2014/01/07 - 2014/01/11
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しんちゃんさん
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田中正造が足尾銅山鉱毒事件の事務所を構えた「雲龍寺」群馬県館林市下早川田町1896 奇しくも、最後はこのお寺のすぐ近くの農家で倒れ、このお寺で密葬が行われました。
「田中正造生家(田中正造旧家)」栃木県佐野市小中町975 亡くなる前に邸宅と田畑は地元に寄付をしました。現在地元では小中農教倶楽部として管理・運営しています。
「レンガ工場跡」(シモレン煉瓦窯跡)(旧下野煉化製造会社煉瓦窯)栃木県下都賀郡野木町 今回の各種見学前に訪問した変わった建造物があります。図らずも旧谷中村と深いつながりがありました。詳しく調べていくうちにレンガの材料は旧谷中村から産出したのでした。
写真は「正造の甥が撮った写真でにこやかな笑顔で映っています。普通の田中正造の写真は写真屋さんが撮っており、堅苦しい顔で映っています」との説明員のお姉さんが語ってくれました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 自家用車
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「雲龍寺」群馬県館林市下早川田町1896
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佐野市のHPからコピーです。【鉱毒の被害に苦しんだ住民の代表は、政府に訴えるために、3度東京に出向きました。この上京請願運動を「押し出し」といいました。しかし、その効果がなかったので、1900年(明治33年)2月13日の夜明け、数千人の農民たちが群馬県の雲龍寺に集まり、4度目の上京請願に向けて出発しました。人々が利根川を渡るため、川俣宿(現在の明和町)近くに来た時、待ち構えていた警官隊とぶつかりあいました。警官たちは「解散しろ」と叫びながら農民におそいかかり、大勢の人たちを逮捕したり、追い払ったりしたのです。
後年、正造は「真の文明は、山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」の言葉を残し、暴力的な行為を否定しています。】 -
本堂へ向かう参堂の左側に田中正造のお墓がありました。
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渡良瀬川の堤防が南側にあります。茶色い土手の向こう側が渡良瀬川です。田中正造が大正2年に倒れた農家“庭田家”の場所は現在の渡良瀬川河川敷の中にありました。ここから東へ約400mです。家は改修工事時に北側へ曳家(引家)され家は当時のままだそうです。詳しい情報を持たずにうろうろして探したが3軒の家が庭田という苗字であり今回は探すのを諦めた。次回訪問したい!
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説明版、自分で読んでください。
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救現堂
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墓石
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【正造は、鉱毒事件で活動するための資金調達に奔走していた1913(大正2)年8月8日、体調不良を訴え、支援者だった隆次さんの曽祖父、庭田清四郎宅に駆け込んだ。縁側から転がり込むように倒れ込んだという。庭田家は夏の農作業を放り出し、亡くなるまで34日間にわたり看病を続けた。】田中正造 没後100年 「終焉の家」栃木・佐野 史跡指定(13年9月4日配信『東京新聞』 )より
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救現堂の扁額
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救現堂内部
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新潟第二水俣病を慰める「阿賀地蔵を送る会」から寄贈された地蔵
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地蔵の説明版_足尾鉱毒事件を生かされず、水俣病・第二水俣病が発生したのは昭和の時代です。
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本堂扁額
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参堂右側の水琴窟(すいきんくつ)
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竹筒に耳を付けると高く澄んだ音色の水音が聞こえました。
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佐野ラーメンとイモフライを昼食として、この日の最後の見学地に到着しました。
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県道の南側に田中正造のお墓
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墓碑
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墓碑の下側は逆行と柵が邪魔で見えなかったが、田中正造旧家資料の中に(2枚下の写真)拓本がありました。
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「田中正造生家(田中正造旧家)」資料館 大人300円 高校生以下無料 小中町(地元)の方は無料
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墓碑の拓本(縮小)
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墓碑の拓本(縮小)
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概略の年表
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油のお店も経営していました。そのときの看板
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土間には井戸の跡(建物は道路拡張で移動したためレプリカです)
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隠居所_大正初期撮影(隠居所はお店も兼ねていました)生家は別にあります。
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渡良瀬川で採取できる桜石_田中正造が客死したときに同様な石を持っていました。
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明治天皇に直訴した概略
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田中正造家系
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田中正造翁墓碑建立 墓参記念写真 大正6年3月
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隠居所と生家(母屋)の間の庭にサルスベリの木
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説明版からです【田中正造を見て育ったさるすべり(百日紅) 苗木は隠居所の建設と同時期に植えられたと推定されます。他の庭木は樹齢を全うして若木と交代しましたが、この木だけが長寿を保ち、夏には美しい花を咲かせています。】
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隠居所の北側に生家があります。生家はお医者さんに住まわせ地元の病気を治すために無料提供したと説明員に聞きました。
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田中正造邸宅(母屋)説明版
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田中正造全集 黒澤酉蔵(くろさわとりぞう )等が編纂しました。黒澤酉蔵は田中正造へ弟子入りし後に雪印の前身「北海道製酪販売組合」を創設しました。
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田中正造全集
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「小中農教倶楽部」歴代代表者
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パンフレットからの農教倶楽部の説明です。【晩年の田中正造は、自己の家屋を含む全財産を小中村に寄付し、産業の復興と精神の回復に努めてほしいと望んでいた。1913(大正2)年8月10日、小中村の住民185名は田中家の隠居所に集まり、「小中農教倶楽部」を設立して病床の正造に報告した。以来、小中農教倶楽部は田中旧宅の維持管理に当り、その活用を図ると共に、正造夫妻の追善供養を毎年9月1日に行っている。なお農教倶楽部は、正造の意向に副った呼称である。】
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田中正造が好きだった漢字「愛」
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田中正造のお墓、5箇所ありましたが、平成になって6箇所あることが判りました。
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愛用した椅子
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詳しく説明を聞いていたら暗くなってしまった。充実した田中正造遺構探索日であった。
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この日朝一番に見学した「シモレン煉瓦窯跡」「旧下野煉化製造会社煉瓦窯」国指定重要文化財です。昨年夏見学に行きましたが工事中のため「もう終わったかな?」と再度行きました。まだ工事中でした。
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この「乗馬クラブクレイン栃木」敷地にあります。休み?
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敷地の外に説明版がありました。
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南側に馬場があり練習中の方がいました。シモレン煉瓦窯の煙突の大きさが比較できます。赤レンガの主材料の粘土と砂は谷中村内からとれました。はじめに谷中村下宮(パート1の三県の境界近く)に仮工場が建設されました。そこで生産されたレンガで野木町に本格的レンガ工場が建設されました。ホフマン式輪窯は、日本国内で4ケ所のみ。
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この日、二番目に見学した「田中正造翁遺徳之賛碑」場所は古河市の雀神社をヒントに右往左往した。分かり易い場所の説明は“古河市営の「古河リバーサイドクラブ」或いは「古河ゴルフリンクス」西側の渡良瀬遊水地土手の上”と言った方が良い。朝は古河ゴルフリンクスからコースへカートが出て行く場所でもあった。ま・北側に雀神社があったが…
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ブロンズのレリーフは田中正造が明治天皇に直訴する場面と農民が描かれていました。説明版は直訴文らしいが逆光と文字盤が斜めで、非常に読みにくかった。
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【谷中村が藤岡町に併合されて廃村となった明治39(1906)年から一世紀を迎えことを記念して、田中正造の顕彰碑を建てる活動が、「田中正造翁顕彰之碑を建る会」で進められてきた。05年10月30日、関係者を100名ばかり集めて除幕式が行われた。昨年10月以来賛同者の募金を募ってきたが、多くの賛同者を得てこの程の披露となった。建碑は「田中正造を後世に伝える会」となっている。】「渡良瀬短信」コラムの田中正造翁遺徳之賛碑より引用です。「http://www.asahi-net.or.jp/~fd7y-hys/column/co-fl.html」・・・続く・・・
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