2013/05/01 - 2013/05/01
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frau.himmelさん
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魔女の話題がダラダラと続きましたが、ちょっと時間を前に戻します。
4月30日早朝、ナウムブルクのアパートに、前の日頼んでおいたタクシーが時間通り迎えに来てくれて、私たちはICEでライプチヒに向いました。
ライプチヒでは駅前のホテルに荷物を預け、ゴスラーとヴェルニゲローデの魔女祭りを観光(既述)。
そして麗しき5月の朝はライプティヒで迎えました。
5月1日、今日は2時ごろまで市内を観光してドレスデンに向います。
ライプチヒは生誕200年を迎えたリヒャルト・ワーグナーが生まれた地。
さぞかし、オラが街が生んだ偉大な作曲家様の記念すべき年、町はワーグナー一色のお祭り騒ぎに違いないと想像していました。
ところが・・・。
この地で、教養ある親切なシニアの方に出会いました。
詳しくライプチヒの歴史を説明してくださり、その後に、DDR時代学生たちが発掘した要塞があるんだよ、この先だから良かったら見て行きなさいと。
名前はモーリッツバスタイ。
行ってまいりました。
ここは、4トラの旅行記では、まだどなたも取り上げていらっしゃらないようです。
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ナウムブルクからライプティヒ行きのICE、車内はガラガラ。
45分だから座席指定取らなくていいわよね、とこの区間は予約しなかったので、よかったー。
お互いに4人席を1つずつ占領してのんびりしました。
ところで、このICEは旧式で階段が高い列車でした。
重たいスーツケースをどうして持ち上げようかと思案していたら、若い爽やかな青年がひょっと持ち上げてくれました。
ライプチヒでの降車の際にも、同じ彼がどこからともなく現れて、ひょっと降ろしてくれました。
嬉しかったー。
「私たちの王子様ね。」 -
「Best Western Hotel」。
ライプチヒ駅西口のすぐ目の前のホテルです。
ところが駅から降りた私たち、反対方向に行ったらしく散々迷って、何度も人に道を尋ねて、ほうほうの呈で辿り着きました。
明るい昼間でさえこうですから、夜だったら、どうなったことでしょうね。 -
夜。
ゴスラーとヴェルニゲローデから戻って、荷物を受け取って、お部屋に入りました。
コンパクトなツインのお部屋。
シャワーとトイレ、それにこちら側にはソファーが置いてあります。
友人とは別なお部屋を取りましたのでこれを1人で使うことが出来ますが、これ2人だったら結構狭いですね。
1泊朝食付き67ユーロ。
なお、wifiはホテルからパスワードを貰って無料で使うことが出来ました。 -
5月1日朝。
4日ぶりのホテルの朝食。
ナウムブルクではアパートで自炊でしたので。
でもアパートでもこれくらいは食べていましたね。 -
お部屋の窓から駅が見えます。
本当に近かったのね。 -
ここはヴィリーブラント広場。
東西分断時代、西ドイツの首相だった人物の名を冠したライプチヒ駅前の広場です。
ここよりライプチヒ街歩きを始めます。
あのアンペルマンの信号が青になったら進みましょう。 -
落ち着いた町並みのニコライ通り。
まだ朝早いせいか、人通りはまばらです。 -
歴史が感じられる石畳にはめ込まれたマンホール。
ライプチヒの紋章入りです。 -
商店が入っている建物の、ファサードも歴史的装飾が・・
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先のほうにニコライ教会が見えてきました。
でもここは後回し。
なんたって、ライプチヒ訪問の第1の目的は、生誕200年のワーグナーの足跡を探すこと。
ライプチヒは彼の生まれ故郷なのです。 -
ニコライ教会を横目に見て、Grimaische Str.に入ります。
左手にちょっと興味を引かれる建物発見!。 -
GESCHWISTER SCHOLL HAUS..ゲシュヴィスター・ショル・ハウス。
ショル兄妹とは、ミュンヘン大学の学生で、ヒトラーに抵抗したあの白バラ運動のショル兄妹のこと。
彼らの名前はいろんなところで使われています。
ナチスの恐怖政治時代、ドイツ中、みんながヒトラーに従わざるを得なかった頃、ヒトラーに抵抗した良識ある人々もいたんだという顕彰なんですね。
現在は商業高校として使われているようです。 -
そしてその先にはライプチヒ大学。
いろんな偉人を輩出しました。 -
Grimaische Strに5つの裸の人物の彫像。
何なんだろう?
東京オリンピックが決まったからって訳ではないですが、五輪(5つの大陸)と何か関係ある?
調べたけど判りませんでした。 -
台座にはこういう文字が見えます。
哲学的なことは私にはさっぱり・・。
どなたか教えてください。
**私のSOSにフォートラ・ドイツ版の重鎮Berg Heilさまが訳文をお寄せくださいました。
”云うまでもなく 信条(主義)に従って命を捧げても良い、しかし己自身においてのみ”Rudorf Haym
「自分の信条を他人に押し付けて、命を犠牲にする事を他人に強いてはならない」
有難うございました。 -
この建物・・銀行が入っているみたいですね。
一見普通の建物に見えますが、私が注目したのは・・。 -
建物の角にプレートがはめ込んであったのです。
「この家のもとの所有者、バンベルガー一家は、ここで洋品店を営んでいた。しかし1938年11月9日の水晶の夜、ナチスにより襲撃され死亡した」と。
なお「水晶の夜」とは、1938年11月9日から10日にかけて、ナチス第三帝国により、ユダヤ人の住宅、商店地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された出来事。
ここに住んでいたバンベルガー一家もユダヤ人であるというだけで、その犠牲になったのですね。 -
その建物の真ん中の建物はクロッホビル。
1928年に完成したライプチヒ発の高層ビルだそうです。
ヴェネツィアのサン・マルコ広場にある時計塔がモデルで、塔の上の銅像(赤い矢印)は時間ごとに動くそうです。 -
ライプティヒ歌劇場が見えました。
ここにワーグナーの足跡があるだろうとやってきたのですが、なんか静かですね。
バイロイトのように生誕200年のノボリが何本もはためいている訳でもなく、特別なものが設置してあるわけでもないし・・。 -
次の演目「ラインの黄金」の案内があるだけ。
人影もないし、ライプチヒって本当にワーグナーの生まれ故郷なんですよね?。
ライプティヒ歌劇場は400年の歴史をもつヨーロッパで3番目に古い劇場です。
ここでワーグナーの歌劇もたびたび演奏されたそうです。 -
(後日調べたら、この歌劇場の後ろにワーグナーの胸像があったそうです。)
-
アウグストゥス広場の向かい側にあるゲヴァントハウスにワーグナーはどうでしょう。
正面はメンデの泉 -
1886年完成の噴水「メンデの泉」、豪華な噴水です。
-
右側のブルーの近代的な建物はライプティヒ大学。2009年に私が訪れたときはまだ工事中でした。
ドイツで2番目か3番目に古い大学だそうで、ここで多くの錚々たる偉人が学びました。
ゲーテ、ニーチェ、ライプニッツ、エーリッヒ・ケストナー、それに音楽家ではテレマン、バッハ、シューマン、そしてワーグナーなど。
ワーグナーはここで音楽の勉強をして、作曲家になる決意をしました。
東ドイツ時代には「カール・マルクス大学」と呼ばれていて、ドイツ初の女性首相となったアンゲラ・メルケルもここで物理学を専攻しました。 -
ゲヴァントハウス。
現在の建物は、日本でも有名なクルト・マズーア(1996年まで楽長)の尽力で建設されたもので、3代目の楽団ホールとして1981年に完成しました。 -
ゲヴァントハウスって聞くと、私にはクルト・マズーアとメンデルスゾーンの名前が真っ先に思い浮かびます。
このコンサートホールの中には、メンデルスゾーンホールもあります。
ゲヴェントハウス管弦楽団の名前は世界中に轟いていますね。
ここには毎年50万人もの人がコンサートを聞きに世界中から集まるそうです。
私も若い頃、テレビでゲヴァントハウスのコンサートを聴いて、いつかライプチヒに行ってみたいとあこがれていました。
それから月日は流れ、今回は5回目のライプチヒです。 -
ところでここにはワーグナーの足跡は?
中に入りたいと思ったけど入り口はがっしりと閉まっていました。
ところでベートーヴェン『交響曲第9番(第九)』の第4楽章「歓喜の歌」の原詩は、1785年に詩人フリードリヒ・シラーがライプチヒ滞在中に創作したものです。
その縁で、年末の第九演奏は、ゲヴァントハウス管弦楽団の伝統となり、ライプツィヒから全世界に向けて発信されているそうです。 -
ゲヴァントハウスとシティ・ホーホハウス。
シティ・ホーホハウスは以前はライプティヒ大学だったところで、現在はテレビ局に売却されました。
なぜだか「親知らず」とのあだ名が付いているそう・・。 -
劇場前には、ゲヴァントハウスで演奏されるワーグナーの「指輪」。
でもこのカンバンにも生誕200年とは書いてないですね。 -
ゲヴァントハウスの前のロッス広場にあるMädgebrunnen、
ゲーテのファウストから題材をとったものだとか。 -
メンデルスゾーンの家が判らなくなり、通りがかりの老紳士に尋ねました。
とっても教養のある素敵なおじいちゃまで、いろいろとライプティヒの歴史のことなどを詳しく教えてくれました。
なんと1932年生まれの81歳とのこと。 -
この後姿のお爺ちゃまがそうです。
お奨めの観光場所を聞いたら、「モーリッツ・バスタイ」は行きますか?って。
初めてきく名前でした。
なんでもDDR時代、学生が中心となって城塞を発掘したのだとか。
そこには、ライプティヒ大学の学生だったメルケルさんも一緒になって発掘作業をしたそうです。
そして、その要塞の中には何かがあると・・。
面白そーう!
第三帝国、DDR時代、そんな現代史がいっぱい隠されていそう、是非後で寄りましょう。 -
メンデルスゾーンハウス。
メンデルスゾーンは1845年から1847年に亡くなるまでこの家に住んでいました。
今では彼が住んでいた2階が博物館になっています。 -
彼は、ここで音楽サロンを開き、親しい友人たちを招いていました。
シューマン夫妻、エクトル・ベルリオーズ、それにワーグナーなども訪れたそうです。 -
あ、これこれ!
テレビドイツ語講座でやっていましたが、携帯でこの番号をおすと、メンデルスゾーンの音楽が流れてくるそうです。 -
中に入ってみましょう。
-
キレイに手入れされた広い中庭の一角にある建物。
-
作曲家フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809〜1847)とライプチヒとは強い繋がりがあります。
彼は1835年から1847年までゲヴァントハウス管弦楽団の楽長を務め、1843年にはドイツ初の音楽院を創設しました。
そして、当時流行遅れだったバッハの「マタイ受難曲」を蘇らせたのもメンデルスゾーンだということでした。
ライプチヒでは、ここで生まれたワーグナーより、メンデルスゾーンの方が有名なのでは?と思いました。 -
メンデルスゾーンハウスを後にして、さっきのおじいさまが教えてくれたモーリッツバスタイに行って見ましょう。
道を引き返します。
左側には、いかにも東ドイツ社会主義の建物、って感じの大きなビル。 -
気持ちのいい公園の中に入って・・
-
ここにあるのは、ロベルト・シューマンの像ではありませんか。
彼もライプチヒとは切っても切れぬ縁があります。
シューマン(1810〜1856)は、ライプチヒ大学で法律を学ぶかたわら、当地のピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの門を叩きました。
そして彼の娘クララと恋に落ちます。
二人はライプチヒで結婚式を挙げ、新婚生活をこの地で送りました。 -
モーリッツ・バスタイってここかしら?
-
これが城塞の跡?
モーリッツ・バスタイ(モーリッツ城壁)、中世期以来、町を囲っていた城壁の跡なんですね。
これを学生たちが発掘したんですって。 -
その運動に、当時ライプチヒ大学で物理学を勉強していたドイツ首相、アンゲラ・メルケルもいたそうです。
でもメルケルさんって齢いくつかしら?
さっきのおじいさまは、80歳超えているし・・。
私、思いっきり勘違いしていたようです。
あのおじい様が1932年生まれということで、ヒトラーの時代や東ドイツのライプチヒが歩んできた歴史を思い描きながら、お爺様のドイツ語の説明を聞いていました。
そして勝手に、学生たちが発掘したこの要塞は、学生運動のアジトか何かに使われたのだと解釈していました。 -
外は無骨な要塞ですけど、ここにはレストランもあります。
調べたら、1960年代に学生らに発掘されたこの要塞は、学生たちを中心としたディスコやレストラン、カフェ、文化施設、イベント会場などの総合文化施設として使われているそうです。 -
外観は要塞の跡をそのまま利用して、中はこのように楽しい空間になっているのです。
今ではライプチヒのナイトスポットとしても有名なんですって。
あのお爺様のドイツ語をもっと理解できていたら、こんな勘違いはしなかったのに・・。 -
大きなビルが並ぶシラー通りを進みます。
-
ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(1759年-1805)の像。
シラーは、1785年5月から9月までライプチヒに滞在しました。
ここで彼はベートーヴェンの交響曲第9番の「歓喜に寄す」を書いています。
それが縁で年末の第九演奏は、ライプツィヒから全世界に向けて放送されているんですものね。
私たちがシラーの像を囲んでああだこうだと言っていると、粗末な身なりのお年寄りに声をかけられました。
あっちに噴水(?)があるよ。連れて行ってあげようか?と。
さっきのおじいさまとは知的レベルがかなり・・。
とっさに「ごめんなさい、時間がないの」とお断りしました。
親切に言ってくれたかも知れないのに、身なりで差別してごめんなさいね。 -
この付近には大きな立派なビルが建っています。
ここはドイツ銀行。道理で大きいはずだわ。 -
窓の上部の壁一つ一つにも精巧な装飾
-
そしてここは新市庁舎です。
あんまり近くから撮ったので、シンボルの塔は入っていません。 -
市庁舎の一角はラーツケラー。
このときは忘れていましたが、2008年のクリスマスの時期、ツアーで訪れて昼食で入ったことがありました。 -
2008年の12月の写真。
-
「ネズミ捕り男の噴水」。
だからこの噴水見たことがあると思ったのね。 -
ネズミ捕り男の拡大
-
噴水の土台のほうは、男の吹く笛の音色に付いていった子供たちと、ネズミです。
グリム童話集の中に収録されています。
今年はグリム童話生誕200年です。 -
2008年の写真に新市庁舎の塔が入っていました。
-
どっしりとした石造りの渡り廊下。
◆◆
さて、また長くなりましたので続きは後編で・・
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この旅行記へのコメント (9)
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- Berg Heilさん 2013/09/19 09:12:44
- Leipzig 旅行記拝見
- いつも丁寧な旅行記を興味深く拝見しております。ライプティッヒには1999年と2001年に訪問。 当時はまだまだ駅近くには廃墟同然のビルがあり、DDR時代はこんなものだったかと感慨深く感じました。
Moritzbastei, 要塞の名前にひかれて立ち寄ってみましたが、カフェは若者達で賑わっていて、その由緒来歴も知らず、「ナーンダ くだらない!!」と退散しました。アルバムを見たら一枚だけ写真を撮っていました。
ところで何かの Denkmal の銘文の件、(私は全く気が付かなかった)
独逸語に堪能な Madam Hinmmel に対して真におこまがしいのですが和訳してみましたのでもし違うようでしたら訂正してください。
Selbstverstandlich darf man einem Prinzip ein Leben opfern, doch nur das Eigene. R.H.
”云うまでもなく 信条(主義)に従って己の命を捧げても良い、しかし己自身においてのみ”。
銘文の両側に文字らしきものがありますが、写真を拡大しましたが読めませんのでどうゆう記念碑かわかりません。又 R.H.の名前ですが独逸人、哲学者、文学者をキーワードに「外国人名辞典」でそれらしき人を調べましたら ハレ大学教授の Rudorf Hayman (1821〜1901)という哲学者・政治家が出てきました。なんでもヘーゲル批判を通してカントを再評価、新カントへの道を開いたリベラリストだそうです。はたしてこの人か否かは全くわかりませんが、ライプティッヒの近くのハレ大学にいたそうですので少しばかり「ではないか??」と感じた次第です。
小生の本年五月の旅行記もあと「プラハ再訪 Nr.9/帰路 Epilogue」で終了です。今後も独逸&中欧を中心とした Madam Himmelを始め、皆様の旅行記を楽しみにしております。
- frau.himmelさん からの返信 2013/09/20 14:11:45
- RE: Leipzig 旅行記拝見
- Berg Heilさん こんにちは。
返信が遅くなって申し訳ありません。
コメントいただいていたのは気がついていたのですが、いろいろヤボ用で、・・。
それにありがとうございます。
あのdenkmalの文字を訳してくださったのですね。
とても立派な彫像で、その像の前には、椅子とテーブルがたくさん置かれた絵があり、それがシュタージ博物館の前の椅子のモニュメントを思い出したのです。
もしかして、これも秘密警察に苦しめられた人たちの像かなーと思ったり。だけど如何せん、私のドイツ語力では・・。
その横の文字を拡大してみました。
向って左には「STADT-GESTALTIKER」、右には「DIAGNOSTIKL**」の文字が。読みにくい書体で間違っているかも知れませんが。
あの像は、最近あそこに置かれたもののようですね。私が2009年に訪れたときはあそこを通ったはずなのに気がつきませんでしたから。
ともかく私の街歩きは目ぼしい像や碑文があれば写真に撮って、帰国してから解読するのを楽しみにしています。1つの像に何時間も掛かるときもあります。そして結局投げ出すものものも数多く・・(笑)。
モーリッツブルクバスタイにも行かれたのですね。
私たちは、老紳士が薦めてくれたので、これも何か歴史的に面白そうだと思って・・。
Berg Heilさんはもう少しで校了ですか?
私の方はやっと3分の1が済んだ所、まだまだ苦しみが待っています。
これから早速ライプチヒ編にいただいたあの言葉を追加しに行ってまいります。
himmel
- Berg Heilさん からの返信 2013/09/20 17:08:58
- RE: RE: Leipzig 旅行記拝見
- >
> もしかして、これも秘密警察に苦しめられた人たちの像かなーと思ったり。だけど如何せん、私のドイツ語力では・・。
> その横の文字を拡大してみました。
> 向って左には「STADT-GESTALTIKER」、右には「DIAGNOSTIKL**」の文字が。読みにくい書体で間違っているかも知れませんが。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Gestaltiker :Gestalt 形。人物。 Gestalter:企画者 世話人 幹事 デザイナー 等の訳が出ていますが、
Diagnostiker : 診断(学)者 専門医 としてありますが これがどのように像に結びつくのか? 小生の語学力では!!
銘文の訳の件、最初の「己の命」の内、「己」を削除するか或いは「man その人の」とした方が良いのかも? いずれにしても自分の信条を他人に押し付けて、命を犠牲にする事を他人に強いてはならない」という意味だと解釈しました。
> ともかく私の街歩きは目ぼしい像や碑文があれば写真に撮って、帰国してから解読するのを楽しみにしています。1つの像に何時間も掛かるときもあります。そして結局投げ出すものものも数多く・・(笑)。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私も同じような考え(野次馬? 趣味?)で、特に空襲を体験している者(終戦時 小学3年)にとっては戦死者の追悼碑は気になって、必ず銘文と共に写真に撮って来ます。 又 由緒ありげな建物などの銘文がラテン語でお手上げの事もしばしばです。
>
> Berg Heilさんはもう少しで校了ですか?
> 私の方はやっと3分の1が済んだ所、まだまだ苦しみが待っています。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今後の旅日記、楽しみにしています。想像するに、Madam Himmel はかなりのインテリ夫人で、もしかして才色兼備な大学や教職関係の方かな??
※ チェコの神話歴史関係の本(北海道大学発行・ここはスラブ研究に力を入れている)を見つけたのですが、確か 定価9000円、目下思案中です。
- frau.himmelさん からの返信 2013/09/21 09:42:49
- RE: RE: RE: Leipzig 旅行記拝見
- Berg Heilさん おはようございます。
何度もありがとうございます。
訳文の「己」を1箇所とって、それに意訳のほうも利用させていただきました。
左右の文字はこの銘碑には直接関係なさそうですね。
Rudorf Haymなる人物のことも調べてみたいと思います。
> 私も同じような考え(野次馬? 趣味?)で、特に空襲を体験している者(終戦時 小学3年)にとっては戦死者の追悼碑は気になって、必ず銘文と共に写真に撮って来ます。 又 由緒ありげな建物などの銘文がラテン語でお手上げの事もしばしばです。
終戦の時に小学1年生? お若いですねえ。まだお一人で旅をなさって、しかも拝見すると1日何万歩も歩いていらっしゃる・・驚嘆です。
ではそれより少し若い私は、まだまだ十分外国旅行が出来ると励みになります。
それにドイツやヨーロッパでは、どの街にも第一次大戦の慰霊碑や第二次大戦の立派な戦死者慰霊碑がありますね。
私もよく撮ってまいります。
ありがとうございます。
himmel
-
- 横浜臨海公園さん 2013/09/14 16:03:42
- ライプツチィヒ
- frau.himmelさま、こんにちは。
ライプツィヒに関する旅行記を拝見させて頂きました。
ライプチィヒはメンデルスゾーンの出身地であり、ナチスが政権取得後、メンデルスゾーンやマーラーなどのユダヤ人作曲家の曲目は、当時のドイツでは全て演奏禁止になった経緯があり、また、ワーグナーの私生活自体をライプチィヒ市民が嫌悪の対象として見ていた事実を忘れてはならないでしょう。
ご存知と思いますが、第二次世界大戦中に、フォン・シュタインベルク陸軍大佐に拠るヒトラー暗殺未遂事件をご記憶だと思いますが、暗殺計画に加担した人物に、当時のライプチィヒ市長がおり、ライプチィヒ自体が、どちらかと言えば、反ナチ傾向が強い街だった事も、ブラームスを賛美する反面、音楽的に対立した、ワーグナー忌避の傾向に拍車をかけているものと小生は考えております。
横浜臨海公園
- frau.himmelさん からの返信 2013/09/14 20:51:45
- RE: ライプツチィヒ
- 横浜臨海公園さま こんばんは。
その後体調はいかがですか?
さて、本日は私のライプチヒ編を見ていただきまして、コメントまで有難うございました。
ワーグナーの生まれ故郷ライプチヒ、さぞかし賑わっているだろうなと思って訪れました。
私が訪れたのは5月1日、あと20日も経てばワーグナーの生誕200年を迎えるというのに、どこにもそれらしい雰囲気が見えないんです。
やっぱりワーグナーの反ユダヤ主義が根っこにあるのですね。
バイロイトがワーグナー、ワーグナーだったのと比べると、何と冷淡なんだろうと思いました。
それでも、5月22日の彼の誕生日には、ライプチヒ市内に彼の像が立てられたそうです。ちょっと漫画チックなワグネリアンが怒りそうな像ですが・・。
それに、ワーグナーが通ったニコライ学校に小さなワーグナーの博物館も出来たそうです。
私が行ったときにはまだありませんでしたが、メンデルスゾーンのそれに比べると小さなスペースでしょうね。
後編ではそれらを絡めて書きたいと思います。
それにしても、フォン・シュタウフェンベルク大佐らのワルキューレに、ライプチヒの当時の市長も加担していたとは驚きました。
その頃のドイツの良心も捨てたものではなかったのですね。
有難うございました。
himmel
- 横浜臨海公園さん からの返信 2013/09/15 14:16:04
- 拝復
- frau.himmelさま、こんにちは。
早速メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
> 私が訪れたのは5月1日、あと20日も経てばワーグナーの生誕200年を迎えるというのに、どこにもそれらしい雰囲気が見えないんです。
> やっぱりワーグナーの反ユダヤ主義が根っこにあるのですね。
> バイロイトがワーグナー、ワーグナーだったのと比べると、何と冷淡なんだろうと思いました。
→作曲家メンデルスゾーンは銀行経営者の息子ですが、ユダヤ人であっても重視された人物でした。
ゲヴァントハウス管弦楽団の創設者の1人として今日、市民が銘記すべき人物の1人されている様です。
> それにしても、フォン・シュタウフェンベルク大佐らのワルキューレに、ライプチヒの当時の市長も加担していたとは驚きました。
> その頃のドイツの良心も捨てたものではなかったのですね。
然も、市長が面会し協力を要請したのが、あのロンメル元帥です。
横浜臨海公園
慌てていたので、記憶を頼りに大佐の名前を間違えて入力してしまいました。
申し訳ございませんでした。
- frau.himmelさん からの返信 2013/09/16 18:44:01
- RE: 拝復
- 横浜臨海公園さま こんばんは。
いつも興味深い話題有難うございます。
さっきワーグナーの後編を仕上げました。
そこにネットより取った写真を載せましたが、まるでワーグナーの尊厳も何もない失礼な像だと思いました。
ワーグナーが亡くなってもう何年も経つのに、そこまで背負わなければ傷痕なのですね。
メンデルスゾーン一族って、錚々たる家系なんですね。
ベルリンで祖父である学者の何とかメンデルスゾーンという方のお墓を見ました。
ベルリンのど真ん中のユダヤ人墓地にありました。
ロンメル将軍とライプチヒの市長のこともビックリしまいした。
確かロンメルもフォン・シュタウフェンベルクの仲間ではなかったでしょうか。
ということは、市長がロンメルを仲間に誘った・・ということなのでしょうか。
面白いことをいろいろ教えていただいて有難うございます。
急に涼しくなりましたので、体調の管理にはどうかお気をつけください。
himmel
- 横浜臨海公園さん からの返信 2013/09/18 10:31:58
- 再拝復
- frau.himmelさま、こんにちは。
メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
> そこにネットより取った写真を載せましたが、まるでワーグナーの尊厳も何もない失礼な像だと思いました。
> ワーグナーが亡くなってもう何年も経つのに、そこまで背負わなければ傷痕なのですね。
→ライプチヒは現在でも保守性の強い都市で、ナチス政権下でもメンデルスゾーン擁護の声が露骨に起きていた程の所です。
然も、ゲヴァントハウス管弦楽団の演目も、ワーグナーの作品を取り上げている例が極めて少なく、1960年代から70年代にかけての名指揮者、フランツ・コンヴュテュニーも、メンデルスゾーンはもとより、ベートーヴェンやブラームスは度々取り上げられているのに対し、ワーグナーは極端に少なく、観客も亦それを望んで居ない事が明らかな様子が受けとられます。
> メンデルスゾーン一族って、錚々たる家系なんですね。
> ベルリンで祖父である学者の何とかメンデルスゾーンという方のお墓を見ました。
> ベルリンのど真ん中のユダヤ人墓地にありました。
>
> ロンメル将軍とライプチヒの市長のこともビックリしまいした。
> 確かロンメルもフォン・シュタウフェンベルクの仲間ではなかったでしょうか。
> ということは、市長がロンメルを仲間に誘った・・ということなのでしょうか。
→仰せのとおり、ロンメルは軍内部の勧誘では無く、当時のライプチヒ市長が誘ったのが事実です。
横浜臨海公園
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