2013/02/23 - 2013/02/23
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滝山氏照さん
津久井城(つくいじょう、神奈川県相模原市緑区根小屋)の築城者は鎌倉時代に三浦半島有力家人である三浦氏の流れをくむ筑井為行(つくい・ためゆき)といわれていますがその詳細は分かっていません。
当地は三浦氏の本拠地からはるか離れており、しかも当地域には武蔵七党の中で現在の八王子市から相模原市にかけて支配していた武蔵七党の有力領主横山党がの存在があり三浦氏系列の支配と築城は理解できない部分があります。
当地域が歴史上脚光を浴びるのは戦国時代で、先に支配していた上杉氏庶流である扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と韮山から小田原に本拠を移し相模国の領有を狙って北進してする小田原北条氏との争い、これに扇谷上杉氏と連携する甲斐武田氏(特に郡内を支配する小山田氏)の介入により相模・武蔵・甲斐国境は絶えず緊張せざるを得ない状況でありました。
津久井城主の内藤氏は小田原北条氏の重臣ですが、当初から譜代であったかどうかについては種々考えるところがあります。
そもそも内藤氏の出自については不明な事が多いので判断ができませんが一説では何らかの事情で京都から鎌倉に下向、源頼朝時代の御家人としてその子孫が相模愛甲郡周辺に本領を得た後北進し相模と甲斐を結ぶ交通の要地である奥三保(当時の津久井の呼称)に拠点を定めたと考えたいと思います。
内藤氏の判っている歴代城主は内藤大和入道(ないとうやまとにゅうどう)、朝行(ともゆき)、康行(やすゆき)、綱秀(つなひで)、直行(なおゆき)で、内藤大和入道は不明ですが、朝行の「朝」については扇谷上杉氏からの偏諱と思われ、当時は相模から武蔵南部まで支配していた扇谷上杉氏に従属していたと考えられます。
ご承知の通り、小田原北条氏はその後三浦氏を浦賀で滅亡させ相模国を完全に把握、更に江戸進出に伴い扇谷上杉氏の支配は縮小、天文15年(1546)河越夜戦で扇谷上杉氏はついに滅亡し武蔵国は小田原北条氏の完全支配下となります。
その結果従来から両上杉氏(山内・扇谷)に重臣していた有力地方豪族の去就が注目され、例えば臼井城に逃れた山内上杉氏に見切りをつけた藤田氏は小田原北条氏邦を養子に迎えて鉢形城を譲り、又は山内上杉氏の武蔵守護代の大石氏については同じく北条氏照を養子に迎え滝山城を譲り自らは戸倉城に隠居するなどの事例があります。
内藤氏についても扇谷上杉氏という後ろ盾を失った立場であれば上述の藤田氏や大石氏と同様に小田原北条氏と何らかの関係を模索することは当然かと推測されます。
歴史の結果として内藤氏は小田原北条氏家臣団「津久井衆」の筆頭の待遇を受けることになりますがではいつの時点で小田原北条氏との関係ができたかについては歴代城主の名前である程度察しがつくのではないかと考えます。
康行の「康」は3代目北条氏康から一字を拝領していると思われその時期が不明ですが康行の代にはほぼ小田原北条氏の家臣として組み込まれていたのではないかと推察されます。
然しながら内藤氏の津久井衆は100%小田原北条氏の傘下であったわけではなく甲斐に隣接する地勢上の理由で武田氏(郡内支配の小山田氏)の影響を受けている地域であり、小田原北条氏も津久井衆については特殊な集団と自らの所領役帳で認めており「敵知行半所務」と言って北条・武田両氏の支配を受けていることを示しています。
従って内藤氏は小田原北条氏と武田氏の微妙な力関係を感じ取りつつ自衛の必要から独自経営を迫られ、その結果としては内藤氏発給の書状が多数見られます。
しかしながらこの間合いを計る方針は天正10年(1582)武田氏滅亡を機に改まり小田原北条氏の忠実な臣下として小田原北条領の西北を衛る役割を果たします。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原討伐においては津久井城も小田原北条氏の防御の一城となり、城主内藤直行(ないとう・なおゆき)とその主力は小田原城に詰め、津久井城にはわずか150名ほどの家臣が守備することになります。
小田原北条氏の支城については秀吉派遣の軍勢により次々と各個攻撃を受け落城・開城となる中、津久井城は豊臣秀吉攻撃を想定し予め堅固な防御能力向上をめざすべく改修工事を施して対応済ますが徳川軍勢約1万2千により包囲されついに開城に至ります。
江戸時代では津久井領は幕府直轄地となり、廃城となった津久井城の一部(現在の根小屋のパークセンター付近)に陣屋を置き、旧津久井衆の上級武士を代官として配置しその経営にあたり幕末まで続きます。
2022年4月15日追記
現地休憩所(根小屋地区パークセンター)にて入手のパンフレットには下記の通り簡単に説明されています。
「 城山の歴史
城山はその昔、津久井城と呼ばれていました。築城の頃は定かではありませんが、戦国時代、16世紀には小田原北条氏の家臣、内藤氏が城を治めていました。根小屋式山城である津久井城は、麓の根小屋に城主、家臣が居住し、いざ戦になったら山の上で最終防御する形態の城で、山全体が城として機能していました。
天正18(1590)年に、豊臣秀吉の小田原攻めにともなって落城し、江戸時代初頭に廃城になりました。
城山には今も当時の痕跡が良好に残されています。」
2023年3月13日追記
城郭の途中には「築井古城記碑」と題する当該城を紹介した説明板があります。
『築井古城記碑は城主内藤氏の家臣、島崎氏の末裔で、当時の根小屋村名主島崎律直により文化13年(1816)頃に建立されたもので、津久井城の地形や沿革、内藤氏の系譜の一説、建碑の由来等が記されています。題額者は白川少将朝臣(松平定信)、撰者は大学頭林衡、書者が国学者屋代(源)弘賢、そして碑文を刻んだのが広瀬群鶴と、制作には当時の一流名士が関わっています。
築 井 古 城 記
大学頭林衡撰 白川少将朝臣題額 源弘賢書
築井古城、相の築井の県宝ヶ峰に在り。宝ヶ峰介立すること百余じん、相水の陰に聳え、上岐れて双丘と為る。東丘に飯縄祠有り、その西丘を古城と為す。塁壁の址げんとして存す。その始めて築く者を築井太郎二郎義胤と日う。県と城とは氏に因む。北条氏の時、左近将監内藤景定これを居す。大和守景豊、六郎右衛門景友を生む。皆北条氏の良也。景友、角右衛門景次を生む。また父祖の風有り。北条氏亡びて景豊終わる所を知るなし。
阿部侯正勝、景次の勇武を聞き、延きて幕中に置く。軍興る毎に賓客を以て
従い、健闘して陣を陥れ、向う所皆奇しょう有り。主人を佐佑して、能く大封を開く。その二子をして仕へしむ。長は貞次家老に陛る。季は豊展。豊展、定次・重次・定高に歴事す。定高卒す。正盛幼なり。豊展に命じてこれにふたらしむ。心を尽くして輔翼し、以て克くその封を襲しめる。正盛既に立つ、太叔某平かなる能わず、豊展を誣いるに、欺もどきを以てし、これを逐う。豊展の母は、植村侯家政の従母なり。故に往きて焉に依る。遂に仕え、その子豊弘もまたこれが老と為る。景次の後、是に於いて分かれて両家と為る。
初め景豊の亡ぶるや、その臣馬場佐渡・島崎掃部留まりてその邑に居ること二百余年。世両家と臣主の礼を講じて衰えず、頃者掃部の裔律直、その事をき述して、朝士源弘賢に囚りて請いて曰く。直の父宗蔵、常々故君の世己に遠くその墟日にやぶれ我が子孫の漸くその由る所を遺れんことをおそるる也。石を故墟に樹てて、以て来世に告げんと欲す。未だ果たさずして死す。ハ国を併呑し、百城を雄視す、当時これと相較ぶれ者、甲越の鷲桿を以てすと雖も、猶加うること有る能わず。その強域の大なるに至りては、ただ毛利氏と北条氏と有るのみ。故にその猛将林立し、頚卒雨の如ければ、自ら以為、子孫千載不抜の業也と。その君昏闇にしてかん臣柄用せらるに及ぶや、けつごう自ら恣にし、一旦にして自ら覆滅を取る。是れ憐れむべき也。
余嘗て西上し、小田原を過ぎ、謂う所の早雲寺なる者を観、その五世の丘ろうを訪うに、さん削夷滅、殆ど的地すべからずして、名・官・と号の記りょうりょう呼として尋丈の間にべん列するのみ。傷古の感、行道の人皆これ有り。当時国滅びるの後、その将相大臣の故君に託し、以てぶ仕に登る者、邦国に顕列す。しかして墳廟の依稀落莫、ここに至るは何ぞや、それ果たしてこれを忘れたるか。
おもうに彼の佐渡、掃部なる者、固より皆陪台の微にして子孫又降りて民ごと為る。あにその故君に頼りて軒ちを為す者ならんや。乃ち独り臣僕の礼を二百余年の久しきに執る。しかして律直父子又能く文を請い、以て来者に示す。信なるかな。忠孝世その美を済すなり。抑彼の内藤氏のその臣僕を結ぶは、それまた北条氏の諸臣を待つに異なる也夫。これ皆喜ぶ可き也。遂に書してこれを与う。阿部侯今は福山城主、植村侯今は高取城主、景次八世の孫景弘、豊展七世の孫景明。見に二侯に仕えて倶に顕要に居ると云う。
文化十三年冬十一月廿又八日
島崎律直建 広瀬群鶴刻
出典「津久井町史」資料編近世1
相模原市教育委員会 文化財保護課 』
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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津久井湖
津久井湖観光センターから筑井(つくい)公園橋に向かいます。津久井湖が見渡せます。 -
筑井(つくい)公園橋
橋本から相模湖に向かう国道413線を越えて城山に向かいます。 -
城山みちあんない板
急斜面を避けて麓を西進して南の根古屋地区に向かいます。 -
津久井城・山麓
お椀をひっくり返したような形状の山ですから当然ながら急こう配となっています。 -
津久井城・山麓
途中は所々険しい道となっています。 -
津久井湖展望
小網付近で休憩して湖畔を一望します。 -
高尾山・八王子城
更に高い場所の展望デッキから高尾山・八王子城方向を捉えます。 -
展望デッキ説明板
典型的な平山城で城山の南西部の麓根小屋がありここが城主の居館であり政務を行う地となっています。 -
遊歩道
城山一帯は「津久井湖城山公園」となっており、舗装化された小路が暫く続きます。 -
城山公園風景
所々に大規模な空堀が敵の動きを制限しています。 -
遊歩道
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庭園の梅
公園として整備されており、梅林が目を楽しませてくれます。 -
宝ケ峰(城山)山頂への道
根古屋地区でしばらくの休憩をした後山頂に向かいます。 -
遊歩道
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津久井城跡石碑
城坂途中に佇む石碑が「筑井城址」と刻印されています。かつては「筑井」と表記していました。 -
城坂風景
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城坂風景
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城坂風景
樹木等により明確ではありませんが竪堀(たてぼり)と思われます。津久井城には数多くの竪堀が施されています。 -
男坂・女坂案内板
右が急で短い男坂、左がなだらかで長い女坂。少々疲れはあるものの男坂を選びます。 -
男坂・女坂案内板
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男坂
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男坂
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男坂
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男坂
ゴツゴツした険しい小路が続きます。 -
本城廓跡と飯縄郭跡案内板
ひとまず本城郭跡に向けて進みます。 -
本城郭跡への尾根
本城郭へは尾根づたいに移動します。 -
土塁
本城郭に向かう途中の土塁が配置されており、侵攻してくる敵を高い土塁から撃退するのでしょうか。 -
太鼓郭柱標
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主郭に向かう小路
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土橋と堀切
本城郭と飯縄郭の繋ぐ尾根の一部は土橋を設け両側には堀切が施されて敵の侵入を緩慢にさせます。 -
土橋の右側
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土橋の左側
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堀切説明板
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城山への小路
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城山への小路
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土蔵柱標
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土蔵広場
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市街展望
土蔵広場からの市街地を捉えます。 -
宝ケ峰(城山)山頂
標高約375mの山頂にたどり着きます。削平地に一部土塁が施されています。 -
津久井城の歴史と遺構説明
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古城絵図
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主郭土塁
主郭の一部は土塁が施されています。 -
イチオシ
石碑
山頂土塁に設置の石碑が認められます。 -
主郭跡広場
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津久井古城石碑
当石碑は城主内藤氏の家臣島崎氏の末裔で根小屋村名主であった島崎律直により文化13年(1816)頃に建立されたようです。 -
筑井古城記碑
かつて津久井は「筑井」とも表記されていました。 -
筑井古城記碑説明板
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主郭跡広場
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主郭跡説明板
主郭は至る所に土塁を施して敵の進路を緩慢にさせます。 -
主郭跡広場と土塁
主郭跡広場の一部に土塁が施されています。 -
主郭跡土塁
削平地となった主郭の一部には高い土塁が施されています。 -
津久井湖展望
主郭跡から津久井湖を一望します。かつて津久井湖ができるまでは相模川が深い谷間となり天然の要害となっており敵の侵入を防いでいました。 -
飯縄(いいづな)郭跡案内板
主郭跡に相対する飯縄郭に向かいます。 -
途中の風景
津久井は「奥三保」と呼ばれる地域で森林資源に恵まれ、眼下の相模川を利用して材木運送を可能にします。 -
土蔵
飯縄郭に向かう途中に土蔵を捉えます。 -
尾根小路
飯縄郭に繋がる尾根を東西に走る小路を捉えます。 -
飯縄(いいづな)郭
石段の奥が更に高くなっています。 -
道案内用番号標
手持ちの「城山みちあんない」に記入されている番号により現在位置が確認できます。 -
飯縄神社
石段をあがり切ると正面にこじんまりした神社が現れます。 -
飯縄廓標柱
飯縄神社再建記念碑と共に飯縄郭を示す柱標が認められます。 -
飯縄神社拝殿
神社は周囲が鉄柵で囲まれ中に入ることができない状況です。 -
鷹射場(たかうちば)
更に東進して鷹射場をめざします。 -
狼煙台
開かれた場所がありここで周辺の狼煙台とで情報伝達をしていました。 -
狼煙台説明板
狼煙台とも鐘付堂とも伝えられていたそうです。 -
狼煙台展望
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大杉
樹齢900年を越える大杉が聳えています。 -
大杉説明板
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宝が池
城内に造られたいわゆる「井戸」でここで水の汲み取りをしていた跡です。 -
宝が池近景
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宝が池説明板
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鷹射場(たかうちば)案内板
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堀切
左右の堀切と中央の土橋が認められます。 -
堀切標柱
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鷹射場
見晴らしの良い削平地が現れます。ここが鷹射場となります。 -
「鷹射場」標柱
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鷹射場全景
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鷹射場展望
相模原市街方向を一望します。
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