2014/06/17 - 2014/06/17
107位(同エリア265件中)
滝山氏照さん
甲州街道に並行して走る中央本線大月駅北側に聳える独立した岩山が標高634mの岩殿山、この岩山に築かれたのが岩殿城(いわどのじょう)で関東三名城(他は駿河久能山城・上野岩櫃城)の一つとして有名、甲斐国主武田氏24武将の一人小山田信茂(おやまだ・のぶしげ、1539~1582)の城と言われています。
地勢的には岩殿城南側には桂川が東西に流れ、東側には葛野川が南北に流れ文字通り天然の外堀の役割を呈しています。そして山頂に至る路は厳しい急勾配となっておりまるでスイッチバック式の路を延々と登るようで換言すれば侵入する人を容易に受け入れない天然要塞となっています。
城郭については山頂東端部の平地が主郭でその先には第一堀切と第二堀切が施され人を寄せ付けず、西方向には緩やかな平坦地に二郭、三郭が続き、更に倉屋敷、馬場、南烽火台、揚城戸という大手門、その近くには番所や物見台が置かれて難攻不落の城砦となっています。
そもそも小山田氏出自は桓武天皇を祖とする秩父平氏の流れを汲み平安時代後期に武蔵国町田辺りに所領を得た小山田有重(おやまだ・ありしげ、生没不詳)の六男行幸が都留郡の田原荘を知行し、甲斐国・郡内(甲斐東部)に定住してきたのは丁度源頼朝が鎌倉に幕府を打ち立てた頃とされ、以降歴代の小山田氏は「郡内の守護」として農業生産性の低い山間部の僻地を支配してゆきます。
戦国時代を迎えると郡内治世の小山田氏は接する甲斐国中(くになか・甲斐国中央部の甲府盆地)の武田氏、相模の小田原北条氏との激しい領土争いに余儀なくされ、これら近隣国の度重なる郡内侵入に対し人馬・兵糧に劣る小山田氏は山岳地の利を背景に撃退して領内を守ります。
打ち続く領土争いの中で熾烈さを極めたのは小山田越中守信有(おやまだ・えっちゅうのかみ・のぶあり、1488~1541)と剛腕を以て反対勢力を鎮圧し甲斐国をほぼ統一した武田信虎(たけだ・のぶとら、1494~1574)との十数年に亘る抗争です。
永正7年(1510)に形勢挽回できず小山田氏は武田氏と和議を結びその証として信虎は妹を信有に嫁がせ、信有を郡内の領主として遇し領域支配を認め穴山一族と同様に独立性の高い一門衆となりこれを機に小山田氏は武田氏と従属的同盟関係をしだいに深め、武田氏の信濃・上野への領土拡大に向けて転戦して戦功を挙げます。
このような武田氏との関係は越中守信有が死去し、嫡男出羽守信有(父子同名)が家督を引き継いでも変わらず、更に天文10年(1541)、武田晴信(後の信玄、たけだ・はるのぶ、1521~1573)が父の信虎を駿河に追放し実権を握った後も変わることなく続きます。
小山田氏の領国経営について言及すれば郡内は既述の通り生産性の低い僻地であったため米作中心に農業が振るわず、そのため度重なる出陣の際の戦費をはじめ築城や寺社統制など領民支配に関わる経費の捻出は長年に亘り極めて厳しいものがあったと推測されます。
ところで昔から富士山は女人禁制の神聖な霊山として全国の民百姓から熱烈な信仰の対象地であり、富士山登り口の中で富士や御室の浅間神社などの神域を有していた郡内の吉田口からの参拝の人気が高く毎年数千人からの参拝登山者が詣でていました。
これに着目した小山田氏は関所を設置して代官を配置し、自領を通過する富士山詣での登山者から役銭(通行税)の徴収してこれを莫大な戦費などに充てることで所領の経営を維持するとして武田信玄の信濃遠征を始めとする数々の戦いに参陣しては戦功を挙げています。
天文21年(1552)1月、出羽守信有は持病の労咳から激しい吐血があって苦しみながら34歳の若さで亡くなります。
出羽守信有死後家督は嫡男の弥三郎が継ぎ祖父や父と同様に信有と称し、弟の藤乙丸は直ちに元服して信茂と名乗り、父の遺言に従い病弱の長男が内政を担務、弟の信茂が軍事を担当し天文24年(1555)7月の2回目の川中島戦いに郡内の将兵を率いて初陣を飾ります。
永禄8年(1565)8月信茂の兄弥三郎が労咳により死去、家督を相続した信茂は祖父が新設し父や兄が継承・居住した谷村城を改めて本拠とし、甲州街道に沿った岩殿城を有事の際の詰城とします。
永禄12年(1569)の信玄が小田原北条攻略では前哨戦となる武蔵国滝山城を人馬も通らない小仏峠を下り八王子城主北条氏照を慌てさせた高尾・廿里(とどり)の戦いでは北条勢を敗走させその奮戦ぶりは信玄より目覚ましい戦いぶりとの高評を得ます。
かねてより武田信玄は信茂は生来より知勇に優れており戦略・戦術に長けていること評価高く、重要な問題については信茂は「弓矢の御談合七人衆」として他の有力武将と共に合議に参加するほどの信頼を得ます。
その信頼を得る中信玄に随陣、元亀3年(1572)の西上野遠征並びに同年12月三方ヶ原の戦い(静岡県浜松市)でも2万7千を以て徳川家康率いる1万1千の軍勢を破り家康を敗走させます。
翌元亀4年(1573)2月に野田城を落とした信玄はその後持病を悪化させ4月に軍を甲斐に戻す途中下伊那にて53年の生涯に幕を閉じます。
信玄の死去後は四男の勝頼(かつより、1546~1582)が陣代(じんだい)の立場ながらも事実上家督を継ぎ、信茂も新国主に仕え従来と変わらずその後の遠征に参加します。
天正3年(1575)5月の長篠の戦い(愛知県新城市)では織田・徳川連合軍約3万8千に対し武田勝頼は約1万5千を以て対抗、結果は信玄以来の老臣らがことごとく敗死する中、残された兵士が戦闘意識を失い軍事力を立て直すことができず甚大な被害を出し、勝頼は近習に付き添われ這う這うの体で甲府に辿り着きます。この合戦では信茂ら郡内の将兵は約3千人の動員に対し約千人を失うほどの大打撃を被ります。
長篠合戦で有力武将を失い弱体化した勝頼は以降の軍事力が低下、次第に境目に配置した城塞の後詰ができなくなり、天正9年(1581)の遠江国における武田の戦略基地である高天神城の支援ができず籠城の武田軍は徳川軍門に降ります。戦略上重要な高天神城の後詰を見送った事で武田勝頼の威信を大きく傷つけ次第に各地に配された城代武将や重臣の離反が始まります。
天正10年(1582)勝頼の妹婿にあたる木曽義昌(きそ・よしまさ、1540~1595)が新府城築城のため負担増への不満から離反、勝頼が討伐軍を派遣すると義昌の要請に応じて織田・徳川連合軍が武田領内に攻撃をかけ、木曽口から入った織田信忠軍は高遠から諏訪を経て築城したばかりの新府城に迫る勢いとなります。
新府城は大軍を迎え撃つには不十分と判断した勝頼は戦力を立て直すため真田昌幸が勧める岩櫃城(上野国吾妻)か小山田信茂の岩殿城に籠城するかを軍議を開き、信茂は岩殿城へ逃れるよう勧め勝頼は信茂の進言を受け入れ室である北条夫人(北条氏政妹)、嫡男信勝(のぶかつ、1567~1582)を含め近習と僅かな手兵を従い岩殿城に向かいます。
然しながら勝頼一行を出迎えるための準備として先行して自領に戻った信茂の迎えの姿もはなく、証人(人質)として武田側に置かれていた信茂の母親も姿を消しており、勝頼は土壇場で信茂に見捨てられた事を知ります。
信茂の裏切りにより逃亡先を失った勝頼一行はルートを変え天目山方向に転じますが既に大将織田信忠の先鋒武将滝川一益の追討軍は近くまで迫ってきており、「もはやここまで」と判断した勝頼は一族ともども自害、ここに源頼義の三男新羅三郎義光を祖とする武田氏は滅亡します。
他方勝頼の岩殿城入城を阻止した信茂は当然ながら勝頼の死亡を知る中で織田軍から甲府へ出頭せよとの通知を受け、一族・重臣を引き連れ信忠拝謁の為甲府善光寺に赴いた所拘束され、数日後信茂を始めとする一族重臣は斬殺されここに小山田氏は武田氏の後を追う形で滅亡します。
然しながら信茂の血筋を引いている人物が存在し江戸時代以降その血は脈々と引き継がれて行きます。
その人物は香具姫(かぐひめ)と言い信茂の孫娘で信茂の娘と教来石左近大夫(きょうらいし さこんたいふ・教来石氏は甲信国境を拠点とする武河衆の一員で信玄重臣の馬場晴信の実家にあたる))の間に生まれ信茂の養女となります。
香具姫は勝頼の娘や仁科盛信の娘と共に信玄四女の松姫(まつひめ・出家後は信松尼)に伴われ甲斐から武蔵国横山(現在の八王子市)に逃れ庵を造って隠棲します。
天正18年(1590)松姫は心源院で出家した後信松院(しんしょういん)に草庵を開き武蔵に逃れてきた武田氏遺臣を支える一方、同道した娘たちの身の振り方を考えていたようで香具姫は磐城平藩主内藤忠興(ないとう・ただおき、1592~1674)に嫁ぎます。
但し忠興には正室として家康重臣酒井家次の娘が嫁いでいましたが、嫉妬深い性格で忠興との関係がうまくゆかず離縁して香具姫を妻に迎えたと言われています。
香具姫は忠興との間に嫡男義概(よしむね)、義興(よしおき)そして政亮(まさすけ)を江戸屋敷で出産し信茂の血が連綿として流れる事になります。
香具姫は寛文13年(1673)8月に死去、戒名は「天光院殿照誉玄心月山大姉」で鎌倉の光明寺に葬られ、これが内藤家の一族が光明寺に葬られた最初であったと言われます。
2023年6月11日追記
現地に建てられた説明板には次のことが書かれています。
『 岩 殿 城
岩殿城は急峻にしてけわしい断崖をめぐらし、攻めにくく守りやすい戦国時代の難攻不落を誇る名城であった。
そのうえ南方の桂川下流には相模、武蔵。西方の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山なみを一望におさめ、狼煙台網の拠点として、近くの国々の情報を即座に収集できる重要な場所に築かれている。現在この城跡には一番高く展望のきくところに本丸、その下に二の丸、三の丸、さらに蔵屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚木戸などの建物跡のほか空堀、井水、帯郭、狼煙台、馬場跡がある。
また、断崖の下にある七社権現、新宮などの大洞窟が兵舎や出丸として用いられ、兜岩から椎子落しへのルートは落城の道とされている。
これら多数の遺構は戦国時代の状況を研究するうえで貴重なものである。』
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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岩殿山全景
高尾方面から来ると右手に迫る岩殿山はJR大月駅ホームからもしっかり捉えることができます。 -
大月散策マップ
JR大月駅前には散策マップが立っています。 -
JR大月駅舎
駅前広場にはタクシー乗り場及びバス停が見えます。尚当該駅舎の左側には富士急行(富士吉田方面)の切符売場と改札があります。 -
岩殿山全景
駅前広場からはむきだしの岩肌を有した岩殿山の雄姿が見えます。 -
岩殿山近景
JR中央本線踏切を渡り東京電力建物を右折、桂川と中央高速を渡る高月橋の目前には岩殿山の荒々しい岩肌が迫ってきます。(尚駐車場は高月橋を渡ってすぐ左側にあります) -
岩殿城跡入口
岩殿山に沿った国道139号を100mほど上がって行くと左側に入口らしきものが見えます。(横断する際は道路がカーブになっているので十分な注意が必要です) -
岩殿城跡入口
入口の左側には「岩殿城跡入口」、右側には「岩殿山丸山公園入口」とそれぞれ標柱が立ち、先はすぐ登り急峻な石段となっています。 -
登城途中風景
道幅約1mほどの歩道に対し、左右はいずれも急角度になっていて歩行に気は許せません。 -
冠木門
人為的に設置された門の傍らには城跡を説明する看板が立っています。 -
岩殿山説明板
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大月駅方面風景
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無縁石仏
登城道の側に無縁石仏が石塚の上に配されています。 -
JR大月駅
振り返って眼を下せばJR大月駅ホームがはっきりと見えます。ホームの左側建物が東京電力建物です。 -
登城石段
つづら折りの連続した石段(しかも歩幅が合わなく歩きにくい)では相当に体力を消耗します。 -
ふれあいの館
頂上との中間地に居館に模した「ふれあいの館」があります。入場は無料で2階は富士山を取り入れた写真が展示されています。ここで必要な資料を入手しました。 -
イチオシ
岩殿山頂上
ふれあいの館でしばらく休憩した後再び登城を続けます。今までにない急峻な登城なのでいささか気が重く感じます。 -
登城風景
通路の途中には大きな岩石が今にも落下しそうな状況です。 -
登城風景
体力回復のため数回にわたり休憩を取り、そのたびに眼下の風景を捉えます。 -
登城風景
何度も記載してますが、急角度のつづら折りの石段ではとても疲れます。 -
大岩盤
自然石がむき出しになって威圧感があります。 -
揚城戸跡
大きな自然石を利用した城門です。 -
揚城戸跡
城門を越えた先の状況はやや広めの道路となっています。 -
番所跡
揚城戸門を守備する兵士たちの詰所跡地があります。 -
番所跡物見台
番所跡に付随する物見台跡が見えます。 -
番所跡地
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物見台
右方向は物見台に、左方向は兵舎跡に分かれる道となります。 -
物見台
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石碑
南側物見台敷地に建つ乃木希典将軍の石碑があります。 -
展望
石碑のある場所から周辺を展望します。真下に流れる桂川を隔てて連山が見えます。 -
イチオシ
石碑
乃木希典将軍が岩殿山を登山した際の詩が石碑に刻まれています。 -
石碑周辺風景
石碑の東側には岩殿城跡と岩殿山周辺について説明板が掲げてあります。 -
岩殿城跡・説明板
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岩殿山・案内図
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兵舎跡
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あずま屋
兵舎跡から石碑・案内板設置場所に隣接するあずま屋を捉えます。 -
馬場跡
馬や兵士の訓練の場所で城郭の中で最も広い域です。 -
分岐点
右は円通寺跡方向、直進は烽火台・本丸方向に別れますが自分は烽火台・本丸方向を選びます。 -
倉屋敷跡
武器や弾薬、食糧・燃料のほか生活用品などの保管がなされていました。 -
本丸跡
本丸に当たる場所には「烽火台」の標柱が打ち込まれており、中央部はテレビアンテナ施設が建って城跡にはふさわしくない雰囲気です。 -
イチオシ
本丸跡説明
説明板によれば「三箇所にある物見台を総合した本陣で防衛や進攻の指令を発した」そうです。(説明板の他は城跡遺構は見当たりません) -
案内板
「岩殿円通寺跡」方向に向かいます。 -
イチオシ
本丸展望
周囲は樹木に覆われ展望は不自由で、ようやく僅かばかりの空間から桂川を写すことができました。 -
第一堀切
東側からの侵入を護るための防御となっています。 -
第一堀切左側風景
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第一堀切右側風景
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第二堀切
この堀切も更に進入を困難にしています。 -
下山道路合流
第二堀切を過ぎるとはっきりしない急角度の道なき道を下る羽目となり、道に迷ったのかと思いながら下り、とうとう円通寺跡に通じる道に合流?できることになります。 -
下山道路
細い小路のうえ右手方向は急斜面のため鉄パイプの手摺を兼ねた柵が設置されています。 -
下山途中の景色
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国道139号
岩殿山から下山して約40分ほどで国道にたどり着きました。案内板によれば左方向が猿橋駅、右方向が大月駅となっています。自分は大月駅をめざします。 -
岩殿山遠景
改めて岩殿山の様相を撮ります。今回は登城というより本来の登山に近い印象で、相当に体力消耗した感がありました。(急こう配の歩行に対応できる靴が必要と痛感しました)
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