2013/04/26 - 2013/04/30
167位(同エリア247件中)
背包族さん
水頭集落といえば、洋楼が多いことで有名です。
洋楼とは、海外に渡った華僑が稼いだお金を送金して故郷に建てたコロニアルスタイルの建物です。
こちらの集落はインドネシア華僑が多いようです。
金門島の洋楼の建築時期は、南洋華僑が最も多かった1920〜1930年代に集中して、明清時代のミンナン建築に比べると、洋楼の歴史は7,80年と新しいです。
また、水頭には、大陸へのゲートウェイの一つ、水頭埠頭があり、アモイまでは船で30分程度とアクセスが良いので、昼間は観光客でにぎわっています。
ところが、夜になると、大陸の観光客は空港に移動して台北に移動したり、台湾のツアー客はガイドの解説が終わるとさっさと次の目的地に向かうので、急に静けさを取り戻します。
金門島の洋楼の分布:
かつて、金門島出身の海外華僑は相当多く、海外で一旗揚げた華僑が故郷に戻り、洋楼を建築するという状況がよく見られました。
金門島には、少なくとも133棟の洋楼が51の町や集落に分布しています。
中でも、水頭の十五棟が最も多く、他には、後浦(金城)十四棟、浦邊十棟、官澳七棟となっています。
福建、広東華僑社会の形成:
華人の海外華僑の歴史は古く、漢代より貿易、軍事、または宗教上の理由から海を渡りました。
宋代の文献によると、華僑は“住蕃”、”住冬”などと呼ばれていました。
明代には、福建省南部の商人たちは、アジア各地でネットワークを構築し広く活躍しました。
清代のアヘン戦争(1840年)から二十世紀中葉まで、華僑の門戸が開放されてから形成された華僑社会は、移民が大幅に増えて、現地の経済界へ非常に大きな影響を与えました。
故郷から新天地へ:
当初、清朝政府は、個人で貿易を行う移民を禁止していましたが、人口増加による深刻な耕地不足、頻発する天災、絶え間ない戦乱などから、危険を冒してでも海外に出たいという移民を阻むことはできませんでした。
19世紀に入ると、南洋を植民地とした西欧列強が、積極的に労働者を募集したことから移民熱は高まりました。
1860年の北京条約で海外移民が合法化されてからは、さらに故郷を離れて新天地を目指すのが時代の潮流となりました。
中国移民の南下:
19世紀中期、南洋の植民地の経済発展及びアフリカの奴隷制度の廃止がきっかけで、労働力不足が深刻になり、当時、余剰労働者の多かったインドと中国から植民地の開拓事業に労働者が駆り出されました。
中国移民は覚えが早く、お金を稼いで故郷に錦を飾るといういう意識が強く、勤勉なため植民地の支配者たちから歓迎されました。
マカオ、香港、広州、アモイの埠頭では多くの中国人労働者の募集がありました。
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欧CUOのオーナーに車で本日の宿に送ってもらいました。
本日の宿は、ホテル予約サイトで予約した、結構高級なお値段の民宿です。 -
各伝統集落から金城まではバスが出ているのですが、伝統集落を結ぶバスはないので、送迎してもらえて助かりました。
欧CUOから水頭までは、車であっという間、10分ほどの距離でした。 -
欧CUOから水頭は割と近いですが、欧陽オーナーは、私たちの泊まる民宿のことは知らないようで、電話で場所を聞いてくれました。
結構分かりずらい場所にあったので、夜に自分たちだけで到着しても見つけられなかったかもしれません。 -
ホテル予約サイトの写真では、部屋は素敵な感じだったのですが、なにせ全くと言っていいほど掃除がされていない・・・。
床は髪の毛、埃だらけ。
バスルームには使用済みのトイレットペーパーの芯がそのまま。
置いてあるタオルはかび臭い・・・。
二度と泊まらないです。 -
部屋の衛生状態も衝撃でしたが、この民宿のオーナーがある意味衝撃的。
芸術家ということなので、やっぱりといえばそうかもしれませんが。
ちょっと変わった人で、旦那が何気に「今日は満室なんですか?」と聞くと、「満室にならなければいいと思ってるの?」=Ni希望我men没有客満Ma?という非常にひねくれた返事が返ってきて、旦那が唖然。
恐らく、全然満室じゃないので、カチンときたのかも。
実際あとから、客は私たちだけだと言っていました。 -
なんか中国語の中に、ところどころ英語を挟みつつ話すので、旦那は気持ち悪がってました。
大手ホテル予約サイトで予約できるくらいなので、英語は堪能なようで、普段も欧米人相手がお得意のようで。
オーナーは20代後半くらいの長髪の男性で、ぜんぜんイケメンではありません。
失礼ながら、旦那は、変態っぽいって・・・。
実際、なんか覗かれている感があって、部屋から出ると、なぜかオーナーが近くにいたりして・・・。
部屋の天井に変なミラーボール見たいのがあって、あれで盗撮してるのかって、旦那がかなり疑ってました。 -
朝食付きのはずだけど、出発が早いことを話したら、じゃ、作りませんってことになりました。
普通、饅頭とかだけでも持たせてくれないか?
あらかじめ知っていたけど、空港送迎などもしてくれません。
観光の相談などにも親身の乗ってくれる方ではないので、金門島が初めての方にはおすすめできません。 -
だけど、おすすめの欧CUOの宿のオーナーは英語不可なんですよね・・・。
がんばって中国語で筆談しましょう。 -
こちらのホテル、建物だけは素敵です。
水頭集落では一番の風情のある福建古民家折衷洋楼コロニアル建築です。 -
水頭63號民宿(水頭一家親)という民宿です。
ツインでNT$2400でした。
金門島の民宿の資料はこちら(中国語):
http://guesthouse.kmnp.gov.tw/index.php?option=com_bnbmap&view=villages&Itemid=109 -
こちらのロビーも埃くさい。
お客があまりいないんでしょうか。
芸術家だけあって掃除は苦手か? -
一押しは、この屋上のコロニアル建築です。
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手すりが低いのでお気を付けあれ。
私は夜、灯りが消されていて、つまずいて転落しそうになりました。
節電もいいけど、客の安全を考えてくれ! -
前水頭63號は、瓊林村から移ってきた蔡氏の末裔の住居で、民国14年、蔡開盛氏と兄弟たちがインドネシアの商売で稼いだ巨万の富を送金して故郷に建てた古民家建築です。
瓊林の蔡氏は、金門宦官の名門御三家の一つで、古民家内部は文化の香りにあふれています。
前庁のルーバー扉は「蘇州門」と呼ばれ、彫刻が精巧で美しいです。 -
前水頭の古民家建築の中で最も華麗で堂々としています。
建築の外壁はもとより内部の装飾にいたるまで精緻でよく研究されています。 -
正面入口ではない小さな入口から出入りします。
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いざ、水頭集落散策に出かけます。
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福建、広東地区は人口が密集し、耕地には限りがあり、天災も頻発したために、海外に出て活路を求める華僑が多かったようです。
日本でも、満州に新天地を求めたり、南米の開拓団に参加したりと同じような歴史がありますね。
でもやはり、華人の商売の能力は日本人よりずっと長けているようで、商売で成功して大富豪になった人も多く、金門島ではマレーシア華僑の人が世界の大富豪として有名だそうです。 -
You Tubeで見た「落蕃」では、海外でうまくいかず、失意のまま帰国した人のエピソードもありました。
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李氏家廟。
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この屋根の形は福建省のアモイや広東省の民家のものと共通しています。
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漆喰の内側はこのように煉瓦造りなんです。
ところどころ縦に石が入っているのは、強度補強のためでしょうか。 -
黄氏家廟。
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こちらは民宿になっています。
「離家五百里」という名前です。 -
人気がないので誰も住んでいないかも。
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少し新しめの民家には普通に人が生活していそうです。
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酉堂:
1766年(清代)黄俊によって建てられ黄氏の子弟が勉学に励んだ寺子屋です。
民国10年には第二区第四国民学校として使用され、民国38年には国民党軍の中華日報の印刷所として使用されました。
民国86年に修復され二級古蹟に指定されました。
酉堂の見所は、「日月池」という楕円形の池で、水に建物が映って絵になります。
建物内部には人が住んでいるようで、見学できるか分かりません。
それよりなによりここで飼われている狂犬に足を咬まれましたので気を付けてください。
建物の右側から入口に向かっていたら、入口から犬が出てきました。
鎖が長くて、後ろには逃げ場もないので犬から直撃されました。
厚手のレギンスを履いていたので、血は出ず牙で圧迫され青たんになっただけなのが幸い。
旦那曰く、何も犬を刺激することしていないのに、襲ってくるなんてこんな凶暴な犬は見たことがないとのこと。
入口に向かっているとき、犬の姿は見えませんが、激しく吠えていたから、入口に着いた時点で犬の領域を冒していたのでしょう。 -
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金水國民小学校:
教育を重視する、水頭集落の黄氏が華僑からの寄付を募り、民国21年に建てられました。
民国26年に日中戦争が勃発すると、華僑からの送金は中断され、建物は日本軍の野戦病院として接収されました。
後には、国民党軍の士官学校として民国47年まで使用されました。
民国73年には生徒数の減少により古城國民小学校と合併しました。
修復を経て民国86年から展示館として一般公開されています。 -
「落蕃」でも語り人として出ていたおばあさん。
夫だけが、新天地を目指して海を渡っていったので、残された女性たちは、夫の帰りを待ちわび、さびしい生活を送ったようです。
その心境を詠んだ詩が小学校の壁面に書いてありました。 -
出た、ジャスミソ姫。
微妙な違いなんだな、コレが。 -
建物は回字型に配置されていて、中央は禮堂になっています。
側面は教室、前後の空間は教務室、宿舎として使用されました。
当時としては規模の大きな小学校だっだそうです。 -
金門島出身の出稼ぎ労働者のよりどころとして海外各地に作られた金門会館。
ベトナムのフエやホイアンには、このような中国各地の会館が林立していました。
現在も機能しているんでしょうかね。 -
なんとも素敵なレトロ建築です。
金水國民小学校は、金門島でも一二を争う観光地なので、ツアーがたくさん来ています。 -
得月樓。
1931年に黄輝煌により建てられた得月樓の名前の由来は、「近水樓台先得月」という言葉です。
黄輝煌は、民国元年インドネシアで百貨店、卸売業を営み財をなし、故郷に送金して得月楼を建てました。
蕃仔CUOと二階建ての洋楼から構成され、当時の治安を反映するように、侵入者を見張るためこのような高さ約11メートルの建物が建てられました。
地下一階、地上四階建てで、地下道で近隣の洋楼に行けるようになっています。
四面の外壁には、丸型の槍孔と槍架があります。
1949年、胡璉兵団が進駐していたことがあります。 -
広東省の開平などにもありそうな建物ですね。
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黄輝煌洋楼。
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僑郷文化展示館
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華僑のなりたちや、生活習慣などが詳しく説明されていて、とても興味深いです。
海を渡った金門島の人たちは、現地での混血がすすみ、独自の文化を築いたようです。 -
無料で見られるし、展示内容が充実しているのでお勧めです。
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素晴らしい調度品。
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マレーシアの伝統衣装でしょうか?
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南洋華僑の食生活についての展示です。
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畳楼。
二階建て洋楼とでも言いましょうか。 -
内部は涼しくて、歩き疲れたら休むのにもうってつけ。
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ピンク色が独特です。
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洗濯用の石でしょうか。
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伝統建築の遺構。
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欧CUOのオーナーによると、この店は不味いらしいです。
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内部をちらっと見ただけで退散しました。
なんか、お土産やみたいで、売りつけられそうな気がして。 -
なかなか素敵な建物です。
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風獅爺博物館ということです。
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金水国民小学校の正面の山型装飾には、天使、盾牌、鷹、花木などの彫刻があります。
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石路書斉という民宿です。
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黄氏家廟。
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タイルの装飾がカラフルです。
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こういう門の形、結構見かけます。
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廃墟も少なくありません。
今後手を入れて民宿に生まれ変わるものもあるのかも。
金門島の観光局では、こうした古民家の民宿オーナーを入札制で募集しているようです。
なので、ほとんどの古民家民宿オーナーは地元の人ではなく、台北など都会からやってきて、商売のために運営しているところもあるようです。 -
標語が残っていました。
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今日は天気がよく、じりじりと暑い日でした。
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見事な門構え。
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ここは確か何軒も民宿を持っている夫婦の経営の民宿だと思います。
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煉瓦色がきれいで、保存状態が良いです。
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番仔CUOと言われる建築様式。
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もしや、「千と千尋の神隠し」に出てませんでしたか?
小さな小さな風獅爺です。 -
とても不思議な洋楼です。
民宿になっているようですが、全くひとけがありません。 -
水頭は一番観光化されている集落なので、民宿の数も一番多いです。
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「楽活」という民宿。
ネットでの情報では、女性オーナーは日本語ができるようです。 -
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お庭のコニファーがヨーロピアンな雰囲気。
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