2013/05/01 - 2013/05/01
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frau.himmelさん
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今年はワーグナー生誕200年、生まれ故郷ライプチヒではさぞかし賑わっていることでしょう。
ところがワーグナーの足跡はどこにも見当たらないのです。
帰国後、NHKのBSニュースを何気なく見ていたら、
5月22日の誕生日当日、ワーグナーの足跡を記念する小さな博物館と、なんとも漫画チックなワーグナーの像が披露されたとのこと。
その像の後には、像本人より何倍も大きい背後霊が憑いていました。
表紙の写真はネットよりコピーしました。
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新市庁舎の前のブルク通りを北に向います。
トーマス教会が見えてきました。 -
トーマス教会の前には、ヨハン・セヴァスチアン・バッハの像。
以前ツアーのガイドさんがこんな説明をしてくれました。
このバッハ像の上着のポケットが裏返っているのは「お金がない」とアピールしているんだとか、またチョッキの上から2番目のボタンが外れているのはさっと指揮棒をしまうためだとか。
子沢山のバッハの生活はそんなに豊かではなかったようです。
" -
教会の入り口。
トーマス教会は、ヨハン・セバスチャン・バッハゆかりの場所、
世界的に有名なトーマス教会少年合唱団の活動拠点として知られています。 -
祭壇の方向
バッハは、1723年から1750年までトーマス教会音楽監督(トーマスカントル)を務めました。
バッハはここで少年たちの合唱指導にあたりながら、数々の傑作を書き上げています。 -
祭壇
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正面の内陣には、ど真ん中に大きなバッハの墓碑があります。
第二次世界大戦によって、それまで安置してあった聖ヨハネ教会が破壊されたため、バッハにゆかりのこの教会に墓が移されたものだそう。 -
教会の中は、ワイン色と白とのコントラストが美しい。
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説教壇
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古い方のパイプオルガンは、オルガン製作者ヴィルヘルム・ザウアーが1889年に制作した「ザウアーオルガン」
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こちらは2000年に製作された「バッハ・オルガン」。
バッハが演奏した当時のオルガンは残っていないけど、バッハ年2000年を記念して、バッハ時代のオルガンを忠実に再現したオルガンだそう。
演奏会では、バッハの曲はこちらで演奏されるそうです。 -
その向かい側には、バッハのステンドグラス。
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こちらには、ライプチヒにとって重要なもう1人の音楽家メンデルスゾーンのステンドグラスもあります。
ライプツィヒに活動拠点を移したメンデルスゾーンは、バッハの曲「マタイ受難曲」を100年ぶりにここトーマース教会で再演しました。 -
マルティンルターのステンドグラス。
やはりここにもワーグナーのステンドグラスはありませんね。
彼はこの教会で洗礼を受けているそうなのですが・・・ -
マルティン・ルターは、1539年宗教改革の際にこの教会で布教を行ったそうです。
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トーマス教会を後にして・・
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マルクト広場にやってきました。
なにやら物々しい感じ。パトカーが行き交っています。
マルクト広場に面して建つルネッサンス様式の建物は旧市庁舎。
現在はライプツィヒ市歴史博物館として利用されています。 -
マルクト広場にずらーっと並んだなぞの物体!?
これは何だと思いますか?
実は公衆トイレの行列なのです。 -
今日は5月1日、メーデーなのでした。
マルクト広場では、労働組合の集会やイベントをやっていました。 -
メーデーの日って学校もお休みなのかしら?
子供たちも楽しそうね。 -
旧市庁舎の塔を眺めながら、旧市庁舎の裏手に回ってみましょう。
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ここはナッシュマルクト。
若き日のゲーテ像が立っています。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832)は若い頃、ライプツィヒ大学で法学を学んでいました。
しかし、ゲーテも人の子、勉学よりも遊びや恋に夢中で、結局体を壊し、3年ほどで大学を中退してフランクフルトに帰ってしまいます。
このゲーテ像、目線は大学のほうにありますが、足先はゲーテが通い詰めた居酒屋の方を向いているそうです(笑)。 -
ゲーテ像の後ろにある白い建物は、旧交易会館
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ナッシュマルクト側の旧市庁舎
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その突き当りにはレーヴェンブルンネン(ライオンの泉)
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その前がメードラーパッサージュです。
ここの「アウアーバッハスケラー」で食事をします。
今まで何回か来たことがありますが、昨日ヴェルニゲローデからの帰りの列車でお会いした、まるで魔女の扮装のまま乗り込んだかのような母娘にも薦められたのです。
「アウアーバッハスケラーは行きなさい。」って。 -
メードラーパッサージュはまだ開いていません。
開店を待っている人たちが大勢。
ここはゲーテが若い頃通いつめた居酒屋なのです。
正面入り口にはゲーテの「ファウスト」の中の、ファウスト博士と悪魔メフィストフェレス。
この写真では判りませんが、ファウスト博士の靴先に触ると、幸運が訪れるとか、ライプチヒに戻ってこれるとか言われているそうです。
足先がピカピカになっていました。 -
反対側にはファウストの別な場面が・・。
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なんとメードラーパッサージュは、2013年で100周年を迎えるのですって。
100年の歴史が展示してあります。
レストランが開くまでそれらを見て歩きます。 -
カバン職人だったアントン・メドラー(1864-1925)が、1911年にアウアーバッハス・ホーフを購入し、1913年商店街として整えます。
彼の名前を冠して「メードラーパッサージュ」と名付けられました。
ミラノのパッサージュを手本に造られたこの壮麗な雰囲気は、ライプチヒを訪れる旅行者を魅了してやみません。 -
さて天井から展示してある年代ごとのサークル、私なりに歴史のお勉強をしながら。
1914年ー1932年。
第一次大戦勃発、ドイツ敗戦のあと、ワイマール共和国を経てナチスの時代を迎えた頃でしょうか。
経済的には戦争による莫大な補償金の支払い、世界恐慌を経るものの、ドイツは黄金の30年代を迎えました。 -
1918年 第一次世界大戦の敗戦の責任を取ってヴィルヘルム2世は退位した。
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1933-1945
1933年ヒトラーが帝国宰相に任命され、これより暗黒の恐怖政治、第二次世界大戦、そしてドイツの敗戦と、歴史的に大きなうねりを迎えた時代でした。 -
1946-1969年。
戦争に負け、ドイツは米英仏ロの共同統治下におかれます。
そして世界はまっ2つに分断され、冷戦時代に突入します。 -
1989年10月9日
ライプチヒの月曜デモがきっかけとなり、東西ドイツ統一へと動き出しました。
デモ隊が掲げたプラカード「Wir sind das Volk!:われこそが国民だ!」。 -
アウアーバッハスケラーが開きました。
私たちも中に入ります。
1525年創業の老舗レストラン「アウアーバッハス・ケラー」です。 -
ナプキンを広げると、「ファウスト」の場面の絵
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私はいつものようにワインを、Y子さんはトマトジュース。
昨日、ベルニゲローデからの帰りの列車で知り合った、魔女の服装をしているかと思った母娘、彼女らが薦めてくれた「ザウアーブラーテン」をいただきたいと思いました。
だけど係りの店員さんに「ザウアーブラーテンはないけど、このメニューのシュヴェイネブラーテンがそれに似ているわよ」って言われました。 -
シュヴァインブラーテン。
ザウアーブラーテンはマリネした牛肉を料理したものですが、こちらは豚肉を調理したもの。
こちらも美味しかったです。 -
付け合せは3種類。
クネーデルと紫キャベツのザウアークラウト、それにコロッケ。 -
店内は、ゲーテのファウストの物語に関する壁絵などがあちこちに。
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その中で特に興味深いのは森鴎外の絵。
ドイツ留学中の若き日の軍服姿の鴎外と、鴎外にファウストの翻訳を進めた友人の井上哲次郎、そしてその後ろには悪魔メフィストフェレスとファウスト博士が立っています。
もう一人の和服姿の鴎外は、過去の自分を振り返る晩年の鴎外、という設定になっているそうです。 -
鷗外のライプツィヒ留学と、ファウスト翻訳を記念して2009年にこの壁画ができました。
日本人にとって、このレストランはとても有名なお店ですものね。
ライプチヒの都市伝説には、
「アウアーバッハスケラーがある旧市庁舎周辺には、必ず日本人観光客がいる。しかもみんな「地球の歩き方」を手に持っている」という言い伝えがあるそうです(笑)。 -
売店にはゲーテのファウスト関連のものや、ライプチヒに関係が深いお土産が置いてありました。
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バッハ、ゲーテ、ルター、メンデルスゾーン、シラーそれにファウスト。
ほっ、ワーグナーもありました。 -
食事が済んで、メードラーパッサージュのお店を覗いてみます。
ブランド店が軒を連ねているこの商店街。
私たちは、お嫁さんへのお土産のバッグや財布を見ました・・
でもこの円安ではねぇー。円に換算すると余りの高さにちょっと考えてしまう値段になってしまいます。
結局何も買わず・・・。 -
ニコライ教会にやってきました。
ライプチヒで一番大きな教会です。
私は2009年の10月7日にここを訪れたことがあります。
ドイツの歴史に劇的な変化をもたらしたライプチヒの「奇跡の行進」の20年記念の2日前でした。
ベルリンの壁崩壊のさきがけとなった、7万人の非暴力デモが、ここであったのです。 -
その時は、このニコライ教会のみならず、ライプチヒの町中が記念日に向けて沸き立っていました。
駅にも道路にも記念のポスターで溢れかえっていました。
実は今回のワーグナー生誕200年も、きっとそうなっていると思っていたのです。 -
内部はとても明るい教会、大勢の見学者。
東ドイツ時代、ここでは東西冷戦の緊張の中で毎週月曜に「平和の祈り」が開かれるようになり、その規模は次第に拡大してゆきました。
そして1989年10月9日、7万人に膨れ上がった参加者が口々に
「(Wir sind das Volk!)我々こそ国民だ!」
と叫びながら街をデモ行進しました。
当時のDDRは、秘密警察、警官隊、軍隊まで出動させますが、なすすべもなく見守るしかありませんでした。
ここに東ドイツ平和革命の口火が切られたのです。
瞬く間に東ドイツ全土に革命は広がり、遂にその1ヶ月後にはベルリンの壁が崩壊したのです。
そして、わずか1年後には東西ドイツが統一されました。
ものすごい歴史のうねりでした。 -
ヨハン・セバスチャン・バッハは、トーマス教会音楽監督在任中、ここで『ヨハネ受難曲』や『クリスマス・オラトリオ』などを初演したといわれています。
現在、教会内にはバッハを讃えた胸像が置かれています。 -
教会の内部には、教会とは思えないようなシュロの木をかたどった列柱が並んでいます。
その奥に見えるパイプオルガンは、6,804本のパイプと5段の鍵盤を持つドイツ有数の大きさを誇ります。 -
当時の月曜集会のシンボルマーク。
今でもこの月曜集会の「平和の祈り」は途絶えることなく続いているそうです。
そして祈りの終了後には、小規模ながらデモ行進も行われているとか。 -
教会の外に出ました。
広場の一角にはニコライゾイレ(ニコライ記念柱)。
シュロの木に似たあの教会の柱が、「東西ドイツ統一の出発点」のシンボルになっています。 -
教会の壁に掲げてあったこの印は、ヨーロッパ文化遺産の印章。
「Eiserner Virhang:鉄のカーテン」を啓いた文化遺産の印象。
ニコライ教会のほかには、
・ベルリンの壁
・グリニッケ橋(たしか東西ドイツのスパイ交換の場所だった?)
・ポイントAlpha(チェックポイント・チャリーと同じような検問所?)
・ライプチヒのルンデン・エッケ(秘密警察博物館)
・ツェツィリエンホーフ宮殿(ポツダム会議が行われた)
などの名前がありました。 -
教会の前のニコライシューレ。
ワーグナーは1828年から1830年までこの学校に通いました。
帰国後、何気なくNHKのBS世界のニュースを見ていると、
なんとここにワーグナーの生誕200年を記念した小さな博物館が出来たと放送していました。 -
まさに今回私が捜し求めていたものだったのですが、ちょっと訪れるのが早すぎたようです。
でも、私たちが訪れたのは5月1日、ワーグナーの誕生日は5月22日なのです。
ちょっと博物館の開設が遅すぎるとは思いません?
こんなところにも、ライプチヒがワーグナーに対してなんだか冷淡だなーと感じました。
それだけではありません。
5月22日、ライプチヒでは、ワーグナー生誕から200年を記念してワーグナー像のお披露目が行われました。 -
これがそう。
ワーグナーのイメージを根底から覆す漫画チックな像だと思いません?
如何に若い日のワーグナーだと言え、これは余りにもひどい!
それに像よりもはるかに大きな影。なぜこんなものが付いているのでしょう。
これはワーグナーの反ユダヤ主義、ナチスに利用されたワーグナーの音楽、それにヒトラーと親しかったワーグナー家のこと、それらもろもろの負の遺産が、ワーグナー本人より遥かに大きな影として重くのしかかっているのでしょうか。
とても意味深長な像だと思いました。
なおこの写真はネットからコピーしました。 -
ワーグナーの足跡は見つからなかったけど、もう少し時間があるので、ワーグナー広場というところに行ってみたいと思います。
ここはブリュール通り、壁一面にカラフルな絵が・・。
よく見ると、平和の行進の絵ではありませんか。 -
壁一面に大勢の民衆。
一目で1989年のデモの様子だとわかります。
文字をよく見ると、「われわれこそが国民だ」「平和」「壁なんかいらない!」「言論の自由を!」など、その時プラカードに書かれていた文字が見えます。 -
さらに進むと、工事中の広場が・・・。
これがワーグナープラッツなのかしら・・?。
結局、ワーグナーの足跡は何も見つけることが出来なかった・・。
でも、目的を持って行動するってことは、旅の楽しさを何倍にも増やしてくれます。 -
ホテルに戻って荷物をピックアップして、ライプチヒ駅に向かいました。
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ヨーロッパで最大といわれるライプチヒ駅のショッピングアーケード。
さて、私たちはこれからドレスデンに向います。
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この旅行記へのコメント (4)
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- ペコリーノさん 2013/09/17 10:33:03
- 知らなかった、ライプツィヒ
- frau.himmelさん、こんにちは。
先日、「テレビでドイツ語」でライプツィヒの平和の集会がドイツ統一のきっかけになったということをやっていました。
音楽の街、という印象が強いライプツィヒで、こんな事があったなんて、初めて知りました。
その上で、himmelさんの旅行記を見るとなかなか感慨深いものがあります。
ワーグナーの影が薄いのも、何となく理解できるような気がします。
バッハの銅像の説明など、詳しい旅行記、いつも感心しております。
次のドレスデンも楽しみにしています。
ペコリーノ
- frau.himmelさん からの返信 2013/09/18 09:57:35
- RE: 知らなかった、ライプツィヒ
- ペコリーノさん おはようございます。
ペコリーノさんも「テレビでドイツ語」見ていらっしゃいますか。
ほんと、グットタイミングででライプツィヒのことをやってくれました。
あれを見ていると、ライプチヒの中でもまだまだ行ってないところが多くて、次はあそこもここも行きたい、となってしまうから困ります。
私は2009年10月、壁が崩壊した20年記念のときにも行きました。
あの時はライプチヒの町は「平和の集会、奇跡の行進」で物凄く賑わっていました。
テレビでも言っていましたが、あのデモの目的は最初からドイツ統一を目論んだものではなく、もっと風通しを良くしたい、旅行の自由を認めて欲しい、言論の自由を認めて欲しいなどの、ごくごく普通の願いから始まったって事でしたね。
最初は小さなデモが、遂に冷戦時代を終らせたのですから、凄いことだと思います。
次はドレスデンです。見てくださいね。
himmel
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- norisaさん 2013/09/16 20:47:04
- 歴史を背負いつつーー
- frau.himmelさん
こんばんわ。
日本中台風で大変でしたがご無事でしょうか。
神奈川もかなりの風と雨でしたーー。
さて、素敵な街歩きですね。
バッハさんがあまり豊かでなかったとは知りませんでした。
お子様に恵まれ過ぎたわけですねーー。
そして、今回の作品で一番の印象。
それはまさに表紙の写真ですね。
暗く重い歴史を背負わされたワグナー。
これは正当な評価という人もいれば行きすぎという方もいらっしゃるでしょう。
しかし、有史5000年の歴史の解釈のうつろいを考えれば、あと100年、200年後には彼の評価もまた少しは変わるかもしれません。
考えさせられる力作お疲れ様でした!
norisa
- frau.himmelさん からの返信 2013/09/18 09:44:43
- RE: 歴史を背負いつつーー
- norisaさん おはようございます。
返信が遅くなってしまうと、台風のことを今頃持ち出すのも・・
本当に凄かったですね、あの風と雨。
私の方も被害はありませんでしたが、被害に遭われた地域の方には本当にお気の毒でした。
さて、いつもありがとうございます。
> 暗く重い歴史を背負わされたワグナー。
さすがにnorisaさん、いいこと仰います。
私は、「背後霊」なんて罰当たりなことを・・・
ワーグナー本人は草葉の陰で、200年後の自分がどんな評価をうけているか、なんて知る由もないですものね。
彼が没したのはヒトラーが台頭する前ですから、その後に自分の作品がプロパガンダに使われて、家族がヒトラーと仲良くしてなんて思いもしなかったでしょう。まさに「背負わされた」・・ピッタリな表現ですね。
norisaさんの今回のご旅行先、チェコにしろ、ブタペストにしろ、ウィーンにしろ、もちろんドイツもですが、歴史的にはヒトラーの影って大きいですね。
ネオナチのメッカになるのを防ぐために、ヒトラーの像は今後も出来ないと思いますが、彼の像が出来たとしたら、背後霊はどんなに巨大なものかと思ってしまいます。
有難うございました。
himmel
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