2013/05/10 - 2013/05/10
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frau.himmelさん
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ベルリン6日間滞在のうち、1日だけ別なホテルに宿泊しました。
本当は連続してあの居心地のいいアパートに滞在したかったけど、なぜだか最終日だけ空いていなかったのです。
あわててホテル予約サイトのブッキング・コムで探したけど、不思議なことにその日はあまり空きがなく、あっても非常に高い部屋ばかり。
なければ次のシュトラールズントに前倒しして行くしかないかなーと思ったけど、既に予約してあるシュトラールズントのホテルも、キャンセルして新たに取りなおすには不利な金額になっています。
藁をもつかむ思いでドイツ鉄道のホテル予約サイトで探してみたらとても安いホテルがあったのです。
一人部屋で1泊44ユーロ。
場所が凄い。ベルリンの壁の象徴ベルナウアー通り、マウアーパーク(壁公園)の近く、ガチガチの旧東ベルリン側ではないですか!
ところが気になるのはホテルの名前が「H4Youth am マウアーパーク」。
名前に「ユース」がついているって、もしかしてユースホステルかしら?
私のポリシーで、今までユースホステルには泊まったことがないのです。
どうしてこの齢で他の人と相部屋生活をしなければならないの?
シーツやタオルも持参だというし、若い人とのミーティング!?・・、いまさらネ・・
ってそんなイメージがありました。
旅って夢なのです。夢のためには少々お金がかかっても仕方がない、と思っています。
でも、背に腹は変えられない。
今回は、もしユースの典型的なものだったとしても、Y子さんと一緒だから何とかなるでしょう。
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西ベルリン地区シェーネベルクのアパートを引き払って、タクシーで東ベルリンのベルナウアー通りにやってきました。
タクシー代金は18ユーロ弱。
25年前までは、西側から東側にタクシーで乗りつけることなんてことは夢のまた夢だったのです。
概観は近代的な建物です。 -
この安さだもの、ユースホステルであっても仕方がない、と覚悟をしていたのですが、通された部屋は共同部屋どころかツインの部屋。
大きな窓から明るい光が差し込み、清潔なシングルベットが二つ。
それにテレビもデスクもついている機能的な部屋です。
この部屋を一人で使います。 -
また心配していた共同シャワーでもなく、清潔な洗面所がちゃんと部屋についています。
安いからでしょうか、確かに若い人が多かったのは感じましたが、だからといって、ミーティングなどなさそうだし・・(笑)。
何かとてもお得なホテルだったようですね。 -
それに何より驚いたのは、窓の外に広がる風景。
この地はまさかの東西ドイツ分断時代の境界線上だったのです。
窓の下は工事中ですが当時は緩衝地帯だったのでしょう。
手前左側が東ベルリン地区、道路の右側は西ベルリンです。
ここを境に肉親や友人が強制的に引き裂かれ、幾多の悲劇の舞台となりました。 -
25年前、この部屋の窓の下は当時こんな風景が広がっていたはずです。
この建物は境界線からちょっと外れていたため、難を免れましたが、東ベルリン政府は境界線上にあった西側に面する窓や入り口はすべてレンガやコンクリートで封鎖しました。
それでも上階の窓から飛び降りて逃亡する人がいたため、住民を強制的に立ち退かせ、建物を爆破してしまいました。
そして壁と壁との間に緩衝地帯を設け、有刺鉄線を張り巡らせたり獰猛な犬を放ったり、また銃を持った人民警察が厳重に見回っていたりしていました。
(写真・涙の宮殿の展示より) -
ホテルのキーもDDR。
Deutsche Demokratische Republik、ドイツ民主共和国。
東ドイツのこと。 -
荷物を部屋に入れて早速観光に出かけます。
ロビーの壁にかかっていた分断当時のこのホテルの写真。
Bernauer StrasseとSchwedler Strasse、の角。
東西ベルリン境界線の地図を見ましたら、ちょうどこのホテルの前から壁は直角に曲がっています。
危うく建物爆破の対象となるところでした。
そういう意味では歴史的に重要なホテルに宿泊したのですね。 -
部屋の窓から見えた場所。
右手はなにやら工事中。
緩衝地帯のところどころに当時の歴史的説明の案内板があり、観光客が見学していました。 -
建物の壁にはこんな写真パネルも。
突然、壁が出来て行き来できなくなった人々が中を覗き込んでいます。
向こう側には東ベルリンに取り残された家族や友人がいて、お互いに名前を呼び合っているようなそんな悲しい想像をしてしまいます。 -
さて、私たちは今回は目的があるので、ここでそんなに時間を取っていられません。
Wollen通りを更に深く旧東ベルリン側に潜入します。
ここはアルコナプラッツ、休日には蚤の市も開かれる広場です。 -
目的はここ、シオン教会。
東ドイツの劣悪な環境破壊や平和運動の面から、草の根運動を続けていた「環境図書館」。
彼らの活動拠点がこの教会の地下にありました。
シュタージに睨まれながらも、仲間が逮捕されても活動を絶やさなかった彼らの勇気は、ベルリンの壁崩壊の一翼を担いました。
前々から訪れたいと思っていたのに、なかなかそのチャンスがありませんでした。 -
開いている入り口を探してウロウロ・・。
ほーう、なかなか立派な教会ではありませんか。 -
奇妙な物体を見つけました。
一瞬消火栓か水道管かと思いました。
でもよく見るとなにやらデフォルメした像にも見えます。 -
足元には「FUR DIETRICH BONHOEFFER」と。
ディートリヒ・ボンヘッファー、あのボンヘッファ−?!
ベルリン国立図書館に彼の像を探しに行ったのに、見つけられなかったあのボンヘッファーなのです。
20世紀を代表するキリスト教神学者。
私にとってはヒトラーの暗殺計画(ワルキューレ)に加担してナチスに処刑されたボンヘッファーのほうが身近です。
こんなところで再会するなんて・・・。 -
横から写しました。
極端にデフォルメしてあるのに、私にはまるで処刑の前に両手を縛られ、首にはロープを掛けられ両膝をついて、痛々しいけれど毅然と前を見据えているボンヘッファーの姿が目に浮かびます。 -
壁にボンヘッファーの名前のプレートが。
彼は1932年ここで牧師として勤め、説教や堅信(?辞書丸写し)を施したそうです。 -
ここにもベルリン市内いたるところで見かけた「破壊された多様性2013」の広告塔が。
◆◆「破壊された多様性2013」
2013年は、ナチスが政権を握って80年、ユダヤ人迫害のきっかけとなった「水晶の夜」から75年目の節目の年であり、過去の警告をこめて関連ある人物の広告塔がベルリン中いたるところに展示してありました。 -
この教会のテーマ人物は「ボンヘッファー」です。
反ヒトラーグループ(黒いオーケストラ)に参加し、シュタウフェンベルク大佐らと計画したヒトラー暗殺計画は、1944年7月20日に実行されましたが、失敗に終わりました。
1945年4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で刑死しました。
ヒトラーが自殺した3週間前のことでした。 -
結局入口は開いていませんでした。
ここでも観光客が写真を撮っています。
目的はボンヘッファーか「環境図書館」か・・。 -
環境図書館に関する展示もありました。
東ベルリンのシオン教会を拠点に活動していた「環境図書館」。
東ドイツでは、生産性を上げるために安価で粗悪な原料が使用され、それがひどい大気汚染を引き起こしていました。
また工場設備からの有害物質の河川への垂れ流し、汚染廃棄物の処理問題など、環境問題は劣悪でした。
しかし経済成長に躍起になっていた東ドイツ政府にとっては、劣悪な環境問題は国家機密、タブーでした。 -
そんな中、ソ連のチェリノブイリに端を発する環境問題を告発する草の根運動が持ち上がりました。
言論の自由もなく、目障りな活動は秘密警察シュタージに捕まってしまう、
そんな時代、この活動を助けたのがシオン教会でした。
教会の地下で、簡単な印刷機で抗議のチラシを作り、情報を発信していました。
*上の写真が見にくいので昨年シュタージ博物館で撮った写真を使いました。 -
教会の横では幼い子供が無心に遊んでいます。
こんな可愛い子に環境汚染の被害者になって欲しくない。
Y子さんと私、期せずして同時にカメラを向けました。
お互いに日本にいる孫のことを思い出すわねーと言いながら。 -
シオン教会から程近いエーベルスヴァルダー駅のガード下。
ここまで来たらこれを食べないわけにはいかないでしょう。 -
カレーヴルストで有名な「コノプケ」。
ここでカリヴルストmitポンメス(フライドポテト付き)を注文して、お昼ご飯にしました。 -
さて、次にUバーンを乗り継いでやってきたところは「コッホシュトラーセ」。
-
ここにはチェックポイントチャーリーがあります。
チェックポイント・チャーリーは、外国人および外交官、西側連合国軍の関係者が徒歩または自動車で通行するための検問所。 -
ここは壁博物館。
入場料が高いのでまだ1度も入ったことはありません(笑)。 -
この場所はいつも多くの観光客で大賑わい。
立て札には英語、ロシア語、フランス語で
「あなたはアメリカ区域から出る」
と書いてあり、その下に小さな文字のドイツ語で同じことが書いてあります。 -
アメリカ兵士と一緒に記念撮影をしている人。
お金を払えば一緒に記念撮影することが出来ます。
私が横からカメラを構えたら、なぜだか3人とも私のカメラのほうを向いてくれました(笑)。
ごめんなさい。 -
-
ここにも「破壊された多様性2013」の広告塔が。
-
そんな中にあって、オノヨーコさんの写真が見えました。
ベルリンで国際人権賞「ライナー・ヒルデブラント・メダル」を故ジョン・レノン夫人で芸術家のオノ・ヨーコさんが受賞したそうです。
◆◆「ライナー・ヒルデブラント・メダル」
東西ドイツの分断の歴史を紹介する壁博物館を創設した同氏が創設した賞で、人権活動で国際的に優れた功績を残した人に贈られる。 -
オノヨーコさんの写真を撮っていたら、大きなゴミコンテナを運んできたこのおじさま、何を勘違いしたのか・・
-
これはゴミのエレベーター。
ボタンを押すとゴミ箱が下に下りる仕組みになっています。
その珍しい仕掛けを私たちが撮っている思ったらしく、ニコニコ笑って写真がよく撮れるように場所を空けてくれました。
とってもひょうきんなおじ様でした。 -
そのちょっと先では、なにやらお祭りのような雰囲気。
周りにはアイスクリームやソーセージの屋台もあり、あちらでは熱心に人々が展示物に見入っています。 -
「THE WALL:壁」。
ベルリンの壁がテーマのお祭り?
これは常設展なのか、たまたまこの時だけ開催していたのかわかりませんが、ドイツって凄い!
「負の遺産」のドイツ分断時代までお祭りにしてしまうなんて。 -
あそこには展示スペースもあります。
人々が扉の中に吸い込まれて行きます。 -
このベルリンの壁跡は記念写真用です。
壁の間に人が入って写真を撮っていました。
私たちも撮りました。 -
興味ある写真がいっぱい展示してあります。
まずここでは、どうしてベルリン封鎖にいたったかの写真。
第二次大戦で敗戦国になったドイツは、資本主義の米・英・仏、社会主義のソ連の4カ国に分断されました。
冷戦時代の幕開けともなったのです。
首都であったベルリン市も分割され、米・英・仏の資本主義が占有する西ベルリンは周囲を東ベルリンに囲まれた「島」になりました。 -
米・ソの対立が激化し、1948年6月24日、ソ連は西ベルリンへの陸路をすべて閉鎖して、生活物資などの供給網を断つ作戦にでました。
電力供給まで止められた西ベルリンでは、市民の生活は不安のどん底に陥れられました。
孤立した西ベルリン市民の命を救うため、西側諸国は面子をかけて、飛行機で生活物資や燃料などを大量輸送しました。
その結果、西側の物量作戦の前に屈したソ連は、1949年5月11日ベルリン封鎖を解きます。
そのあたりの旅行記は別記で紹介しています。よろしかったら。
http://4travel.jp/travelogue/10749149 -
1953年6月17日には、東ベルリンのスターリン大通りで労働条件の改善を求める労働者蜂起が起こりました。(6月17日事件)
社会主義国で初めての抗議運動でした。
それが瞬く間に東ドイツ中に波及し各地で抗議デモが起き、150万人とも言われる人々が参加しました。
暴動鎮圧のためにソ連軍の戦車が出動し、多くの犠牲者を出しました。
6月17日事件のことはここで紹介しています。
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10744497/ -
その後は東西ベルリン間は検問所でのチェックはあったものの、両ベルリンへの行き来は比較的自由で、東から西へ通勤している人も多かった。
しかしその自由さゆえ、東ドイツから西ベルリンを経由して貴重な労働力の大量流出が相次いだため、危機感を抱いたソ連と東ドイツ政府は1961年8月13日、西ベルリンの周囲を封鎖してしまいました。
周囲に壁を張りめぐらせたのです。 -
これで東ベルリンから西ベルリンへの人口流出は防げましたが、西ベルリンから東ベルリンへ、親戚や友人のところへ遊びに来るのは良かったようです。
それと、65歳以上になると自由に西ベルリンへ出国できました。
東ベルリンにとっては年金を払わなくなるから好都合だということでしょうか。
写真・フリードリヒシュトラーセで西ベルリンに戻る車を検問している東側警備兵。1961年8月15日 -
しかし、それでも西側へ脱出する手段は数多く残されていました。
チェックポイント・チャーリーはゲート1つで東西を隔てているだけで、車で突入しゲートを破壊して強行突破したり、車高の低いオープンカーでゲートの下をくぐり抜けたりする東ドイツ市民が現れました。
これに対し、ゲートの遮断棒を強化したり遮る位置を下げたりして対応しました。 -
1962年8月17日、そんな中、その事件は起きました。
ペーター・フェヒターという18歳の若者が西側に住んでいた姉妹のところに行きたいと、チェックポイント・チャーリー付近の壁をよじ登り逃亡を企てました。
しかし警備兵の銃弾を受け、有刺鉄線に絡まって動けなくなってしまいました。
助けを求めて叫ぶフェヒター。 -
この事態に気づいた群衆が東ベルリン側と西ベルリン側の両方から現場付近に集まってきたが、東ベルリン側から来た群衆は警備兵によって退去させられた。
西ベルリン側から集まった、チェックポイント・チャーリーで勤務していたアメリカ合衆国の兵士やジャーナリストを含む大勢の群衆は「何とかしてやれ!」と口々に叫んだが、何もできずにフェヒターが弱ってゆくのを見守るしかなかった。
フェヒターは約1時間後に出血多量で死亡した。
西ベルリン側でこの顛末を見ていた多くの群衆は、「人殺し!」と東ドイツの警備兵を罵った。
銃撃後1時間以上経ってから、東ドイツの警備兵はフェヒターの遺体を収容した。(wikiより参照)
写真は西ベルリン群集が東ドイツ警備兵に対して抗議をしているところ。 -
ベルリン危機、戦車の対峙。
1961年10月にはあわや米・ソの戦車が激突か!という事態に発展したのです。
4カ国の外交関係者はポツダム会議で、東西どちらにもパスポートチェックなしに往来できました。
ところが米国の外交官が東側の警察官にパスポートの提示を求められたことに激怒した米大統領特別顧問のクレイ陸軍大将が、西側の決意を示すために、何度か国境線を外交官の車両で近づいて、出方を窺った、と言うのが発端でした。
まるで尖閣諸島をウロチョロして日本側を挑発している中国のやり方のようです(笑)。 -
1963年6月27日
西側のケネディー大統領が西ベルリンを訪問してチェックポイントチャーリーを訪問したときの写真。
大統領はその後、西ベルリンの市庁舎であるシェーネベルク市庁舎のバルコニーで演説をしました。
「Ich bin ein Berliner:私もベルリン市民だ」。
これは140万人の西ベルリン市民から拍手喝采を浴びました。 -
それをソ連に対する挑発行為と捉えたフルシチョフは、2日後の6月28日、東ベルリンを訪れ、ケネディーの「東ドイツ版」をやりました。
東ベルリンの赤の市庁舎で演説をしましたが、東側メディアは50万人が集まったと伝えましたが、西側メディアの発表ではわずか数千人だったと伝えました。
この写真はフルシチョフの訪問の写真ではありません。
その時フルシチョフのオープンカーに同乗した東ドイツの書記長ウルター・ウルブレヒトです。 -
会場にはカラフルなベルリンの壁の展示も。
目を楽しませてくれます。 -
-
さて次へ移動しましょう。
途中で見つけたワーグナーの看板。
生誕200年のワーグナーはあちこちの都市で、記念コンサートが開かれています。
ベルリンは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 -
私たちが次に訪れたところは、フリードリヒシュトラーセ駅。
東西分断時代、この駅は列車で到着する人たちの国境検問所がありました。 -
駅の北側には最近リニューアルされた「涙の宮殿」があります。
「Alltag der deutschen Teilung Erfahrungen Grenz: 東西分断時代の日常、国境体験」と訳すのでしょうか。
西側の市民が東側の家族や親戚を訪ねることはできましたが、西ドイツに戻る際、この検問所の前で、涙・涙のお別れをしなければらなりませんでした。
そこでこの検問所は「涙の宮殿」と呼ばれるようになりました。 -
早速中に入ってみましょう。
最初に目に飛び込んできたのはこの棚。
ポツンと旅行かばんが2つ置かれただけのモニュメント。 -
壁には写真展示
黄金時代のフリードリヒシュトラーセ駅の様子。
たぶん1920年代でしょうか?
東西分断時代はここに国境検問所がありました。 -
大勢の観光客が興味深そうに見ていました。
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旅行かばんに分断時代の東ベルリンの市民生活が詰め込んでありました。
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それらは1個1個イヤホンで説明を聞くことが出来ます。
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さあ、いよいよお別れです。
西ドイツ市民が帰る際、この検問所の前で、涙ながらのお別れをしなければらなかった。
涙・涙のお別れをしている二人の女性。姉妹でしょうか、家族でしょうか。 -
『AUSREISE』:出国
西側の市民が東側の家族や親戚を訪ねたあと、西ドイツに帰るためにはここを通らなければなりません。
かつての検問所に関するいろんな書類などの展示されていました。 -
東ドイツ国旗
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検問所
ここで一人ひとり係官の前に立って、パスポートやビザのチェックを受けました。
あちことに隠しカメラも仕掛けてあったそうです。 -
東ドイツ(左)と西ドイツ(右)の国旗
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インターショップ。
西側の人間のみが利用できる免税店のようなもの?
外貨不足に悩んでいたDDRが外貨獲得のために講じた策。
ヤコブスのコーヒーやウンターベルクの蒸留酒、それにタバコなど私たちにも懐かしい品物が並んでいます。
これを東ベルリンの家族や親戚へのお土産にしたり、西ドイツにいる家族のお土産にしたりしました。 -
お土産をもらって喜んでいる西側国民(でしょうね?)
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国境駅はまたスパイやテロリスト、密売人たちの暗躍の場でもありました。
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当時のフリードリヒシュトラーセ駅の模型
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当時のフリードリヒシュトラーセ駅の見取り図。
写真が不鮮明で見難いかも知れませんが、西ドイツ国民が列車で駅について、出るまでの経路が点線で表示してあります。
複雑を極めていてまさに迷路。
構内では何度も尋問を受けて、やっと東側に入ることが出来たようです。
反対に東から西に出る場合はまた別な経路があり、あの狭い構内がこんなにも複雑な構造になっているのかと驚きます。
右隅の赤矢印で電車を降りて、駅構内をぐるぐる回って、真ん中下の出口までの経路が点線で示してあります。 -
東西分断時代の新聞記事。
中にはベルナウーア通りに面するビルから飛び降りて逃亡しようとした人のことや、家族が西と東で別々に暮らしている人の悲劇などがあります。 -
いよいよベルリンの壁が崩壊するときがやってきます。
1989年10月9日、ライプティヒの7万人のデモが、ベルリンの壁崩壊の前兆でした。
ライプティヒの無暴力デモがきっかけとなり、東ドイツ各地で大勢の市民が参加する抗議デモが起きました。 -
1989年11月9日、ベルリンの壁は思いもよらない形で崩れることになりました。
ついにベルリンの壁の崩壊、ブランデンブルク門に押しかける群集 -
1990年6月22日
国境検問所チェックポイント・チャリーで、関係各国が集まっての解散式(?)が執り行われた。 -
さようならDDR。
1990年1月23日、東ドイツのシンボルが取り外されようとしています。 -
DDR最後の記念式典
1989年10月7日、東ドイツ建国40周年記念式典が東ベルリンのの共和国宮殿で開催されました。
写真はカール・マルクスアレーで軍隊パレードが行われ、謁見しているホーネッカーや、ソ連のゴルバチョフ首相。
ゴルバチョフ首相は「世界は今変化しつつある」と演説しましたた。
壁崩壊はその2日後のことでした。 -
涙の宮殿は、フリードリヒシュトラーセ駅の北側、駅のすぐそばにあります。
入場は無料です。
ご興味がある方は是非いらっしてください。 -
Sバーンでハッケシャーマルクト駅に出て、まずは夕食を。
いつも賑わっていますね。 -
私はベルリナーヴァイセと、友人はトマトジュース
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分厚いシンケン(ハム)と小ぶりなジャガイモの煮物。
美味しかった。 -
友人はソーセージ。
ドイツではジャガイモが主食代わりですからパンはありません。 -
ここにも「破壊された多様性2013」の広告塔が。
みんな熱心にそれらを見ています。 -
特に人気があったのがアンネ・フランクの広告塔。
かってこの近くにユダヤ人街ゲットーがあったせいか、ここではユダヤ人のことが多いようです。 -
日本では最近、「アンネの日記」などアンネ関連の書籍が、心無い人物によって傷つけられたり破かれたりしましたが、本当に残念なことです。
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次に私たちが降り立ったところはノルトバーンホフ(北駅)。
東西分断時代には境界線上にあったため、列車は止まることなく通過したいわゆる「幽霊駅」でした。
壁の一部を利用して造られた駅の入口。 -
ベルリンの壁があったところには鉄棒のモニュメントが立ててあります。
その内側の緩衝地帯には記録のパネルが展示してあります。
私たちはそれにそってホテルに戻りました。 -
今日はことのほか、東西ドイツ分断時代の歴史にどっぷりと触れた1日でした。
そのまま部屋に戻る気がしなくて、ロビーでロートケープヒェン・ゼクト(赤ずきんちゃん発砲ワイン、東ドイツ製)を頂きながら、東ベルリンの最後の夜を過ごしました。
このホテルではロビーでwifiが使えました。
あすはいよいよ北ドイツに移動します。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- 迷子さん 2014/05/12 12:48:14
- 今年のドイツもいよいよっすね〜♪
- お忙しいところを、お邪魔しやす。
ああ、ベルリンのカレーそーぜーじ!
昼時に目にすると・・・懐かしさよりもお腹が鳴りますだ〜。
家で真似してソーセージにカレー粉振りかけても
こればっかりはドイツの街角で食うから美味いんだにゃ。
さて、ベルリンでの
嘆きの天使さんのお墓参りのお写真は?
時々、ネオナチの若者に荒らさせるとか・・・
どんな様子だったのかチョッピリ気になりますだ。
- frau.himmelさん からの返信 2014/05/13 22:00:37
- RE: 今年のドイツもいよいよっすね〜♪
- 迷子さん、こんばんはー。
出発を目前にして、連休あけから毎日出歩いています。
3週間以上も留守にするので迷惑を掛けないようにやるべきことはやって、また悪友連中が壮行会と称して飲み会を開いてくれますので(笑)、旅行の予定も滞り勝ちです。
今回もベルリンは予定に入れました。ホントに飽きないねー(笑)。
カレーヴルストもたぶん1回くらいは行くと思います。
> 家で真似してソーセージにカレー粉振りかけても
私も、ドイツのスーパーでカレーヴルストの素っていうのを買って試してみましたが、どうもちょっと違うのですね。
> こればっかりはドイツの街角で食うから美味いんだにゃ。
そうだそうだ!
> 嘆きの天使さんのお墓参りのお写真は?
昨年はリリーマルレーンのお墓に行かなかったのです。
時間がなくなってしまって。
今回はウィーンでハカマイラーしますよ。
もうどこに行くかわかってしまいましたね。
では、またどこぞで・・
himmel
-
- Bonheurさん 2014/03/29 10:45:44
- こんにちは
- ベルリンは奥深いですね。1週間くらいの滞在だと短すぎ、何度も行かないと、と思います。
「ユース」と名のついたホテル、当たりでしたね。清潔で窓も大きくて、眼下に広々と景色が見渡せて、いいですね。
"チェックポイントチャーリー"、記念写真を撮りたいと申し出た旅行者と兵士とのやり取りを、道路の端からぼーっと見ていたら、兵士に「シャッター押して!!」と頼まれ、2組の写真撮影をしました(笑)。撮影役のスタッフがいるわけではないのですね。
年末に行ったのですが、壁博物館もDDR博物館も、混雑して行列で中に入れませんでした。次回は緑のある季節に行きたいです。ドイツ語をまた少しずつやろうと思っています…
- frau.himmelさん からの返信 2014/03/30 10:30:03
- RE: こんにちは
- Bonheurさん いつもコメントありがとうございます。
> ベルリンは奥深いですね。1週間くらいの滞在だと短すぎ、何度も行かないと、と思います。
私もいつもそう思います。ベルリンってホントに奥が深いですね。
行く度に時間が足りず消化不良で、また来なければ・・って思います。
ベルナウアー通りのあのホテル、1泊だけでしたけど、なかなか良かったですよ。
今年も空室を探したのですが、残念ながら空いていませんでした。
チェックポイントチャーリーの兵士との記念写真、あれって撮影役はいないのでしたっけ?
じゃー、私のほうを向いてくれたってことは、私を撮影役と間違えたか・・(笑)。
> 年末に行ったのですが、壁博物館もDDR博物館も、混雑して行列で中に入れませんでした。
次回いらっしゃるときは、旅行記で紹介しているカリーヴルストの「コノプケ」、この近くにある昔のビール醸造所を改造したDDR博物館がいいらしいですよ。
名前は、Kulturbrauerei(文化醸造所)DDR日常生活博物館です。
入場は無料です。「涙の宮殿」と一緒にご覧になれば高い入場料を払わなくて(笑)有意義な時間が過ごせますよ。
himmel
-
- norisaさん 2014/03/28 15:52:03
- 昔の話ではないーーー!?
- frau.himmelさん
こんにちは。
ホテル、思いのほかお得でキレイで良かったですね。
これなら三ツ星くらいでは(笑)
それはともかく、ついしばらく前までベルリンの壁があったのですね。
殆ど死語のようなーー!
かなり東ドイツの方々も苦労され、亡くなったかたも多かったことも思い出しました。
今や冷戦終結!
と、思いきやクリミアで不気味なことになりました。
ロシアの横暴もありますがEUの策略もあったようですね。
くわばらくわばら!
norisa
- frau.himmelさん からの返信 2014/03/30 10:03:58
- 返信遅くなり・・・・あれー!?
- norisaさん おはようございます。
返信が遅くなってごめんなさい。
とっくに返信してたと思っていたのに、また消えちゃったー。
最後まで確認しなかったのがいけないのですね。
他のトラベラーさんにも同じ事をやっていました(汗。。)
さて、コメントいつもありがとうございます。
仰るとおり、ベルリンの壁崩壊ってそんなに昔のことではないのです。
まだ私の脳裏には、壁が崩壊して喜んだベルリン市民がブランデンブルク門の上に上っているシーンが目に浮かびます。
わずか四半世紀前まで、世界は2つに分裂して冷戦の真っ只中でしたね。
そしてまたヨーロッパ、ロシアあたりではきな臭いにおいが漂っています。
せっかく25年前にあんなに苦労してロシアから独立したウクライナだったのに、またロシアの支配下に・・。
歴史は繰り返すのでしょうか。
> ホテル、思いのほかお得でキレイで良かったですね。
ホント。なかなか良かったですよ。
歴史的にも申し分のない場所で、市電停留所のすぐ前だし、この5月の旅行でも使いたいと思い空室を探しましたが、ダメでした。
norisaさんのオーストラリア旅行記、続編楽しみにしています。
himmel
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