2013/05/20 - 2013/05/20
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経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
21カ所目は武蔵国(埼玉県)の氷川女體神社を訪ねました。
また、一之宮ではありませんが氷川両社と関係の深い中山神社も併せて参拝しました。
【氷川女體神社(ひかわにょたいじんじゃ)】
[御祭神]奇稲田姫尊(くしなだひめのみこと)
[鎮座地]埼玉県さいたま市緑区宮本
[創建]第十代崇神天皇年間
【中山神社(なかやまじんじゃ)】
[御祭神]
大己貴命(おおなむちのみこと)
素盞鳴命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
[鎮座地]埼玉県さいたま市見沼区中川
[創建]第十代崇神天皇2年
【追記】
「諸国一之宮“公共交通”巡礼記[武蔵国]氷川女體神社」を全面改稿し、ブログ「RAMBLE JAPAN」にて「一巡せしもの〜武蔵國一之宮[氷川女體神社]」のタイトルで連載しております。
ブログ「RAMBLE JAPAN」
http://ramblejapan.blog.jp/
http://ramblejapan.seesaa.net/
(上記のURLの内容は、どちらも同じです)
ご訪問、お待ちしております!
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
-
埼玉県の県庁所在地さいたま市。
その中央駅である大宮駅から国際興業バスの中川循環系統に乗車する。
もともと大宮の中心地は、中山道の宿場として栄えていた街の側に開けた東口であった。
しかし2000年にさいたま新都心が街開きしてからというもの、大規模に再開発された西口に重心が移り、おかげで東口はどこか煤けて見えるようになってしまった。 -
このバスに乗るのは約30年ぶりになる。
当時は駅から離れるにつれて沿道に畑ばかり連なっていた記憶があるが、今ではいつまでも住宅地が途切れることはない。
バスに揺られて15〜6分ほど、中山神社前バス停に到着した。 -
バス停は県道1号線沿いにあり、周囲は完全に“自動車社会”に適化している。
すぐ近く、小径との交差点に案内用の標柱が立っていた。
しかし、その小径へ入る前に立ち寄らねばならない場所がある。
横断歩道を渡り、中山神社とは全く逆の方向へ足を向けた。 -
しばらく歩くと、小振りで真っ赤な両部鳥居が姿を現した。
中山神社の一の鳥居。
塗装も剥げたところがなく丁寧に手入れされている。
ここから中山神社の参道が始まるわけだ。
さっそく鳥居をくぐり、今来た道を引き返す。 -
先ほどの交差点を渡り返し、案内に添って小径の奥へ。
標柱には氷川神社の神紋『八雲』があしらわれている。
「氷川」を名乗らずとも、氷川神社との関係性は疑いようもない。
八雲たつ
いづもやへがき
つまごみに
八重垣つくる
そのやへがきを
神紋八雲は氷川神社の主祭神、須佐之男命が「須賀の宮」を営まれた折、御殿の周囲に七重八重と立ち込めた瑞雲を形象したもの。
「須賀の宮」とは出雲國…現在の島根県雲南市に鎮座する須我神社のこと。
須佐之男命が八岐大蛇を退治した後に建立した宮殿が神社になったものと伝えられている。
七重八重の雲の彼方に在す物語が、この見沼田んぼのド真ん中に中山神社を鎮座せしめた。
これもまた、一種の“神話”なのだろうか。 -
参道は細く、その両側は雑木林と住宅が入り組み、都会とも田舎ともつかない空間が広がる。
大宮駅からバスで20分足らずなのに、駅前の喧騒からは想像できない長閑さ。
ランドセルを背負った小学生たちが互いにふざけ合いながら、目の前を駆けて行く。
まさに『村の鎮守の細道』そのままの光景だ。 -
それほど参道は長くなく、10分も歩かないうちに二の鳥居へ着いてしまった。
ここから先が中山神社の境内に当たる。
境内は玉垣で囲われておらず、外界と明確に区切られていない。
これはもう、中山神社が地域社会に溶け込んでいる以外の何物でもない。 -
二の鳥居を潜ると境内の奥から一人の男性がこちらに向かって歩いて来た。
宮司さんかと思ったが、ここは不駐在のはず。
『こんにちわ』
挨拶を交わして境内から出て行った彼に、小学生たちが駆け寄って行く。
子供たちの父兄なのか、それとも学校の先生か。
いずれにせよ、子どもたちから慕われていることは見るからに分かる。 -
創建は社伝によると人皇十代崇神天皇の御代二年。
西暦に直せば紀元前96年、皇紀565年に当たる。
また、天正19(1591)年11月に徳川家康から社領15石の御朱印地を賜っている。 -
『氷川三社』は各社とも須佐之男命(氷川女体神社は三穂津姫命を祀る)、稲田姫命、大己貴命の三座を主祭神に挙げている。
しかしながら氷川神社は素蓋鳴命で男体社、氷川女体神社は妻神の稲田姫命で女体社、そして中山神社は先の二神の子孫に当たる大己貴命で氷(簸)王子社と、それぞれ筆頭とする祭神が異なる。
この三社を一社と見做して『延喜式』神名帳にある「名神大社氷川神社」だったとする説もある。 -
境内の右側に鎮座する御火塚。
毎年12月8日に行われる「鎮火祭」の重要な舞台となっている。
「鎮火祭」は古くから伝わる重要な祭り。
現在は御火塚前に薪を積み上げ、火渡り神事が行われる。
素足で火渡りすると火防・無病息災の神徳に与ると云われ、鎮火祭当日の境内は氏子をはじめ多くの参拝者で賑わうそうだ。 -
御火塚の横を通り、拝殿へ進む。
中山神社は氷川神社と氷川女體神社を結ぶ直線上の、ほぼ中間地点に位置していることは広く知られている。
中山神社から見て太陽は夏至に氷川神社方向の西北西に沈み、冬至には氷川女體神社方向の東南東から昇る。
氷川三社は、こうして太陽の公転を神社の配置に記録しておく「自然暦」でもあったのだ。
現代ならグーグルマップを見れば一目で分かるのだが、航空機すら存在しない大昔よくそのような芸当ができたものだと感心する。
いや、無いなら無いなりに知恵を絞り尽くし、あらゆる手段を駆使したのだろう。
なにしろ稲作にとって太陽の動きを把握することは不可欠なのだ。
しかし、誰が何時どのように三社の位置を決定したのか、その記録は詳らかでない。
大量の農民を動員して気の遠くなるような測量作業を地道に行ったのだろうか? -
現在の社号は明治40(1907)年、鎮座地中川の「中」と江戸期の新田開発以来氏子付き合いを続けてきた上山口新田の「山」を合わせ、それまでの「氷川社」から改称したもの。
鎮座地の中川という地名は、旧社号「中氷川神社」の「氷」が「鎮火祭」の炎で溶けて「中川」になったという説もある。 -
中山神社の本殿は大正14(1925)年7月21日竣工と比較的新しい。
その裏手に、新造される以前の「旧社殿」が保存されている。
時代は桃山期のものと考えられ、県内に現存する社殿でも古い型式に入るため、建築学上大変貴重な資料となっている。
さいたま市内では最古のものであり、市から文化財建造物に指定されている。 -
旧社殿はこの覆堂の中に鎮座している。
中を覗いてみると悠遠の年月を経てきただけあって、さすがに建物そのものはガタガタ。
だが敢えて修繕せずそのままにしてあるところが、逆に歴史の重みを感じさせる。
手前に説明板がある。
この旧社殿は板張り床の外陣に至る階段を設け、祭神が鎮まる母屋前方の屋根を角度を変えて軒先よりさらに長くし、反りを付した板葺きの二間社。
社殿側面の床板には脇障子や欄干がついていた痕跡が見受けられ、このような建築様式を「流造(ながれづく)り」という。
また、一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものは「見せ棚造り」といって社殿の基になる型である。
この旧社殿は簡素な板葺きの「見せ棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物といえる。
豊臣秀吉の時代に建立された社殿が、21世紀の今こうして眼前に存在する不思議。
この世は儚いようでいて、なかなかにシブトいようだ。 -
境内を出て再び中山神社前バス停まで戻る。
そこから国際興業バスを乗り継ぎ、さいたま東営業所へ。
ここで東浦和駅行きのバスに乗り換える。
日本国内で埼玉は比較的、鉄道網が張り巡らされている県なのだが。
それでも、まだまだ鉄道網からこぼれている地域のほうが圧倒的に多い。
宅地開発のスピードが速すぎて、公共交通網はバスに頼らざるを得ないのが実情だろう。
これが首都圏でなければ、道路さえ整備しておけば住人が自家用車で勝手に移動してくれるのだろうが。
こうも人口が多いとマイカーだけでは交通網がパンクしてしまうのは必定。
かくして今日もまた埼玉県内を路線バスが網の目を縫うように走り続けている。 -
さいたま東営業所からバスに揺られること20分ほどで、朝日坂上というバス停に着いた。
しかし、ここがどこなのか実のところサッパリ分からない。
ここまでのバスルートはインターネットで探し出したためである。
このルートを確定するまで相当な手間がかかった。
もしバスの営業所で時間とルートをいちいち確認していたら、たぶん一日では終わらなかったろう。 -
朝日坂上バス停から緩やかな坂道を下って新興住宅地を抜けると、木々の緑が色濃く繁るこんもりとした丘が見えてきた。
周囲を畑と真新しい住宅に囲まれた森。
氷川女體神社の裏手に位置する公園だろう。
氷川神社で言えば大宮公園、小野神社で言えば小野神社公園。
神社と公園はどこでも表裏一体だ。 -
公園の外周を時計回りにグルリと巡ると、正面に小川と橋が現れた。
右折して川に沿って歩くと「見沼たんぼの見所案内」という案内板を発見。
「見沼たんぼ」とはさいたま市の南北中央を帯状に占める大規模緑地空間で、その面積は約1260haと非常に広大だ。
その中心に氷川神社−中山神社−氷川女體神社の「氷川三社」ラインが一直線に並んでいる。 -
案内板の少し先に朱塗りの神橋と長い石段、その上に鳥居が聳立している。
ようやく氷川女體神社の入り口にたどり着いた。
朝から降り続く霧雨は止む気配がない。
濡れて滑りやすくなった石段を一段づつ、注意深く昇った。 -
氷川女體神社の鳥居。
神域の外では見かけなかったので、表参道では唯一無二の鳥居かと思われる。
境内の案内板によると、ここから北西約400mの住宅地に石造の鳥居が聳立しているそうだ。
これは安政2(1855)年、馬場地区から参詣する人たちの便を考えて大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものだという。
残念ながら実際に視認してはいないのだが、もし中山神社から歩いて来ていたら、ひょっとしたら見る機会があったかも知れない。 -
鳥居に掲げられた扁額。
「武蔵國一宮 氷川女體神社」と記されている。
「名神大社氷川神社」は高鼻の氷川男體社、中川の簸王子社、そしてここ三室の氷川女體社の三社で、ひとつの広大な神域(結界)を形成していたことは先に触れた。
ここもまた紛れもない「武蔵國一之宮」なのだ。 -
鳥居を潜ると正面に拝殿が鎮座する。
氷川神社の方角ではなく、日の出ずる東方を向いている。
これは氷川三社で自然暦を構成している証ではなかろうか?
創建は今から2000年以上も昔、第十代崇神天皇の御代に出雲杵築の大社を勧請したと社伝「武州一ノ宮女體宮由緒書」には記されている。
ただ、実際には奈良時代(710〜794)に建立されたようだ。 -
拝殿の扁額にはシンプルに「武蔵國一宮」とだけ記されている。
横には「東都鳳岡関思恭拝書」と、揮毫の主が墨書されている。
関思恭は元禄時代を生きた水戸藩出身の書家。
“草聖”と称されるほど草書に優れ、門人は五千余人に至ったという。
さて、主祭神が奇稲田姫命であることは既に触れた。
加えて大己貴命と三穂津姫命を配祀している。
さすがに女體宮だけあって須佐之男命は祀られていない。
氷川神社にも中山神社にも祀られていなかった三穂津姫命は大己貴命の后。
須佐之男命の子が大己貴命だとすれば、姑と嫁が同居していることになるのか? -
氷川女體神社もまた中世以来、武門の崇敬を集めてきた。
鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などに縁ある書物や宝物を数多く所蔵しており「武蔵野の正倉院」とも称されているそうだ。
徳川家康は五十石の社領を寄進し、現在の建物は寛文7(1667)年に第四代将軍徳川家綱が忍城主阿部忠秋に命じて造営させたもの。
つまり将軍直々の命で造営された社殿を擁する、由緒正しき神社なのだ。
しかし、その後は男體社に比べて庇護の度合いが薄く、明治2(1869)年に屋根が葺替えられた程度で老朽化が著しく進んでいた。
そこで文化財保護や参拝者の安全といった観点から、平成14(2002)年に修復事業がスタート。
同19(2007)年には埼玉県有形文化財にも指定され、同25(2013)年1月に修復工事が完了した。
4年後の2017年には四代将軍家綱の造営から350周年と節目の年を迎える。 -
「女體宮道」と刻まれた道標。
長き年月を経て丸みを帯びた石と相俟って、どこかエロティシズムを感じさせる。
幕末の弘化2(1845)年、南にある大間木水深の赤山街道に面して建立された案内道標だ。
大間木の地名はJR武蔵野線東浦和駅方面に今も残っている。
幕末こうした道標が設置されたのは、それぐらい参詣客が多かった証なのだろう。 -
御朱印を賜りに社務所へ立ち寄った。
中には誰もいなかったが「不在の時は押して下さい」と書かれた呼び鈴があったので、押してみる。
すると、中から眼鏡をかけた小太りのお爺さんがノッソリと姿を現した。
その姿は伊勢国一之宮、都波岐奈加等神社の宮司さんを思い起こさせる。
御朱印帳を渡すと社号を墨書ではなく、なんとスタンプで押している。
ここまで約20社ほどで御朱印を賜ってきたが、スタンプとは初めてだ。
日付のところのみ唯一、墨書で記入していた。
しかし、スタンプを力いっぱい押し付ける姿がどこかユーモラスで、日本の神話というより西洋の御伽話を連想してしまった。
暫くすると、御内儀が犬の散歩から帰って来た。
この古社を老夫婦二人で守っているのだろうか。 -
社務所の玄関横に並んでいた巫女人形。
氷川女體神社の象徴とも云うべき存在だ。
人形に願を掛けると、巫女人形が神様に取り次いでくれる。
そして、願い事が叶えば着物を着せてお礼参りするという。
昭和40(1965)年に御神木の手作りから始まった、この巫女人形。
現在この習俗は全国で唯一ここだけとのことで、多くの崇敬者から信仰を集めているそうだ。 -
境内の摂末社は他の神社のように一つ所に合祀されているのではなく、個々が独立した小さな祠として、森の中に散在していた。
このような摂末社の祀られ方を見たのは初めてで、古神道本来の姿を見たような気がして、畏れにも似た感情が湧き上がってきた。
特にこの日は雨が降っていて周囲が薄暗かったため、どこか神秘的に見えたせいだろう。
晴天の日に改めて見たら、また違った印象を受けるのかも知れない。
ちなみに社叢は暖地性植物が繁茂する天然記念物で、ふるさとの森にも指定されている。 -
境内を辞し、石段を下りる。
そのまま参道を直進すると、磐船祭祀跡遺跡がある。
氷川三社の直線配列[高鼻男體社−中川簸王子社−三室女體社]は、自然歴として利用するためだと既に述べた。
しかし三社には、もうひとつ重大な役割が負わされていた
それは灌漑用水であり水害をもたらす元凶でもあった「見沼」の鎮護である。
氷川三社は見沼の中央部分を貫くように配置されているのだ。 -
石段を降りると正面には朱塗りの神橋。
ここから遺跡までの一本道は「御幸道」と呼ばれる。
社務所と参道を挟んだ向かい側に鎮座する摂社「見沼竜神社」には、竜伝説に因んだ竜神様が祀られている。
その昔、氷川女體神社では「御船祭」と呼ばれる祭礼が行われていた。
氷川女體神社のレーゾンデートルとも云うべき根本祭礼である。
毎年あるいは隔年の9月8日、御座船に乗せられた神輿が見沼を渡り、下山口新田の御旅所に渡御するというもの。
神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、4本の竹を立て祭祀場とし、沼の主である竜神様を祀ったという。
その跡は「女體宮道」の道標が建てられた大間木に近い、下山口新田字四本竹にある。
発掘調査では約400年分に相当する量の竹が地面に立てられた状態で出土したという。 -
享保12(1727)年、第八代将軍徳川吉宗の政策で見沼は干拓され、一大米産地「見沼田んぼ」に変貌。
しかし沼から水が干上がってしまったため、従来の「御船祭」を継続することが不可能に。
そこで新たに祭礼場を造成し、御船祭の代わりに「磐船祭」という祭礼が行われることとなった。
新たな祭礼場は氷川女體神社前の干拓地に柄鏡(えかがみ)型の池を掘り、中心に土を盛って造成した。
その昔は高台の境内から石段を降りて見沼代用水を渡った場所から陸橋が設えられ、祭礼場へ通じていたという。 -
祭礼場は直径30メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲った斎場が設けられていた。
磐船祭は享保14(1729)年9月8日に初めて行われ、明治の初期頃まで行われていたという。
その後、磐船祭は途絶えたものの祭礼場の跡はそのまま残されてきた。
昭和57(1982)年、氷川女體神社と旧浦和市教育委員会により復元整備事業が行われ、現在の形になった。
2001年には三市合併によるさいたま市発足を記念し、明治以来途絶えていた磐船祭が「祇園磐船竜神祭」として復活。
毎年5月4日に祭礼が執り行われている。 -
大宮の氷川神社に比べれば、その規模は比ぶべくもない。
だが、鬱蒼とした木々に囲まれた丘の上に佇む御社は、他のどの神社にもない独特な霊気を湛えている。
浦和や大宮といえば東京のベッドタウン的なイメージが強く、現に氷川女體神社の御神域も新興住宅街にグルリと取り囲まれている。
しかし、金太郎飴の如き無個性な家が立ち並ぶ新興住宅街の中心に、古神道の雰囲気が横溢する古社が存在することこそ、まさに「現代の神話」に相応しい光景のように思われる。
結局、朝から止みそうで止むことのなかった小糠雨の中、JR東浦和駅へ向かうべくバスの停留所へと足を向けた。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 横浜臨海公園さん 2013/06/21 10:09:24
- 氷川女體神社
- 経堂薫さま、おはようございます。
氷川女體神社の旅行記を拝見させて頂きました。
該社は、中山神社と共に、幕末まで大宮氷川神社と同格扱されていた神社でしたが、明治維新の時に、明治天皇が行幸された事で氷川神社が1人勝になり、官幣大社列格になったのに対し、他2社は郷社か村社止りで地元以外から忘れられた存在になってしまいました。
武蔵國一之宮は、最終的に氷川神社が勝利を射止めた様なものと解しております。
横浜臨海公園
- 経堂薫さん からの返信 2013/06/22 02:38:14
- 横浜臨海公園様
- 横浜臨海公園様、こんにちわ。
ご投稿頂き有難うございます。
> 氷川女體神社の旅行記を拝見させて頂きました。
ありがとうございます。
> 該社は、中山神社と共に、幕末まで大宮氷川神社と同格扱されていた神社でしたが、明治維新の時に、明治天皇が行幸された事で氷川神社が1人勝になり、官幣大社列格になったのに対し、他2社は郷社か村社止りで地元以外から忘れられた存在になってしまいました。
江戸時代に男體社、女體社、簸王子社は同格と裁定されたのですが、明治期に入って女體社と簸王子社を廃し男體社に三神を祀るようになったそうです。
賀茂社が山城國京の都の総鎮守であることを踏襲し、氷川社を武蔵國東京の総鎮守とするためにも、明治政府は氷川三社を一本化する必要に迫られたのでしょう。
> 武蔵國一之宮は、最終的に氷川神社が勝利を射止めた様なものと解しております。
賀茂社も上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)と二つ存在してるのですから、氷川社も男體社に女體社と二つあっても不自然ではなかったような気もしますが。
やはり明治政府の「皇位継承資格は男系男子の皇族に限る」という施策に忠実に則った結果、女躰社を廃することになったんでしょうか?
まぁ、一之宮の論拠推定は学者の研究に任せることにして、一介の旅人に過ぎない私は「ここは一之宮です」と主張していれば「あぁそうですか」と無条件で受け入れることにしています。
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