纒わる直接的な資料の入手には大変なご苦労があったそうです。それでも当時の姫路海軍航空隊や川西航空機の方々からの聞き取りや、全国各地に残された当時を記す資料や遺品などの収集を地道に重ねられ、当時の姿を少しずつではありますが解明されていったということです。

  • 続いてゲストの碇紀夫さんです。<br />碇さんは、昭和15年生まれ、平成12年に新明和工業を退職され現在は宝塚市のご在住です。この日は、台風が兵庫県南部地方を直撃しているにもかかわれず、ここ加西市までご足労頂いたと聞き、全く恐縮の次第です。<br />碇さんは昭和34年に新明和工業株式会社に入社され、伊丹工場にて当初米軍機や自衛隊機、民間機の修理やオーバーホールといった機体のメンテナンス等を御担当され、その後、甲南工場にて新明和工業が戦後開発した飛行艇、PS-1やUS-1、そしてUS-2のメンテナンスなどをご担当されたということです。このように長年にわたり、碇さんは新明和工業にて主に飛行艇の整備、開発に関する業務に携わってこられたご経歴をお持ちの方です。

    続いてゲストの碇紀夫さんです。
    碇さんは、昭和15年生まれ、平成12年に新明和工業を退職され現在は宝塚市のご在住です。この日は、台風が兵庫県南部地方を直撃しているにもかかわれず、ここ加西市までご足労頂いたと聞き、全く恐縮の次第です。
    碇さんは昭和34年に新明和工業株式会社に入社され、伊丹工場にて当初米軍機や自衛隊機、民間機の修理やオーバーホールといった機体のメンテナンス等を御担当され、その後、甲南工場にて新明和工業が戦後開発した飛行艇、PS-1やUS-1、そしてUS-2のメンテナンスなどをご担当されたということです。このように長年にわたり、碇さんは新明和工業にて主に飛行艇の整備、開発に関する業務に携わってこられたご経歴をお持ちの方です。

  • 川西航空機は神戸の投資家、川西財閥の傘下にあった戦前の航空機メーカであり、その設立にあたっては前段となる中島航空機の設立が絡んでいます。当時の川西財閥は、鉄道、金融、毛織物などを手掛け、特に中核企業であった日本毛織(当時毛織物国内製造No.1)は、毛織物の国内での普及、更には海外への輸出により、明治から大正、昭和かけて我が国の近代産業を牽引してきた企業のひとつともいわれていました。そして、第1次世界大戦、ヨーロッパ戦線において史上初の航空機による大規模な戦闘が行われ、その発展性から見て戦争が終わった後にも飛行機の存在感は必ずや増すであろう、こういった点に目を付けたのが川西財閥のトップ、川西清兵衛氏でした。川西清兵衛氏はこういった経緯から中島航空機の設立に関与したのですが、後に中島航空機側との経営方針上の対立によって共同経営を離脱し、川西機械製作所を設立しました。 しかし、川西清兵衛氏の子、川西龍三氏が飛行機への夢を捨てきれず、自身の川西機械製作所飛行機部でほそぼそとではあるものの航空機開発に取り組んでいました。 当時、国内他社に於いても航空機製造業に手を付けていたのですが、他社は海外の技術者を高額な給与で招聘し、技術指導を受けていました。川西に於いてはそのようなことはなく自らの頭脳と行動で、優秀な飛行機を作ることに専念していました。 また優秀な航空機を作るためには、大掛かりな各種試験が必要であり、特に風洞試験設備は、その最たるもの、民間航空機製造会社として他に先駆け、川西ではゲッチンゲン型風洞を神戸兵庫に設置しました。 当初は水上機(下駄ばき機)を主に設計製造していました。 しかも製造した飛行機を使うことで、定期運航会社として日本航空株式会社(現在のJALとは無関係)を設立、大阪―福岡―ソウル−大連及び大阪―福岡―上海の航空路を運行していしました。 その間に当時まだ誰も成し得なかった飛行機による日本一周や、各地の新聞記者を乗せて長距離飛行を行うなど、航空思想啓蒙に関する活動も行ってました。 現在と違って当時の飛行機の設計・製造及びその運航については、非常に大きなリスクがあることを知ってはいましたが、果敢にも挑戦し続けたのです。

    川西航空機は神戸の投資家、川西財閥の傘下にあった戦前の航空機メーカであり、その設立にあたっては前段となる中島航空機の設立が絡んでいます。当時の川西財閥は、鉄道、金融、毛織物などを手掛け、特に中核企業であった日本毛織(当時毛織物国内製造No.1)は、毛織物の国内での普及、更には海外への輸出により、明治から大正、昭和かけて我が国の近代産業を牽引してきた企業のひとつともいわれていました。そして、第1次世界大戦、ヨーロッパ戦線において史上初の航空機による大規模な戦闘が行われ、その発展性から見て戦争が終わった後にも飛行機の存在感は必ずや増すであろう、こういった点に目を付けたのが川西財閥のトップ、川西清兵衛氏でした。川西清兵衛氏はこういった経緯から中島航空機の設立に関与したのですが、後に中島航空機側との経営方針上の対立によって共同経営を離脱し、川西機械製作所を設立しました。 しかし、川西清兵衛氏の子、川西龍三氏が飛行機への夢を捨てきれず、自身の川西機械製作所飛行機部でほそぼそとではあるものの航空機開発に取り組んでいました。 当時、国内他社に於いても航空機製造業に手を付けていたのですが、他社は海外の技術者を高額な給与で招聘し、技術指導を受けていました。川西に於いてはそのようなことはなく自らの頭脳と行動で、優秀な飛行機を作ることに専念していました。 また優秀な航空機を作るためには、大掛かりな各種試験が必要であり、特に風洞試験設備は、その最たるもの、民間航空機製造会社として他に先駆け、川西ではゲッチンゲン型風洞を神戸兵庫に設置しました。 当初は水上機(下駄ばき機)を主に設計製造していました。 しかも製造した飛行機を使うことで、定期運航会社として日本航空株式会社(現在のJALとは無関係)を設立、大阪―福岡―ソウル−大連及び大阪―福岡―上海の航空路を運行していしました。 その間に当時まだ誰も成し得なかった飛行機による日本一周や、各地の新聞記者を乗せて長距離飛行を行うなど、航空思想啓蒙に関する活動も行ってました。 現在と違って当時の飛行機の設計・製造及びその運航については、非常に大きなリスクがあることを知ってはいましたが、果敢にも挑戦し続けたのです。

  • こういった新たな発想や経営努力により、航空機部門の経営基盤を徐々に整え、航空機製造メーカとして川西航空機を設立、遂には国産で初となる4台の発動機を翼に備えた大型飛行艇、97式大艇を世に出すに至ったのでした。この機体の成功により川西航空機の存在感はより大きくなり、海軍からは更に高い性能を有する飛行艇の開発を命じられることとなりました。97式の開発に関してはある程度余裕を持った開発が行われたのですが、海軍から要請を受けた次期大型飛行艇に関しては、その要求があまりに高く、設計に余裕をほとんど含めることができなかったそうです。このため、完成した機体自体は非常に高い性能を有してはいたのですが、その分、乗り手にとっては負担が大きい機に仕上がったそうです。これが川西航空機が世界に誇る大型飛行艇、二式大艇だったのです。<br />その後、川西航空機は水上機だけでなく陸上の戦闘機の開発にも着手しており、川西航空機が開発した水上戦闘機強風、これをベースに陸上戦闘機として開発されたのが局地戦闘機、紫電でした。紫電は大出力エンジンを搭載し、火力も20mm機関砲を4門搭載し、空戦中の運動性を高めるための空戦フラップを装備するなど、当時の海軍主力戦闘機である零戦を大きく上回る高い性能を有する戦闘機でした。ただ、この紫電は、元の水上戦闘機を改造するなど、やや応急的に設計製造を行ったため、全体的なバランスの面で多少難点があり、乗り手のパイロットからはあまり評判が良くなかったそうです。そして、その後これらの難点を克服すべく開発されたのが紫電改でした。紫電改はその名の通り紫電の改良版ということなのですが、主翼を胴体中央部に配する中翼単葉から胴体の下部に配する低翼単葉とし、4門の20mm機関砲も全て主翼内に格納し、脚柱も二段引込から単純な形式に変更するなど、ほぼ新設計のような構成となっていました。<br />この紫電改は、紫電と共に川西航空機姫路工場でも製造され、その最終組立及び試験飛行を加西の鶉野飛行場で実施し、その後、戦場へと飛び立っていきました。

    こういった新たな発想や経営努力により、航空機部門の経営基盤を徐々に整え、航空機製造メーカとして川西航空機を設立、遂には国産で初となる4台の発動機を翼に備えた大型飛行艇、97式大艇を世に出すに至ったのでした。この機体の成功により川西航空機の存在感はより大きくなり、海軍からは更に高い性能を有する飛行艇の開発を命じられることとなりました。97式の開発に関してはある程度余裕を持った開発が行われたのですが、海軍から要請を受けた次期大型飛行艇に関しては、その要求があまりに高く、設計に余裕をほとんど含めることができなかったそうです。このため、完成した機体自体は非常に高い性能を有してはいたのですが、その分、乗り手にとっては負担が大きい機に仕上がったそうです。これが川西航空機が世界に誇る大型飛行艇、二式大艇だったのです。
    その後、川西航空機は水上機だけでなく陸上の戦闘機の開発にも着手しており、川西航空機が開発した水上戦闘機強風、これをベースに陸上戦闘機として開発されたのが局地戦闘機、紫電でした。紫電は大出力エンジンを搭載し、火力も20mm機関砲を4門搭載し、空戦中の運動性を高めるための空戦フラップを装備するなど、当時の海軍主力戦闘機である零戦を大きく上回る高い性能を有する戦闘機でした。ただ、この紫電は、元の水上戦闘機を改造するなど、やや応急的に設計製造を行ったため、全体的なバランスの面で多少難点があり、乗り手のパイロットからはあまり評判が良くなかったそうです。そして、その後これらの難点を克服すべく開発されたのが紫電改でした。紫電改はその名の通り紫電の改良版ということなのですが、主翼を胴体中央部に配する中翼単葉から胴体の下部に配する低翼単葉とし、4門の20mm機関砲も全て主翼内に格納し、脚柱も二段引込から単純な形式に変更するなど、ほぼ新設計のような構成となっていました。
    この紫電改は、紫電と共に川西航空機姫路工場でも製造され、その最終組立及び試験飛行を加西の鶉野飛行場で実施し、その後、戦場へと飛び立っていきました。

  • このように戦前の川西航空機は、飛行艇の開発と航空輸送などを手掛け、世界的に見ても非常に高い評価を得られた2式大艇や紫電改などを世に創出した航空機メーカでした。しかし、敗戦により日本における航空関係産業は、運航面も含めてGHQの方針で全て活動が禁止となってしまったのです。<br />その後、朝鮮戦争の勃発、米露による冷戦への突入など社会情勢が変化する中、再び国内において航空機産業が蘇ることとなりました。しかし、7年間もの空白は航空技術的進歩から見ると、非常な遅れをもたらし、その間に世界の航空機はレシプロエンジン(発動機)からジェットエンジンの時代へと変遷しており、日本における航空機産業が日の目を見るには相当困難な状況であったことは容易に想像できます。このような中で旧川西航空機の流れを汲む新明和工業が設立され、海上自衛隊の潜水艦を探知、攻撃する対潜哨戒飛行艇PS-1が開発されるに至りました。このPS-1は、戦中の研究課題であった荒海での離着水に伴う、波浪飛沫の抑制を実現化したものであって、正に川西航空機二式大艇の系譜を次ぐと共に新たな技術が取り入れられた機体でした。 このように、かっての技術を伝承するとともにその時代の新たな知見も盛り込む。新明和では、PS-1の成功に続き、それを母体として救難飛行艇、US-1を開発・生産し、さらに最新の技術を取り入れた諸改善(フライバイワイヤ、与圧胴体、強力なエンジンの搭載 等)や新規設計を盛込み、現在における最新鋭救難飛行艇US-2の開発・生産に至ったのです。

    このように戦前の川西航空機は、飛行艇の開発と航空輸送などを手掛け、世界的に見ても非常に高い評価を得られた2式大艇や紫電改などを世に創出した航空機メーカでした。しかし、敗戦により日本における航空関係産業は、運航面も含めてGHQの方針で全て活動が禁止となってしまったのです。
    その後、朝鮮戦争の勃発、米露による冷戦への突入など社会情勢が変化する中、再び国内において航空機産業が蘇ることとなりました。しかし、7年間もの空白は航空技術的進歩から見ると、非常な遅れをもたらし、その間に世界の航空機はレシプロエンジン(発動機)からジェットエンジンの時代へと変遷しており、日本における航空機産業が日の目を見るには相当困難な状況であったことは容易に想像できます。このような中で旧川西航空機の流れを汲む新明和工業が設立され、海上自衛隊の潜水艦を探知、攻撃する対潜哨戒飛行艇PS-1が開発されるに至りました。このPS-1は、戦中の研究課題であった荒海での離着水に伴う、波浪飛沫の抑制を実現化したものであって、正に川西航空機二式大艇の系譜を次ぐと共に新たな技術が取り入れられた機体でした。 このように、かっての技術を伝承するとともにその時代の新たな知見も盛り込む。新明和では、PS-1の成功に続き、それを母体として救難飛行艇、US-1を開発・生産し、さらに最新の技術を取り入れた諸改善(フライバイワイヤ、与圧胴体、強力なエンジンの搭載 等)や新規設計を盛込み、現在における最新鋭救難飛行艇US-2の開発・生産に至ったのです。

  • 碇さんによると、航空機の開発は日進月歩、常に新しい技術を模索し、それを試し、工夫して実際の製品に生かしていく、これは半ば技術者の執念とも言えるような世界、当時を振り返っておられました。

    碇さんによると、航空機の開発は日進月歩、常に新しい技術を模索し、それを試し、工夫して実際の製品に生かしていく、これは半ば技術者の執念とも言えるような世界、当時を振り返っておられました。

  • 上谷さんと碇さんとの対談では、上谷さんから航空機開発などを行われてきた中で、碇さんたちが苦労された点などについて伺われました。<br />碇さんによると、航空機の開発は日進月歩、常に新しい技術を模索し、それを試し、工夫して実際の製品に生かしていく、これは半ば技術者の執念とも言えるような世界でったと、当時を振り返っておられました。<br />また、戦前の日本とアメリカの航空機製造技術について異なる点は、との質問に対し、碇さんは、ひとこと「品質に関する取り組みの違いです。」と答えられました。<br />航空機の性能、設計思想は日本の方が優っていたかもしれません。ただ、同じ戦闘機を造るにしても、日本では三菱の工場で造った零戦と中島の工場で造った零戦、同じ機体のはずなのに性能に差があったりする。また、部品も供給元で仕様が違ったりというように、一貫した品質に対する概念が欠けていた。反面、アメリカは大量生産を念頭において部品の規格化、作業工程の統一、検査などの徹底が図られ、結果、あのような大量の航空機などの投入が可能となった。<br />こういった戦前の反省から、戦後の新明和はじめ我が国の企業では徹底して物作りの場における改善(品質管理)が図られてきました。これにより、日本人独自のきめ細かさと職人気質に、品質の高さと均一性が加わり、その結果として今の技術立国としての世界での地位が築かれるに至りました。これは一朝一夕にできたものではなく、長年の技術の伝承、蓄積があったからのものです。<br />戦後、航空機開発が再開され、戦前からの技術の伝承、新たな技術への挑戦を経て現在、新明和においては世界最高とも言える救難飛行艇US-2の製造に至ることができました。<br />救難飛行艇US-2といえば、昨年、太平洋をヨットで横断中に遭難したキャスターの辛坊治郎さんらを、台風通過による大荒れの嵐の中、その海上から無事救助に成功した飛行艇です。救助された際の辛坊さんの言葉が印象的でした。「この国の国民でよかった」、あの荒れた海に着水し、救助活動をなし得た、それは世界でも我が国、日本だったからこそ可能であったのかもしれません。US-2は世界において最高水準の飛行艇技術が結集された機体、そして海上自衛隊も洋上遭難の救難に対しては世界最高水準のスキルと装備を有しています。この2つの組み合わせがあったからこそ、あのような快挙をなし得ることができたのではないでしょうか、戦前から脈々と引き継がれる技術、そしてその蓄積と技術者のあくなき挑戦、これこそがメイド・イン・ジャパン、技術立国日本の誇かもしれません。

    イチオシ

    上谷さんと碇さんとの対談では、上谷さんから航空機開発などを行われてきた中で、碇さんたちが苦労された点などについて伺われました。
    碇さんによると、航空機の開発は日進月歩、常に新しい技術を模索し、それを試し、工夫して実際の製品に生かしていく、これは半ば技術者の執念とも言えるような世界でったと、当時を振り返っておられました。
    また、戦前の日本とアメリカの航空機製造技術について異なる点は、との質問に対し、碇さんは、ひとこと「品質に関する取り組みの違いです。」と答えられました。
    航空機の性能、設計思想は日本の方が優っていたかもしれません。ただ、同じ戦闘機を造るにしても、日本では三菱の工場で造った零戦と中島の工場で造った零戦、同じ機体のはずなのに性能に差があったりする。また、部品も供給元で仕様が違ったりというように、一貫した品質に対する概念が欠けていた。反面、アメリカは大量生産を念頭において部品の規格化、作業工程の統一、検査などの徹底が図られ、結果、あのような大量の航空機などの投入が可能となった。
    こういった戦前の反省から、戦後の新明和はじめ我が国の企業では徹底して物作りの場における改善(品質管理)が図られてきました。これにより、日本人独自のきめ細かさと職人気質に、品質の高さと均一性が加わり、その結果として今の技術立国としての世界での地位が築かれるに至りました。これは一朝一夕にできたものではなく、長年の技術の伝承、蓄積があったからのものです。
    戦後、航空機開発が再開され、戦前からの技術の伝承、新たな技術への挑戦を経て現在、新明和においては世界最高とも言える救難飛行艇US-2の製造に至ることができました。
    救難飛行艇US-2といえば、昨年、太平洋をヨットで横断中に遭難したキャスターの辛坊治郎さんらを、台風通過による大荒れの嵐の中、その海上から無事救助に成功した飛行艇です。救助された際の辛坊さんの言葉が印象的でした。「この国の国民でよかった」、あの荒れた海に着水し、救助活動をなし得た、それは世界でも我が国、日本だったからこそ可能であったのかもしれません。US-2は世界において最高水準の飛行艇技術が結集された機体、そして海上自衛隊も洋上遭難の救難に対しては世界最高水準のスキルと装備を有しています。この2つの組み合わせがあったからこそ、あのような快挙をなし得ることができたのではないでしょうか、戦前から脈々と引き継がれる技術、そしてその蓄積と技術者のあくなき挑戦、これこそがメイド・イン・ジャパン、技術立国日本の誇かもしれません。

  • ここで会場にお越しの元海軍パイロット、喜田又雄さんも交えての対談となりました。<br />喜田さんは、昭和17年、飛行予科練習生の中でも最難関といわれた乙種(特)飛行予科練習生試験を受験し、見事合格、岩国海軍航空隊に入隊し、僅か半年という短期で搭乗員、パイロットとしての基礎訓練である予科訓練教育を終了、直ちに台湾高雄海軍航空隊に着任、ここで96式陸上攻撃機での飛行訓練生課程を経て、主に輸送機による横須賀−マニラ間の輸送任務に従事、その後、台湾沖航空戦、沖縄方面夜間偵察、更には米軍に占領された沖縄への一式陸攻での夜間爆撃などを大分、鹿屋から敢行、その間、川西航空機の輸送機晴空、更には二式大艇や一式陸攻などへ搭乗されました。その後、大分で終戦を迎えられ、その当日の第5航空艦隊司令宇垣中将による沖縄特攻を見送った後、帰郷、終戦時の階級は一等飛行兵曹でした。

    ここで会場にお越しの元海軍パイロット、喜田又雄さんも交えての対談となりました。
    喜田さんは、昭和17年、飛行予科練習生の中でも最難関といわれた乙種(特)飛行予科練習生試験を受験し、見事合格、岩国海軍航空隊に入隊し、僅か半年という短期で搭乗員、パイロットとしての基礎訓練である予科訓練教育を終了、直ちに台湾高雄海軍航空隊に着任、ここで96式陸上攻撃機での飛行訓練生課程を経て、主に輸送機による横須賀−マニラ間の輸送任務に従事、その後、台湾沖航空戦、沖縄方面夜間偵察、更には米軍に占領された沖縄への一式陸攻での夜間爆撃などを大分、鹿屋から敢行、その間、川西航空機の輸送機晴空、更には二式大艇や一式陸攻などへ搭乗されました。その後、大分で終戦を迎えられ、その当日の第5航空艦隊司令宇垣中将による沖縄特攻を見送った後、帰郷、終戦時の階級は一等飛行兵曹でした。

  • 喜田さんのお話によれば、フィリピンのダバオなど南方方面への輸送任務で97式大挺に乗られたことがあったそうです、当時はまだ制空権が日本側に有り、南の海を飛ぶのも安全で、この機自身も操縦しやすく、優雅な飛行が楽しめたようです。<br />これが二式大艇になると操縦がシビアで、特に着水時は慎重さが求められ、ひとつ間違えると胴体が割れてしまう、高い操縦技量が求められたそうです。

    喜田さんのお話によれば、フィリピンのダバオなど南方方面への輸送任務で97式大挺に乗られたことがあったそうです、当時はまだ制空権が日本側に有り、南の海を飛ぶのも安全で、この機自身も操縦しやすく、優雅な飛行が楽しめたようです。
    これが二式大艇になると操縦がシビアで、特に着水時は慎重さが求められ、ひとつ間違えると胴体が割れてしまう、高い操縦技量が求められたそうです。

  • 碇さんから二式大艇について、速力などの性能を求めたため、機体の大きさに対する胴体の幅が極端に狭く、このようなことから強度的な問題があったとの説明がありました。とはいえ、その性能は他国のどの飛行艇に比べてもずば抜けていたことは、間違いなかったそうです。

    碇さんから二式大艇について、速力などの性能を求めたため、機体の大きさに対する胴体の幅が極端に狭く、このようなことから強度的な問題があったとの説明がありました。とはいえ、その性能は他国のどの飛行艇に比べてもずば抜けていたことは、間違いなかったそうです。

  • 上谷さんによるプレゼンテーション<br /><br />「もうひとつの姫路が加西にあった」<br />(昭和18年〜20年の歴史)<br />   <br />   太平洋戦争中加西には「姫路海軍航空隊」「神風特別攻撃隊・白鷺隊」<br />   「川西航空機姫路製作所組立工場」があった。 <br />   それは、今から70年前のことだった。

    上谷さんによるプレゼンテーション

    「もうひとつの姫路が加西にあった」
    (昭和18年〜20年の歴史)
       
       太平洋戦争中加西には「姫路海軍航空隊」「神風特別攻撃隊・白鷺隊」
       「川西航空機姫路製作所組立工場」があった。 
       それは、今から70年前のことだった。

  • 太平洋戦争中の昭和18年10月、加西市に姫路海軍航空隊の鶉野飛行場が建設されました。ここは、パイロットの基礎訓練を終えた練習生がより実践的な訓練を受け、その後実際の戦場へと飛び立っていく、いわば航空機搭乗員育成の最終段階をになった訓練施設のひとつでした。また、姫路市にあった川西航空機姫路製作所の機体組立工場もこの鶉野飛行場には併設されており、ここでは姫路の工場で製造された機体の最終組立作業や試験飛行などが行われていました。川西航空機姫路製作所は、海軍の要請による航空機増産を目的として、姫路市京口、現在の播但線京口駅前に当時あった、同じ川西財閥系の日本毛織姫路工場を転用して作られました。ここでは、紫電466機、紫電改44機が製造され、夜間に当時、馬力と呼ばれていた馬車によって胴体部分や翼部分が分離した半完成品状態で運搬され、鶉野の工場で最終段階の組立、調整が行われた後、ここの滑走路を使っての試験飛行が行われていました。<br />このようにこの鶉野飛行場は搭乗員養成ならびに戦闘機の製造に関する施設であり、ここから直接敵を攻撃するために出撃していくような、戦いのための施設ではありませんでした。しかし、大戦末期、戦況の悪化などにより、ここ鶉野でも神風特別攻撃隊が編成されることとなりました。<br />この飛行場では主に97式艦上攻撃機を使用した訓練が実施されていました。この97式艦上攻撃機は、空母艦載機で、操縦を行うパイロット、爆撃の照準と定める爆撃手と最後部で機銃手と通信を担当する電信手の3名が搭乗し、最大800kgの爆弾、もしくは魚雷を搭載し、低い高度からの水平爆撃や艦艇などへの魚雷攻撃を行うための機体でした。このため、ここ鶉野で志願が募られた神風特別攻撃隊には、この97式艦上攻撃機が使用され、1機につき3名の搭乗員が乗り組むこととなりました。ここで編成された神風特別攻撃隊は、姫路城にちなみ、白鷺隊と呼ばれました。鶉野飛行場では、この神風特別攻撃隊への志願者を募ったとところ、ここで練習中の訓練生をはじめ、教官、教員の中から約100名の志願者が選ばれたそうです。この後、鶉野飛行場では、これまでの訓練内容も平常訓練から特攻訓訓練へとその内容も変わっていきました。<br />昭和20年3月23日、鶉野飛行場の格納庫前エプロンで冷酒とするめで別盃の儀式が執り行われ、白鷺隊は鶉野の地から大空へ、そして4月6日、九州で発令された菊水作戦1号により、4月6日から5月4日にわたる5次の出撃により、21機63名の若人が沖縄近海にて突入、散華していきました。<br />

    太平洋戦争中の昭和18年10月、加西市に姫路海軍航空隊の鶉野飛行場が建設されました。ここは、パイロットの基礎訓練を終えた練習生がより実践的な訓練を受け、その後実際の戦場へと飛び立っていく、いわば航空機搭乗員育成の最終段階をになった訓練施設のひとつでした。また、姫路市にあった川西航空機姫路製作所の機体組立工場もこの鶉野飛行場には併設されており、ここでは姫路の工場で製造された機体の最終組立作業や試験飛行などが行われていました。川西航空機姫路製作所は、海軍の要請による航空機増産を目的として、姫路市京口、現在の播但線京口駅前に当時あった、同じ川西財閥系の日本毛織姫路工場を転用して作られました。ここでは、紫電466機、紫電改44機が製造され、夜間に当時、馬力と呼ばれていた馬車によって胴体部分や翼部分が分離した半完成品状態で運搬され、鶉野の工場で最終段階の組立、調整が行われた後、ここの滑走路を使っての試験飛行が行われていました。
    このようにこの鶉野飛行場は搭乗員養成ならびに戦闘機の製造に関する施設であり、ここから直接敵を攻撃するために出撃していくような、戦いのための施設ではありませんでした。しかし、大戦末期、戦況の悪化などにより、ここ鶉野でも神風特別攻撃隊が編成されることとなりました。
    この飛行場では主に97式艦上攻撃機を使用した訓練が実施されていました。この97式艦上攻撃機は、空母艦載機で、操縦を行うパイロット、爆撃の照準と定める爆撃手と最後部で機銃手と通信を担当する電信手の3名が搭乗し、最大800kgの爆弾、もしくは魚雷を搭載し、低い高度からの水平爆撃や艦艇などへの魚雷攻撃を行うための機体でした。このため、ここ鶉野で志願が募られた神風特別攻撃隊には、この97式艦上攻撃機が使用され、1機につき3名の搭乗員が乗り組むこととなりました。ここで編成された神風特別攻撃隊は、姫路城にちなみ、白鷺隊と呼ばれました。鶉野飛行場では、この神風特別攻撃隊への志願者を募ったとところ、ここで練習中の訓練生をはじめ、教官、教員の中から約100名の志願者が選ばれたそうです。この後、鶉野飛行場では、これまでの訓練内容も平常訓練から特攻訓訓練へとその内容も変わっていきました。
    昭和20年3月23日、鶉野飛行場の格納庫前エプロンで冷酒とするめで別盃の儀式が執り行われ、白鷺隊は鶉野の地から大空へ、そして4月6日、九州で発令された菊水作戦1号により、4月6日から5月4日にわたる5次の出撃により、21機63名の若人が沖縄近海にて突入、散華していきました。

  • また、鶉野飛行場の近くを走る北条鉄道、当時は国鉄北条線とよばれ、その中間付近にある法華口駅は鶉野飛行場、姫路海軍航空隊の表玄関ともなっていました。この国鉄北条線と鶉野飛行場をめぐり、かって大きな悲劇がありました。<br />昭和20年3月31日、試験飛行を終え、鶉野南方の大空から帰還してきた1機の紫電改、着陸体制を整え滑走路に進入しようとした時のことでした。走り滑走路を横切るひとりの女性の姿、当時紫電改を操縦していた五田栄上等飛行曹の視界に入りました。瞬時に操縦桿が引かれ紫電改は急上昇、回避行動が取られました。その直後、上空で紫電改のエンジンが停止、その時、五田上等飛行曹は懸命の操縦でなんとか真下を走る国鉄北条線の線路上への不時着を試みます。<br />北条線法華口駅、粟生駅方面へ向かうC12形蒸気機関車に牽引された1編成の列車、この列車は、法華口駅での貨物車両の引き離しに手間取り、定刻の2分遅れでの発車となりました。満員の乗客80名を客車に載せ、次の田原駅を出発して隣の網引駅との中間付近に到達した時のこと、この列車の真上を轟音と共に飛び去る1機の飛行機がありました。直後、この飛行機は列車の前方、線路上の地面に落下、同時に大きく跳躍し、脇の田んぼに逆さまになって激突、これにより飛行機は大破、搭乗員は即死状態でした。網引駅、西300mの地点でした。<br />悲劇は更に続きます。列車が紫電改落下の網引駅西300m地点に差しかかったところ、先頭の機関車が脱輪、転覆、そして後続の客車も続いて脱線した後、機関車の真上に突っ込んで真ん中から真っ二つに、この列車脱線、転覆事故によって乳児など子供3名を含む死者12名、負傷者64名の大惨事となりました。<br />この大惨事は紫電改の不時着によって線路上に落下した際、線路の一部を破損したことが原因で発生してしました。しかし、時は戦時下、このような大惨事が起きたにも関わらず、この事故は大きく報道されることもなく、歴史の中に長らく埋もれていました。<br />この事故で脱線、転覆した蒸気機関車は、その後修理され、戦後も国鉄加古川線走り続け、昭和35年に退役しています。このC12形蒸気機関車、退役から数十年を経た平成23年、偶然にも大阪の交通科学博物館にて、その動輪が展示されているのが発見されました。上谷さんが交通科学博物館を訪れられた際、C12形蒸気機関車の動輪と聞き興味をもたれて観察していたところ、その動輪に刻まれた車体番号、「C12189」正にかって国鉄加古川線を走り、昭和20年3月の北条線、網引駅西方での悲劇の蒸気機関車、そのものの動輪だったのです。この動輪は来年の春、平成27年2月、再び加西に帰ってくることとなりました。<br /><br />

    また、鶉野飛行場の近くを走る北条鉄道、当時は国鉄北条線とよばれ、その中間付近にある法華口駅は鶉野飛行場、姫路海軍航空隊の表玄関ともなっていました。この国鉄北条線と鶉野飛行場をめぐり、かって大きな悲劇がありました。
    昭和20年3月31日、試験飛行を終え、鶉野南方の大空から帰還してきた1機の紫電改、着陸体制を整え滑走路に進入しようとした時のことでした。走り滑走路を横切るひとりの女性の姿、当時紫電改を操縦していた五田栄上等飛行曹の視界に入りました。瞬時に操縦桿が引かれ紫電改は急上昇、回避行動が取られました。その直後、上空で紫電改のエンジンが停止、その時、五田上等飛行曹は懸命の操縦でなんとか真下を走る国鉄北条線の線路上への不時着を試みます。
    北条線法華口駅、粟生駅方面へ向かうC12形蒸気機関車に牽引された1編成の列車、この列車は、法華口駅での貨物車両の引き離しに手間取り、定刻の2分遅れでの発車となりました。満員の乗客80名を客車に載せ、次の田原駅を出発して隣の網引駅との中間付近に到達した時のこと、この列車の真上を轟音と共に飛び去る1機の飛行機がありました。直後、この飛行機は列車の前方、線路上の地面に落下、同時に大きく跳躍し、脇の田んぼに逆さまになって激突、これにより飛行機は大破、搭乗員は即死状態でした。網引駅、西300mの地点でした。
    悲劇は更に続きます。列車が紫電改落下の網引駅西300m地点に差しかかったところ、先頭の機関車が脱輪、転覆、そして後続の客車も続いて脱線した後、機関車の真上に突っ込んで真ん中から真っ二つに、この列車脱線、転覆事故によって乳児など子供3名を含む死者12名、負傷者64名の大惨事となりました。
    この大惨事は紫電改の不時着によって線路上に落下した際、線路の一部を破損したことが原因で発生してしました。しかし、時は戦時下、このような大惨事が起きたにも関わらず、この事故は大きく報道されることもなく、歴史の中に長らく埋もれていました。
    この事故で脱線、転覆した蒸気機関車は、その後修理され、戦後も国鉄加古川線走り続け、昭和35年に退役しています。このC12形蒸気機関車、退役から数十年を経た平成23年、偶然にも大阪の交通科学博物館にて、その動輪が展示されているのが発見されました。上谷さんが交通科学博物館を訪れられた際、C12形蒸気機関車の動輪と聞き興味をもたれて観察していたところ、その動輪に刻まれた車体番号、「C12189」正にかって国鉄加古川線を走り、昭和20年3月の北条線、網引駅西方での悲劇の蒸気機関車、そのものの動輪だったのです。この動輪は来年の春、平成27年2月、再び加西に帰ってくることとなりました。

  • このように鶉野飛行場を巡っては、たくさんのエピソードがあります。当時世界でも最高性能と言われた戦闘機、紫電改がここで完成し、大空へ飛び立っていった。なかばロマンを感じさせるような出来事、神風特別特攻隊として出撃していった白鷺隊、北条線網引駅近くで起きた列車脱線、転覆事故などの悲劇、そして全国各地からこの航空隊に集まった練習生と地元の人々との心温まるふれあいなど、これらは全て歴史の中で息づく事実、決して風化させることなく語り継がれるよう、上谷さんの努力は日々続きます。

    このように鶉野飛行場を巡っては、たくさんのエピソードがあります。当時世界でも最高性能と言われた戦闘機、紫電改がここで完成し、大空へ飛び立っていった。なかばロマンを感じさせるような出来事、神風特別特攻隊として出撃していった白鷺隊、北条線網引駅近くで起きた列車脱線、転覆事故などの悲劇、そして全国各地からこの航空隊に集まった練習生と地元の人々との心温まるふれあいなど、これらは全て歴史の中で息づく事実、決して風化させることなく語り継がれるよう、上谷さんの努力は日々続きます。

  • この講演会、司会は保存会の活動を支える若手有志の会、やるじゃんかさいの菊元美香さんでした。

    この講演会、司会は保存会の活動を支える若手有志の会、やるじゃんかさいの菊元美香さんでした。

  • また、公演終了後に、やるじゃんかさいの村上さんから連絡がありました。<br />保存活動応援グッツとしておもちゃグライダーをパネル展会場で1つ200円販売しています。紫電改の模型で、ピンクのかわいいネッピーちゃんの飛行機もあります。<br />また、iPhone版鶉野ガイドアプリ、googleマップ場で位置を確認しなが上谷さんによるガイドが体験できます。Appストアーからダウンロードできます。<br />(iPhone、iPod touch、iPod対応 ) <br /><br />10月5日(日)鶉野飛行場跡の平和祈念の碑苑にて慰霊祭があります。今回は式典などは献花のみの行事となるそうです。

    また、公演終了後に、やるじゃんかさいの村上さんから連絡がありました。
    保存活動応援グッツとしておもちゃグライダーをパネル展会場で1つ200円販売しています。紫電改の模型で、ピンクのかわいいネッピーちゃんの飛行機もあります。
    また、iPhone版鶉野ガイドアプリ、googleマップ場で位置を確認しなが上谷さんによるガイドが体験できます。Appストアーからダウンロードできます。
    (iPhone、iPod touch、iPod対応 ) 

    10月5日(日)鶉野飛行場跡の平和祈念の碑苑にて慰霊祭があります。今回は式典などは献花のみの行事となるそうです。

  • 講演会後の講師のみなさん、左から碇さん、喜田さん、三宅さん、上谷さんです。

    講演会後の講師のみなさん、左から碇さん、喜田さん、三宅さん、上谷さんです。

  • パネル展会場<br />ここでは鶉野飛行場に関する歴史、川西航空機が姫路制作所で製造していた紫電改や新明和の飛行艇、北条線で起きた脱線転覆事故などを説明するパネルが並んでいました。

    パネル展会場
    ここでは鶉野飛行場に関する歴史、川西航空機が姫路制作所で製造していた紫電改や新明和の飛行艇、北条線で起きた脱線転覆事故などを説明するパネルが並んでいました。

  • パネル展会場には鶉野飛行場にゆかりのある飛行機のモデルもたくさん展示されてました。

    パネル展会場には鶉野飛行場にゆかりのある飛行機のモデルもたくさん展示されてました。

  • 97式艦上攻撃機<br />姫路海軍航空隊鶉野飛行場で最もよく使われていた機体です。

    97式艦上攻撃機
    姫路海軍航空隊鶉野飛行場で最もよく使われていた機体です。

  • 艦上攻撃天山、97式に次ぐ高性能艦上攻撃機です。

    艦上攻撃天山、97式に次ぐ高性能艦上攻撃機です。

  • 局地戦闘機紫電改<br />川西航空機姫路製作所鶉野工場で最終組立が行われていた機体です。<br />

    局地戦闘機紫電改
    川西航空機姫路製作所鶉野工場で最終組立が行われていた機体です。

  • 第二次大戦中で最高の大型飛行艇、川西二式大艇

    第二次大戦中で最高の大型飛行艇、川西二式大艇

  • 二式大艇の流れを現在に伝える救難飛行艇、新明和US-2

    二式大艇の流れを現在に伝える救難飛行艇、新明和US-2

  • パネル展会場では、「鶉野飛行場平和祈念の碑苑保存会」紫電改の紙飛行機模型が1機、200円で販売されてました。

    パネル展会場では、「鶉野飛行場平和祈念の碑苑保存会」紫電改の紙飛行機模型が1機、200円で販売されてました。

  • 紫電改紙飛行機、このタイプに加え、かわいい加西のゆるキャラ、ネッピーのピンクの飛行機もありました。このネッピー号は女の子に人気でした。

    紫電改紙飛行機、このタイプに加え、かわいい加西のゆるキャラ、ネッピーのピンクの飛行機もありました。このネッピー号は女の子に人気でした。

  • アスティア加西の3Fのギャラリー展、こちらの展示は八月末まで展示されてます。<br />ここでの展示品を以下に紹介します。

    アスティア加西の3Fのギャラリー展、こちらの展示は八月末まで展示されてます。
    ここでの展示品を以下に紹介します。

  • 元パイロット、喜田又雄さんが当時着用されていた航空服、<br />大分、佐伯の航空隊で終戦を迎えられ、その時待ち帰られた飛行服です。

    イチオシ

    元パイロット、喜田又雄さんが当時着用されていた航空服、
    大分、佐伯の航空隊で終戦を迎えられ、その時待ち帰られた飛行服です。

  • 喜田さんの海軍時代の所持品の数々も展示されてます。

    喜田さんの海軍時代の所持品の数々も展示されてます。

  • 元川西航空機鶉野工場、中本さん所有の当時を偲ぶ品々です。

    元川西航空機鶉野工場、中本さん所有の当時を偲ぶ品々です。

  • 北条町の霜門さん宅に先代の頃から伝わる将棋台、裏側の士官専用とゆう毛筆の記がありました。この展示会を訪れ、わざわざお持ちくださったそうです。

    北条町の霜門さん宅に先代の頃から伝わる将棋台、裏側の士官専用とゆう毛筆の記がありました。この展示会を訪れ、わざわざお持ちくださったそうです。

  • 紫電改のコクピット前面ガラス、20mmのガラスが3層に合わされた防弾ガラスです。

    紫電改のコクピット前面ガラス、20mmのガラスが3層に合わされた防弾ガラスです。

  • 紫電改の実物車輪

    紫電改の実物車輪

  • 固定式20mm機関砲のレプリカ<br />紫電改に装着されていたタイプだそうです。

    固定式20mm機関砲のレプリカ
    紫電改に装着されていたタイプだそうです。

  • 20mmの機関砲弾はなかなかの迫力です。

    20mmの機関砲弾はなかなかの迫力です。

  • 今回、加西市の北条鉄道の終着、北条町駅前のアスティア加西で開催された「加西 鶉野飛行場展」、初日に行われた記念講演会「残された技術 飛行艇」並びにパネル展会場について以上に示してみました。<br />この「加西 鶉野飛行場展」では最終日にも記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」が開催されています。この模様については現在作成中で後日示公開いたします。<br /><br />今回の飛行場展では、たくさんの方々が協力し合って運営されていました。ひとりひとりの力を合わせ、このような大きな催しが完成する。とても素晴らしいことですね。<br />また、この会場を訪れられたたくさんの方々、当時を思い出し、自然と周囲の方々の間で会話が広がる、また、若い方々もこのような事実があったことを再認識するなど、世代世代で様々な捉え方ができたと思えます。<br />過去から学び、未来に繋げる。世代間での対話や地域の歴史について再確認する、そんな場として、このような催し、とても有効なことでますね。<br /><br /><br />

    今回、加西市の北条鉄道の終着、北条町駅前のアスティア加西で開催された「加西 鶉野飛行場展」、初日に行われた記念講演会「残された技術 飛行艇」並びにパネル展会場について以上に示してみました。
    この「加西 鶉野飛行場展」では最終日にも記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」が開催されています。この模様については現在作成中で後日示公開いたします。

    今回の飛行場展では、たくさんの方々が協力し合って運営されていました。ひとりひとりの力を合わせ、このような大きな催しが完成する。とても素晴らしいことですね。
    また、この会場を訪れられたたくさんの方々、当時を思い出し、自然と周囲の方々の間で会話が広がる、また、若い方々もこのような事実があったことを再認識するなど、世代世代で様々な捉え方ができたと思えます。
    過去から学び、未来に繋げる。世代間での対話や地域の歴史について再確認する、そんな場として、このような催し、とても有効なことでますね。


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