2013/05/21 - 2013/05/21
201位(同エリア360件中)
経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
22カ所目は上総国(千葉県)の玉前神社を訪ねました。
【玉前神社(たまさきじんじゃ)】
[御祭神]玉依姫命(たまよりひめのみこと)
[鎮座地]千葉県長生郡一宮町一宮
[創建]不詳
[追記]
「諸国一之宮“公共交通”巡礼記[上総国]玉前神社」を全面改稿し、ブログ「RAMBLE JAPAN」にて「一巡せしもの〜上総國一之宮[玉前神社]」のタイトルで連載しております。
ブログ「RAMBLE JAPAN」
http://ramblejapan.blog.jp/
http://ramblejapan.seesaa.net/
(上記のURLの内容は、どちらも同じです)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
お昼前、上総一ノ宮駅に降り立つ。
天気は薄曇りで暑くもなく寒くもない、丁度いい頃合いだ。 -
駅舎は昭和14(1939)年、隣町である睦沢町上市場の香焼(こうたき)氏により建設された。
資材には大正12(1923)年の鋼材が使用されているそう。
出入り口の横にある自動販売機の裏には当時の窓枠が。
また、待合室のベンチや構内の跨線橋も当時のものだとか。 -
改札口を出ると正面に広告と案内図が掲げられていた。
「名糖食堂」という食べ物屋さんの看板部分にである。
乳製品メーカーの「名糖」と何か関係があるのだろうか?
それにしても、フィルムを反転させた社殿の写真が斬新といえば斬新。
なかなか洒落っ気のある一之宮である。 -
その案内板に従い、玉前神社方面へ。
途中、見るからに古めかしい社号標を見かける。
しかし、なぜ境内でもないこの場所に立っているのか?
本物の社号標なのか? それとも、ただの記念碑か?
根元の部分に「参道」と記されているので、この道が表参道なのは確かなようだ。 -
イチオシ
車の往来が激しい県道を渡り、細々とした道に入る。
途端にどれが参道なのか、いまひとつ分からなくなった。
地図に見入りながら道を歩いていると、前方から高校生の一団がやって来た。
『こんにちわ』
誰かが誰かに挨拶をしている。
『こんにちわ』
また同じ声がする。
礼儀正しい奴だと思いながらフッと顔を上げると、一人の男子高校生がニコニコしながらこちらを向いている。
彼は見ず知らずの闖入者である私に対して挨拶をしていたのだ。
『こ、こんにちゎ…』
咄嗟のことだけに思わず声が上ずってしまう。
彼の挨拶に見合うだけの返礼ができなかった。
所持品からして野球部の選手のように見える。
誰であろうと道行く人に対してキチンと挨拶するよう、日頃から監督に指導を受けているのだろうか。
この出来事だけでも、玉前神社の御神域を包み込む清冽さが分かる。
挨拶は一高校生からではなく、玉前神社の御祭神からだと受け止めた。 -
細い道を暫く往くと、正面に真っ赤な鳥居が見えてきた。
玉前神社一の鳥居である。
門前の参道は広々として、一之宮に相応しい構え。
道の両側には歴史的な建造物がボチボチと立ち並んでいる。 -
鳥居の手前右側にある蔵造りの建物は歴史的建造物の「高原家住宅」。
明治時代に建造されたものと推定されている。
「ニンベン」の屋号で椿香油の販売や鶏卵を東京へ卸す商売を行なっていたという。
外周を土蔵のように塗り込めた「店蔵」で、店内の太い柱と人見梁が特徴。
人見梁は店先の上方に取付けてある化粧梁のこと。
蔀戸(出入り口の戸)を昼は上げて収納しておき、夜は下ろして戸締りする仕組み。
「蔀(しとみ)」が訛って「人見(ひとみ)」になったという。 -
玉前神社の門前に到着。
上総一ノ宮駅から徒歩10〜15分ほどか、意外と近い。
境内は、こじんまりとまとまったコンパクトな印象だ。 -
一の鳥居。
朱に塗られた一般的な明神鳥居だ。 -
社号標。
左横に「神社本廳統理 徳川宗敬謹書」と刻字されている。
徳川宗敬(とくがわむねよし)は水戸藩第十代藩主徳川慶篤の孫。
慶篤は“最後の将軍”徳川慶喜の同母兄に当たる。
生誕は明治30(1897)年、逝去は平成元(1989)年と四つの時代を生きた人物である。
神職のほかにも林学者(緑化の父)、陸軍軍人(少尉)、政治家(貴族院副議長)、教育者(東大講師)など、多彩にして波瀾万丈の人生を送ってきた。 -
二の鳥居。
右の柱には「文化三丙寅年八月」、左の柱には「式内大社當國一宮」と刻まれている。
文化三年は西暦に直すと1806年。
建立されてから200年と少しといったところか。 -
二の鳥居に掲げられた扁額。
「玉前」という社号の由来には諸説ある。
御祭神「玉依姫命」に由来する説や、豊玉姫命が海中の「龍宮」から「玉之浦(九十九里浜の古称)」南端の太東崎に上陸したことから玉崎(前)になったと云う説など。
古来より九十九里浜地方では海から流れ着いた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀っていた。
こうした石に因む話は「明(あか)る玉(珠)の伝説」として数多く伝承されている。
ひとつは汐汲みの翁の話。
早朝、東風(こち)が吹いて波間に現れた12個の「明(あか)る玉」を持ち帰ったところ、夜になってピカピカ光を放つので慌てて玉前神社の神庫に納めたという。
もうひとつは五兵衛兄弟の話。
8月12日の晩に五兵衛という男に夢のお告げがあり、翌朝弟と海に行くと東風が吹かれて光る錦の袋が流れてきた。
兄弟は袋を拾い上げて家に持ち帰り中を見ると、光る珠が入っていたので神社を建てて珠を納めた。
五兵衛兄弟は「風袋(ふうたい)」姓を名乗り、珠は12個あったともいい、納めた神社が玉前神社であったともいう。
そして風袋家の末裔は、今も玉前神社の社家として存続しているそうだ。 -
二の鳥居の脇にあるご神水。
24時間、自由に採水できる。
意匠が凝らされた送水柱とレトロな蛇口の取り合わせが「ご神水」の御利益を高めているかのよう。 -
二の鳥居をくぐり右に曲がると正面に三の鳥居。
他の鳥居と異なり両部鳥居で、しかも台輪と台石がある。 -
三の鳥居左側にある禁足地。
-
三の鳥居をくぐると、短い石段。
玉前神社は永禄年間(1558〜1570)の戦火によって社殿や宝物、文書の多くが焼失したため、創建の時期や年数、名称の由来などについては不詳となっている。
ただ、延長5(927)年にまとめられた「延喜式神名帳」に名神大社として名を連ねており、創建から少なくとも1000年以上は経過しているのは間違いない。
毎年9月10〜13日に行われる御例祭「上総十二社祭り」は大同2(807)年創始と伝えられており、玉前神社には1200年の歴史があると見られている。 -
石段を昇り切ると正面に社殿。
残念ながら改築中で外側がシートで覆われており、黒漆塗りの権現造りという珍しい様式を拝見することはできなかった。
社殿は貞享4(1687)年に造営され、建築様式は大唐破風・流入母屋権現造で銅板葺き。
正面に高砂の彫刻があり、左甚五郎の作とも言われている。
大きな棟札の表面には「奉造営 貞享四年三月十三日 大工棟梁大沼権兵衛」とあり、裏面には13カ村の名が記されている。
これら社殿と棟札は千葉県から有形文化財に指定されている。 -
社殿を正面に見て、右手に建つ神楽殿。
玉前神社に伝承されている「上総神楽(かずさかぐら)」は、千葉県から無形民俗文化財に指定されている。
神楽面23面が相伝され、神主家の人達によって古くから伝承されていたが、永禄年間の戦火で途絶えたと思われていた。
記録では宝永7(1711)年、新たに神楽殿を造り土師流神楽が伝承されたとされている。
現在、その技は上総神楽保存会が口伝により継承し、春・秋の祭礼をはじめ年間7度奉納されている。 -
本殿を右横から撮影。
今回の社殿改修は平成18(2006)年に創始1200年を迎えたのを記念して行われる、謂わば「平成の大改修」だ。
前回の大改修は大正12(1923)年というから約90年ぶりとなる。
建物の歪みや腐食、漆塗の激しい剥落、銅板葺き屋根の老朽化など、その間の経年劣化は著しいものがあったという。
工事が終了した暁には、再びピッカピカの社殿が姿を現すに違いない。 -
本殿にはカバーが架けられておらず、美しい黒塗りの建物を拝むことができた。
玉前神社の主祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。
「古祭事記」には、海(龍宮)から上陸された海神・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が、夫・日子火火出見命(ひこほほでみのみこと)の故郷の海浜で御子・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産した後、妹の玉依姫命に御子の養育を託して龍宮に帰られた…とある。
玉依姫命は陰日向となって鵜茅葺不合命を育まれた後、なんと結婚。
玉依姫命と鵜茅葺不合命の間に産まれた御子こそ、初代天皇神武帝。
つまり玉依姫命はキリスト教で例えれば聖母マリアの如き存在と言えよう。 -
今度は社殿を左横から撮影。
神武天皇の御母堂が主祭神だけあって、ここは「女性」にとって霊験あらたかな神社。
古くは北条政子も懐妊の際に安産を祈願したとの伝承もある。
縁結び、月の物、子授け、出産、養育といった、女性の心身にまつわる神秘的な作用は「月」を司る玉依姫命ご自身のお導きによるものと言われている。
また、縁結びは「男と女」に限ったものではなく、人と人の縁を結ぶ商売や事業に関わる祈願も多いという。
さらに、鵜茅葺不合命の司る「旭日」は清新・発祥・開運・再生など物事の新しく始まる事象に御利益があり、それらは「月」を司る玉依姫命によって守護されている。
このように玉前神社は「太陽」と「月」に密接な関わりを持っていて、太陽と月が一列に並ぶ新月の1日と満月の15日は大潮になり、この日に月並祭が行われる習わしが現在でも続いている。
ただ、御例祭「上総十二社祭り」にちなみ15日ではなく13日に行っているという。 -
社殿の左側にある不思議な形状をした岩塊。
下部を覆う土盛からは木々が伸び、その狭間には古めかしい石碑が幾つも聳立している。
さて、御例祭についての話の続き。
「上総十二社祭り」は千葉県の無形民俗文化財に指定されている。
玉依姫命と鵜草葺不合尊が結ばれ神武天皇が産まれたことは先に述べた。
両命の間には神武天皇(日本磐余彦命)のほかにも五瀬命、稲飯命、三毛入野命の御子がおり、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って九十九里浜へ流れて行った。
「龍の如し」と云われるほど元気一杯の幼い神々は、海岸に着くや大はしゃぎで大暴れ。
そこで玉依姫命の神々一族は幼い神々を諌めるべく九十九里浜へと向かった。
「上総十二社祭り」は、このような伝承に因んだものだ。 -
岩塊の周囲には「はだしの道」が回らされている。
玉砂利が敷かれ、その上を裸足で歩いて一周するという。
玉砂利の痛みを通じて大地のパワーを体感しようという意図か。
それとも人間の罪に対する神の罰として肉体へ苦痛を与えようというキリスト教的な趣旨に基づくものか…まさかね。
ちなみに「はだしの道」の体験歩行は遠慮させて頂いた。 -
「はだしの道」の更に左奥、境内の西端には十二神社が鎮座している。
一宮町内にあった十二の社を一堂に合祀した摂末社だ。
社殿の前から参道が一直線に伸びて鳥居を貫き、石段へと通じている。
まだ出来たばかりのようで石段は真新しく、手すりもピカピカだ。 -
石段を降りたところに佇む古い床屋さん。
建築当初は「髪結い場」として地域の社交場になっていたそうだ。
大正時代に「吉村理容店」として床屋さんに転身し、今なお営業中だ。
建屋は19世紀中頃の建造と云われている。
木造寄棟造妻入の平屋で、トタン屋根の下には茅葺屋根が潜んでいる。 -
こちらは十二神社と正反対の東端、参集殿と斎館の間を通る参道と鳥居。
こちらは逆に年季の入った石段で貫禄がある。
鳥居の台石と石段の両脇を通る石造りの側溝、その両者が一体化したデザインが秀逸だ。 -
その石段を降りた先、参集殿前を通る小奇麗な路地。
神社側の生垣は綺麗に剪定され、向かい側の民家の生垣には薔薇が咲き乱れている。
上総國一之宮の御神域に住処を構える誇りを感じさせる風景だ。 -
一の鳥居前に戻り、往路を再び引き返す。
道の途中、一軒の蕎麦屋がある。
名を『布袋庵』と云う。
寒川神社でも、氷川神社でも、昼食は門前蕎麦。
玉前神社でも、やはり蕎麦にしよう。
店内に入ると、気の置けない町場のお蕎麦屋さんである。
ここで「季節の野菜かき揚げ天ざる」を注文する。
メニューを見ると丼物などはもとより、ラーメンまである。
門前蕎麦というより、地域の食堂的な役割を果たしているようだ。
蕎麦は飛び切り美味いわけではなく、さりとて不味いわけでもなく。
普通の蕎麦屋の普通の天ざるだった。
むしろラーメンのような、蕎麦屋では珍しいメニューを頼んでみればよかったと、店を出てから思った。 -
上総一ノ宮の町には古い建物が残る。
それもそのはず、一宮町は玉前神社の門前町というだけでなく、一宮藩加納家一万三千石の城下町でもあった。
とはいえ小藩ゆえ居城は陣屋で今では往時の建物は残っておらず、城跡には現在「振武館」という武道場が建っている。
一宮加納藩は文政9(1826)年に伊勢八田藩主の加納久儔が移封して立藩。
二代藩主久徴は幕政の要職を歴任し、公武合体政策も積極的に推進した。
このため皇女和宮が十四代将軍徳川家茂に降嫁の際、京から江戸までの警護役を務めた。
皇女和宮は功績を讃え、降嫁の際に乗った駕籠を加納家に下賜。
その駕籠は今、振武館の更に西にある東漸寺に所蔵されている。 -
「すいませ〜ん!」
電車を待つ間、駅前で案内地図の看板を眺めていると、若い女性が駆け寄ってきた。
何かの勧誘かと思って身構えたらそうではなく、観光案内所の職員だった。
地図の前にボーッと突っ立ってたので、PRするのに丁度いいカモだと思われたのかも知れない。
「お一人でいらっしゃったんですか?」
小柄で眼鏡の奥の瞳がクリッとした、なかなかに可愛い女性。
次の電車まで時間に余裕もあり、案内所で話を聞くことにした。
案内所は駅舎の中にはなく、道を挟んだ向かい側にポツネンと建っている小さな建物。
そこでパンフレットなどをドッサリ頂戴しつつ、一宮町の魅力についてタップリと講釈を受けることに。 -
一宮町は歴史や文化遺産より、海山に近い利を活かした自然を観光の前面に押し出す戦略と見た。
駅の西南に広がる小高い丘はトレッキングに、駅から歩いて30分ほどの九十九里浜は海水浴に、それぞれ最適。
また、市街地には玉前神社や加納藩陣屋跡だけでなく、歴史ある寺や古い商家などが連なっている。
一宮町は自然と文化が絶妙に調和した町なのだ。
「近くのお寿司屋さんは自前の田んぼで穫れた米を使ってるんですよ」
今日見て歩いた一宮町の姿など、まだ表層部分もいいところだったのだ。
それぐらい、この町の魅力は奥深いものがある。
残念ながら、電車の時間が来てしまった。
「また来ますね」
そう言って、後ろ髪を引かれる思いで観光案内所を後にした。
駅のホームに立つと、一宮町のゆるキャラ「一宮いっちゃん」と目が合った。
どことなく案内所の女性と似ているような、そんな錯覚に囚われる。
「さすが縁結びの神様だけあるなぁ…」
どことなく去りがたい気持ちを心の片隅に抱いたまま、到着した電車に乗り込んだ。
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