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川口氏は平安時代後期に武蔵国に発生した小規模武士集団いわゆる武蔵七党のうち西党庶流の一豪族です。<br /><br />西党は地域的には当時の武蔵国府(現在の東京都府中市)の西部地域で多摩川流域一帯に展開し、その中で川口氏の勢力範囲は北部の加住(かすみ)丘陵と南西部の川口丘陵にかかる丘陵地帯にあって中央部には多摩川支流である川口川が流れる地域を支配しています。<br /><br />川口氏は平安時代に西次郎宗貞の孫次郎大夫信久(のぶひさ)がこの地に居を構えて「川口」氏と名乗り、嫡流由木出身の二代貞季(さだすえ)の動きは定かではありませんが、三代景季(かげすえ)及び四代景綱(かげつな)については記録に現われ、嘉禎4年(1238)源氏三代滅亡後は摂関家より迎えた第4代将軍九条頼経(くじょう・よりつね、1218~1256)が上洛し御所参内に際し他の西党一族である立河氏及び小河氏と共に随兵する御家人として名を連ねています。<br /><br />頼朝没後外戚北条氏が執権職として次第に勢力を伸ばす中、北条氏と対峙する武蔵・相模の有力御家人たちは次第に紛争の中で淘汰され、他方川口氏は終始北条氏と同調、また南北朝時代に移っても北朝に属したため中央の争いに影響を受けることなく川口氏の発展が続きます。<br /><br />貞治6年(1367)川口氏が絶頂期の頃兵庫介幸季(ひょうごのすけ・ゆきすえ)が誕生、既述の通り中央の争いと無縁な状況が続き充実した本領支配を展開され地方豪族として発展を極め、その一例として1300年代から1400年代にかけて周辺には3~4の寺院が開山され、幸季が寄進した大般若経や薬師如来座像等が物語っています。<br /><br />室町時代では関東諸国を支配する鎌倉府が創設され、足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)が第2代公方として鎌倉に着任、やがて公方を補佐する管領職の上杉氏との争いが起き、関東一円の豪族にもその影響が波及し、これまで圏外であった川口氏も両陣営の争いに巻込まれます。(永享の乱)<br /><br />続く室町時代後期では管領職上杉氏の勢力が二分化し山内上杉氏と扇谷上杉氏との骨肉の争いに発展、10数年に亘り武蔵国を舞台にして双方が熾烈な戦いを繰り広げることになります。(長享の乱)<br /><br />川口氏の動向としては12代川口宗幸(かわぐち・むねゆき)は扇谷上杉氏に属し当主定正(さだまさ)の武将として一族を率いて転戦する中で明応3年(1494)多摩関戸における戦い、永生元年(1505)立河が原における戦いなどに参戦します。<br /><br />天文15年(1546)河越夜戦での勝利で武蔵国の覇権を決定付けた小田原北条氏はそれまでの勢力を保持してきた古河公方や両上杉氏を滅亡や衰退に追い込み、その結果主家を失った武蔵の武士団を臣下に組み込んで支配地を拡げてゆきます。<br /><br />例えば山内上杉氏を主家とする武蔵国守護代の大石氏については、河越の戦いで主家の白井城敗退を受けて、小田原北条氏より娘婿として三男氏照を迎え、武蔵国南部から相模国北部に至る自領を家臣と共にそっくり譲り自ら隠居を余儀なくされることになります。<br /><br />隣接の大石氏所領の変遷は上述の通りですから川口氏も例外ではなく、やがて小田原北条氏の支配を受けることになり川口郷を約500年以上支配してきた川口氏は幕を閉じます。<br /><br />尚、小田原北条氏の川口郷進出に際しては家臣としてこの地に留まる者もいれば安住の地を求めて移転するなどの動きとなり、宗幸の子13代信季(のぶすえ)は一族と共に伊豆に縁故を頼って移住しその後20数代続き現在に至っているそうです。<br />

武蔵八王子 地元篤志家によって蘇った武蔵七党西党庶流に属し鎌倉御家人の武将『川口氏居館』訪問

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2014/04/20 - 2014/04/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

川口氏は平安時代後期に武蔵国に発生した小規模武士集団いわゆる武蔵七党のうち西党庶流の一豪族です。

西党は地域的には当時の武蔵国府(現在の東京都府中市)の西部地域で多摩川流域一帯に展開し、その中で川口氏の勢力範囲は北部の加住(かすみ)丘陵と南西部の川口丘陵にかかる丘陵地帯にあって中央部には多摩川支流である川口川が流れる地域を支配しています。

川口氏は平安時代に西次郎宗貞の孫次郎大夫信久(のぶひさ)がこの地に居を構えて「川口」氏と名乗り、嫡流由木出身の二代貞季(さだすえ)の動きは定かではありませんが、三代景季(かげすえ)及び四代景綱(かげつな)については記録に現われ、嘉禎4年(1238)源氏三代滅亡後は摂関家より迎えた第4代将軍九条頼経(くじょう・よりつね、1218~1256)が上洛し御所参内に際し他の西党一族である立河氏及び小河氏と共に随兵する御家人として名を連ねています。

頼朝没後外戚北条氏が執権職として次第に勢力を伸ばす中、北条氏と対峙する武蔵・相模の有力御家人たちは次第に紛争の中で淘汰され、他方川口氏は終始北条氏と同調、また南北朝時代に移っても北朝に属したため中央の争いに影響を受けることなく川口氏の発展が続きます。

貞治6年(1367)川口氏が絶頂期の頃兵庫介幸季(ひょうごのすけ・ゆきすえ)が誕生、既述の通り中央の争いと無縁な状況が続き充実した本領支配を展開され地方豪族として発展を極め、その一例として1300年代から1400年代にかけて周辺には3~4の寺院が開山され、幸季が寄進した大般若経や薬師如来座像等が物語っています。

室町時代では関東諸国を支配する鎌倉府が創設され、足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)が第2代公方として鎌倉に着任、やがて公方を補佐する管領職の上杉氏との争いが起き、関東一円の豪族にもその影響が波及し、これまで圏外であった川口氏も両陣営の争いに巻込まれます。(永享の乱)

続く室町時代後期では管領職上杉氏の勢力が二分化し山内上杉氏と扇谷上杉氏との骨肉の争いに発展、10数年に亘り武蔵国を舞台にして双方が熾烈な戦いを繰り広げることになります。(長享の乱)

川口氏の動向としては12代川口宗幸(かわぐち・むねゆき)は扇谷上杉氏に属し当主定正(さだまさ)の武将として一族を率いて転戦する中で明応3年(1494)多摩関戸における戦い、永生元年(1505)立河が原における戦いなどに参戦します。

天文15年(1546)河越夜戦での勝利で武蔵国の覇権を決定付けた小田原北条氏はそれまでの勢力を保持してきた古河公方や両上杉氏を滅亡や衰退に追い込み、その結果主家を失った武蔵の武士団を臣下に組み込んで支配地を拡げてゆきます。

例えば山内上杉氏を主家とする武蔵国守護代の大石氏については、河越の戦いで主家の白井城敗退を受けて、小田原北条氏より娘婿として三男氏照を迎え、武蔵国南部から相模国北部に至る自領を家臣と共にそっくり譲り自ら隠居を余儀なくされることになります。

隣接の大石氏所領の変遷は上述の通りですから川口氏も例外ではなく、やがて小田原北条氏の支配を受けることになり川口郷を約500年以上支配してきた川口氏は幕を閉じます。

尚、小田原北条氏の川口郷進出に際しては家臣としてこの地に留まる者もいれば安住の地を求めて移転するなどの動きとなり、宗幸の子13代信季(のぶすえ)は一族と共に伊豆に縁故を頼って移住しその後20数代続き現在に至っているそうです。

旅行の満足度
4.5
交通手段
高速・路線バス 徒歩

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  • 川口氏石碑入口<br /><br />武蔵五日市に通じる秋川街道「川口小学校」にてバスを下車し、八王子方向に戻りますと「川口中学校入口」の標識が目印です。

    川口氏石碑入口

    武蔵五日市に通じる秋川街道「川口小学校」にてバスを下車し、八王子方向に戻りますと「川口中学校入口」の標識が目印です。

  • 川口氏居館跡入口石碑<br /><br />秋川街道に面した左側頭上にに石碑が見えます。どうやら館跡は道路から見て高台にあるようです。

    川口氏居館跡入口石碑

    秋川街道に面した左側頭上にに石碑が見えます。どうやら館跡は道路から見て高台にあるようです。

  • 川口氏居館跡路<br /><br />左手に石碑を見ながら居館跡をめざして登ります。<br /><br />

    川口氏居館跡路

    左手に石碑を見ながら居館跡をめざして登ります。

  • 「史蹟川口兵庫介館址入口」石碑

    「史蹟川口兵庫介館址入口」石碑

  • 川口氏旧館跡全景<br /><br />坂を登り切ると平坦な農耕地風景が待ち構えています。

    川口氏旧館跡全景

    坂を登り切ると平坦な農耕地風景が待ち構えています。

  • 「史蹟 川口兵庫介館趾」 石碑<br /><br />石碑と説明碑だけで遺跡は全くありません。

    「史蹟 川口兵庫介館趾」 石碑

    石碑と説明碑だけで遺跡は全くありません。

  • 「史蹟 川口兵庫介館趾」 石碑(近景)

    「史蹟 川口兵庫介館趾」 石碑(近景)

  • 「史蹟 川口兵庫介館趾 石碑」(近景)<br /><br />文化財保護審議会委員揮毫による旨紹介されています。

    「史蹟 川口兵庫介館趾 石碑」(近景)

    文化財保護審議会委員揮毫による旨紹介されています。

  • 史蹟 川口兵庫介館趾 石碑(近景)<br /><br />昭和56年3月建立した石碑です。川口地区社会教育推進協議会及び川口兵庫介館跡建碑委員会により建立されています。

    史蹟 川口兵庫介館趾 石碑(近景)

    昭和56年3月建立した石碑です。川口地区社会教育推進協議会及び川口兵庫介館跡建碑委員会により建立されています。

  • 川口氏由緒説明碑

    川口氏由緒説明碑

  • 川口氏由緒説明碑(近景)

    川口氏由緒説明碑(近景)

  • 川口氏館跡<br /><br />館跡地は調井台(ととのいだい)と呼ばれた小高い丘に所在しています。地元の研究者作製地図によりますと、秋川街道を北端にして東西2町36間(約283m)、南北3町(約327m)の敷地であったとの事です。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    川口氏館跡

    館跡地は調井台(ととのいだい)と呼ばれた小高い丘に所在しています。地元の研究者作製地図によりますと、秋川街道を北端にして東西2町36間(約283m)、南北3町(約327m)の敷地であったとの事です。





  • 川口氏館跡<br /><br />館跡の石碑がなければどこにでも見られる畑の風景です。

    川口氏館跡

    館跡の石碑がなければどこにでも見られる畑の風景です。

  • 川口氏館跡<br /><br />石碑の向かい側は休耕田のようですがこれが館跡の一部でありました。

    川口氏館跡

    石碑の向かい側は休耕田のようですがこれが館跡の一部でありました。

  • 川口氏旧館跡別館<br /><br />川口氏石碑が建立の側から路を隔てて館の別館かと思われる敷地があります。

    川口氏旧館跡別館

    川口氏石碑が建立の側から路を隔てて館の別館かと思われる敷地があります。

  • 川口氏旧館跡別館

    川口氏旧館跡別館

  • 川口氏旧館跡<br /><br />旧館を挟んでやや上り傾斜の小路が続いてその奥には民家が見えます。

    川口氏旧館跡

    旧館を挟んでやや上り傾斜の小路が続いてその奥には民家が見えます。

  • 川口氏旧館跡路<br /><br />石碑を右手に見て秋川街道に向けて捉えます。<br /><br />

    川口氏旧館跡路

    石碑を右手に見て秋川街道に向けて捉えます。

  • 川口氏旧館跡路<br /><br />左カーブの下りますが当時はこの路はあったのでしょうか。

    川口氏旧館跡路

    左カーブの下りますが当時はこの路はあったのでしょうか。

  • 川口氏旧館跡路

    川口氏旧館跡路

  • 秋川街道風景<br /><br />高台の途中から秋川街道を捉えます。写真では判りにくいですが秋川街道と並行して多摩川の支流の浅川に注ぐ川口川が街道の北側に流れています。

    秋川街道風景

    高台の途中から秋川街道を捉えます。写真では判りにくいですが秋川街道と並行して多摩川の支流の浅川に注ぐ川口川が街道の北側に流れています。

  • 川口氏旧館跡路<br /><br />秋川街道からは斜めに入る小路となっていますが当時の道幅がどうなっていたのかは想像するだけです。

    川口氏旧館跡路

    秋川街道からは斜めに入る小路となっていますが当時の道幅がどうなっていたのかは想像するだけです。

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