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 戦国時代に生きた武将・真田家の居城である上田城址を観に行きました。<br /><br /> 以前から、真田幸村に興味があり、又関ヶ原に駆けつける途中に上田城を攻め、失敗した徳川秀忠の行軍にも非常に引かれて、一度は上田城を観てみたかった。それが2013年5月に実現しました。本来なら、真田の里を全部観たかったのですが、時間制約もあり、それは実現できず、しかし、このほかに、真田氏歴史観も見て回りました。<br /><br /> 軽井沢にある友人の別荘に遊びに行ったのですが、自分の強い希望を入れてくれて、軽井沢から車で上田市に向かいました。ここからだと比較的近いのです。<br /><br /><br /> 片田舎の土豪だった真田氏は真田幸隆が武田信玄に仕え頭角を現し、東信濃と上州(群馬県)にまで勢力を広げました。その後三男の昌幸が家督を継ぎ、武田家滅亡後は、わずか1年の間に、織田、北条、徳川と主君を変えて領土を拡大し、上田城を築城した。上州の領土を巡り徳川家康との間で合戦が行われたときは、わずか2千の兵で徳川軍8千を打ち破り、天下にその名を轟かせた。関ヶ原合戦の時は昌幸と次男の幸村が豊臣に付き、長男の信之が徳川に付いて戦うことになるが、昌幸父子は上田城を攻めた徳川秀忠軍3万8千の兵と戦いそれを退けている。その後は西軍の敗退で正幸は紀州で没し、幸村は大阪夏の陣で戦死する事になります。しかし、東軍で戦った長男の信之は松代に移封となりながらも真田十万石大名として栄え、明治まで生き延びたのである。特に、興味を持ったのは、徳川秀忠が上田城を攻めあぐねた経緯であるが、どの資料を見ても記述がなかったのは残念である。ネットを調べると、兵糧攻めの為、青田刈りを始めた秀忠軍を城を抜け出た真田軍の兵が上田城までおびき寄せて鉄砲撃ちを浴びせるなどして、相当苦しめたそうです。行きがけの駄賃が真田軍に取られた形で、秀忠軍は関ヶ原に急いだのである。

戦国武将・真田一族の上田城を観る

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2013/05/15 - 2013/05/15

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オータムリーフさん

 戦国時代に生きた武将・真田家の居城である上田城址を観に行きました。

 以前から、真田幸村に興味があり、又関ヶ原に駆けつける途中に上田城を攻め、失敗した徳川秀忠の行軍にも非常に引かれて、一度は上田城を観てみたかった。それが2013年5月に実現しました。本来なら、真田の里を全部観たかったのですが、時間制約もあり、それは実現できず、しかし、このほかに、真田氏歴史観も見て回りました。

 軽井沢にある友人の別荘に遊びに行ったのですが、自分の強い希望を入れてくれて、軽井沢から車で上田市に向かいました。ここからだと比較的近いのです。


 片田舎の土豪だった真田氏は真田幸隆が武田信玄に仕え頭角を現し、東信濃と上州(群馬県)にまで勢力を広げました。その後三男の昌幸が家督を継ぎ、武田家滅亡後は、わずか1年の間に、織田、北条、徳川と主君を変えて領土を拡大し、上田城を築城した。上州の領土を巡り徳川家康との間で合戦が行われたときは、わずか2千の兵で徳川軍8千を打ち破り、天下にその名を轟かせた。関ヶ原合戦の時は昌幸と次男の幸村が豊臣に付き、長男の信之が徳川に付いて戦うことになるが、昌幸父子は上田城を攻めた徳川秀忠軍3万8千の兵と戦いそれを退けている。その後は西軍の敗退で正幸は紀州で没し、幸村は大阪夏の陣で戦死する事になります。しかし、東軍で戦った長男の信之は松代に移封となりながらも真田十万石大名として栄え、明治まで生き延びたのである。特に、興味を持ったのは、徳川秀忠が上田城を攻めあぐねた経緯であるが、どの資料を見ても記述がなかったのは残念である。ネットを調べると、兵糧攻めの為、青田刈りを始めた秀忠軍を城を抜け出た真田軍の兵が上田城までおびき寄せて鉄砲撃ちを浴びせるなどして、相当苦しめたそうです。行きがけの駄賃が真田軍に取られた形で、秀忠軍は関ヶ原に急いだのである。

旅行の満足度
4.0
観光
4.5
グルメ
3.5
ショッピング
4.0
交通
3.5
同行者
友人
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  •  軽井沢から国道18号線をしばらく走り、県道79号線に入る。車は順調に走り、途中の道の駅「雷電くるみの里」に寄る。ここで、別荘で自炊の為に、今夜のおかずである天麩羅の食材を購入して、冷蔵庫に預けて、上田市に向かう。中々立派な道の駅である。

     軽井沢から国道18号線をしばらく走り、県道79号線に入る。車は順調に走り、途中の道の駅「雷電くるみの里」に寄る。ここで、別荘で自炊の為に、今夜のおかずである天麩羅の食材を購入して、冷蔵庫に預けて、上田市に向かう。中々立派な道の駅である。

    道の駅 雷電くるみの里 道の駅

    道の駅は数あれど、雷電くるみの里には農産物や土地のお土産が一杯 by オータムリーフさん
  •  この道の駅「雷電くるみの里」に力士雷電の銅像が有りました。調べてみると、江戸時代に活躍した力士で、この東御市(とうみし)出身だそうで、この道の駅から少し先に、彼の生家があるそうです。横綱にはなれなかった悲劇の力士でもあるそうです。

     この道の駅「雷電くるみの里」に力士雷電の銅像が有りました。調べてみると、江戸時代に活躍した力士で、この東御市(とうみし)出身だそうで、この道の駅から少し先に、彼の生家があるそうです。横綱にはなれなかった悲劇の力士でもあるそうです。

  •  1時間半のドライブで上田市に入り、まっすぐ上田城址の駐車場に車を入れた。上田城址が目の前に見える。<br /><br /> この城は1583年に真田幸隆の三男である真田昌幸が築城した平城である。千曲川と太郎山に囲まれた天然の要害に造ったお城です。<br /><br /> 昔は、駐車場辺りに千曲川が流れていたそうで、今は、お城からかなり後退しています。<br /><br /> 最初、この城を観たときには、徳川軍の二度の攻めでも落城しなかった理由が分からなかったが、千曲川が天然のお濠の役をしていたのですね。少し納得しました。 

     1時間半のドライブで上田市に入り、まっすぐ上田城址の駐車場に車を入れた。上田城址が目の前に見える。

     この城は1583年に真田幸隆の三男である真田昌幸が築城した平城である。千曲川と太郎山に囲まれた天然の要害に造ったお城です。

     昔は、駐車場辺りに千曲川が流れていたそうで、今は、お城からかなり後退しています。

     最初、この城を観たときには、徳川軍の二度の攻めでも落城しなかった理由が分からなかったが、千曲川が天然のお濠の役をしていたのですね。少し納得しました。 

    真田幸村公騎馬像 名所・史跡

  •  駐車場から右に回り込み、上田城址の入口を探す。案内板があって入口は直ぐ分った。<br /><br /> 田舎の豪族だった真田氏は真田幸隆が武田信玄の家臣になり、東信濃と上州(群馬県)に領土を広げた。その後三男の昌幸が家督を継ぎ、武田家滅亡後は、わずか1年の間に、織田、北条、徳川の家臣になり、更に、領土を広げて、上田城を築城した・・・と説明にありました。<br /><br /> 

     駐車場から右に回り込み、上田城址の入口を探す。案内板があって入口は直ぐ分った。

     田舎の豪族だった真田氏は真田幸隆が武田信玄の家臣になり、東信濃と上州(群馬県)に領土を広げた。その後三男の昌幸が家督を継ぎ、武田家滅亡後は、わずか1年の間に、織田、北条、徳川の家臣になり、更に、領土を広げて、上田城を築城した・・・と説明にありました。

     

  •  上田城址の案内板がありました。<br /><br /> 

     上田城址の案内板がありました。

     

  •  二の丸橋を渡って、上田城に入ります。ここは入場料も取りませんが、結構広い場内に入っていきます。入ると直ぐ右手が二の丸があった場所だそうです。<br /><br /> 上田城を築城して直ぐ、1585年に、上州の領土を巡り徳川家康との間で合戦が行われたときは、わずか2千の兵で徳川軍8千を,この二の丸橋で撃退し、徳川軍を打ち破り、天下にその名を轟かせた。これが第1次上田の合戦と言われています。<br />

     二の丸橋を渡って、上田城に入ります。ここは入場料も取りませんが、結構広い場内に入っていきます。入ると直ぐ右手が二の丸があった場所だそうです。

     上田城を築城して直ぐ、1585年に、上州の領土を巡り徳川家康との間で合戦が行われたときは、わずか2千の兵で徳川軍8千を,この二の丸橋で撃退し、徳川軍を打ち破り、天下にその名を轟かせた。これが第1次上田の合戦と言われています。

  • ここは東虎口櫓門ですが、復元されたものです。<br /><br />関ヶ原合戦の時は昌幸と次男の幸村が豊臣に付き、長男の信之が徳川に付いて戦うことになるが、城主の真田昌幸とその三男である真田幸村父子は上田城を攻めた徳川秀忠軍3万8千の兵と戦いそれを退けている。この時、徳川秀忠初陣で、関ヶ原に駆けつける途中、行き掛けの駄賃なのだろうか、上田城を攻めたのである。これは第2次上田の合戦といわれる。<br /><br /> この東虎口櫓門で徳川軍を撃退してるが、江戸時代になって徳川が上田城を炎上させた時に、この門の焼け落ちたが、現代に入ってから復元されています。

    イチオシ

    ここは東虎口櫓門ですが、復元されたものです。

    関ヶ原合戦の時は昌幸と次男の幸村が豊臣に付き、長男の信之が徳川に付いて戦うことになるが、城主の真田昌幸とその三男である真田幸村父子は上田城を攻めた徳川秀忠軍3万8千の兵と戦いそれを退けている。この時、徳川秀忠初陣で、関ヶ原に駆けつける途中、行き掛けの駄賃なのだろうか、上田城を攻めたのである。これは第2次上田の合戦といわれる。

     この東虎口櫓門で徳川軍を撃退してるが、江戸時代になって徳川が上田城を炎上させた時に、この門の焼け落ちたが、現代に入ってから復元されています。

  •  東虎口櫓門の石垣です。大きな石を使って堅ろうに造られた石垣、これらの意思を真田石と呼ばれていて、上田市街地北方の太郎山から掘り出されたもの。緑色の凝灰岩である。

     東虎口櫓門の石垣です。大きな石を使って堅ろうに造られた石垣、これらの意思を真田石と呼ばれていて、上田市街地北方の太郎山から掘り出されたもの。緑色の凝灰岩である。

    上田城 公園・植物園

    歴史のロマンを感じる真田一族三代の上田城跡 by オータムリーフさん
  •  真田石の説明板。<br /> 真田一族は1600年の関ヶ原では城主の昌幸と次男の幸村が西軍につき、長男の信之は東軍につき、東西に分かれて戦った。関ヶ原合戦では東軍に軍配があがり、真田信之は生き残り、上田城の城主となったが、その後、松代に移封されたが、その時に、真田石も一緒に持ち帰ろうとしたが、びくともしなかったと言われている。

     真田石の説明板。
     真田一族は1600年の関ヶ原では城主の昌幸と次男の幸村が西軍につき、長男の信之は東軍につき、東西に分かれて戦った。関ヶ原合戦では東軍に軍配があがり、真田信之は生き残り、上田城の城主となったが、その後、松代に移封されたが、その時に、真田石も一緒に持ち帰ろうとしたが、びくともしなかったと言われている。

    上田城 公園・植物園

    歴史のロマンを感じる真田一族三代の上田城跡 by オータムリーフさん
  •  これは東虎口櫓門の隣にある南櫓です。これも、残念ながら復元されたものであるが、でも立派なものです。<br /><br /> 徳川秀忠が上田城攻めの時も、この辺りで手痛い負け戦を展開して場所でもあるそうです。

     これは東虎口櫓門の隣にある南櫓です。これも、残念ながら復元されたものであるが、でも立派なものです。

     徳川秀忠が上田城攻めの時も、この辺りで手痛い負け戦を展開して場所でもあるそうです。

    上田城 公園・植物園

    歴史のロマンを感じる真田一族三代の上田城跡 by オータムリーフさん
  •  更に、奥に進むと、そこには真田神社がありました。中々立派な神社です。

     更に、奥に進むと、そこには真田神社がありました。中々立派な神社です。

  •  これは何でしょうね。酒樽とも書いてありましたが・・・・。

     これは何でしょうね。酒樽とも書いてありましたが・・・・。

  •  これは城内唯一の大井戸です。<br /><br /> この井戸には仕掛けがあります。それは抜け穴があったのです。籠城を余儀なくされたときに、この井戸を通り、裏にあった太郎山や城主居館にも通じていたそうです。<br /><br /> 真田の知恵ですね。

     これは城内唯一の大井戸です。

     この井戸には仕掛けがあります。それは抜け穴があったのです。籠城を余儀なくされたときに、この井戸を通り、裏にあった太郎山や城主居館にも通じていたそうです。

     真田の知恵ですね。

    太郎山 自然・景勝地

  •  これは西櫓です。駐車場から観えるのが、この西櫓ですが、これが唯一焼け残った当時のものです。<br /><br /> 尼ケ淵に臨む段丘の上に立った上田城本丸の隅櫓で、西櫓と言われています。<br /><br /> 壁の下部は板張り(見張り板)になっているが、これは初期城郭建築様式。窓は突き上げ戸「武者窓」になり、小窓が沢山つけて、矢狭間、鉄砲狭間も設けられていたそうです。

     これは西櫓です。駐車場から観えるのが、この西櫓ですが、これが唯一焼け残った当時のものです。

     尼ケ淵に臨む段丘の上に立った上田城本丸の隅櫓で、西櫓と言われています。

     壁の下部は板張り(見張り板)になっているが、これは初期城郭建築様式。窓は突き上げ戸「武者窓」になり、小窓が沢山つけて、矢狭間、鉄砲狭間も設けられていたそうです。

    上田城 公園・植物園

    歴史のロマンを感じる真田一族三代の上田城跡 by オータムリーフさん
  •  西櫓から観る上田市街地です。昔の風景はどんなだったのでしょうか。思いをめぐらすと楽しいですね。

     西櫓から観る上田市街地です。昔の風景はどんなだったのでしょうか。思いをめぐらすと楽しいですね。

  •  真田赤備え兜<br /><br /> 真田家の紋所・六文銭を兜にまぶして、大阪夏の陣では真田幸村が鎧兜を赤で統一したそうです。

     真田赤備え兜

     真田家の紋所・六文銭を兜にまぶして、大阪夏の陣では真田幸村が鎧兜を赤で統一したそうです。

  •  上田城の周りには、六文銭を付けた真田軍の旗がひらめいています。中々壮観な眺めですね。今にも、赤い兜を付けた真田幸村が現れそうです。

     上田城の周りには、六文銭を付けた真田軍の旗がひらめいています。中々壮観な眺めですね。今にも、赤い兜を付けた真田幸村が現れそうです。

  •  真田十勇士<br /><br /> 真田十勇士、それは忍者や、豪傑そして知恵者などが真田一族の影となって支え人たちです。三好伊三入道、三好青海入道、根津甚八、猿飛佐助、霧隠差才蔵等、我々にお馴染みの面々です。

     真田十勇士

     真田十勇士、それは忍者や、豪傑そして知恵者などが真田一族の影となって支え人たちです。三好伊三入道、三好青海入道、根津甚八、猿飛佐助、霧隠差才蔵等、我々にお馴染みの面々です。

  •  関ヶ原合戦で敗れた真田父子は紀州に流され、昌幸はここで亡くなり、幸村は大阪冬の陣と夏の陣で豊臣側に付き活躍した。しかし、多勢に無勢で、ついに力尽き、大阪天王子近くにある安居神社で亡くなっている。<br />これは2008年に安居神社で撮影したものです。

     関ヶ原合戦で敗れた真田父子は紀州に流され、昌幸はここで亡くなり、幸村は大阪冬の陣と夏の陣で豊臣側に付き活躍した。しかし、多勢に無勢で、ついに力尽き、大阪天王子近くにある安居神社で亡くなっている。
    これは2008年に安居神社で撮影したものです。

    天王寺駅前停留場

  •  その神社には「真田幸村戦死跡の碑」が有りました。これも2007年に撮影したものです。

     その神社には「真田幸村戦死跡の碑」が有りました。これも2007年に撮影したものです。

  •  ところで、第2次上田の合戦の時に、徳川秀忠は中山道を通り、関ヶ原に向かう途中、上田城を攻めたが、その時に兵力は3万8千と言われる。そんな大部隊が中山道の難所である碓氷峠を越えたのだが、中山道歩きの時に通った碓氷峠は細い路で物凄い登りとなる。こんな道を良くも何万の人馬が通過したのは驚きであり、当時の様子はどんなものだったか、想像すると楽しい。<br /> この写真は2010年秋に撮影した中山道の碓氷峠の道です。

     ところで、第2次上田の合戦の時に、徳川秀忠は中山道を通り、関ヶ原に向かう途中、上田城を攻めたが、その時に兵力は3万8千と言われる。そんな大部隊が中山道の難所である碓氷峠を越えたのだが、中山道歩きの時に通った碓氷峠は細い路で物凄い登りとなる。こんな道を良くも何万の人馬が通過したのは驚きであり、当時の様子はどんなものだったか、想像すると楽しい。
     この写真は2010年秋に撮影した中山道の碓氷峠の道です。

    峠の湯 温泉

  •  さて、次は「真田氏歴史館」に向かう。途中で昼食のためレストランに入るが、ここではしんりん真田御前1,250円を頂きました。美味しかったけれど、土地の美味しいものを食べたかった。

     さて、次は「真田氏歴史館」に向かう。途中で昼食のためレストランに入るが、ここではしんりん真田御前1,250円を頂きました。美味しかったけれど、土地の美味しいものを食べたかった。

    食事処しんりん グルメ・レストラン

  •  真田氏歴史館は真田一族にまつわる古文書や武具甲冑等を展示、年代に沿って配置されていて、真田三代の活躍ぶりがよくわかる。

     真田氏歴史館は真田一族にまつわる古文書や武具甲冑等を展示、年代に沿って配置されていて、真田三代の活躍ぶりがよくわかる。

    御屋敷公園 (真田氏館跡) 公園・植物園

  •  真田氏歴史館の側には真田氏館跡がある。今は公園になっていて、上田城を築城する前に住んでいたい居館の跡であった

     真田氏歴史館の側には真田氏館跡がある。今は公園になっていて、上田城を築城する前に住んでいたい居館の跡であった

    真田氏歴史館 美術館・博物館

  •  真田幸隆をはじめとする真田一族の歴史や古文書、武具などを展示して紹介している。精巧な復元甲冑や昌幸に宛てた豊臣秀吉の書状など真田氏ゆかりの品々は必見です。<br /><br /> ここは内部が撮影禁止だったので、内部の写真はありませんが、パンフレットから撮った写真を掲載します。<br /><br />

     真田幸隆をはじめとする真田一族の歴史や古文書、武具などを展示して紹介している。精巧な復元甲冑や昌幸に宛てた豊臣秀吉の書状など真田氏ゆかりの品々は必見です。

     ここは内部が撮影禁止だったので、内部の写真はありませんが、パンフレットから撮った写真を掲載します。

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