2014/03/09 - 2014/03/09
390位(同エリア1622件中)
滝山氏照さん
東京メトロ丸ノ内線後楽園駅より徒歩約10分、無量山・伝通院・寿教寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ、東京都文京区小石川)は徳川家康生母である於大の方(おだいのかた、1528~1602)の菩提寺です。
於大の方は西三河から知多半島にかけて支配していた刈屋城主水野忠政(みずの・ただまさ、1493~1543)の娘として生まれ、政略的な思惑から天文10年(1541)に岡崎城主である松平広忠(まつだいら・ひろただ、1526~1549)に14歳で嫁ぎます。
翌年於大の方に男子が誕生、これが竹千代で、後の徳川家康です。
ところが天文12年(1543)於大の方の父忠政死去により、家督を継いだ兄信元(のぶもと、生誕不詳~1576)は政治的思惑から織田方に属することになり、今川氏の保護を受けていた広忠は天文13年(1545)に於大の方を離縁、刈屋に送り返します。
離縁された於大の方は兄の意向に従い阿久比(あぐい)城主である久松俊勝(ひさまつ・としかつ、1526~1587)と再婚し三男四女をもうけます。
一方広忠は天文18年(1549)家臣岩松八弥の刃を受けあっけなくこの世を去ります(病死説もあり)。伝え聞いた於大は残された家康に対し織田・今川方の人質となってからもいつも家康を案じ、玄応尼となった母於富の方を通じて衣服を始め身の回り品等を贈って音信を絶やすことはありませんでした。
やがて家康は今川義元が桶狭間での討死を機に岡崎城に戻り、三河東部の領国を安定させ、やがて織田信長と同盟を組むことで勢力を拡大、この時俊勝及び於大の3人の息子康元(やすもと、1552~1603)、康俊(やすとし、1552~1586)そして定勝(さだかつ、1580~1624)に松平姓を与え家臣とし併せて於大を母として迎えます。
天正15年(1587)夫の久松俊勝死去の後落飾し「傳通院」と号した於大は関ヶ原の戦いで勝利した翌々年の慶長7年(1602)2月、上方の社寺参詣のため上洛します。
入京した於大は内大臣である徳川家康の生母として京都の高台院(おねね)を訪問、更に宮中を参内し勤めを果たします。
然しながら8月になると於大は急に体調を崩し病に罹り、同月28日に伏見城内で家康が看取る中で75歳の人生を終えます。
2022年10月26日追記
当該寺院のホームページでは詳細に亘り下記の通り記述されています。
『 伝通院開基 於大の方
於大の方は享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、当時では武士の権力の取り引きとして通常に行われていた攻略結婚により、岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年男子を出産しました。これが竹千代、後の徳川家康となる。
しかし、父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元が織田方に付いたので、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すこととなった。
その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁したが、於大は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられている。
家康も生母の至情を忘れることなく、天下統一の後には、再婚しているにも拘わらず、実家の者として於大を迎え入れ、久松家を親戚として尊重した。
夫の久松俊勝逝去の後は髪をおろし「伝通院」と号した。家康の天下統一を見て、慶長7年(1602)8月29日、家康の滞在する伏見城にて逝去。
於大の出生地愛知県知多郡東浦町では、「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。』
『 沿革
*当山は、応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
それから200年後の慶長7年(1602)8月29日、徳川家康の生母於大の方75才。伏見城で逝去。その法名を「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼』と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから、「伝通院」と呼ばれるようになりました。正保4年(1647)には、家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り諸堂伽藍を整えて参りました。
*教学教化では、慶長18年(1613)増上寺の学問僧300人を伝通院に移して、関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席とし年を重ねるにつれ、学寮に籍をおくもの千人をくだらないという状況でした。
*明治以降は困難な時代にもかかわらず」、明治24年(1891)芝三緑山より浄土宗学本校(現大正大学の前身)無量山へ移転、更には伝通院境内に淑徳女学校を設立、又、昭和4年伝通会館が設立され、仏教の街頭進出の拠点として檀信徒のみならず、地元住民参加の新しい布教伝道方式による仏教活動を行い、教学の振興と共に社会事業も精進いたして参ります。
しかし、このような寺歴の中にも、享保6年(1721)、同10年(1725)、明治41年(1908)と三度の大火にあい、その再建もむなしく、第二次世界大戦では建造物すべて廃じんと帰しましたが、戦後多くの障とくの中で昭和24年本堂を再建(七十三世大河内隆弘上人)、続いて昭和63年には新世紀に対応できる宗教活動を目指して新本堂を建立、平成9年、織月会館を建立、平成11年には観音堂(休憩所)を建立(七十五世吉川哲雄上人)し、現在に至っています。』
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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伝通院・山門
当山門は東京大空襲により焼失、その後67年ぶりに再建されて平成24年(1212)2月に落慶法要が催されます。 -
伝通院・寺標
「無量山傳通院寿経寺」と刻された石柱が建立されています。於大の方の法明「伝通院殿」に因んで院号を伝通院となります。 -
伝通院・山門(近景)
当然ながら葵紋が並んでいます。(少々誇張している印象があります) -
伝通院・参道
山門の中から参道を眺めます。 -
伝通院・仏足石
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伝通院・物故指聖供養塔・指塚
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伝通院・法蔵地像尊三尊
中央に法蔵地藏尊、右に観世音菩薩そして左に勢至菩薩がそれぞれあります。 -
伝通院・本堂
応永22年(1415)浄土宗第七祖了誉の開山で当時は小石川極樂水の小さな草庵であったそうです。慶長7年(1602)家康の生母於大の方が亡くなり当寺を菩提寺と定めます。
その後徳川家の庇護により大伽藍が整備され、関東十八壇林の一つとして学僧の修業勉学の場でもありました。 -
伝通院・鐘楼堂
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伝通院・寺額
山号である「無量山」の扁額が見られます。 -
伝通院・本堂内部
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伝通院・境内
本堂から山門を捉えます。 -
伝通院墓所・説明板
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伝通院・墓地参拝図
案内図には「於大の方」の他に「千姫」、将軍家光室孝子、将軍家光二男亀松、将軍家康側室於奈津、清河八郎などの歴史上の人物の他、詩人作家の佐藤春夫、作家柴田錬三郎などの著名人の墓が掲載されています。 -
イチオシ
伝通院・於大の方墓
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イチオシ
伝通院・於大の方墓(近景)
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伝通院・於大の方墓
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伝通院・於大の方説明板
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イチオシ
伝通院・千姫(1597~1666)墓
二代将軍秀忠の娘で慶長8年(1603)、7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂夏の陣落城後本多忠刻(ほんだ・だたとき、1596~1626)と再婚しますが夫忠刻の病死により落飾し天樹院と号します。 -
伝通院・千姫墓廟
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イチオシ
伝通院・千姫墓廟(近景)
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伝通院・千姫説明板
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伝通院・将軍家光正室孝子(1602~1674)墓
前関白鷹司信房の娘で三代将軍家光の正室として、寛永2年(1625)家光と結婚するもが公家出身で武家の生活になじめないまま73歳で没します。 -
伝通院・孝子説明
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伝通院・徳川家墓廟
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伝通院・徳川家墓廟
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伝通院・浪士隊 清河八郎(1830~1863)墓
庄内藩出身で幕府政事総裁の決裁を得て浪士組を結成し京都へ出発、京都にて本来の目的、将軍警護ではなく尊王攘夷であると主張します。
攘夷に反対する近藤・土方らと袂を分かった清河に対し、浪士組の動きに不安を抱いた幕府は清河ら浪士組を呼び戻します。
京都での清河のふるまいは幕府と対立しており、江戸に戻った清河は幕府の脅威となり文久3年(1863)4月に幕府の刺客により討たれます。 -
伝通院・清河八郎石柱
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伝通院・清河八郎説明板
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伝通院・佐藤春夫墓
大正・昭和の詩人・小説家です。 -
伝通院・佐藤春夫説明板
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山門傍らの石柱・説明
伝通院山門傍らには石柱・説明板が立っています。右端の石柱は伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に立っていたとのことです。 -
浪士隊結成の処静院(しょじょういん)跡説明
文久3年(1863)幕末の治安維持を目的とした組織として浪士隊結成式が処静院で開催、清河八郎、山岡鉄舟の他後に新選組の幹部となった近藤勇、土方歳三、沖田総司も参加していました。 -
幕末の傑僧琳瑞上人説明
幕末時、処静院住職である琳瑞(りんずい)上人は清河八郎らの考えに共感して彼らを支援、浪士隊結成の会場として処静院を提供しますが、後に佐幕派浪士と見られる武士に暗殺されます。
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