2014/03/08 - 2014/03/10
146位(同エリア398件中)
倫清堂さん
年が明けてから2度の大雪に見舞われた日本列島。
自宅のある仙台でも統計が取れる範囲では最高の積雪があり、空も陸も交通がマヒしてしまう事態となりました。
しかし3月になり寒さの中にも少しずつ春らしさが感じられるようになると、どこかへ旅したくなるのは毎年のこと。
そう思ってあらかじめ計画を立て、指を折って今年最初の旅の日を待っていましたが、その日を無事に迎えることが出来ました。
朝一番の飛行機で仙台空港から伊丹空港へと飛び、電車を乗り継いで姫路駅まで出ると、平成の大修理が間もなく完了する姫路城では素屋根の撤去作業が進められていました。
姫路駅でレンタカーを借り、目的地の岡山県へは高速道路を使います。
途中で道を間違え、更に渋滞にはまってしまうというアクシデントもありましたが、ほぼ予定通りに瀬戸内市の長船に到着したのでした。
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これまで岡山に来た時は、必ず名物の「ばら寿司」を食べていましたが、さすがに回数を重ねると、いささか飽きを感じてしまいます。
そこで今回、他に名物はないものかと調べてみたところ、ばら寿司の元祖とされる「どどめせ」という郷土料理があることが分かりました。
手打うどん一文字という店で、昼食にどどめせを食べることにしました。
どどめせとうどんがセットになっている定食を注文。
本日の天ぷらは春菊とさつま芋ですと説明してくれながら、店員さんが席まで運んでくれました。
うどんが少し黒みを帯びた色をしているのは、国産の小麦の素材の色なのだそうです。
どどめせは酢飯に様々な食材を合わせたもので、ばら寿司よりも更に庶民的な味がしました。一文字うどん グルメ・レストラン
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長船と云えば、古くから刀剣の産地として有名です。
備前国は、美作など中国山地で採れる砂鉄を材料に刀を打つ刀匠が多く住んだ地域で、平安時代には古備前が備前刀の基礎を築き、鎌倉時代には一文字派や長船派などが様々な流派が生まれました。
安土桃山時代に起きた吉井川が氾濫によって、長船の町は壊滅的な打撃を受け、多くの刀匠も流されてしまったということです。
しかし江戸時代には復興し、岡山藩池田家の御用達となるなど、伝統は現在まで引き継がれることとなったのでした。
今に引き継がれる刀剣の伝統的な製作を実際に見せてくれるという、備前長船刀剣博物館を訪れることにしました。備前おさふね刀剣の里 備前長船刀剣博物館 美術館・博物館
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博物館内に入って最初に目に入るのは、なんと全長3メートル近くもある刀。
展示用に特別に打たれたものですが、一体何人の職人さんによって完成させられたのか気になるところです。
佐々木小次郎の「物干し竿」も、さすがにこれほどの長さではなかったでしょう。
館内には古今の名刀が展示されていますが、体験コーナーには刀剣にまつわるクイズや実際の日本刀を持って重さを感じるスペースが設けられています。
一般的な長さの日本刀は、片手で持ち上げることは出来るものの、自在に振り回すには相当な腕力や握力が必要なのだと感じました。 -
展示を見終えたので、鍛刀場へと向かうことにします。
ここでは一人の若手の職人さんが、機械のハンマーを使って玉鋼を打っていました。
作業の様子を見ていると、その9割方は材料を熱することで、見どころと言ってもよい真っ赤に焼けた材料を鍛える作業は、ほんのわずかしかありません。
職人さんは炭火で材料を熱している間、我々見学者の質問に気軽に答えて下さいました。 -
刀匠によって鍛造された刀は、次に研師の手に渡ります。
研師は何種類もの砥石を使い、触れただけでも切れてしまいそうな程に刃を鋭く磨いて行きます。
仕上場では、やはり若手の職人さんが、一振りの日本刀を一心不乱に研いでいました。 -
金属を鍛えたり磨いたりという激しい動きを伴う工程が終わると、それまでとは反対にじっと座って取り組む細やかな作業へと移ります。
刀身が鞘の中でぐらつかないように鞘の内部で支える役割の「はばき」を作るのは白銀師。
刀身に不動明王や龍などを彫る彫金師は、休憩中なのか姿が見えません。 -
鞘は刀身に合わせて作られるオーダーメイド。
材料となるのは、10年以上も間ずっと寝かされていた朴の木。
これを縦に半分に割り、内部を刀身に合わせて削り、それが終わったらご飯粒を材料とする糊で張り合わせます。
この糊は鞘内部を掃除する時には、剥がすことが可能であるとのこと。
刀の握られる部分である柄も、鞘師によって作られます。
こうして形が整えられた鞘は塗師によって表面に漆などが塗られ、柄の部分には柄巻師の手で組紐や鮫皮が巻かれ、ようやく完成となります。
何人もの職人によって丁寧に作りこまれる日本刀。
そのうちどれか一つでも技の継承が途絶えれば、日本刀そのものの伝統は失われてしまうということを学びました。 -
岡山県に鎮座する一之宮は吉備津神社と吉備津彦神社がよく知られていますが、実は他にも一之宮とされる神社が何社かあるとのことなので、今回の旅ではそれらを全て参拝することを目標にしました。
岡山市東区に鎮座する安仁神社もその一つ。
西大寺一宮という地名に鎮座することから、古い時代から一之宮として崇敬されていた神社として間違いありません。
安仁神社はかつて兄神社と表記されていたらしく、御祭神とされる五瀬命は初代神武天皇の兄にあたります。
地図で確認すると、鎮座地は長船からほとんど真南、瀬戸内海の水門湾から川を遡った場所の高台で、神武天皇御東征の際に立ち寄られたとしても矛盾のない地形です。
社伝によると御創建は御東征の後のことで、神武天皇が戦死した兄五瀬命をこの場所にお祀りしたのが始まりとのこと。
延喜式には備前国唯一の名神大社に列しており、本来なら一之宮の地位にあるべきところ、天慶の乱で朝廷に叛いた藤原純友についたことでその地位は剥奪されてしまいました。
このような経緯があってか、いつしか御祭神も忘れられてしまい、正式に五瀬命とされたのは明治に入ってからのこと。 -
参拝を終えて拝殿の裏へ進むと、瑞垣に囲まれた本殿とは別に、その左右に横長の社殿が置かれているのが見て取れます。
これらは右補神社・左補神社と呼ばれ、五瀬命に従って戦い斃れた戦士たちをお祀りしています。
古代の靖国神社と言ってよいのかも知れません。 -
初めて岡山を訪れた時、どうしても時間のやり繰りがつかず岡山城の見学は諦めた経緯があります。
今回、受付時間内の入城には間に合いましたが、偕楽園まで見るのは難しい時間になってしまいました。
駐車場から内堀にかかる内下馬橋を渡ると、水に浮いて優雅な姿で戯れているつがいの白鳥に出会いました。
烏城で白鳥に出会うというのはまるで冗談のようです。烏城公園 (岡山城) 公園・植物園
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岡山城、通称烏城の印象は黒い天守閣ばかりが頭に残っていて、本丸にうず高く廻らされた石垣はすっかり忘れられていました。
時間と心の余裕がある中で見ると、この城の価値はやはりこの堅固な石垣にあると言わざるを得ません。
古くは現在の場所より西に300メートル程の場所に岡山城は置かれていましたが、宇喜多秀家によって現在地に移さることが決められ、朝鮮征伐を経て壮大な城が築かれたのでした。
宇喜多家は備前児島の三宅氏の流れであるとか、はたまた百済王族の末裔であるとか、その祖先には様々な説がありますが、歴史の表舞台に登場するのは戦国時代。
秀家の父で備前守護浦上氏の家臣であった宇喜多直家は、目的を達成するためには手段を選ばない人物だったようですが、そのような性格になってしまったのは6歳の時に祖父が暗殺されたという過去が遠因なのかもしれません。
父とともに明日も見えない放浪の身となるも、勢力を伸ばしていた浦上氏に拾われて頭角を現し、祖父の仇である島村盛実の暗殺を果たした他、次々に自分にとって障害となる立場にある者たちを殺害して行きます。
そうした中で岡山城主であった金光宗高を計略によって追い込み、宗高を切腹させて岡山城を手に入れることに成功したのでした。
現在、斎藤道三・松永久秀とともに宇喜多秀家を「戦国三梟雄」と呼ぶ人もいます。 -
直家が病没すると、幼少であった次男の秀家が信長公の後押しにより家督を継ぎます。
秀家の「秀」は、本能寺の変の後に秀吉公から与えられた文字で、彼は秀吉公の猶子となったばかりでなく養女を正室に迎え入れるなど、豊臣氏の一門衆の扱いを受けるまでに認められます。
その所領は備前・美作を中心に60万石近くに及び、参議従三位に叙せられて「備前宰相」と呼ばれるなど、華々しい出世を遂げました。
岡山城の築城も、秀吉公の助言によって決められた経緯があったようです。
しかし秀吉公の死去まで栄華は続かず、関ヶ原の役では西軍について敗北。
その後、罪一等を減じられて八丈島への流刑処分となりますが、丹精込めて築き上げた岡山城が裏切り者の小早川秀秋に与えられたことを知った時は、さぞかし悔しかったことでしょう。 -
イチオシ
ようやく願いがかなって天守閣に登りました。
かつての天守閣は明治維新後も残りましたが、戦災によって焼け落ちてしまったため、現在の天守閣は鉄筋コンクリート造の復元です。
それはそれで歴史を後世に伝える役割を果たしてくれるものだと、私は信じます。
宇喜多秀家は南国の離島で83歳まで生涯を送り、一方で裏切り者の小早川秀秋は戦後2年で、わずか21歳の生涯を閉じます。
石田三成の怨霊によって祟られたのだと、当時はまことしやかに語られたものだったそうです。
秀秋には子がなく、岡山城主としての小早川家は一代限りでした。 -
二日目の天気も晴れ。
一日の行程を冷静に見直したところ、全て回って帰るのは時間的に難しく、もし強行してもどの目的地も中途半端にしか見学出来ないことに気づきました。
岡山県内でまだ訪れていない最後の一之宮は今回は断念し、旅の趣旨は城めぐりに変更することに決めたのでした。
朝食をとってまず目指すは、備中高松城跡。
信長公が本能寺で斃れた際、秀吉公が信長公の命によって攻めていた毛利方の城です。備中高松城址公園 名所・史跡
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高松城は湿地に取り囲まれ、これが天然の堀として機能していました。
城主は毛利家に仕える清水宗治。
人や馬が行き来するのも容易でない城を攻めあぐねた秀吉公は、軍師黒田官兵衛の献策を採り入れて水攻めを断行。
時は梅雨とあって、城はたちまち湖に浮かぶ島のように孤立してしまいました。
観光客向けに展示を行っている高松城址公園資料館には、大雨によってこの公園が水に沈んだ時の写真があり、水攻めが行われているのとさほど変わりのない様子を確かめることが出来ます。
やがて兵糧も尽き、城は自然に落ちるのを待つばかりとなった時に転がり込んで来たのが、信長公が謀殺されたという密書でした。 -
このまま城が落ちるのを気長に待っていたのでは、光秀の反乱軍は勢いを得てしまい、かと言って京へ軍を返せば背後を突かれてしまいます。
このように進退窮まった秀吉公にとって幸運であったのは、毛利方がまだ信長公の死を掴んでいないことでした。
早急に光秀を討つことを目指す秀吉公は、毛利方に主君の死を去られないよう細心の注意を払い、毛利方の軍師である安国寺恵瓊を招いて和睦の条件を提示します。
それは、松山城主清水宗治を切腹させれば、領土は取らず全ての城兵の命も助けるという強気のものでした。 -
清水宗治は部下たちの命を救うことができるならばと条件を呑み、水上に船を漕ぎ出して秀吉公の陣近くまで進むと、誓願寺を唄い舞いをおさめた後、船上で見事に切腹をなし遂げたということです。
清水宗治の辞世は、
浮世をば今こそ渡れ武士の
名を高松の苔に残して
秀吉公は宗治の自刃の様子を最後まで見届けてから、光秀討伐のために軍を動かしたのでした。
現在、高松城本丸跡には清水宗治の首塚と辞世の歌碑、また近くの寺には供養塔が立てられ、家臣が死に出の旅のお供と刺し違えた「こうやぶ」が残されています。 -
イチオシ
岡山にある有名な城の中で最もアクセスが難しいのが、次に向かう鬼ノ城ではないでしょうか。
高松城からそれほど距離はありませんが、実際に山道を進むと、車が行き交うのも難しいような細い道がしばらく続くことになります。
まだ観光客が本格的に動き始める前の時間帯だったので、幸いにもトラブルなく駐車場までたどり着くことができました。
駐車場の隣には鬼城山ビジターセンターが建てられており、展示パネルや模型などで鬼ノ城の成り立ちや発見された事実などが紹介されています。鬼ノ城 名所・史跡
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ビジターセンターからは徒歩での移動となります。
距離は600メートルしかありませんが、勾配が急であるため次第に息が切れて来ました。
あちこちに巨石がゴロゴロ転がっており、かつてここが巨石信仰の祭祀場であったことが分かります。
ここに城が築かれたのは天智天皇2年、白村江の戦いの頃ではないかと考えられていますが、歴史書への記述はありません。
更に時代を遡ると、かつて一帯を支配していた温羅が住んでいたという伝説が残されています。
大和朝廷から遣わされた吉備津彦による討伐は、昔話の桃太郎にアレンジされて現在に伝えられています。 -
鬼ノ城は、鬼城山の8合目から9合目にかけて、鉢巻状に廻らされた城壁を備えていました。
その四方に門が設けられ、特に西と南の門は壮大堅固なものだったようですが、どれが正門であるかは明らかになっていません。
現在、西門だけが復元されています。 -
鬼ノ城の見学を終えて、いよいよ津山に入ります。
昨年、備中松山城を訪れた際、雪のため津山入りは断念した経緯があります。
今回は天候に恵まれ、津山は旅人を温かく迎え入れてくれました。
そこで二度目の作楽神社参拝。
児島高徳公の銅像は変わらず社殿の方を拝していました。作楽神社 寺・神社・教会
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ちょうど氏子さんたちによる清掃奉仕の日にあたっていたようで、たくさんの女性たちが手分けして境内のあちこちを掃除していました。
初めて訪れた時は、記念碑のあまりの多さにどこが何の場所なのか掴みきれませんでしたが、二度目ともなると一度目に行きそびれた場所や気にもしなかった場所に新たな発見があるものです。
境内の石碑で最も古いのが、児島高徳公が「十字詩」を刻んだ桜が植えられていたとされる院庄東大門跡に貞享5年に建てられた院庄碑。
津山藩森家の執政であった長尾勝明が、『太平記』の故事を裏付けるために考証を行い、ここに記念碑を建てたのでした。
彼の努力が、明治になって神社創建につながったと言えるでしょう。
表面は風化して「院庄」の文字しか読み取れませんが、以下のように書かれています。
元弘の乱に、後醍醐帝隠州に狩し、翠華此の地に次りたまふの日、児島備後三郎高徳密かに宿営に来り、桜を削りて書して云ふ、天勾践を空しうすること莫かれ時に范蠡無きにしも非ずと、事、口碑に詳し。此を贅せず。今、邑民伝へ称すらく、往昔の桜、泯滅して既に旧し。厥の地曽て東大門と号す。近ごろ其の遺蹤に因りて、新桜一株を栽ゑ、又石に刋みて渠の忠誠を旌し、且つ人をして行在の蹟を識らしめんと欲す。銘に曰く、
皇帝赫怒して。鳳駕西に翔けたまふ。天神聖を翼け。爰に賢良を降す。片言を桜に誌して。百世に芳を流す。分を明かにして賊を討ち。忠を?夲して王に勤む。義気を石に刻めば。烈日厳霜のごとし。 -
駐車場の近くで、新たに石碑を発見しました。
後醍醐天皇とともに隠岐に向かうこととなった寵妃姫法師は、この地で逝去されたと記されています。
『太平記』には男の戦いばかりが伝えられますが、戦っていたのは男だけではないことに気づかされました。 -
次に美作国二之宮の高野神社へ向かいます。
主祭神は彦波限建鵜葺草葺不合尊ですが、相殿神に一之宮中山神社の御祭神の鏡作命と、美作総社宮の御祭神の大己貴命が祀られています。
神社としては安閑天皇2年の御創祀ですが、それ以前から吉井川の岩を磐座として祭祀が行われていたと伝えられます。
随神門は源頼朝公によって建久2年に再建されたものに安政2年に覆屋が付設されて、今に残されています。 -
本殿は一之宮中山神社と同じ中山造。
津山藩主森氏の崇敬も篤く、本殿は2代藩主森長継公によって寛文3年に寄進されたものです。 -
はるばる津山まで来たからには名物のB級グルメ、ホルモンうどんを食べずには帰れません。
多くの店がある中で、橋野食堂を選びました。
専用駐車場はなく、係の方が向かい側にあるガソリンスタンドの敷地へと誘導してくれました。
ちょうどバイクの集団が来ていたので外で待つこととなりましたが、ストーブが置かれていたので暖を取ります。
10分ほど待って中へと案内されました。
辛さは注文時に選べるとのことで、腹の弱い自分は普通の辛さで注文。
奇を衒った味付けではなく、いつの時代も愛されるような素朴な味でした。橋野食堂 グルメ・レストラン
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歴史から児島高徳公を掘り出し、高野神社に社殿や所領を寄進した津山藩とはどのような藩だったのでしょうか。
津山藩が本拠地とした津山城を訪れることにしました。
津山藩は小早川秀秋の所領でしたが、嫡子がなかったため廃絶し、代わって入封したのが森忠政公でした。津山城(鶴山公園) 名所・史跡
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忠政公は信長公家臣森可成公の子で、信長公の小姓であった森蘭丸の弟です。
父は浅井・朝倉攻めの際に討死し、蘭丸同様信長公に小姓として仕えますが、あまりに幼かったために母のもとに返され、本能寺の変での遭難を免れています。
兄で当主であった長可公は秀吉公に仕え、小牧・長久手の戦いで若くして戦死。
兄弟は忠政公を除いて全員この世の人ではなくなっていたため、森家を継ぐこととなったのでした。
秀吉公の死後は石田三成と関係が悪化し、関ヶ原では東軍に属して上田城の真田軍の動きを封じる役割を果たします。
そして小早川秀秋の死によって、津山藩に転封となったのでした。 -
イチオシ
津山城の歴史は、室町時代に山名忠政によって築かれた鶴山城から始まります。
山名氏が応仁の乱によって衰退すると、津山城も廃城同然となってしまいます。
そして慶長8年に森忠政公が入封して津山藩が立てられると、ただちに築城が開始され、4重5層の天守閣を持つ大規模な城郭が完成。
城の名称も鶴山城から津山城に改められたのでした。
櫓の数は、多い時で77棟にも上ったとのことです。 -
その後、津山藩は松平氏の治めるところとなり、明治維新を迎えます。
廃城令によって、威容を誇った城郭は天守閣を含めて全てが取り壊され、石垣だけがのこされることとなりました。
戦後、築城400年を記念して備中櫓が復元され、内部は見学が可能となっています。
これから少しずつ復元が進み、かつての姿を取り戻してほしいと願っています。 -
津山藩の歴史を振り返った時、最も輝いていた時代というのは江戸時代後期だったのではないかと思います。
オランダからもたらされた『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、『解体新書』として世に出した杉田玄白・前野良沢。
彼らと親交があった宇田川玄随は、漢方医学から蘭方医学に転向した津山の藩医で、津山に蘭学の知識を紹介した先覚者でした。
玄随本人は日本で初めて西洋内科書を翻訳した他、宇田川氏は3代にわたって西洋医学の研究と実践を試み、日本医学の近代化に努めたのでした。
宇田川氏の影響もあってか津山藩では蘭学の研究が盛んになり、数々の蘭方医や研究者が輩出されました。
彼らの功績を記念して建てられた津山洋学資料館を訪れてみることにします。 -
駐車場に車を停めて前庭に出ると、洋学者たちの胸像が無造作(?)に並べられている姿がまず目に入り、独特な雰囲気に呑まれます。
資料館の展示は大きく3部構成となっており、宇田川三代による蘭方医学の研究、箕作一族による海外への雄飛、美作国における洋学の発展について知ることが出来ます。
展示物には翻訳書など出版物が多い中、珍しいという意味で特に目を引いたのは、宇田川榕菴が模写した日本初のトランプでした。
現在のトランプと違ってカードの四隅には何も書かれておらず、絵札のデザインは愛嬌のあるマンガ的なデザインとなっています。
榕菴のこだわりは、デザインを出来るだけ実物通りに模写するばかりでなく、オランダ製の台紙を取り寄せてそこに描くという徹底したものでした。
このトランプは、複製品がお土産として販売されています。津山洋学資料館 美術館・博物館
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資料館の向かい側には箕作阮甫旧宅があり、内部を見学することが出来ます。
箕作阮甫は寛政11年に美作藩医の三男として生まれ、宇田川玄真に洋学を学び、後に幕府によって外国文書翻訳の担当に任命されたのでした。
ペリーが浦賀に来航した際にはアメリカ大統領親書を翻訳し、ロシア使節プチャーチン来航の際にも翻訳や交渉に参加しています。
番所調所が設置されると、日本で初めての「教授」に任命されました。
資料館には阮甫が着用した裃や書幅などが展示されており、日本と西洋が本格的に交流を始めた頃の緊張感と期待感が、自分のことのように伝わって来たのでした。箕作阮甫旧宅 名所・史跡
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最後に宮本武蔵ゆかりの場所を訪ねて、今回の旅は終わりたいと思います。
津山市内から国道429号線を走ること約1時間。
不敗伝説を誇る剣豪、宮本武蔵少年時代を過ごした宮本に到着しました。
多くの日本人が宮本武蔵の生涯について知るようになったのは、吉川英治が終戦から間もないころに朝日新聞に連載した『宮本武蔵』がきっかけだったのではないでしょうか。
自分自身、当時はまだ生まれていなかったのでリアルタイムではないものの、大学時代に単行本で読んで感銘を受け、いつか武蔵の関連史跡を巡ってみたいと願っていました。
武蔵の足跡を直接感じる史跡はあまり残されていませんが、彼の作品の多くが収蔵されている記念館が、ここ武蔵の里にあります。
まずはその武蔵資料館を見学することにしました。武蔵資料館 美術館・博物館
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吉川英治の『宮本武蔵』では、武蔵は美作で生まれたことになっていますが、武蔵自身は『五輪書』において生国播磨と記しています。
播磨で生まれ、美作の宮本村に住む新免家に養子に入ったというのが本当らしいのですが、小説における創作や郷土史家によるこじつけなど問題がないわけではなく、真相は不明としておいた方がよさそうです。
武蔵資料館から歩いて数分の所には、宮本武蔵宅址跡があります。
地元では生家として宣伝しているようですが、現地の案内板には天正・慶長の頃に武蔵が居住していたと書かれています。
その建物も昭和17年に火災によって焼けてしまい、現在の建物はまったく面影を残さない別物で、個人の住宅となっています。
何が本当で何が嘘なのか分からなくなって来ました。宮本武蔵生家跡 名所・史跡
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武蔵宅址から目と鼻の先に鎮座する讃甘神社は、武蔵が子供の頃に遊んだ場所と伝えられています。
神社の祭礼において太鼓が鳴らされた際、武蔵は神主が両手の撥を扱っている様子に興味を持ち、後の二刀流開眼につながったとの伝承もありますが、定かではありません。
しかし、これだけ多くの伝承がこの地に伝わっていることに、日本人が宮本武蔵に対して今も変わらぬ尊敬の念を抱いているということだけは確かだと言えるでしょう。
2日間ずっと天気に恵まれて来ましたが、讃甘神社の参拝を終えて車に戻ると同時に雨が降って来ました。
翌日は朝一番の飛行機で帰る予定。
そろそろ宿泊地へ入っておきなさいという天からの声でした。讃甘神社 寺・神社・教会
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