2011/06/24 - 2011/06/24
162位(同エリア277件中)
ムッシュさん
東京都を抜けて、いよいよ神奈川県北部を西進する。山間部であり、かつ相模湖に近い河岸段丘に栄えた街道の宿はそれぞれに小さな宿であった。しかし相模湖からは相模川を下れば太平洋(東海道の平塚市。相模湾)に繋がり、生活を支えてきたようだ。
与瀬宿、吉野宿、関野宿を経て上野原宿へ。
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小原宿を離れ、”旅館ひらの”の所で20号線から分かれて右の旧道(細い上り路)を歩く。
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小原宿を経て与瀬宿に向かう
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少し上って来たので、中丸標識を見ると、ここで、えんどう坂を一気に下ります。
えんどう坂は、左の手摺を頼りに急な石段を下ります。この階段が甲州街道です。
この辺り、【与瀬宿】です
天保14年(1843)頃、与瀬宿の宿内家数は114軒、うち本陣1、脇本陣0、問屋1、旅籠6軒で、宿内人口は566人でした。 -
上のフォトの車道から左へ外れ、階段を下ります。
このくだり坂石段が旧甲州街道筋です
【与瀬宿】
東西6町50間(約744m)、往時は宿内88軒、本陣と6軒の旅籠がありました。脇本陣はなく、宿中程に1ヶ所、小仏峠までの駄賃と人足賃をを掲げた高さ7尺5寸、長さ2間5尺、幅1間の高札場がありました。囲い人足は10人10疋。また、宿上町中程の屋号元問屋が、往時の「問屋場」でした。
与瀬宿の本陣前の与瀬神社参道手前に「明治天皇与瀬神社御小休止址」の高さ3メートルの石碑が建っています。与瀬宿本陣の往時の建物は現存していませんが、広大な屋敷と築山になごりをとどめています。往時の建て門は、建坪111坪、門構え、玄関のあった立派な本陣でした。
さらに、与瀬宿は甲州道中時代は与瀬村として、小原宿と一村を成していました。小原宿が小仏峠を越してきた止宿者を、与瀬宿をを通り越して、吉野宿へ送る下り片継宿場に対して、与瀬宿は吉野から来た止宿者を小原宿を通り越して小仏へ送る上り片継宿場でした。甲州道中にはこうした宿駅の機能の宿場が、随所にあったようです。(小原宿「小原の郷」の展示物より) -
【慈眼寺の入り口】
本殿はこの階段を上り、中央高速道路を陸橋で渡るとある。高速道工事の関係で山に移転させられた。
天正年間(1573~92)創建の高野山真言宗金峰山慈眼寺。明治5年(1872年)の神仏分離まで与瀬蔵王大権現の別当寺でした、幼児の虫封じの寺として広く知られました。 -
こちら【与瀬神社の石碑】 慈眼寺と隣接してます。
大和吉野山の蔵王権現を勧請した古社で、与瀬の権現様と呼ばれ、与瀬宿の鎮守でした。 -
向かって左に【慈眼寺】、右に【與瀬神社】の鳥居があった。
まずは、この地域の鎮守であろう與瀬神社の石段を登っていく。
一段ごとに高速道路の車音が消え、あたりは静寂と森の匂いに包まれていく。
石段を登り切ると與瀬神社の風格のある社殿が現れた。
「与瀬のごんげんさま」と地元では言われていて、奈良の吉野山の蔵王権現を勧請した古社だ。
この境内で、振り返れば、眼下に相模湖が見えます。
『与瀬神社の縁起は神奈川県神社庁のホームページより
古い昔より「よせのごんげんさま」とよばれてまいりました此の神社は、新編相模国風土記等によりますと、古より相模川の北岸に在ったお社を現在の所にお祀りしたもので與瀬大権現と称し、御神像の台坐に享禄(1528 ~1532年、室町時代) の年号ありと記されております。又その縁起譚としての伝承に昔此の里にヤヨ・キヨといふ二人の者あり。相模川御供岩にて網を打つ此の網に神躰かかりて上がる、二人のもの畏こんで此れを祠に祀る。たまたま村里に悪疫流行す。川より上がりし神を村里の下方に祀るタタリなる可しとて村の清浄なる現在の地に鎮め奉ったとの物語があります。
とにかく時の権力者等の力に依って祀られた神社ではなく、純然たる民間信仰の力によって祀られ、伝えられて来た神社であると考えられます。
御祭神は日本武命を御祀り申上げ、数々の御霊力の中、厄除、開運、子供の健康祈願、虫ふうじに詣られる方々が非常に多く、與瀬のごんげんさまの虫ふうじという言葉で多数の人々に親しまれ大きな信仰を集めております。
創建当時より村人を始め遠近の信仰者により守られ、あるいは金峯山慈眼寺の別当により管理され、諸星神主家の司祭によって今に至る此の神社が大体只今の形状に調いましたのは元録年間と推察され、現存する元録の銘ある石段、宝暦年間に江戸の商人より寄進された神輿等江戸時代の社頭の繁栄が偲ばれます。
明治37年2月、拝殿より出火、権現造の壮麗を極めた社殿はことごとく焼失してしまいました。由緒ある神社を烏有に帰した事を村人は非常に悲しみ、直ちに境内地の整備、社有林への植林等を手始めに、氏子、崇敬者がその力を結集し大正3年、現在の本殿が建立されました。その後も氏子、崇敬者の神社の復興に対する努力は続けられ、あの大戦の最中に拝殿再興の工事が起され終戦後の昭和24年の秋拝殿が出来上がりました。此の様な與瀬の大神の御威徳と、氏子崇敬者の厚い信仰により支えられた與瀬神社の御神威は増々高まり、昭和43年に神社庁より献幣使の参向する神社に指定されました。
神社の祭事は毎年元旦の歳旦祭に始まり、二月の節分祭、四月の例大祭、八月の湖浄祭、十一月の勤労感謝祭、六月・十二月の大祓、暮の除夜祭迄数々のお祭が厳かに就行されて居ります。中でも陽春四月十三日の例大祭は桜花爛漫たる中で就行され、中でも神輿による神幸は実に勇壮なもので参詣者で終日非常な賑わいを呈します。相模湖を眼下に、神さびて鎮まり坐す御社殿、御境内は己が魂を鎮め心身を憩はすのに最も良い所と存じます。
時々は御参拝下さりお身の繁栄をお祈り下さい。』 -
隣にある高野山真言宗の【金峰山慈眼寺】を訪れる。
このあたりの土地は、どういう経緯か知らないけれど、奈良県の吉野山や、和歌山の高野山とのつながりがある。
境内の弘法大師の像の肩越しに、美しい相模湖の景色が広がっていた。
境内で振り返えれば、眼下に相模湖が見えます。ビューポイントは慈眼寺の階段を上り切った高台からです。
相模湖は、1947年相模ダムの完成によって出来上がった人造湖です、それ以前の相模川は急峻な渓谷でした。
慈眼寺は正式には「金峰山 慈眼寺」と号する高野山真言宗の寺院です。
天正年間、頼源阿舎利により開創された寺で、明治五年の神仏分離以前は、与瀬蔵王大権現の別当寺だったそうです。
【慈眼寺】
当山は天正年間頼源阿舎利の創立によるもので、明治維新に至るまで蔵王権現の別当寺であった。明治五年神仏分祠の濃国令により唯仏寺となり現在に至っている。
特に開山以来先師の労苦の遺業による、虫加持護摩祈祷の名声は関東一円に及んでいる。
寺内北側の築山は江戸城の造園師が当山に逗留の際、作庭されたものと伝えられ、三尊石、滝の石組、枯池は有名である。 -
下方に見えるは、参道の鳥居です
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廿三夜塔、名号碑等の石塔石仏群
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相模湖のマンホール蓋
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舗装道路を外れて、右の土道を歩きます。
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甲州 吉野宿 本陣跡
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【吉野宿本陣跡】の説明碑
外壁が剥落した蔵と聖蹟碑があります、ここが吉野本陣跡です。
吉野家は承久の乱(1221)の時、朝廷方に従い、宇治勢田で北条義時を討ったが、戦いに敗れ、この地に逃れ定住した。徳川の世になると吉野宿の本陣を勤め、問屋、名主を兼ねた。
今でも屋号は本陣となっている。
江戸末期の本陣は、当時では珍しい木造5階建ての威容であった。
明治13年明治天皇行幸の時は行在所となり、この2階で昼食をされたとのこと。
聖蹟碑が入口に建立されている。
本陣は木造五階建ての威容を誇りました、明治?年(1880)明治天皇行幸の際は行在所となりました、しかし本陣遺構は明治29年(1896)暮の大火で焼失し、今は土蔵を残すのみです。 -
【甲州道中 吉野宿 ふじや】
吉野町全体が燃えて、今では、その大火の直後に建てられた「吉野宿ふじや」の旅籠風の建物と、本陣の土蔵だけが宿場の名残をとどめている。
吉野宿は、江戸時代に設定された関東五街道の一つ、甲州街道の宿場として、大名の参勤交代、旅人たちの旅籠として栄えてきました。当時の建物は明治二十九年十二月の大火で消失してしまいました。
当施設は、その後の建物ですが百年の歳月を経ており、その昔、組頭であった大房家(現当主良顕氏より町が寄贈を受け、資料館として活用しているものです。
(平成3年4月1日 藤野市教育委員会) -
吉野宿のふじやさん。
吉野宿の資料館にきました。
本陣は木造五階建ての威容を誇りました(模型)、明治13年(1880)明治天皇行幸の際は行在所となった、しかし本陣遺構は明治29年(1896)暮の大火で焼失し、今は土蔵を残すのみです。 -
模型より
吉野宿の街並み。や、短い!! -
山の中腹に、大きな”ラブレター”がオブジェとして見えた。
巨大な手紙のオブジェ、地元の造形作家高橋政行氏の作品緑のラブレターです。 -
中央線jr 相模湖駅が遠望できました。
この辺り、【関野宿】。
関野宿は甲斐國との國境を控え要衝として重要視されました。
天保14年(1843頃)関野宿の宿内家数は130軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒で、宿内人口は635人でした。 -
擁壁上に【諏訪関番所跡碑】
甲斐國の東口にあたり、武田氏が設置した甲斐二十四関のひとつです、徳川の世になると境川番所、境川口留番所とも呼ばれた、明治4年(1871)に廃止。
ここは相模国から甲斐国に入る場所に当たり、通行と物資の取り締まりが明治2年まで行われていた。
ここにはかつて40坪の草葺きの木造平屋建ての番所があって、番所の閉鎖とともに用済み、のちに渋沢栄一に買い取られ、飛鳥山の別荘として移築された。 -
【諏訪番所跡】
諏訪は甲州の最東端、相模国相州(現在の神奈川県)との境にある集落で、甲斐国に出入りする人や物の取り締まりを行う番所がありました。現在は跡地に看板が立てられています。
設置時期は武田氏が北条氏と争った戦国時代の前期と見られ、合戦時には防備の機能も持っていました。
1707(宝永4)年に諏訪神社の前から東の乙女坂に移転し、近くを流れる境川にちなんで境川番所とも呼ばれていました。江戸時代、この番所を通って江戸へ入るには女性のみ手形が必要でしたが、これは地方都市に派遣された勤番士の妻子が江戸に戻らぬよう、厳しく監視したためとされています。建物は明治18年に渋沢栄一氏が買い取り、東京飛鳥山の本邸に隣接する分園の別荘として移築されました。
名 称:諏訪番所(甲斐二四関の一)、境川番所・境川口留番所とも呼ぶ
所在地:上野原町諏訪木のはけ二十番地
宝永四年(1707)諏訪神社東より番所坂上に移転
土 地:番所屋敷 一畝二十八歩
建 物:木造平屋建(40.25坪)草葺
仕 事:・通行取り締りと物資出入り調べ
・高瀬舟取締りと徴税(二割二分)
・鶴川「渡し場」取締り
・通行手形改め(男は上り下り不用 女は江戸へ入用、下り不用)
※但し小仏関所(駒木野)江戸へ男・女入用 帰り不用
・番所坂所在茶店よりの情報聴取
※番人役人:番所定番九人 獄舎取締一人
閉 止:明治二年 制度廃止となる
明治三年 山内国太郎「捕亡方心得」となり、時局不穏に付き番所従前通りと通告
明治四年 この年番所廃止となる
建物の:明治四年 役宅は山内国太郎所有となる
その後 明治十三年 明治天皇巡幸の折御小休、お召し替え所となる
明治十七年 渋沢栄一氏の別荘となり飛鳥山へ、その後小泉策太郎氏所有となり、以後不明
町内その他番所 ・花井口留番所(上野原)・椿口留番所(棡原)・藤尾口留番所(西原)
(上野原町教育委員会) -
諏訪神社。 もうすぐ上野原です。
この地を支配した古郡(ふるごうり)氏が諏訪神社を勧請したところから古郡神社とも呼ばれた。
境内に芭蕉句碑「稲妻に悟らぬ人の尊さよ」がある。
【諏訪神社】
社殿は江戸初期から中期に建立されたもので、慶長9年に修復されている。
創建時は古郡(ふるごおり)神社であったが、鎌倉期に鎌倉の建長寺を開山した僧の一人、大覚禅師が此の地を訪れた時、諏訪大社から祭神を勧請して
「古郡神社諏訪大明神」と称したとのことである。 -
諏訪神社。なかなか立派な造りです。
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旧甲州街道の石碑
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【疱瘡神社】
昔、疱瘡がはやり病だったのかも。
諏訪橋で中央自動車道を跨ぐと右手に疱瘡神社があります、万治4年(1661)越前國湯尾(ゆのお)峠から疱瘡の神を勧請し創建されました。
疱瘡(ほうそう、天然痘)は鬼神の仕業(しわざ)と恐れられ、3月と12月の祭礼は参詣者で賑わいました。
説明板によれば、こんな伝承が残されている。
江戸時代初め、疱瘡神と縁のある越前国(福井県)湯尾峠生まれのあばた顔の老婆が、諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して「この地を疫病から護る。疱瘡の神を祭れ」と言い残して亡くなった。
そこで村人は湯尾峠まで出向き、疱瘡の神を勧請して、万治4(1661)年にこの疱瘡神社を建立したということだ。
疱瘡というのは、今はない世界中で撲滅した天然痘のことで、日本では6世紀に仏教伝来とともに侵入して、以来大流行を繰り返してきたらしい。
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