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 私がオーストラリアへ渡った時、まさかこんなに長く内陸の田舎町で暮らすようになるとは思っても見なかったのです。 <br /> それまでの私は一人旅ばかりで、点から点の旅が嫌いで線で結ぶ旅、即ち、地面を張って行く旅が好きでしたから、アメリカへも船で行き、当時パンアメリカンの片道は羽田〜サンフランシスコ間が39万円もしたのに(当時の大卒初任給は9千円程度)それを無駄にしてまでアメリカの豪華客船”プリンセルウイルソン号”に変更して12日間もかけてアメリカまで行ったり、モスクワまで「バレエ公演」を観に行くのもまずは船で(ロシアのバイカル号)横浜から出て津軽海峡を通り、ナホトカへ入り…と言った面倒くさいことが好きな変人でした。<br /> イスタンブール大学への留学を決めた時も家財道具を詰められるだけ愛車に詰めてインドの貨物船でボンベイ(今日のムンバイ)まで送り、そこからシルクロードを足で稼ぎながら目的地へと向かったものです(行く先々で学校を訪問すると文化の変化を肌で感じられたから)。<br /> 私は決して飛行機を怖がっているのではありません。 洋の東西、文化の違いを肌で感じながらこの地球を体感したいのです。 <br /> だから、日本にいるときもどこへでも車でぶらりと走らせていた。<br /> 東洋文化から西洋文化への変化は家並みが変わり、肌の色が変わり、公用語が変わり、宗教が変わり、と小さな変化の積み重ねの中で始まり、気づいたらまったく違うイスラムの世界に居たりするのが、実に楽しいと思ってきました。<br /> そんな私が定住生活を始めたところがオーストラリアのカウラでそのきっかけは息子の交換留学がきっかけだったのです笑えてきます。<br /> 人生自身が「自由旅」のようなもの、どこで行き止まりになるか、乗り換える羽目になるかも分かりません。<br /> 息子が高校一年生の時、たまたま東京都の姉妹都市、ニューヨーク市への「高校生親善大使」に選ばれニューヨーク、ワシントン、ボストンを訪れたことから外国への関心を持ち始め、翌年1年間の交換留学生としてオーストラリアへ派遣されることになった時は喜んでいた。<br /> ところが、私の親父や親戚、家族は全員反対で「あなたがいけない、いつまでも若者気分だから息子まで・・・絶対許せない!」」と泣き叫ぶ妻を横目に本人は喜んで旅発って行った。<br /> 考えてみれば弱冠17歳での一人旅。日本人が一人もいない町で英語もろくにしゃべれないそんな高校生が果たして暮らしていけるのかと思うのが母親の一番の心配で、彼の留守中は毎日泣いて暮らしていた。<br /> 妻は「こんなひどい親がどこにいるか?」と両親や兄弟に訴えていたからどこに行っても私は「悪者扱い」でした。<br /> その彼がどんな生活をしているかを見てきなさいというミッションを貰い、カウラに乗り込んだのは1989年7月でした。<br /> その年はちょうどオーストラリア建国200年に当たる年でブリスベンではエキスポ(万博)が開かれていました。<br /> 息子がオーストラリアに渡ってからわずか3か月後のことであったがすでに「親父の英語は下手だな」と言うほどになっていて親の心配など無用、まさに「何は無くても子は育つ」を実感しましたが、そんな田舎町で私は大発見したのです。<br /> そこには日本の政府が贈った立派な日本庭園があったのです(実際には東京都の援助で出来上がった庭園)。<br /> この日本庭園が唯一カウラ市の名所となっているわけですが、もう一つ忘れてはいけない大事な場所がありました。<br /> 実はこのカウラ市には第2次世界大戦中に連合軍の捕虜収容所が置かれ、約1200人の日本兵が収容されていたそうです。<br /> それが生活文化の理解の違いから大きな事件となり世界の戦争史に残る最大の大脱走事件につながっていたのです。<br /> おそらく私はそこに眠る日本兵の墓守りとして派遣されたのだと思わず運命的なカウラとの出会いを感じたのです。<br /> その後、私の訪問に対し市長主催の夕食会が開かれ、その席で過疎地を救う施策を考えてほしいと求められました。<br />(実はその頃、私は東京で役人生活でした)<br /> こうして息子の帰国と入れ替わり、私は現地に10万坪の農地を購入、放牧農業から生産農業への転換モデルの実験農園を開設、生産農業の促進をカウラ人へ呼び掛けたのです。<br /> 最近テレビ番組で「世界の村で発見!なぜこんなところに日本人」の先駆け番組「たけしと所の和風が来た」で取材に来たりTBSの「世界の危機」と言うTBSの創設50周年(?)記念番組作りで女優の新垣結衣さんが我が家へ来たり、といろいろな方との出会いがカウラの僻地であありましたが思い返すと人生とは不思議なものですね。<br /> 前置きが長くなってしまい、一人旅、”自分だけの旅作り”を私は皆さんに勧めています。<br /> オーストラリアならどこへ行っても安全、人生を急がない、のんびりな光景と生活が楽しめる旅ができるはずです。<br /> カウラ訪問の旅については長くなりますので次回に改めて書きます。 詳しく知りたい方は私のメールへ。<br />  wishbone007@hotmail.co.jp へどうぞ!   Holisun より <br /><br /><br /> 

こんなところに日本人、訪ねてみたいカウラ(オーストラリア)の歴史を知る旅!

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1992/07/14 - 2013/08/29

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Holisun

Holisunさん

 私がオーストラリアへ渡った時、まさかこんなに長く内陸の田舎町で暮らすようになるとは思っても見なかったのです。 
 それまでの私は一人旅ばかりで、点から点の旅が嫌いで線で結ぶ旅、即ち、地面を張って行く旅が好きでしたから、アメリカへも船で行き、当時パンアメリカンの片道は羽田〜サンフランシスコ間が39万円もしたのに(当時の大卒初任給は9千円程度)それを無駄にしてまでアメリカの豪華客船”プリンセルウイルソン号”に変更して12日間もかけてアメリカまで行ったり、モスクワまで「バレエ公演」を観に行くのもまずは船で(ロシアのバイカル号)横浜から出て津軽海峡を通り、ナホトカへ入り…と言った面倒くさいことが好きな変人でした。
 イスタンブール大学への留学を決めた時も家財道具を詰められるだけ愛車に詰めてインドの貨物船でボンベイ(今日のムンバイ)まで送り、そこからシルクロードを足で稼ぎながら目的地へと向かったものです(行く先々で学校を訪問すると文化の変化を肌で感じられたから)。
 私は決して飛行機を怖がっているのではありません。 洋の東西、文化の違いを肌で感じながらこの地球を体感したいのです。 
 だから、日本にいるときもどこへでも車でぶらりと走らせていた。
 東洋文化から西洋文化への変化は家並みが変わり、肌の色が変わり、公用語が変わり、宗教が変わり、と小さな変化の積み重ねの中で始まり、気づいたらまったく違うイスラムの世界に居たりするのが、実に楽しいと思ってきました。
 そんな私が定住生活を始めたところがオーストラリアのカウラでそのきっかけは息子の交換留学がきっかけだったのです笑えてきます。
 人生自身が「自由旅」のようなもの、どこで行き止まりになるか、乗り換える羽目になるかも分かりません。
 息子が高校一年生の時、たまたま東京都の姉妹都市、ニューヨーク市への「高校生親善大使」に選ばれニューヨーク、ワシントン、ボストンを訪れたことから外国への関心を持ち始め、翌年1年間の交換留学生としてオーストラリアへ派遣されることになった時は喜んでいた。
 ところが、私の親父や親戚、家族は全員反対で「あなたがいけない、いつまでも若者気分だから息子まで・・・絶対許せない!」」と泣き叫ぶ妻を横目に本人は喜んで旅発って行った。
 考えてみれば弱冠17歳での一人旅。日本人が一人もいない町で英語もろくにしゃべれないそんな高校生が果たして暮らしていけるのかと思うのが母親の一番の心配で、彼の留守中は毎日泣いて暮らしていた。
 妻は「こんなひどい親がどこにいるか?」と両親や兄弟に訴えていたからどこに行っても私は「悪者扱い」でした。
 その彼がどんな生活をしているかを見てきなさいというミッションを貰い、カウラに乗り込んだのは1989年7月でした。
 その年はちょうどオーストラリア建国200年に当たる年でブリスベンではエキスポ(万博)が開かれていました。
 息子がオーストラリアに渡ってからわずか3か月後のことであったがすでに「親父の英語は下手だな」と言うほどになっていて親の心配など無用、まさに「何は無くても子は育つ」を実感しましたが、そんな田舎町で私は大発見したのです。
 そこには日本の政府が贈った立派な日本庭園があったのです(実際には東京都の援助で出来上がった庭園)。
 この日本庭園が唯一カウラ市の名所となっているわけですが、もう一つ忘れてはいけない大事な場所がありました。
 実はこのカウラ市には第2次世界大戦中に連合軍の捕虜収容所が置かれ、約1200人の日本兵が収容されていたそうです。
 それが生活文化の理解の違いから大きな事件となり世界の戦争史に残る最大の大脱走事件につながっていたのです。
 おそらく私はそこに眠る日本兵の墓守りとして派遣されたのだと思わず運命的なカウラとの出会いを感じたのです。
 その後、私の訪問に対し市長主催の夕食会が開かれ、その席で過疎地を救う施策を考えてほしいと求められました。
(実はその頃、私は東京で役人生活でした)
 こうして息子の帰国と入れ替わり、私は現地に10万坪の農地を購入、放牧農業から生産農業への転換モデルの実験農園を開設、生産農業の促進をカウラ人へ呼び掛けたのです。
 最近テレビ番組で「世界の村で発見!なぜこんなところに日本人」の先駆け番組「たけしと所の和風が来た」で取材に来たりTBSの「世界の危機」と言うTBSの創設50周年(?)記念番組作りで女優の新垣結衣さんが我が家へ来たり、といろいろな方との出会いがカウラの僻地であありましたが思い返すと人生とは不思議なものですね。
 前置きが長くなってしまい、一人旅、”自分だけの旅作り”を私は皆さんに勧めています。
 オーストラリアならどこへ行っても安全、人生を急がない、のんびりな光景と生活が楽しめる旅ができるはずです。
 カウラ訪問の旅については長くなりますので次回に改めて書きます。 詳しく知りたい方は私のメールへ。
  wishbone007@hotmail.co.jp へどうぞ!   Holisun より


 

旅行の満足度
4.0
観光
3.5
ホテル
3.5
グルメ
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
100万円以上
旅行の手配内容
個別手配
  • カウラの我が家のレストランでは日本食を提供していましたが、人気は高く、わざわざキャンベラから食事に来てくれるお客さんもいました。

    カウラの我が家のレストランでは日本食を提供していましたが、人気は高く、わざわざキャンベラから食事に来てくれるお客さんもいました。

  •  カウラは熱気球のメッカ、カナンドラの隣町、何度も熱気球に乗りましたが大空散歩はいいものです。 今は真夏で気球の時期ではありませんが、3月から冬の間は楽しめます。

     カウラは熱気球のメッカ、カナンドラの隣町、何度も熱気球に乗りましたが大空散歩はいいものです。 今は真夏で気球の時期ではありませんが、3月から冬の間は楽しめます。

  • 我が家の丘の上に上がると毎日こんな夕日がひずみ、満天の星空に変わります。 カウラの最大の「おもてなし」の一つはこの星空です。<br />

    我が家の丘の上に上がると毎日こんな夕日がひずみ、満天の星空に変わります。 カウラの最大の「おもてなし」の一つはこの星空です。

  • 手作りの温室、名付けて「花無心」、良寛和尚さんの言葉をいただき、野原の雑草のように名もなくても強く行きたいと願っていました。

    手作りの温室、名付けて「花無心」、良寛和尚さんの言葉をいただき、野原の雑草のように名もなくても強く行きたいと願っていました。

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