2012/12/05 - 2012/12/05
2215位(同エリア2787件中)
滝山氏照さん
東京メトロ東西線早稲田駅より徒歩約5分、雲居山・宗参寺(そうさんじ、東京都新宿区弁天町)は天文13年(1544)牛込城主の牛込勝行(うしごめ・かつゆき、生没不詳)が父重行(しげゆき、生没不詳)の菩提を弔うために創建したと伝えられています。
遡りますと平安時代末期の頃武蔵七党のひとつ「秩父党」が江戸郷に進出、領袖の秩父重継(ちちぶしげつぐ、生没不詳)は江戸氏と名乗って当地域の勢力を拡大、治承4年(1180)に源頼朝(みなもと・よりとも、1147~1199)が平氏に反旗を翻し挙兵した頃には一門の畠山氏、河越氏と共に平氏側として頼朝らを追討する立場にありました。
頼朝が石橋山で敗北安房に逃れるも千葉氏らの支持のもと勢力を回復し、下総から武蔵に入る時点では2万騎を越える勢力となり頼朝を迎え討つ姿勢でいた江戸氏らは動揺、結局頼朝の呼び掛けに応じついに臣従、その後頼朝の御家人として一族は奥州征伐に従軍しますが幕政に影響力を持つに至らず華々しい活躍は見られません。
室町時代半ばになりますと鎌倉から古河に拠点を移した公方方と山内・扇谷の両上杉氏との覇権争いが一層激しくなり、扇谷上杉氏の家宰太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)による江戸城築城を機にそれまで支配していた江戸氏は小田原北条氏を頼り江戸を離れることになります。
文明18年(1486)謀反の疑いを掛けられ誅殺された太田道灌の江戸城に入った扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ,1443~1494)は上野国大胡から、馬の放牧に長けている大胡氏を召し出し牛込の地に住まわせて軍馬の放牧を命じます。
やがて小田原北条氏が関東南部に進出、次第に山内・扇谷上杉氏支配地を脅かすことになり、天文15年(1546)河越夜戦で小田原北条氏から大打撃をうけ扇谷上杉氏は滅亡、他方の山内上杉氏も最終的に越後に逃れることになります。
主家である扇谷上杉氏を失った大胡氏は重行の子勝行に至って小田原北条氏の傘下に入り三代目氏康(うじやす、1515~1571)に従い江戸牛込に移り住み以降「牛込氏」と称することになります。
そののち勝行の子勝重は続く氏政(うじまさ、1538~1590)・氏直(うじなお、1562~1591)に仕えますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏は滅亡し牛込氏は再び主家を失います。
関東に入封した徳川家康は未知の関八州に対し緊急に支配を確立すべく譜代家臣を要衛の地に配置するも人材不足は認めざるを得ず、当地域を熟知している牛込氏を旗本として取り立て江戸周辺の支配を固めます。
旗本となった牛込氏は豊臣秀吉の朝鮮の役には肥前の名護屋に詰める家康に随行、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に従軍するも元和3年(1616)死去します。
勝重の子俊重(とししげ、生没不詳)は第二代将軍秀忠(ひでただ、1579~1632)に仕えて大坂夏の陣に出陣し豊臣軍の進撃を阻止してその功を挙げています。その後秀忠の子忠長(ただなが、1606~1633)に仕えることになりますが忠長改易後は一時他家に預かりの身となりますが、寛永13年(1637)再び秀忠に仕えることになり以降は維新を迎えるまで旗本として牛込氏が続きます。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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宗参寺・山門
寺標には漕洞宗と刻されています。 -
牛込氏・山鹿素行墓石標
墓地には歴代の旗本であった牛込氏、そして江戸時代の儒学者・兵学者であった山鹿素行の墓があります。 -
宗参寺・本堂
通常の本堂とはかけ離れた佇まいの本堂です。 -
牛込氏墓(全景)
墓の傍には説明板が建っています。 -
牛込氏墓
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牛込氏墓・説明板
『東京都指定史跡
牛 込 氏 墓
所在地 新宿区弁天町9 宗参寺境内
指 定 大正13年2月
(昭和51年1月16日種別変更)
牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
小田原北条氏に属し、初め大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷:比々谷郷などを有していたが、転生18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川氏に仕えた。
平成10年3月 建設
東京都教育委員会 』 -
山鹿素行墓
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山鹿素行・墓
「新宿区の文化財」には次のように紹介されています。
『山鹿素行の墓
山鹿素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、素行は号である。元和8年(1622)に会津で生まれ、江戸へ出て9歳で林羅山に儒学、15歳で小幡景憲・北条氏長に兵学を学んだ。
承応元年(1652)、31歳のとき、赤穂藩主浅野長直NI仕えて家禄千石を賜った。その間、当時の官学であった朱子学の抽象性を批判し、古代の聖賢の教えにかえることを主張し、また古学を唱えて家塾をおこし、多くの門弟を育てた。
明暦2年(1656)NI「武教要録」などの三部作を著わし実学を重視する考えを主張した。
寛文5年(1665)には、かれの語録「山鹿語類」が集大成された。また「聖教要録」で、朱子学を批判したため、翌年、赤穂藩へ流された。晩年には許されて江戸に帰り、積徳望WO開き、儒学や兵学を教えたが、貞享11年(1685)64歳で没した。著書が多く、「山鹿素行全集」にまとめられている。』 -
山鹿素行墓・近景
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山鹿素行・母親墓
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山鹿素行・父親墓
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乃木将軍遺愛梅
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移植遺愛記石碑
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乃木将軍遺愛木
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墓所風景
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宗参寺・境内風景
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