2013/10/26 - 2013/10/27
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nao520さん
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10月27日 西夏王陵内にある西夏博物館です。道順からいうと博物館⇒王陵という順番になっています。西夏のことを一通り勉強してから王陵を見るというコースです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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西夏陵門からは電動バスに乗り込む。最近、中国での観光地はこのパターンが多いような気がする。
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歩くと結構ある
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壁には西夏文字がびっしりと描かれている
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西夏博物館
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西夏博物館の建物
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博物館を入るとすぐ正面にこの展示物がある。
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西夏国の支配民族、タングート族はもともとチベット高原東北部に住んでいたが、吐蕃(チベット)族の勢力が強くなりさらに東北のこの地、黄河が大きく湾曲するオルドス地方に移住してきた。
オルドスは黄河の水と温暖な気候なため古来より民族攻防の歴史が繰り広げられてきた。 -
宋の初期のころの西夏王国を取り巻く諸国。北に遼、東南に宋、南西に吐蕃、西にウイグル。
西夏は遼と宋と争い、外交をしながら勢力を保った。
シルクロードの祁連山脈北側の河西回廊を勢力下おき交易路を握っていたため大いに栄えた。 -
西夏はその首都を今の銀川に置いた。興慶府と言った。
近くには南北200キロにわたり賀蘭山が連なる。 -
専門の説明員がつく
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建国した李元コウから十代続いた王朝。
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賀蘭山から出土した石器時代の壁画片
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賀蘭石に書かれた西夏文字
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副葬品か出土品
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箸は木製なのによく保存されている
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建国した李元コウ。彼はシルクロードの要衝を押さえた国力を背景に独立国をつくり、独自の文化を打ちたてようとした。文字はそれを表すものであった。背は五尺あまりの小男だったという。
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性格は勇敢剛毅、計略、智謀、軍事にすぐれた英傑で、しかも芸術的才能もあり絵を描くこともうまかったという。仏教、漢文にも通じていた。
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西夏時代の戦闘服。鉄かたびら・
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底には西夏文字が書かれている
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手鏡となんでしょう?
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西夏文字の彫りこまれた石片
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李元コウは、独自の文化を築くため文字を創出した。
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官女たちのようだ。
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当時の風俗を垣間見ることができて興味深い
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西夏は仏教国家だった。
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陵墓の復元模型をみると、きらびやかであったことがわかる
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献殿の後ろに墓への入り口があり、24メートルもの深さに墓を置いた。その位置は盗掘を防ぐため塔の真下ではなくずらされている。
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六号陵は李元コウの父李徳明の墓だということが判明した。
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多く出土された人面鳥
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建物の支え石
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牛は聖なるものと考えられていたらしい。
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宏佛塔の模型。この塔は銀川市内にあったらしく、下が漢様式、上はラマ様式というユニークなものになっている。
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博物館隣の西夏歴史館。
昔々、吐蕃に圧迫されてオルドスに移住してきた様子 -
西夏の民衆の髪型は特徴がある
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李元コウは皇帝であったが、黄色ではなく白の服をきている
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1038年10月建国
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「父子反目」即位10年。天下太平の中、李元コウは酒と色に溺れ政務を国相にまかせっきりで省みなくなっていた。
息子の寧令コの嫁を横取りして終日離宮で過ごした。
寧令コはそれを根に持って李元コウを殺そうとした。鼻を削がれた李元コウはそれが原因で翌日この世を去った。 -
銀川市内に現存する承天時建立のいきさつが書かれている。
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髪型からいろいろな民族の人が集まっているのがわかる
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チンギスハーンは西夏攻略中にこの世を去った。
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「西夏王国の滅亡」西夏の都興慶府はモンゴル軍に半年包囲され、兵糧も尽きる。さらに、強い地震が起こり建物倒壊、疫病流行。終に10代皇帝は降伏。
モンゴル軍は場内のすべての民兵を殺戮。これにより、タングート族は滅亡した。 -
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太祖 李継遷
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太宗 李徳明
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李元コウ
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