2013/06/09 - 2013/06/09
1292位(同エリア2034件中)
滝山氏照さん
約500年近く続いた新羅三郎義光を祖とする甲斐武田一族の最後の武将勝頼(かつより、1546~1582)が織田・徳川の攻勢を受け、併せて永年の重臣であった郡内を支配する小山田信茂(おやまだ・のぶしげ、1545~1582)の裏切りにあい、不本意にも天正10年(1582)天目山で自害します。
天正元年(1573)に信玄が死去、異母兄の勝頼が陣代ながらも家督を継承、信玄五女松姫は兄の仁科盛信(にしな・もりのぶ、1557~1582)の所領する信濃伊奈高遠に移ります。
天正10年、織田・徳川連合軍が伊奈口から攻めたて、盛信は織田の降伏呼掛けるも盛信はこれを拒否、徹底抗戦しますが抗しきれず自害、信玄の娘松姫は盛信の遺児を連れて勝頼たちとは別行動をとり、武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市)の金照庵(現在の八王子市上恩方町)に逃れ身を寄せます。
同年秋には松姫は心源院(しんげんいん、東京都八王子市下恩方町)に移り、仏門に入り信松尼(しんしょうに)と称して父信玄をはじめとする武田一族と婚約者であった織田信忠(おだ・のぶただ、1557~1582)の冥福を祈る日々を送ります。
天正18年に八王子の御所水(現在の八王子市台町)の粗末な庵に移り寺子屋で近隣の子供たちに読み書きを教え、蚕を飼って絹織物を造り手にした収入で、幼い姫たちを養育したそうです。
徳川家康が関東に移封、家康から命を受け八王子に代官頭として赴任した旧武田家臣の大久保長安(おおくぼ・ながやす、1545~1613)は信松院のため草庵(現在の信松院)を造るなどして惜しみない支援をします。
また甲斐との国境を護るため長安によって組織化された八王子千人同心(主として旧武田家臣から構成される)たちにとっては心の支えでありました。
信松院は元和2年(1616)に56歳の波乱に満ちた生涯を終えました。信松院のお墓は草庵(信松院)に在り、女性を中心に多数の参拝の人々の姿が見られます。
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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心源院社標
都道61号からの入口に「心源院」と刻した石碑が建立しています。「心源」は「信玄」に通じることから武田信玄又は武田家に縁のある寺院と思われます。 -
小谷田子寅石碑
小谷田子寅(こやたしいん)は八王子千人同心で特に医学に明るく診断を求める人、薬を求める人が跡を絶たず常に人々に慕われていた人物で、この美徳を讃えるため同心の中で碩学の塩野適斎(しおの・てきさい、1775~1847)が撰文、植田孟しん(うえだ・もうしん、1758~1844)が揮毫した貴重な石碑だそうです。 -
小谷田子寅説明板
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四脚門
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山本万次郎墓
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山本万次郎墓
天然理心流の山本道場を開き、数多くの門下生を指導しました。 -
心源院参道
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鐘楼堂
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心源院由緒記念碑
開山は季雲永岳大和尚、開基は武蔵国守護代であった大石源左衛門道俊です。天正年間には八王子城主北条陸奥守氏照の祈願所となっています。北条氏滅亡後は徳川家康から朱印20石を拝領しています。 -
心源院由緒記念碑
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心源院本堂
正式には深澤山心源院という漕洞宗の寺院で創建は延喜年間(901~923)と言われています。 -
心源院扁額
「心源院」の扁額が掲げられています。 -
心源院境内風景
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心源院境内風景
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