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JR京浜東北線・赤羽駅を見下ろす稲付城(いねつけじょう、東京都北区赤羽)は地形的に武蔵野台地の先端にあって三方向が崖となっており中央部の主郭は現在では静勝寺(じょうしょうじ)と称する寺院となっています。<br /><br />築城者は扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)で江戸城と岩槻城(埼玉県)を結ぶ岩槻街道に沿った交通の利便性が高い位置に「つなぎ」としての役割を意識して築城したと伝えられていますがそれを裏付けるものは見出されていません。<br /><br />文明18年(1486)道灌が主家扇谷家の上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)に暗殺され、これにより嫡男資康(すけやす、1476~1513)は扇谷家から離反するも定正事故死後は扇谷家上杉氏家督を引き継いだ朝良(ともよし、1473~1518)に復帰が許され江戸城で仕える事になりますが舅三浦義同(みうら・よしあつ、1451~1516)が小田原北条氏の攻撃を受け籠城中の新井城にて窮地に立たされると救援を試みますが玉縄城より防御する小田原北条軍に敗れて討死します。<br /><br />永正13年(1516)小田原北条氏は永年の宿敵である旧相模守・三浦義同親子を三浦半島新井城にて敗死させ相模国統一を果たし、改めて武蔵国進出をめざしその手始めとして江戸城を手中に収めて武蔵支配の足掛かりとします。<br /><br />江戸城代を勤めていた大田資高(おお他・すけたか、1498~1547)は祖父道灌謀殺の恨みを抱いていたのか確証はありませんが小田原北条氏綱の誘いに乗って大永4年(1524)主家扇谷家上杉朝興(ともおき、1488~1537)を江戸から追放し小田原北条軍を城内に迎え入れます。<br /><br />武蔵国各地に支配を拡げる重要拠点として江戸城を手中に収めた氏綱は城番として遠山直景(とおやま・なおかげ)と富永政辰(とみなが・まさたつ)を派遣し領地経営を固めさせます。<br /><br />このように江戸城は小田原から派遣された両名が本城を占め資高は主流から外れますがそれでも氏綱の娘を妻に娶り一門衆扱いの待遇を受け、やがて江戸城を離れ支城と言うべき稲付城に居城を移し志村・広沢・岩淵・平塚を直轄の領地として与えられます。<br /><br />天文17年(1547)父資高死去すると康資(やすすけ、1531~1581)は家督を継ぎ江戸城代となり、本家小田原の命のもと駿河国においての武田信玄との合戦で武勇の功を示すも恩賞少なく不満を抱くことになり、同族の岩付城主の太田資正(おおたすけまさ,1522~1591)を通じ上杉謙信への寝返りを狙いますがこれは失敗、康資は資正方に逃亡、里見(さとみ)氏支援を受けて下総・国府台にて小田原北条軍と戦いますが大敗を喫し里見氏本領地に逃れます。(第二次国府台合戦)<br /><br />天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐により第五代当主北条氏直(ほうじょう・うじなお、1562~1591)降伏開城後、秀吉の命により徳川家康は関東に移封となり在地旧勢力を懐柔する一環として康資の息子である重正(しげまさ、生没不詳)は家康に旗本として仕えることとなります。<br /><br />重正の息子資宗(すけむね、1600~1680)の代になりますと、明暦元年(1655)稲付城跡に堂舎を建立し遠祖の太田道灌とその父資清(すけきよ、1411~1488)の法号に因んで「自得山清勝寺」と改めます。(道灌:香月院殿春苑清勝道灌大居士・資清:自得院殿実慶道真庵主)<br /><br />尚資宗は慶長15年(1610)五千六百石の太田家家督を引継ぎ、寛永12年(1635)下野足利郡山川で一万五千六百石の大名に列せられ、最終は正保元年(1644)遠江国浜松に三万五千石にて転封となります。<br /><br /><br />2023年9月8日追記<br /><br />境内に配置の案内板には下記のごとく説明があります。<br /><br /><br />『 東京都指定文化財(旧跡)<br />     稲 付 城 跡 <br />                北区赤羽西1-21-17<br /><br />稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあり。太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。<br /><br />昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。<br /><br />また、静勝寺に伝存する貞亨4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。<br /><br />この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。<br /><br />道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。<br /><br />明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。<br /><br />     平成13年3月<br />                東京都北区教育委員会 』<br /><br /><br /><br />また、当該寺院の一角には道灌堂があり、道灌の坐像が安置されています。それに関する案内板が設置されています。<br /><br /><br />『 東京都北区指定有形文化財(歴史資料)<br />         木 像 太 田 道 灌 坐 像<br />             北区赤羽西1-21-17 静勝寺<br /><br />右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に製作されました。<br /><br />太田道灌(1432~1486)は室町幕府の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余年度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。<br /><br />像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1578)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左ひざを立てて畳座に座しています。像高は44・5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材剥ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって建立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。<br /><br />像は、道灌が没してから200年以上も後に建立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました。<br /><br />   平成8年3月                             <br />               東京都北区教育委員会 』

武蔵赤羽 道灌ゆかりの地を訪ねる・古河公方と対峙する重要拠点の江戸城と岩槻城との中継機能を担う丘陵地に築いた『稲付城』訪問

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2014/03/08 - 2014/03/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR京浜東北線・赤羽駅を見下ろす稲付城(いねつけじょう、東京都北区赤羽)は地形的に武蔵野台地の先端にあって三方向が崖となっており中央部の主郭は現在では静勝寺(じょうしょうじ)と称する寺院となっています。

築城者は扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)で江戸城と岩槻城(埼玉県)を結ぶ岩槻街道に沿った交通の利便性が高い位置に「つなぎ」としての役割を意識して築城したと伝えられていますがそれを裏付けるものは見出されていません。

文明18年(1486)道灌が主家扇谷家の上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)に暗殺され、これにより嫡男資康(すけやす、1476~1513)は扇谷家から離反するも定正事故死後は扇谷家上杉氏家督を引き継いだ朝良(ともよし、1473~1518)に復帰が許され江戸城で仕える事になりますが舅三浦義同(みうら・よしあつ、1451~1516)が小田原北条氏の攻撃を受け籠城中の新井城にて窮地に立たされると救援を試みますが玉縄城より防御する小田原北条軍に敗れて討死します。

永正13年(1516)小田原北条氏は永年の宿敵である旧相模守・三浦義同親子を三浦半島新井城にて敗死させ相模国統一を果たし、改めて武蔵国進出をめざしその手始めとして江戸城を手中に収めて武蔵支配の足掛かりとします。

江戸城代を勤めていた大田資高(おお他・すけたか、1498~1547)は祖父道灌謀殺の恨みを抱いていたのか確証はありませんが小田原北条氏綱の誘いに乗って大永4年(1524)主家扇谷家上杉朝興(ともおき、1488~1537)を江戸から追放し小田原北条軍を城内に迎え入れます。

武蔵国各地に支配を拡げる重要拠点として江戸城を手中に収めた氏綱は城番として遠山直景(とおやま・なおかげ)と富永政辰(とみなが・まさたつ)を派遣し領地経営を固めさせます。

このように江戸城は小田原から派遣された両名が本城を占め資高は主流から外れますがそれでも氏綱の娘を妻に娶り一門衆扱いの待遇を受け、やがて江戸城を離れ支城と言うべき稲付城に居城を移し志村・広沢・岩淵・平塚を直轄の領地として与えられます。

天文17年(1547)父資高死去すると康資(やすすけ、1531~1581)は家督を継ぎ江戸城代となり、本家小田原の命のもと駿河国においての武田信玄との合戦で武勇の功を示すも恩賞少なく不満を抱くことになり、同族の岩付城主の太田資正(おおたすけまさ,1522~1591)を通じ上杉謙信への寝返りを狙いますがこれは失敗、康資は資正方に逃亡、里見(さとみ)氏支援を受けて下総・国府台にて小田原北条軍と戦いますが大敗を喫し里見氏本領地に逃れます。(第二次国府台合戦)

天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐により第五代当主北条氏直(ほうじょう・うじなお、1562~1591)降伏開城後、秀吉の命により徳川家康は関東に移封となり在地旧勢力を懐柔する一環として康資の息子である重正(しげまさ、生没不詳)は家康に旗本として仕えることとなります。

重正の息子資宗(すけむね、1600~1680)の代になりますと、明暦元年(1655)稲付城跡に堂舎を建立し遠祖の太田道灌とその父資清(すけきよ、1411~1488)の法号に因んで「自得山清勝寺」と改めます。(道灌:香月院殿春苑清勝道灌大居士・資清:自得院殿実慶道真庵主)

尚資宗は慶長15年(1610)五千六百石の太田家家督を引継ぎ、寛永12年(1635)下野足利郡山川で一万五千六百石の大名に列せられ、最終は正保元年(1644)遠江国浜松に三万五千石にて転封となります。


2023年9月8日追記

境内に配置の案内板には下記のごとく説明があります。


『 東京都指定文化財(旧跡)
     稲 付 城 跡 
                北区赤羽西1-21-17

稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあり。太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。

昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。

また、静勝寺に伝存する貞亨4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。

この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。

道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。

明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。

     平成13年3月
                東京都北区教育委員会 』



また、当該寺院の一角には道灌堂があり、道灌の坐像が安置されています。それに関する案内板が設置されています。


『 東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
         木 像 太 田 道 灌 坐 像
             北区赤羽西1-21-17 静勝寺

右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に製作されました。

太田道灌(1432~1486)は室町幕府の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余年度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。

像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1578)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左ひざを立てて畳座に座しています。像高は44・5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材剥ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって建立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。

像は、道灌が没してから200年以上も後に建立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました。

   平成8年3月                             
               東京都北区教育委員会 』

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 静勝寺石段<br /><br />JR京浜東北線に並行して走る岩槻街道から南進しますと右手に静勝寺への勾配が厳しい石段が現れます。

    静勝寺石段

    JR京浜東北線に並行して走る岩槻街道から南進しますと右手に静勝寺への勾配が厳しい石段が現れます。

  • 稲付城跡石碑<br /><br />石段右脇には「稲付城跡」と刻された石碑を確認することができます。

    稲付城跡石碑

    石段右脇には「稲付城跡」と刻された石碑を確認することができます。

  • 静勝寺北門<br /><br />右側は上り坂の道路となっており、往時の空堀跡を示しています。

    静勝寺北門

    右側は上り坂の道路となっており、往時の空堀跡を示しています。

  • 静勝寺北門<br /><br />左側も上がり坂の小路で右側と同様に空堀跡を暗示しています。

    静勝寺北門

    左側も上がり坂の小路で右側と同様に空堀跡を暗示しています。

  • 市街風景<br /><br />石段途中から振り返ります。向こうにJR線が一望に見ることができます。

    市街風景

    石段途中から振り返ります。向こうにJR線が一望に見ることができます。

  • 静勝寺北門

    静勝寺北門

  • 稲付城跡説明板

    稲付城跡説明板

  • 静勝寺石碑<br /><br />当寺の由緒が石碑に刻されています。

    静勝寺石碑

    当寺の由緒が石碑に刻されています。

  • 静勝寺・山道

    静勝寺・山道

  • 静勝寺・本堂

    静勝寺・本堂

  • 本堂内部<br /><br />本堂内部に釈迦如来三尊を捉えます。

    本堂内部

    本堂内部に釈迦如来三尊を捉えます。

  • 静勝寺・境内

    静勝寺・境内

  • 静勝寺・境内

    静勝寺・境内

  • 道灌堂<br /><br />内部には道灌の坐像が安置され、命日の7月26日に因んで毎月26日に開扉されます。像の体内に納入されていた銘札によれば元禄8年(1695)静勝寺第六世の風全恵薫によって造られ、その後6回の修復がなされているそうです。<br />享保20年(1715)道灌250回忌に子孫の太田資晴によって建立されています。

    イチオシ

    道灌堂

    内部には道灌の坐像が安置され、命日の7月26日に因んで毎月26日に開扉されます。像の体内に納入されていた銘札によれば元禄8年(1695)静勝寺第六世の風全恵薫によって造られ、その後6回の修復がなされているそうです。
    享保20年(1715)道灌250回忌に子孫の太田資晴によって建立されています。

  • 道灌堂・説明板

    道灌堂・説明板

  • 静勝寺境内<br /><br />道灌堂から参道方向を捉えます。

    静勝寺境内

    道灌堂から参道方向を捉えます。

  • 静勝寺東門

    イチオシ

    静勝寺東門

  • 稲付城跡説明板

    稲付城跡説明板

  • 静勝寺・東門<br /><br />東門の南方向を捉えます。南方向は平坦な敷地となっています。

    静勝寺・東門

    東門の南方向を捉えます。南方向は平坦な敷地となっています。

  • 静勝寺・東門<br /><br />東門の北方向を示します。北方向は急峻な下り坂となっています。

    静勝寺・東門

    東門の北方向を示します。北方向は急峻な下り坂となっています。

  • 静勝寺外観<br /><br />東門から下り坂途中で静勝寺境内を捉えます。

    静勝寺外観

    東門から下り坂途中で静勝寺境内を捉えます。

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