2013/05/24 - 2013/05/24
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キヌちちさん
大原の里に泊ったついでに寂光院と三千院に足を延ばしました。
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宿泊した大原温泉大原山荘です。
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夕食のゆば鍋です。ゆばはもちろん、豆腐もとても美味でした。
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大原山荘の宿泊部屋からの眺望です。
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大原山荘の宿泊部屋からの眺望です。山の中です。
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宿泊した大原山荘のすぐそばに寂光院がありました。
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寂光院への途中、紫葉漬と大原女発祥の地の石碑がありました。柴漬が大原で誕生したとは知りませんでした。
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寂光院への入り口です。
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寂光院
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寂光院(じゃっこういん)
京都市左京区大原草生(くさお)町にある天台宗の尼寺。山号は清香山。
寺伝では聖徳太子の開創というが、空海または良忍が開いたとも伝えられる。
本尊は6万体の小像が刻まれた木像地蔵菩薩立像で国の重要文化財。1185年(文治1年)、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡してのち、建礼門院平徳子(清盛の女(むすめ))が隠棲し、高倉天皇と安徳天皇ほか平家一門の冥福を祈った寺。
この女院のわび住まいを見舞うため後白河法王が行幸された故事は、『平家物語』灌頂(かんじょう)巻や謡曲の『大原御幸(おはらごこう)』で名高い。
また本堂内にある阿波内侍(あわのないし)(建礼門院の侍女)の張り子の像は、平氏一門の書簡でつくられたという。
寺はのちに荒廃したが、慶長年間(1596〜1615年)豊臣秀吉の側室淀君の本願により片桐且元(かたぎりかつもと)が堂宇を再興した。
2000年(平成12年)5月火災により本堂を焼失、本尊は焼損した。
閑寂な仙境で、背後の山には建礼門院の墓所、大原西陵がある(小学館、日本大百科全書より)。 -
本堂
桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた寂光院本堂は、平成12年(2000年)5月9日未明、不慮の火災により焼失した。
再建は小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17年6月2日に落慶した。
ヒノキ材で屋根は木柿葺(こけらぶき)。
正面3間奥行3間で正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の蔀戸で内側障子戸で、焼失前の寂光院がここによみがえった(寂光院HPより)。 -
本尊の六万体地蔵尊。聖徳太子作と伝えられている。
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雪見灯籠
本堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠で、豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝える。
宝珠、笠、火袋、脚からなる。
笠は円形で降り棟をもうけず、軒先は花先形とする。
火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間(ごうざま)の煙出とし、1面を片開きの火口扉とする。
円形台下に猫足三脚を付けている。
銘文等はないが、制作も優れ保存も完好で重厚な鉄灯籠である(寂光院HPより)。 -
汀の池 (みぎわのいけ)
池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ(『平家物語』大原御幸)
文治年(1186年)4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で寂光院の建礼門院の閑居を訪ねたおりの一首である。
都から遠く離れた寂光院は、全く通う人もない奥山の里で、庭の若草が茂り合い、青柳のしだれた枝は風に乱れもつれ合い、お堂の汀池の浮き草が波に揺れ池の中島の松にかかっている藤がうら紫に咲いている色、青葉まじりの遅咲きの桜が咲き、岸辺には山吹が咲き乱れる様子を詠んだものである。
この時の汀の池と桜は今も本堂前に平家物語当時そのままをしのぶことができる(寂光院HPより)。 -
書院です。
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千年姫小松 (御神木)
池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる
中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色
(『平家物語』大原御幸)
本堂前の汀の池のそばには、古来より櫻と松が寄り添うように立っていて、その櫻を「みぎわの櫻」といい、松を「姫小松」といった。
姫子松は細長く柔らかい松の葉が5本が一組になってつく、いわゆる五葉松のことである。
寂光院の姫小松は樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものであったが、平成12年(2000年)5月9日の不慮の本堂火災とともに、池のみぎわの櫻と姫小松もともに被災し、とくに「姫小松」は倒木の危険があるため伐採のやむなきに至り、現在はご神木としてお祀りしている。
ひめ小松一千年のおん姿 歴史の重さ今につたえん(寂光院32世院主 滝澤智明)
(寂光院HPより)。 -
千年の姫小松由来の説明看板です。
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千年姫小松の石碑です。寂光院HPでは「ひめ小松一千年のおん姿 歴史の重さ今につたえん」となっていますが、石の碑文は「ひめ小松一千年のおん姿 歴史の重さ今に残さん」と刻まれています。
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看板に「旧本尊地蔵菩薩収蔵庫、建礼門院御庵室跡地」とあります。
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汀の池と書院。ここも修学旅行生が熱心に見学していました。
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汀の桜です。汀の桜は平家物語「灌頂の巻」の「大原御幸」の中で後白河法皇が詠んだ和歌「池水に汀の桜散りしきて 波の花こそ盛りなりけれ」にちなんで名付けられたそうです。歴史を感じます。
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寂光院の近くに建礼門院徳子の墓所、大原西陵がありました。
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「京都 大原 三千院 恋に疲れた 女がひとり」−。三千院に行く途中、永六輔作詞、いずみたく作曲、歌デューク・エイセスによるヒット曲「女一人」の歌詞が刻まれた碑がありました。
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三千院ぬ向かいます。
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三千院門跡です。
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三千院境内図です。初めて足を運びましたが、思っていたよりも広大でした。
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御殿門です。
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三千院
京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺。
山号は魚山。本尊は薬師瑠璃光如来。
もと円融院(円融房)または円徳院といった。
梨本房、梶井門跡とも称し、妙法院、青蓮院、毘沙門堂、曼殊院とともに天台宗五門跡の一つ。
788年(延暦7年)伝教大師最澄が比叡山根本中堂を創建したとき、東塔南谷の梨の大木の下に仮堂をつくったのが始まりと伝える。
860年(貞観2年)承雲が堂塔を整備して梨本門流の一寺となる。
1086年(応徳3年)には山麓の東坂本梶井里(現大津市)に御願寺円徳院が設けられて、東塔の本坊円融坊に対する里坊とされた。
堀河天皇の第2皇子最雲法親王が皇族入寺の初めで、1130年(大治5年)第14世となり梶井の宮と称した。
その後、承任(18世)、尊快(20世)、尊覚(21世)、最仁(22世)らの法親王の入寺が続き、門跡寺院となった。
1156年(保元1年)大原寺(大原の来迎院、勝村院などの総称)を管轄することになり、魚山の声明を統管し、現在の地大原に政所を設置した。鎌倉時代、里坊は東坂本から京都に移され転々としたが、応仁の乱で船岡山にあった堂舎が焼失したのち、大原に移った。
徳川綱吉は寺領1064石を寄せ、現上京区梶井に里坊をつくった。
明治維新後、大原政所が本殿と定められ、寺号も三千院となった。
本堂の往生極楽院(国重要文化財)は1148年(久安4年)真如房尼(藤原実衡(さねひら)の妻)の建立した常行三昧堂で、堂内に安置する阿弥陀三尊(国重要文化財)、脇侍の観音・勢至菩薩の跪坐(きざ)する姿は来迎のようすを表したものとして著名である。
ほかに不動明王像、救世(ぐぜ)観音半跏(はんか)像、慈覚大師伝、四天王縁起残巻、古文孝経、性空上人伝記遺続集、帝王系図(以上国重要文化財)などを蔵する。境内には聚碧園と有清園の二つの名園がある(小学館、 日本大百科全書より)。 -
客殿外の景色。
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御殿場暮景図。竹内栖鳳(セイユウ)が御殿場に旅行し、富士の裾野の実景を写生して、1906年(明治39年)制作したと伝えられている。
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客殿外の庭。
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松龍謄空図。鈴木松年の1905年(明治38年)の作品。行者の念力で松が龍に化ける内容。
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客殿
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庭園の説明看板
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往生極楽院
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往生極楽院
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境内
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わらべ地蔵
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子供の顔のわらべ地蔵です。
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石灯籠の横にも子供のお地蔵さんの顔。
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わらべ地蔵
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わらべ地蔵
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朱雀門です。
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円融蔵。往生極楽院舟底型天井画
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往生極楽院舟底型天井画
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往生極楽院舟底型天井画
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円融蔵内
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円融蔵内
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