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奈良 長谷寺に床もみじを求めて行きました、朝、8時過ぎ到着。どの駐車場もガラガラ。一番近いところに停めて長谷寺に。なんと開門している・・・・シーズン中は、少し早くあけるそうでなんとラッキー。ここで怪談いや階段が心配。300段あるそうな。最悪、正門から出るらしいバスを使うかと思ったが意外にゆるい階段なので一安心。行ったときは、5人くらいの客でした。人のいない階段や本堂など散々楽しみました。写真を撮りながらぼちぼち上がるので死にそうにはなりませんでした。色々写しながら、本堂に。床もみじはどこだと思うとありました。・・・・朝の斜光で床に光が・・・・事前情報では昼過ぎが一番との情報だったのですが、人がいやで朝出にしました。1時間ほどすると陽が高くなり、何とか撮影。もう紅葉も散り始め。次は雪の長谷寺を写したく思いました。<br /><br />長谷寺<br />長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。<br /><br />大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。<br /><br />来歴<br />長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。<br /><br />長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。<br /><br />長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺[1] であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。<br /><br />十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。<br /><br />

最後の紅葉 奈良 長谷寺 床もみじを求めて

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2013/11/30 - 2013/11/30

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bakaneko

bakanekoさん

奈良 長谷寺に床もみじを求めて行きました、朝、8時過ぎ到着。どの駐車場もガラガラ。一番近いところに停めて長谷寺に。なんと開門している・・・・シーズン中は、少し早くあけるそうでなんとラッキー。ここで怪談いや階段が心配。300段あるそうな。最悪、正門から出るらしいバスを使うかと思ったが意外にゆるい階段なので一安心。行ったときは、5人くらいの客でした。人のいない階段や本堂など散々楽しみました。写真を撮りながらぼちぼち上がるので死にそうにはなりませんでした。色々写しながら、本堂に。床もみじはどこだと思うとありました。・・・・朝の斜光で床に光が・・・・事前情報では昼過ぎが一番との情報だったのですが、人がいやで朝出にしました。1時間ほどすると陽が高くなり、何とか撮影。もう紅葉も散り始め。次は雪の長谷寺を写したく思いました。

長谷寺
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。

大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

来歴
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺[1] であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

旅行の満足度
4.5
交通手段
自家用車
  • 朝の8時半

    朝の8時半

  • 深秋の陽の光

    深秋の陽の光

  • 段差が少なく意外に楽だった。不通の階段なら地獄

    段差が少なく意外に楽だった。不通の階段なら地獄

  • 秋の色がじんわり

    秋の色がじんわり

  • この空は格別でした

    この空は格別でした

  • 一発目の階段を上がると落ち葉の絨毯

    一発目の階段を上がると落ち葉の絨毯

  • 階段の側溝に秋の光が

    階段の側溝に秋の光が

  • 二発目の階段

    二発目の階段

  • 3発目の階段を上がるとまずは床もみじ

    3発目の階段を上がるとまずは床もみじ

  • 人がいない・・・・グッド

    人がいない・・・・グッド

  • 長谷寺の刻印が

    長谷寺の刻印が

  • ええなあ

    ええなあ

  • うれしいうれしい

    うれしいうれしい

  • 秋色

    秋色

  • なにやら相談

    なにやら相談

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