2015/12/02 - 2015/12/03
213位(同エリア356件中)
ひま人さん
100名城巡りをしている。四国の100名城は9城ですが、その内6城はすでに登城済で、残り3城を今回訪ねました。
これで四国の100名城は制覇しました。
山陽新幹線岡山経由で、予讃線特急「しおかぜ」に乗車今治駅途中下車、いざ今治城へ、模擬天守がそびえていました。
今治駅へ戻り、再び「しおかぜ」に乗車、松山駅で途中下車。市内路面電車に乗車、道後公園駅降車、その前が湯築城跡です。城の遺構があまりない城跡でした。松山駅まで戻り近くのホテルに一泊しました。
2日目、再び松山駅から特急「宇和海」で伊予大洲駅下車。交通の不便な所でタクシーにて大洲城へ、大洲城の天守は純木造建築で、しかも再建の際は出来るだけ地元の木材を利用したそうです。
表紙写真は今治城天守閣(鉄筋コンクリート造)です。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JR特急 私鉄 徒歩
PR
-
藤堂高虎公像。今治城は、江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎が築いた全国的にもまれな海岸平城です。
-
今治城天守閣。関ケ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。
慶長7年(1602年)に築城を始め、建造物も含めて完成したのは同13年頃と推測されています。海水をが引かれた広大な堀や、城内の港として国内最大級の舟入を備えた日本屈指の海城でした。寛永12年(1635年)より松平(久光)氏の居城となりました。
明治維新後に建造物のほとんどが取り壊され、内堀と石垣を残すのみとなりました。昭和55年(1980年)以降、天守をはじめとする櫓、門などの再建が進み、雄大な城郭の姿を見せています。 -
鉄御門(くろがねごもん)・武具櫓。
-
山里櫓。
-
御金櫓(おかねやぐら)。内部は郷土美術館として公開しています。
-
天守閣に据えられている同型の鯱。
-
天守からの山里櫓と海水の堀。
-
今治城全景と海水堀。
-
海水堀。海の魚が瀬戸内海から回遊してくるそうです。
-
国史跡指定・道後公園 湯築城(ゆづきじょう)跡。この城跡の奥が道後温泉街です。
-
湯築城搦め手。中世の城郭である湯築城は、近世の城郭が持つ石垣や天守がなく、地形を利用して作られた平山城です。築城当所の14世紀前半は、中央の丘陵部を利用した山城でしたが、約200年後の16世紀前半には周囲に外堀を築き、二重の堀と土塁を巡らせた平山城になったと推定されます。
湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期(14世紀前半〜16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。
そこに全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡し、平安末期から戦国期までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。 -
湯築城資料館。中世末まで伊予の国の政治・軍事・文化の中心を担った湯築城は、江戸期には伊予松山藩の管理下に置かれ、明治期からは県立の都市公園や植物園などとして、昭和の時代には動物園としても利用されていました。昭和62年の動物園移転後、跡地を発掘調査したところ、中世の平山城としての貴重な遺構が残存するとともに、多種多様な遺物が豊富に出土しました。
-
武家屋敷2。外観復元した建物の内部を展示施設に。中世の道具類や職人の活動を紹介しています。
-
武家屋敷1.
-
武家屋敷1の内部。当時の生活の様子や調度品を再現しています。
-
武家屋敷内部。当時の生活の様子を再現。
-
土塁跡。
-
土塁跡。
-
大洲城天守閣・台所櫓(重文)。
この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)といわれている。宇都宮氏は二百数十年間にわたって南伊代を中心に支配を行うが天正初年に長宗我元親によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ばされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入府し、大洲城は一支城となった。文禄4年(1595年)藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この二人の時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。 -
天守(4層4階)と高欄櫓(重文)。
-
天守閣。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。
維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥のために明治21年(1888年)解体された。現在の天守は伝統工法を用い、平成16年(2004年)純木造で復元さたものです。 -
天守復元の様子をミニチュア人形で展示。
-
天守閣の鉄砲狭間。
-
復元天守の同型の鯱。
-
台所櫓(昭和32年国重文指定)。ここが現在、建物内への出入り口になっています。
-
高欄櫓(昭和32年国重要文化財指定)。
-
天守から見た肱川
-
天守から見た肱川。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
28