2013/06/01 - 2013/06/01
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ドクターキムルさん
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神奈川宿は東海道五十三次のひとつで、日本橋から7里離れた3つ目の宿場町である。この地名が県の名前や区の名前の由来となっている。主に相模国を県域にした神奈川県の県名が武蔵国の地名に由来しているのも可笑しなものだ。一里塚は下台町の大綱金刀比羅神社のあたりにあった。しかし、大綱金刀比羅神社は1万分の1の地図には記載がない。三宝寺の横ということだ。(http://www.city.yokohama.lg.jp/kanagawa/kusei/profile/rekishi/rekishipamph1n.pdf)
また、大綱金刀比羅神社の近くには、文久3年(1863年)創業の料亭田中家がある。この料亭には坂本龍馬の妻のお龍が仲居として働いていた記録があり、写真等が現存している。
神奈川宿近くには神奈川湊があった。神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。江戸時代には神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。また将軍が利用した神奈川御殿も17世紀半ばまであった。
本陣は、滝野川(現滝の川)を挟んで、西之町に石井本陣、滝之町に鈴木本陣が置かれていた。
なお、幕末の安政5年(1858年)には日米修好通商条約が締結され、「神奈川」を開港すると定められていた。そのため、神奈川宿には開港を睨んで、多くの外国の領事館や公使館が付近の寺に開設された。しかし、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は横浜村に移っていったが、明治になると地名は県名として残った。しかし、明治34年(1901年)には横浜市に編入されてしまった。今では、神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町などの住所になっている。国内では県名や区名(、町名)の「神奈川」と市名の「横浜」ではどちらが知られているかといえば微妙なところであろうか。
(表紙写真は青木橋袂、神奈川駅前にある「神奈川宿歴史の道」看板)
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上台橋。
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上台橋袂にある「神奈川宿歴史の道」看板。
「神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋からかぞえて三番目の宿場が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」である。図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。右端は江戸からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折り曲がったあたりが台町である。この上台橋は左端に当たる。台町の崖下には神奈川湊が広がっている。
かつてこの上台橋あたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。切り通しの道路ができるとともに、昭和五年ここに陸橋が架けられた。
この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(一八五四)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図にみられる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。
神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象に、東は神奈川通東公園から西は上台橋に至るおよそ四キロの道のりとなっている。」 -
「神奈川宿歴史の道」。わざわざ折り曲げている品のなさ。
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上台橋袂の道標。
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神奈川台の関門跡。
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神奈川宿歴史の道「神奈川台の関門跡」。
「神奈川台の関門跡
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。」 -
「思いきや 袖ヶ浦波立ちかえり こに旅寝を重ねべしとは」。正二位権大納言鳥丸光広(江戸前期の歌人・能書家)の歌。
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「神奈川台関門跡 袖ヶ浦見晴所」碑。
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神奈川宿歴史の道「神奈川の台と茶屋」の看板。
「神奈川の台と茶屋
ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見おろす景勝の地であった。
弥次さん、喜多さんが活躍する「東海道中膝栗毛」にも、「援は片側に茶屋軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたつてよし」とある。「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。
上図の「櫻屋」が現在の料亭田中家のあたりだといわれている。」
「援(ここ)」は手偏がない。 -
田中家。
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「歴史の街「神奈川宿」」の看板。「神奈川宿」、「田中家」、「坂本龍馬の妻「おりょう」」のことが説明されている。
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「文久三年 田中家」の看板。文久三年は1863年。
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田中家。
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「神奈川宿 袖ヶ浦」の看板。
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大綱金比羅神社の朱塗りの鳥居。
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神奈川宿歴史の道「大綱金刀比羅神社と一里塚」。
「大綱金刀比羅神社と一里塚
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
また、江戸時代には、神社前の海道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった。」 -
金比羅宮。
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三宝寺本堂。
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神奈川宿歴史の道「三宝寺」。
「三宝寺
三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長二年(一五九七)に寂した嘆誉和尚の草創である。
弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。
当時で忘れてならない人物として第二一世住職弁玉和尚がいる。和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人である。」 -
神奈川宿歴史の道「鉄道の開通と埋立」。
「鉄道の開通と埋立
上図は、明治初年に当地付近から横浜駅西口・高島町方面を写した写真である。青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立地が高島嘉右衛門が請負った鉄道用地である。湾の付け根をショートカットして、鉄道を通した様子がよくわかる。今は横浜一の繁華街である西口あたりは、当時は海の中であった。
今では、西口は勿論のこと、二一世紀に向けて開発が進む「みなとみらい二一地区」を一望でき、未来に向かって発展する横浜の街と港の眺望を楽しむことができる。」 -
神奈川宿歴史の道「望欣台の碑と弁玉の歌碑」。
「望欣台の碑と弁玉の歌碑
この丘は、高島山と呼ばれている。高島嘉右衛門が別邸を営んだためにこう呼ばれるようになった。
鉄道用地埋立などの事業の後、嘉右衛門がこの丘に閑室を設け港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を慰したことから望欣台と名付けられた。
高島山公園には、明治一〇年に立てられた嘉右衛門を顕彰する「望欣台の碑」が今も残っている。
また、「弁玉の歌碑」もある。三宝寺の住職であった大熊弁玉は長歌をよくし、横浜の幕末から明治初期の文明開化を歌に残している。」
「望欣台の碑」は「望欣台」の碑の誤り。 -
「高島山公園」の表札。
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「横浜市地域史跡 望欣台の碑」プレート。
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「望欣台」碑。
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本覚寺山門前の石段。幕末には中門があった山門と石段が直線ではないのは明治になって境内が狭くなったためか?
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神奈川宿歴史の道「本覚寺」プレート。
「本覚寺
本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に創建されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。
領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。」 -
「史跡 アメリカ領事館跡」碑。
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「横浜開港之首唱者 岩瀬肥後守忠震顕彰碑」。忠震(ただなり)。
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「全国塗装業者合同慰霊碑」。
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京浜急行「神奈川駅」。
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青木橋袂、神奈川駅前にある「神奈川宿歴史の道」看板。
[神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋からかぞえて三番目の宿場が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」である。図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がったあたりが台町である。
ここ神奈川駅は折れ曲がった道のすぐ右にあたる。明治五年の鉄道開通の際に設けられた神奈川停車場はすぐこの南側に位置していた。そのために神奈川駅は、神奈川宿の名前を今でも残している。平成四年の改築にともない、京浜急行の協力のもと、神奈川宿歴史の道にふさわしい和風で瀟洒なデザインの駅舎に生まれ変わった。
ここ神奈川が一躍有名になったのは安政元年(一八五四)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図にみられる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。
神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象に、東は神奈川通東公園から西は上台橋に至るおよそ四キロの道のりとなっている。」 -
「神奈川宿歴史の道」。
「神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋からかぞえて三番目の宿場が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」である。図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がったあたりが台町である。
ここ神奈川駅は折れ曲がった道のすぐ右にあたる。明治五年の鉄道開通の際に設けられた神奈川停車場はすぐこの南側に位置して‥。」 -
「神奈川宿歴史の道」。折り曲げてしまった品のなさ。
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「神奈川宿歴史の道」。
「神奈川宿歴史の道
‥いた。そのために神奈川駅は、神奈川宿の名前を今でも残している。平成四年の改築にともない、京浜急行の協力のもと、神奈川宿歴史の道にふさわしい和風で瀟洒なデザインの駅舎に生まれ変わった。
ここ神奈川が一躍有名になったのは安政元年(一八五四)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図にみられる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。
神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象に、東は神奈川通東公園から西は上台橋に至るおよそ四キロの道のりとなっている。」 -
神奈川宿歴史の道「権現山」。
「権現山
かつてこのあたりは権現山と呼ばれ、本覚寺のある高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山であった。戦国時代、当時の関東の支配者上氏の家臣土田蔵人は、北条早雲に味方して謀反を起こし、この権現山に砦を築いてたてこもったが、その後、上杉氏の力が弱まり、北条氏による関東支配が始まった。
幕末から、明治にかけて、お台場や鉄道用地の埋め立て、開削などのために山は削られ、現在のように低くなった。」
文化3年(1806年)に完成したとされる「東海道分間延絵図」には既に本覚寺よりも低くほぼ平らに描かれている。一方、高島山あたりには小高い三角山が描かれている。
一方、安政5年(1858年)に広重が描いた「神奈川台石崎楼上十五景一望之図」には本覚寺よりも数段高い山として権現山が描かれている。 -
権現山。
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甚行寺山門。
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神奈川宿歴史の道「甚行寺」。
「甚行寺
甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦二年(一六五六)第一世意円上人が本山専修寺の第十四世を招いて、この寺を草創したと伝えられている。
開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。
大正十二年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和二十年の横浜大空襲にも再度全焼した。その後、昭和四十六年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建し、現在に至っている。」 -
「史跡フランス公使館跡」碑。
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神奈川宿歴史の道「普門寺」。
「普門寺
普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことより起こった。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。
る。
江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。」 -
「真言宗智山派 普門寺」の寺号標石。
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普門寺本堂。
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宗興寺
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神奈川宿歴史の道「宗興寺とヘボン博士」。
「宗興寺とヘボン博士
曹洞宗宗興寺は、上の「神奈川駅中図会」では権現山の麓に描かれている。
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。
このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、我国の教育にも尽力した人である。」 -
「ヘボン博士施療所」碑。
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「横浜市地域史跡 神奈川の大井戸」標柱。
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神奈川宿歴史の道「神奈川の大井戸」。
「神奈川の大井戸
この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、 当時は宗興寺のことを「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。 江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に使われたと伝えられ、また、開港後には宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用している。
また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることができるといわれ、そのため「お天気井戸」とも呼ばれた。」
品川宿から保土ヶ谷宿までは武蔵国にあった。神奈川とは神奈川宿のことであり、明治維新後は武蔵国から分割され、相模国を含め、神奈川県となった。
その県名の由来がここ神奈川宿である。 -
神奈川の大井戸。神奈川宿の大井戸の意味であろう。
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神奈川宿歴史の道「浄瀧寺」。
「浄瀧寺
浄瀧寺は妙湖山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(一二六○)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遇った。
法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。
聖人が「立正安国論」著作し、鎌倉幕府に建策した年でもある。
また、開港当時は、イギリス領事館に充てられた。」 -
「史跡 イギリス領事館跡」碑。
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浄瀧寺。
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神奈川宿歴史の道「成仏寺」。
「成仏寺
成仏寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。
安政六年(一八五九)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。また、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力した。」
[誤記訂正] 正しくは「和英辞典を完成させた。」 -
「史跡 外国宣教師宿舎跡」碑。
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成仏寺本堂。
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慶運寺門前。
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神奈川宿歴史の道「慶運寺」。
「慶運寺
慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世定連社音誉聖観によって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、『東国紀行』の天文十四年(一五四四)三月三日の条に「ほどまくかな川につきたり、此所へもこづくへ(小机)の城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまえたり」と書いている。横浜開港当初はフランス領事館に使われた。
また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。」 -
慶運寺本堂。
諸堂は戦災で焼失し、現在の本堂は戦後に再建されたもの。 -
滝の川公園。
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神奈川地区センタ−に再現された高札場。
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神奈川宿歴史の道「高札場」。
「高札場
高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれてやがて姿を消しました。
かつての神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。
その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きなものでした。
この高札場は、資料をもとに復元したものです。」 -
東神奈川公園入口にも青海波。
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東神奈川公園。
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神奈川宿歴史の道「熊野神社」。
「熊野神社
熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を祀り「権現様」として親しまれている。もと権現山(幸ヶ谷山上)にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分 離令により金蔵院から分かれた。
「金川砂子」のこの「夜宮祭礼」図は、江戸後期の神社のにぎわいを描いている。社殿の脇の舞台では神楽が演じられ、参道の東側には囃子屋台が並べられている。
現社殿は戦後の再建だが、境内には公孫樹の古木が残っている。」 -
熊野神社拝殿。
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神奈川宿歴史の道「金蔵院」。
「金蔵院
金蔵院は、京都醍醐三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。
「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かつては毎年1月に当院の住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。」 -
金蔵院本堂。
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神奈川宿歴史の道「東光寺」。
「東光寺
東光寺は、平尾山と号し、新義真言宗に属す。この寺の本尊はもと太田道灌の守護仏であったが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれる。
また、道灌は内膳に本尊を与えるに際し、「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」との歌を読んだといわれ、この歌が東光寺の名称の由来だとも伝えられる。
「金川砂子」には海道に面して山門を開く様子が描かれている。」 -
東光寺。
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神奈川小校門前にも青海波のタイルが。
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神奈川小角。
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「絵図にみる神奈川宿」。
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東海道分間延絵図神奈川宿部分。
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東海道分間延絵図神奈川宿部分。
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東海道分間延絵図神奈川宿部分。
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「上無川」。
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神奈川宿歴史の道「神明宮」。
「神明宮
神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。
「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(一二九九)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係があったことを伺わせる。
かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現われ、洲崎大神およびこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷神社には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。」 -
神明宮。
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神奈川宿歴史の道「能満寺」。
「能満寺
能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられている。
かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。」 -
能満寺本堂。
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神奈川宿歴史の道「良泉寺」。
「良泉寺
良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年(一六四八)入寂したこの寺の第4世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。
開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。」 -
良泉寺本堂。
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神奈川宿歴史の道「笠のぎ稲荷神社」。「のぎ」は禾偏に皇。
「笠のぎ稲荷神社
笠のぎ稲荷神社は、社伝によると天慶年間(九三八〜九四七)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(一六八九)山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ稲荷神社と改称され、明治二年に現在地に遷座された。
また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢(ひとぎ)団子を供えるという。」 -
笠のぎ稲荷神社社殿。
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神奈川新町駅前の歩道にある青海波のタイル。
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神奈川新町駅前の「神奈川宿歴史の道」看板。
「神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋からかぞえて三番目の宿場が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」である。図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。右端は江戸からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折り曲がったあたりが台町である。台町の崖下には神奈川湊が広がっている。
この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(一八五四)の神奈川条約締結の舞台となってからである。その四年後に結ばれた日米修好通商条約では神奈川が開港場と決められた。開港当時、本覚寺がアメリカ領事館、長延寺がオランダ領事館になるなど、この図にみられる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。
神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象に、東は神奈川通東公園から西は上台橋に至るおよそ四キロの道のりとなっている。」 -
神奈川通東公園。
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神奈川宿歴史の道「土居(枡形)」。
「土居(枡形)
江戸時代の宿場町の入口には、しばしば枡形がつくられた。本来、枡形は城郭の一の門と二の門の間の方形の地であるが、宿場町では街道の両側から土居を互い違いに突き出す場合もある。
神奈川宿の江戸方の入口に当たる長延寺前にも土居を互い違いに突き出した枡形があった。旧本陣の石井家に伝わる『神奈川宿入口土居絵図』には、街道両側に高さ二・五メートルほどの土居が築かれ、その上には七五センチメートルほどの竹矢来を設けている。」 -
神奈川宿歴史の道「長延寺跡(オランダ領事館跡)」。
「 「神奈川宿歴史の道」の起点である神奈川通東公園は、寛永八年(一六三一)から昭和四十年までの三三〇年余の間、浄土真宗長延寺が所在した場所である。長延寺は、開港当時、オランダ領事館に充てられた。当時を偲ぶ狂歌の一節に「沖に黒船歴史を変えて、オランダ領事は長延寺」とある。
昭和四十年の国道拡幅に伴う区画整理によって、長延寺は緑区に移転し、跡地は公園となった。今はわずかに旧オランダ領事館跡を示す石碑を残すのみである。」 -
「史跡 オランダ領事館跡」石碑。
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