2014/05/17 - 2014/05/19
727位(同エリア2115件中)
倫清堂さん
特に理由もなく海が見たくなり、和歌山県へ行くことにしました。
6月初めには大きな仕事が控えていることもあり、その準備のためにしばらく週末は予定が詰まっていましたが、日程のやり繰りをしてお休みを頂きました。
今回は、しばらく貯め続けた全日空のマイルを消費。
仙台空港から伊丹まで飛び、和歌山を目指します。
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食事から始まる旅というのは生理的欲求が全面に出ているようで、我ながら情けないものと思いながら、飛行機や交通機関の時間はこちらの都合で変えることも出来ないので、素直な気持ちで向かったのは京橋幸太郎という店。
ビルの地下にありますが暗い雰囲気ではなく、よく声をかけてくれるご主人やおかみさんの気遣いが温かく、生簀で飼われている魚介たちの様子を見ているのも楽しい、なごみの空間が形作られている店です。
ご主人が「想像を絶する鯖寿司」を勧めるので注文。
確かに美味しくはありますが、想像を絶するというのはどの部分なのか疑問。
備長炭麺を使った和歌山ラーメンの方が、麺の色が想像を絶して黒かったので面白く思いました。
富山で食べた「富山ブラック」の漆黒のスープに備長炭麺を入れたら、オールブラックラーメンが出来るだろうと考えたりしながら頂きました。
備長炭を開発・販売したのは備中屋長左衛門という紀州の商人で、和歌山には備長炭博物館なる施設もあるようです。京橋 幸太郎 グルメ・レストラン
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和歌山市内では、一度訪れたことのある紀州東照宮からもほど近い、玉津島神社を参拝することにしました。
玉津島は古代より風光明媚な土地として知られ、都の風流人によって多く歌に詠まれて来ました。
代表的なのは、『万葉集』巻六に収められた山部赤人の長歌と反歌でしょう。
神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸しし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首並に短歌
やすみしし わご大君の常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風ふけば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山
沖つ島荒磯の玉藻潮干満ち
い隠り行かば思ほえむかも
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ
葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る
また、『万葉集』の巻七に3首が採用されています。
玉津島見れども飽かずいかにして
包み持ち行かむ見ぬ人のため
玉津島よく見ていませあをによし
平城なる人の待ち問はばいかに
玉津島見てし善けくも吾は無し
都に行きて恋ひまく思へば玉津島神社 寺・神社・教会
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この地はただ美しいだけではなく、神がおられる神聖な場所とされて来ました。
玉津島神社の御創建については、社伝には「上つ世より」としか記録がなく、記録を残すという習性を日本人が身に付けるよりも遥か以前から、人々は神の住む地として信仰していたものと思われます。
神功皇后による三韓征伐の際には、玉津島神社の御祭神である稚日女尊の霊威によって勝利を収めたことから、後に御霊が合祀されることになります。
また、第19代允恭天皇の妃で和歌の名人でもあった衣通姫尊は、第58代光孝天皇の夢に現れて和歌の浦を歌に詠んだため、天皇は勅命によって衣通姫尊を合祀したのでした。 -
境内で目を引いたのは、天然記念物に指定される根上り松。
大正10年に和歌山市高松から移転されたもので、盆栽の根上りというのは珍しくありませんが、自然樹がそのような姿になるというのは何か特殊なエネルギーが働いているからなのでしょうか。 -
玉津島神社に隣接して鎮座するは鹽竈神社。
我が奥州一之宮と同じく、鹽槌翁尊をお祀りしています。
もともとは玉津島神社の祓所で、神輿渡御の際にはまずこの窟屋へ納められていたそうですが、大正6年に神社として独立させたようです。
鹽槌翁尊は全国13ヶ所に製塩の技を伝えたとされ、和歌山の鹽竈神社はその9番目の場所、奥州一之宮の鹽竈神社は最後の13番目の場所とされています。
現在は海の幸の神、子授けと安産の神として崇敬されています。鹽竃神社 寺・神社・教会
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イチオシ
玉津島神社の鳥居の前方に石段を見付けたため、登ってみることにしました。
それほど高い山ではなく、1分もしないうちに頂上にたどり着いてしまいましたが、周囲は高い建物が全くないため、和歌の浦を見渡せる絶好の場所でした。
手前に見える石の橋は不老橋と呼ばれるもので、紀州東照宮の御旅所移築の際に架けられたもので、完成は嘉永4年。
江戸時代のアーチ製石橋は九州以外には珍しいそうです。 -
紀伊半島の西側を白浜に向けて南下する途中に、歌舞伎の演目でも有名な道成寺があるので、寄ってみることにしました。
民間の有料駐車場に車を停め、門前町の参道を境内に向かって歩くと、通り沿いの土産屋からまんじゅうの試食をすすめる声がかかります。
土産やおやつは参拝を終えるまでお預けとし、仁王門の見える石段を登ることにします。
仁王門は元禄7年の再建で、左右に阿吽の仁王像が構えています。
道成寺の御本尊は千手観世音菩薩で、国宝に指定されています。
拝礼の作法は3拍手という変わった作法で、一・二・三・四のリズムのうち、一と二と四を打って三だけ休むタイミングで手を打つとのことです。道成寺本堂 寺・神社・教会
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道成寺は大宝元年、文武天皇の勅願によって建立された、紀州最古のお寺です。
はじめは法相宗でしたが、真言宗を経て江戸時代には天台宗となったとあり、宗派が変化した経緯を調べてみると面白いかも知れません。
これまで実際に歌舞伎を観たことは数える程しかないので、「京鹿子娘道成寺」と聞いても釣鐘が落ちて来る一場面しか連想することが出来ず、そのストーリーなどは全く知らないでいました。
釣鐘が落ちるシーンは歌舞伎の写真集で見たものですが、そのような演目があることを知ったのは横溝正史の推理小説を読んだのがきっかけだったような気がします。
今回の旅を決めて改めて、道成寺に伝わる「安珍と清姫」の伝説を知りたいと思いました。
白河出身の僧安珍は修行のために紀州熊野へ向かう途中、田辺で一夜の宿を借りるのですが、その家の娘清姫が安珍に惚れてしまい、ともに寝ることを強く迫るのでした。
参詣途中の安珍は不浄な行いは出来ないと拒否するのですが、清姫があまりに執拗に迫るため、熊野詣でを終えたら再び訪れることを約束し、安珍はその場を逃れて熊野へ向かったのでした。
しかし参拝を終えた安珍は、清姫に対して特別な感情を持っているわけでもないため、交わした約束など忘れたことにして故郷へ向かうのですが、約束を反古にされた清姫は愛情が何倍もの憎しみに変化し、ついに大蛇の姿になって安珍を追いかけるのでした。
追いかけられた安珍は道成寺の僧たちに助けを求め、大蛇となった清姫が諦めて去るまで釣鐘の中に身を隠すことにしますが、大蛇は釣鐘にぐるぐると巻きつき、炎を吐いて中に潜む安珍を焼き殺してしまったのでした。 -
一方的に好かれて、ついに殺されてしまうストーリーは、現代社会の病理の一つでもあるストーカー殺人に通じるものがありますが、その犯人の何割かが最後に自殺を選ぶのと同様に、清姫も道成寺の近くで自ら命を絶ちます。
その後の伝説は、転生したり成仏したりと仏教色の濃いものになります。
境内の縁起堂では、この説話を描いた「道成寺縁起」を用いた絵とき説法が行われており、そこには成仏した安珍と清姫の像も置かれていました。
また境内には、焼死した安珍が釣鐘とともに埋葬されたと伝えられる安珍塚があります。 -
石段を降りて参道を引き返しながら、どの店で土産を買おうかしばらく迷い、紙で模して作った釣鐘が吊るされている店を選びました。
名物「鐘饅頭」は店ごとに作られているので、味は千差万別だということです。 -
まだ明るいうちに白浜町のホテルに到着。
長距離移動に疲れたのでしばらく休み、空が暗くなりかけた頃に予め予約していた料亭に向かいました。
今回の旅を決めた際、和歌山でしか食べられない料理はないものか調べたところ、フグよりも美味いと言われるクエ料理について知りました。
そう何度も来ることが出来る場所でもないので、この機会を逃してはいけないと思い、財布には厳しいですがクエ料理を堪能することに決めたのでした。
クエを出す店はいろいろある中で選んだのは、ホテルの一部らしい九会亭という店。
やはりクエ鍋が食べたいと思ったのですが、初夏に鍋はどうかと思い電話で確認してみると、実はクエは産卵期前の今が脂がのって最も美味い季節なのだそうです。いけす円座 グルメ・レストラン
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店のパンフレットによると、クエは本州中部以南に生息するハタ科の魚で、大きいものは体長1メートル超、体重30〜50キロにもなるとのこと。
ここにも、フグより美味いと評判の幻の高級魚と書かれていますが、考えてみると自分はまだフグを食べたことがないので、比べようがありません。
ゼラチン質のアラをきれいに食べつくし、残った汁で雑炊にしてもらいました。
これにヒレ酒がよく似合うのです。
棄てる部位がないと言われるクエを存分に味わった夜でした。 -
翌日は昼過ぎまでアドベンチャーワールドで過ごし、一通り楽しんだ後で大阪へ戻ることにしました。
帰路の途中、闘鶏神社に参拝しました。
珍しい名前ですが御創祀は第19代允恭天皇の御代まで遡り、当時は田辺の宮と呼ばれていました。
平安時代末期に源氏と平氏のどちらにつくか思案した別当湛増が御神前で紅白二羽の鶏を闘わせて去就を決めた故事に基づき、いつの頃からか新熊野鶏闘鶏神社と称されるようになり、明治の神仏分離令によって闘鶏神社と改称されたのでした。
ちなみに鶏の勝負は、赤鶏が白鶏を見ても一番も闘わず逃げるだけという結果だったため、湛増は源氏の勢力に加わったのでした。闘鶏神社 寺・神社・教会
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湛増は21代目の熊野別当。
熊野別当とは聞きなれない役職ですが、神仏混交の祈りの場であった熊野三山を統轄する役割を負っていました。
代々世襲で続いた熊野別当は2つの系統に分かれ、承久の変をきっかけに両系統の対立は深まり、南北朝時代中葉にはその役職は消滅してしまいます。
強い権力を持つ家系は必ずと言ってよいほど2つの系統に分かれて対立しますが、南北朝に分かれた皇室は足利義満の働きかけによって再び一つになり、千家・北嶋に分かれた出雲国造家は、役割を分担するという契約を結んで現在まで並立して存続しているのに対し、熊野別当はその役職がなくなった挙句、一族は散り散りに分散してしまったのでした。
湛増が熊野別当に次ぐ権別当を務めていた時期、彼が属する田辺勢は平家の後ろ盾によって勢力を拡大していました。
これと対立する新宮勢は、新宮生まれで源頼朝公の叔父の行家などが暗躍して源氏再興のために動き出します。
この動きを察知した湛増は田辺勢を率いて新宮勢と戦うものの敗れ、後に頼朝公の挙兵を知って両勢力の融和に方針を転換。
いよいよ別当に就任した際、闘鶏を行って源氏への加勢で熊野三山をまとめ、自らも熊野水軍を率いて壇ノ浦に出陣し、源氏の勝利に貢献したのでした。
頼朝公の弟である義経に最後まで従った武蔵坊弁慶は、湛増の息子であると伝えられており、学問の世界では両者を結び付ける確たる証拠がないと否定的ですが、ここ田辺では湛増・弁慶父子を誇りとしています。 -
イチオシ
社殿は西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百万社の順に配列されていて、御創建の時と変わらぬ姿を継承しています。
熊野系の神社はこのように複数の社殿を直線上に並べて建てるのが特徴的で、闘鶏神社も例外ではありません。
拝殿だけはこれらの前に建てられていますが、おそらく後から加えられたものでしょう。
この6殿に15柱の神と八百万の神が奉祀されています。 -
本殿裏の小高い山は仮庵山。
龍神信仰の伝承や経塚もあり、古代の祭祀場であったと考えられるこの山は、明治時代に入って巨木の一本が枯れたと偽って切り倒されてしまいました。
そのことに猛烈に抗議したのが、植物や粘菌の研究で評価されていた南方熊楠でした。
彼は仮庵山を「クラガリ山」と呼び、「平地にはちょっと見られぬ密林なり」と評価して、その保存を呼びかけたのでした。
自然を破壊して今だけの繁栄を求めるという大多数の現在の政治家・役人の姿勢は、明治から少しも変っていないのだと嘆かわしく思います。
このことがご縁であったのかどうか、南方熊楠は闘鶏神社宮司の四女、松枝さんと明治39年に結婚したのでした。 -
その南方熊楠が眠るお墓は、闘鶏神社からもそう遠くない高山寺の敷地内にあります。
お寺の本堂は工事中で境内にお坊さんの姿は見えず、御由緒などが書かれた案内板も特に見当たらなかったため、インターネット上の簡単な情報でしか確認できませんが、この寺は南方家の菩提寺であったため、熊楠は生前によく訪れていたようです。
彼がよく隠花植物を採集した申神社が他へ合祀されることになったのが、彼の神社合祀反対運動のきっかけであったようです。
熊楠が述べた「申神社が全滅。樹木一本もなく、井戸濁り、飲むことならず」という言葉から、彼の落胆がどれほど深いものであったかが偲ばれます。高山寺(弘法さん) 寺・神社・教会
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墓所への案内はあちらこちらに立っていたので、迷わずに行くことができました。
全国からこうして手を合わせに来る人が、他にも多くいらっしゃるのでしょう。
お墓そのものはごく一般的なものでしたが、その横には立札が立てられており、
御製
雨にけぶる神島をみて紀の国の
生みし南方熊楠を思ふ
と書かれていました。
昭和37年、昭和天皇が行幸された際に詠まれた歌です。
植物の御研究に大変熱心であった昭和天皇のことですから、南方熊楠に対しては尊敬の念を抱かれていたことと思われます。
止まることを知らない乱開発に対し、何も苦言を仰せに出来ない天皇というお立場にあってただ一つ御自身の意思を表明する機会は、和歌を詠まれることだけです。 -
高山寺には、合気道の祖である植芝盛平のお墓もあります。
武道家というカテゴリーに収まり切れない、厳格な姿勢と共にユニークな思想を持った人物だったようです。 -
最終日は大阪府内を歩くことにしました。
これまでは月曜の夜に仕事があったため、遅くとも昼の飛行機に乗っていましたが、今は少し自由になったので最終便に乗れれば問題ありません。
長くなった滞在時間を有効に使おうと思うのですが、いざこうして時間を与えられると、なかなか計画が立てられません。
まずは五木寛之氏の『百寺巡礼』で紹介された大念佛寺を訪れようと思い、最寄りの関西本線平野駅へ向かいます。
お寺は駅から一本道ですが、駅備え付けの地図には歴史のありそうな神社が書かれていたので、距離的に遠いそちらを先に訪れることにしました。
駅から10分ほど歩いた所にある大鳥居をくぐると、参道の右側は公園になっていて、児童たちが元気に遊ぶ声が聞こえて来ます。
そこから更に進んだ所が、杭全神社の境内となっています。杭全神社(くまた神社) 寺・神社・教会
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杭全神社との表記を見ても読み方が分からず、実際に参拝して知ってからもしばらく覚えられませんでした。
杭全と書いて「くまた」と読みます。
杭(くい)の「く」と、全(まった)くの「また」で「くまた」
境内に入ってすぐ左手には樹齢1000年と言われる楠木。
大空に手を伸ばしているような姿には人格すら感じられ、樟社として祀られています。
合祀令が出された時には、このような御神木さえもが何本も伐られてしまったのでしょうか。 -
平野郷は中世には自治都市として栄え、周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぎました。
その濠の一部は現在も残されており、神社のすぐ脇に見ることが出来ます。 -
杭全神社の御創建は貞観4年。
征夷大将軍坂上田村麿の子の広野麿が杭全荘を荘園として賜り、ここに居を構え、更にその子の当道が氏神として素戔嗚尊を勧請して祇園社を創建しました。
平野の地名は広野が転訛したものと考えられています。
降って建久元年には、当時流行していた熊野信仰を採り入れ、熊野證誠権現を勧請。
更に元享元年、熊野三所権現を勧請し、後醍醐天皇から勅額を賜りました。
拝殿前の狛犬は、よく見るとその足にいくつもの紐が結わえられています。
狛犬の足に紐を結び願をかけて持ち帰り、家出をした人の靴に結んでおくと、その人は必ず帰る、と言い伝えられています。 -
杭全神社の特徴は、3度にわたって勧請された御霊を同じ社殿に祀るのではなく、それぞれ新たに建てた社殿にお祀りしたことです。
これも熊野流の神祀りの影響なのでしょうか。
拝殿裏手には中門が置かれており、それぞれに門が設けられて、奥にある3殿を参ここから参拝するようになっています。
また文化面でも特徴があり、現在まで連歌会が続いている数少ない神社の一つなのだそうです。 -
そして当初の目的地だった大念佛寺へと向かいました。
融通念佛宗という珍しい宗派の総本山で、開山は良忍上人。
比叡山での修行を終え、庶民の間に念仏を広めようとしていた良忍上人は、聖徳太子への信仰が厚く、四天王寺を参拝した際に聖徳太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願によって大治2年に建立しました。
御本尊は十一尊天得如来とのことです。大念佛寺 寺・神社・教会
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宝永3年に建立された山門には、後西天皇の皇女、宮徳厳尼の真筆で、「大源山」の山号が掲げられています。
山門を建立した第46世法主大通上人は、年齢や性別や身分をこえてお互いが一つの心でつながることで仏土国を築こうという理想から、この門を「融通無碍門」と命名しました。 -
良忍上人は尾張国知多郡の生まれで、父親は秦道武。
幼い頃から声の美しさが評判で、声明の名人だったようです。
大原に隠棲していた良忍上人のもとには、声明を習うために全国から僧たちが集まり、大原流とまで呼ばれるほどの流派が形成されたのでした。
琵琶法師が歌う平家琵琶も、大原流から生まれた音楽の一つです。
良忍上人について詳しく知りたかったのですが、販売されている資料の中には満足なものがなく、お寺の方も生まれた地方だけしか話してくれませんでした。
五木寛之氏のような高名な方ならともかく、趣味で歩いているだけの人間にはお寺としても時間を割くわけには行かないのでしょう。
より深いつながりを求めるには、相応の努力をして結果を出さなければならないということです。 -
電車を何本か乗り継ぎ、次に向かったのは片埜神社。
河内国には一之宮が、枚岡神社とここ片埜神社の2社あります。
とは云うものの片埜神社は正確は交野郡の一之宮であって、河内国一之宮はやはり枚岡神社1社のみと捉えるのが正しいようです。
神武天皇の御即位前にまで遡る歴史を持つ枚岡神社程ではないですが、片埜神社も式内社に列せられるほどの社格を持った由緒ある神社。
そういう訳で、最寄り駅の京阪本線牧野駅で電車を降り、情報収集がてら昼食をとって、いざ片埜神社へと向かいます。片埜神社 寺・神社・教会
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境内に隣接して牧野公園があり、ちょっと気になる案内表示を見かけたのですが、まずは神社に参拝。
御創建は第11代垂仁天皇の御代。
当麻蹴速との相撲に勝った野見宿禰が恩賞としてこの地域を賜り、出雲ゆかりの素戔嗚尊を奉祀して土師氏の鎮守としたのが始まりです。
野見宿禰は出雲国造と同じく天穂日命の子孫で、それまで天皇など身分の高い人が亡くなると必ず殉死者を奉っていたのを改めて、死者とともに埋葬する埴輪を発明した人物であったことから、土師職として仕えることになったのでした。
天徳4年には土師氏の末裔、菅原道真公を合祀しています。 -
本殿前、両側に置かれた2基の石灯籠は鎌倉時代の作。
表面には梵字が彫られており、神仏習合時代の神宮寺にあったものと考えられます。
境内には工事関係者の姿が多く、社殿も特に直している様子がないので不思議に思われましたが、境内の御神木を伐採するという告知が掲示されているのを見付けてがっかりしました。
2本の御神木に倒木の恐れがあり、仮に倒れると通行人や付近の建物に被害が出ることが考えられることから、やむを得ずの判断なのだそうです。
古いから、危険だから倒してしまおうというのは、もし対象が人であったら許されないことなのに、老木であれば許容されるのでしょうか。
自分がこの神社の氏子であれば徹底的に反対するところですが、部外者であっては手も出せず、せめて記憶にだけは残しておこうと決めたのでした。 -
先に気になった牧野公園の案内表示には、阿弖流為の文字が見えました。
阿弖流為は現在の岩手県における伝説的な人物で、なぜその名前をこのような場所で見かけるのか不思議に感じました。
まだ大和朝廷の支配下に置かれていなかった時代、東北は蝦夷という多少侮蔑的な名前で呼ばれていました。
おそらく蝦夷では、いくつもの部族がそれぞれ交流を持ちながら併存していたと思われますが、大和朝廷という強大な勢力が近畿から関東までを押えたことで、ついに蝦夷とぶつかり合うことになってしまいます。
朝廷は坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐に向かわせますが、彼を最も手こずらせた蝦夷の武人こそが阿弖流為だったのでした。
5万余に及ぶ朝廷軍に大勝したこともありましたが、延暦21年、ついに阿弖流為と副将の母礼は降伏します。
田村麿は朝廷に対して助命嘆願をするのですが、平安京の貴族たちはその願いを退け、阿弖流為と母礼は河内国で処刑されてしまいました。
阿弖流為に関する記録はほとんど残されていませんが、その数少ない記録から考証し、ここ牧野公園こそが阿弖流為と母礼の最期の地であると推定。
1250年の歳月を隔てた平成19年、慰霊と顕彰のために塚が築かれたのでした。
小さな花が置かれていたのが印象的でした。伝 阿弖流為 母禮之塚 名所・史跡
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空港に行くまでの時間を考えると、訪れることが出来る場所はあと一ヶ所が限度でしょう。
社殿の修理が完了した石清水八幡宮をもう一度参拝したいとも思ったのですが、万が一電車に乗り遅れてしまうと飛行機に乗れない恐れがあります。
せっかくなら周辺の摂社末社などもゆっくり巡りたいので、石清水八幡宮は諦め、京阪線で大阪市内に戻ることにしました。
新しく完成したあべのハルカスにもあまり興味はないし、どうしたものか電車に揺られながら考えた結果、大阪城の天守閣まで行ってみることに決めました。
前回訪れた時は谷町四丁目駅から歩きましたが、今回は大阪城公園駅を利用することにします。
大阪城ホールなど立派に整備された東側の遊歩道を歩き、青屋門から入ります。大阪城 名所・史跡
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極楽橋の正面には堂々とした天守閣が見えますが、道は一直線につながっているわけではなく、いくつもの石段を右に左に行かなければなりません。
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様々な人種の外国人観光客の姿が多く見られ、誰もが大阪城の姿に感銘を受けている様子です。
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イチオシ
青屋門から天守閣までの途中に、豊臣秀頼公自刃の地があるはずなのですが、注意深く歩いていたつもりでも見逃してしまったようです。
天守閣をぐるりと一回りしたのですが、それを示すものは何も見つかりません。
時間が過ぎてしまい、天守内の展示を見る時間がなくなってしまいました。
自刃の地だけは絶対に寄って帰りたいと思っていたので、最終手段。
案内所の職員の方に尋ねると、確かに今通って来た刻印石の広場にあるとのことでした。
やはり見逃したのかと引き返すことにしました。 -
しかし刻印広場でひとつひとつの石を調べても、どこにも自刃の地と書かれた石はありません。
観光地の案内所にはボランティアの人が詰めていることがほとんどで、不正確な情報によってかえって迷わされることはしばしばであり、だから自分にとって案内所での質問は最終手段なのです。
刻印広場から周りを眺め、かなり離れた所に祠らしきものを発見。
ようやく見つけたと思ってそこへ向かうと、淀君と殉死者の忠霊塔でした。 -
執念で周囲をうろつきながら探すと、刻印広場からかなり離れた奥まった場所に、ようやく一基の石碑を見付けました。
これこそが秀頼公と淀君の自刃の地を示す石碑です。
慶長20年、大阪夏の陣において秀頼公と母淀君は山里丸にあった櫓に潜みますが、幕府の軍勢が迫りもはやこれまでと覚悟を決め、自害して果てたのでした。
太閤によって築かれた大阪城は破壊され、幕府によって新たに築かれた大阪城には、譜代大名から選ばれる大阪城代が置かれることになりました。
現在、大阪城の敷地では、太閤が築いた当時の大阪城の姿を明らかにするため、発掘工事が行われています。
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