2014/03/08 - 2014/03/08
354位(同エリア631件中)
滝山氏照さん
清光寺(せいこうじ、東京都北区豊島)は平安時代後期以降に発生した秩父系武士集団である豊島氏一族の中でよく知られた豊島清光(としま・きよみつ、生没不詳)が娘の冥福を祈願して自らの館の一隅に建立したと伝えられる真言宗のお寺院です。
秩父一族は秩父盆地を起点として概ね旧荒川(現在の隅田川)に沿って江戸湾に向けて東進、発展するに従いその土地名を姓として一族が現地化し支配拡大を強めます。
具体的には荒川上流から畠山氏・河越氏・江戸氏などが本流系として発展、同様に庶流として豊島氏が発展しそののち豊島氏から葛西氏が分派してまいります。
伝承によれば庶流の祖である秩父武常(ちちぶ・たけつね、生没不詳)の長子の豊島近義(としま・ちかよし、生没不詳)は八幡太郎の異名を持つ源義家に仕え、後三年の役に随陣などして豊島の地に館を構えたといわれています。
その館の位置は上中里平塚にあったとの説があり具体的には平塚神社と推定され、地理的にはこの台地から東方向に荒川流域の低地が広がっており近義及びその息子清光はこの流域を開発して葛西(=葛飾区西部)郡へと発展したと思われます。
近義から家督を引き継いだ清光は相続した所領を分割し、従来の豊島領を長男の朝経(ともつね、生誕不詳~1203)に、開拓した葛西領を二男清重(きよしげ、1161~1238)にそれぞれ与えることになります。
源頼朝挙兵と豊島・葛西氏の動向については秩父一族本流の煮え切らない対応と異なり、いち早い参向が目立ちこれが幕府創設後における頼朝の任用に影響を与えます。
ご存じのように治承4年(1180)9月末、石橋山合戦で安房に敗退した頼朝は上総広常・千葉常胤の支援を得て約3万の大軍を率い下総国府に入り、武蔵の情勢を覗います。
頼朝は武蔵国情勢についてどの程度認識あったのか判りませんが、荒川から江戸湾にかけて秩父一族が大きな勢力として存在しており、その中でも頼朝が下総から武蔵へ進入する際江戸氏と共に豊島・葛西両氏が大きな障害であることは充分承知しており、まず庶流の豊島・葛西氏の懐柔をはかる為豊島清光及び葛西清重に書状を送り「参向すべし」を命じます。
次に頼朝は秩父一族の長老格である江戸重長(えど・しげなが、生没不詳)に帰伏を勧めますが応ずる気配なく、清重に使いを出して重長誅殺を命ずることになります。
同年9月初旬頼朝軍は隅田川を渡って武蔵国に入りますが、その時に最初に参向してきたのは他ならぬ豊島清光と葛西清重でありました。
翌々日には清重の策が功を奏したのか秩父一族主流である畠山重忠・河越重頼そして江戸重長までもが参向帰伏し、結果として頼朝の武蔵進入において葛西清重の功は大きく、以降中小豪族が我さきと雪崩れるように頼朝に参向してまいります。
鎌倉幕府創設、御家人となった豊島清光は例えば文治5年(1189)7月の奥州藤原氏征伐に頼朝の軍勢として参陣、建久元年(1190)11月の頼朝入洛の随兵の中に加わっているとの記録が見られます。
一方清光の長子である豊島朝経については活躍の記録が見られず、建仁元年(1201)7月に本人と思われる人物が土佐国守護職に補任されたとの記録が見られる程度であります。
朝経は頼朝が武蔵国侵入の時期には現場に居らず平氏御用のため在京しており代わりに父親の清光が豊島一族を統率していたようで、どうやら頼朝の印象は感心するものではなかったと思われます。
朝経は鎌倉御家人として冷遇されていましたが、その間本拠の豊島庄を中心に石神井川上流一帯に所領を増やし、特に鎌倉末期の泰景(やすかげ、生没不詳)の頃に石神井郷を相続し館を造り戦国時代には石神井川の水利権を巡り太田道灌と争う程の一大勢力に至ります。
2023年9月12日追記
現地に建っている案内板には下記の通り説明が施されています。
『 清 光 寺
北区豊島7-31-7
清光寺は医王山と号し、新義真言宗豊山派に属する寺院です。
江戸時代の地誌「新篇武蔵風土記」は、この寺は豊島清光(清元)の開基で寺号もその名によること、北条家所領役帳(永禄2年<1559>)に島津孫四郎知行14貫文が豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王を行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安3年(1301)、文治2年(1186)、永禄5年(不明<私年号>)の四基の古碑があることを伝えています。
また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和4年<1618>)によれば、山号は常康山、保元2年(1157)豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、寛正年中(1460~1465)、応仁年中(1467~1468)山賊悪徒等により寺宝・寺領など略奪されて寺が荒廃したこと、文明9年(1477)豊島泰経と太田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正15年(1546)府川城主豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄6年(1563)上杉軍の残党が府川城を攻めた際に豊島にも押寄せて放火したため再び消失したこと、この後豊島明重が再興したということです。
この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保2年(1742)の作で領主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時境内寺内にあった釈迦堂の住僧であ郎といわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
なお、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延期式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説があります。
平成30年3月
東京都北区教育委員会 』
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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