2014/03/16 - 2014/03/16
130位(同エリア356件中)
滝山氏照さん
今治城の築城者は関ヶ原の戦いで東軍として活躍、戦功をあげた築城の名人藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)です。
高虎は近江国藤堂村出身で当初は浅井長政に属し、その後豊臣秀吉の実弟羽柴秀長に仕えますが秀吉死後は徳川家康に接近、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは家康方として参戦、功により伊予半国20万3千石を拝領します。
その年末に今治に入封、それまでの旧支配者拠点は唐子山の山城でしたが高虎は瀬戸内海という交通の要地を強く意識して慶長7年(1602)に当地に新たに築城を始めます。そして建造物を含め完成したのは慶長13年頃と推測されます。
同年高虎は伊賀一国と伊勢8郡に転封、養子高吉(たかよし、1579~1670)の今治城代を経て寛永12年(1635)、伊勢長島より松平定房(まつだいら・さだふさ、1604~1676)が3万石を以て入封、以降明治維新を迎えるまで10代に亘り統治が続きます。
2022年11月13日追記
現地で入手パンフレットには下記のように今治城の歴史が記されています。
『 今治城(いまばりじょう)の歴史
今治城の地は瀬戸内海に面し、「吹揚の浜」と呼ばれた砂丘地帯でした。
築城の名主として名高い藤堂高虎は関ヶ原の戦功で伊(愛媛県)半国20万石を領し、慶長7年(1602)にこの地に築城を開始しました。約6年の歳月をかけて慶長13年頃に完成したと考えられています。
高虎はその直後、伊勢・伊賀(三重県)に移り、今治城には養子の高吉が在城します。寛永12年(1635)には伊予松山(まつやま)城主松平(本姓は久松定行の弟定房が3万石で今治城主となり、明治維新まで続きました。
明治時代になって城の建物は全て解体されましたが、城の中心部の石垣と内堀がほぼ完全に残っており、昭和28年(1953)に愛媛感史跡に指定されました。現在では天守をはじめとする櫓・城門などの再建が進み、雄大な城郭の姿を見せています。』
尚 当日の行動は下記の通りです。
当日の日程
JR松山駅ー(各停電車)→JR今治駅ー(徒歩20分)→今治城跡
ー(徒歩)→JR今治駅ー(各停電車)→JR松山ー(各停ディーゼ
ル)→JR大洲駅 大洲市内泊
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
「二葉」店舗外観
今治駅にて遅い朝食をとった店舗の入口があります。 -
今治駅舎食堂「二葉」の鯛めし
今回初日として18切符を使用、10:32松山駅発に乗車11:36今治駅着、駅舎の弁当売場奥にある「二葉」で遅めの朝食をとります。日替定食を頼むと出されたご飯は鯛めしでした。 -
今治駅
高架式のホームを有する立派な駅舎で、観光案内所も一隅に設置され今治城へのアクセスを尋ねると女性から市街地図にて教示していただきました。 -
今治市街地図
駅前の市街地図で今治港(=瀬戸内海)と今治城とが近接しているのがわかります。 -
今治城・天守と櫓
約20分ほど今治港方向を歩きますと水堀に囲まれた今治城が視野に入ります。入城時に手にしたパンフレットを見ると大手門と反対側の「山里櫓」から入ったようです。写真左が山里櫓、右が天守です。 -
今治城・櫓
角度を変えて見ると手前は山里櫓、奥の櫓は武具櫓のようです。 -
今治城・水堀
山里櫓に向けて渡ります。文字通り海城で城郭に繋がる路はまるで橋を渡るような印象があります。実は江戸時代の絵図では堀は三重となっており、本丸・藩主館の二の丸を囲む内堀、重臣居住の三の丸を囲む中堀、さらに侍屋敷を囲む外堀があったそうです。 -
今治城・水堀
更に山里櫓に繋がる橋を進みます。 -
山里櫓
手前の橋を進むと山里門が控えその向こうには山里櫓が堂々と聳えているようです。 -
山里門と山里櫓
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今治城跡石柱
山里門を過ぎると「今治城跡」石柱が待ち構えています。 -
山里櫓
野面積みの石垣に山里櫓が聳えています。 -
天守と石垣
山里櫓の石垣に沿って進むと正面に天守が接近して捉える事ができます。 -
天守・山里石垣
山里櫓と天守の石垣はいずれも素朴な野面積みとなっています。 -
山里櫓登城
石段を登り山里櫓に向かいます。 -
山里櫓門
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今治城跡石碑
大手門に移動して鉄御門(くろがねごもん)に向かう橋の脇には「今治城跡」と彫った石碑が構えています。 -
イチオシ
鉄御門(くろがねごもん)橋
鉄御門に向かう長い橋を渡ります。この日は左駐車場に団体観光客が来ています。 -
鉄御門橋右側
内堀は幅約55mもある広大な水堀となっています。 -
鉄御門橋右側
北隅水路で舟入(城内に造られた船着場)に繋がって海水が流入する仕組みとなっています。 -
鉄御門橋左側
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鉄御門右側
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鉄御門橋
正面の石垣中央部には大型石が組み込まれています。 -
算木(さんぎ)積み
石垣の出角部分は石の長辺を石垣の角の両面に交互に出す算木積みとなっています。 -
鉄御門石垣
虎口の石垣中央には大型石が組み込まれ、侵入する外敵に脅威・威嚇を与えるかのようです。 -
鉄御門石垣
接近して組み込まれた大型石を見ますと改めて感心します。 -
イチオシ
鉄御門
三の丸に通じる大手虎口として櫓門と柱には鉄板を張り付けた鉄御門は強力な防御を意識した高虎の斬新な考えが具現化しています。 -
鉄御門
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東西多聞櫓・武具櫓
鉄御門入口からは石垣の上に配置された西多聞櫓(正面)及び東多聞櫓(西多聞櫓に続く右側)、東西多聞櫓の向こうには武具櫓の屋根が見えます。 -
三の丸跡鉄御門遺構礎石説明板
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天守
西多聞櫓から二の丸跡を経て天守が現われます。 -
天守と藤堂高虎像
精魂込めて造った今治城を背景に馬上姿の高虎銅像が堂々とたたずみます。 -
藤堂高虎銅像
天下の築城家藤堂高虎の像が二の丸跡広場に配置されています。 -
イチオシ
藤堂高虎銅像
慶長7年(1602)、瀬戸内海に面した地に築城を始め慶長13年に完成させます。外交面でも重要な役割を果たし、家康から相談を預かるほどの信頼を得ます。 -
藤堂高虎碑文
銅像の裏面に高虎が紹介されています。 -
御金櫓(おかねやぐら)
二の丸跡の東隅に立つ二重櫓が見えます。 -
天守外観
入口の大樹に遮られ全景が確認できませんが5層6階の模擬天守となっており、内部は今治城や今治藩に関する資料等が陳列・展示されています。
(内部撮影は不許可でした) -
今治城正門
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イチオシ
天守全景
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今治城沿革
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今治城天守説明
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今治城の特徴説明
説明主旨は次の通りです。
(1)瀬戸内海の制海権確保の為海に面した地に新たに築城した。
(2)軟弱な地盤に高い石垣構築のため不利を承知で幅広い犬走りを設けた。
(3)堀は海と繋がっており海の干満により堀の水位も変わります。 -
天守からの展望
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今治藩推移
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天守からの展望
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天守からの展望
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唐子山及び志島ヶ原説明
旧支配者が拠点とした山城跡の説明があります。 -
今治城航空写真
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天守からの展望
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天守からの展望
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吹揚神社(ふきあげじんじゃ)
本丸跡地に天守と並列して神社が配置されていました。説明板では今治市内に鎮座していた神々を祀る四社を廃藩の際城内に合祀社殿を造ったとのことです。 -
吹揚神社説明
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吹揚神社風景
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吹揚神社風景
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吹揚神社風景
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吹揚神社由緒
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拝殿
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吹揚神社風景
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吹揚神社風景
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今治城天守
奥に鎮座している神社狛犬と城郭との組み合わせは違和感があります。 -
吹揚神社風景
今治城正門からの姿は神社の一部です。 -
鉄御門
帰路は鉄御門を出ます。 -
大手道橋
左右の内堀を従えて橋を渡るのは極めていい気分です。 -
今治城と内堀
武具櫓・東西多聞櫓を中心に今治城全体を一望します。 -
今治城と内堀
内堀は北隅水路で舟入(城内に設けられた港)と繋がっています。 -
今治港
今治城から離れるとすぐ港が迫っています。城が海に接していることがよく理解できます。
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