2013/04/23 - 2013/04/23
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しんちゃんさん
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4月23日(火)鶴ヶ城の満開の桜を見学してきました。あと数日持つでしょう!急いで行きましょう。行けない方は「行った気になるしんちゃんさんの旅行記」を見て下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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4月23日(火)回り道してやっと辿り付きました。ひときわ目立つ、ピンク色の桜発見。「寄贈コヒガンザクラ高遠藩(長野県高遠町)」
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駐車場より遠く磐梯山が見えました。
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会津陸上競技場、駐車場西側の桜並木、ここの桜はピンク色
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三の丸(現在の県立博物館周辺)から二の丸への入り口
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We are here.
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二の丸に説明版がありました。【明治元年(1868)9月22日巳の刻(午前10時頃)、会津藩は「降伏」の旗を掲げ、壮絶な戦いを繰り広げた簸城戦に終止符が打たれました。山本(新島)八重は、新政府軍が鶴ヶ城に入城する様子を「切歯扼腕 (歯ぎしりし腕を強く握るほど無念な様子)の思いで見守ったと晩年(84歳)に語っています。降伏の儀式が終わり夜が更けると、八重は三ノ丸の一角で一首の和歌を詠みました。このとき「月が物凄いように輝いていた」とのちに回想しています。…八重が物心ついたときから日々見上げてきたお城、簸城戦では城を枕に殉死する覚悟までしたこの鶴ケ城が、明日からどこの国の誰の手に渡ってしまうのか。…煌々と輝く月明かりの下で詠まれた和歌に、八重の無念さが込められています。】
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二の丸から本丸の北側のお堀
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廊下橋
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高石垣(高さ19m)、茶壷櫓を眺める
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「蒲生時代の表門」より
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説明版からです。【萱野国老殉節碑(かやのこくろうじゅんせつひ)萱野権兵衛長修(かやのごんべいながのぶ)は国家老(くにがろう)として内政の責任を担っていた。慶応4年(1868)戊辰戦争では先頭に立って激務にあたった。また敗戦処理に際しては、城明け渡しや藩主父子の助命嘆願(じょめいたんがん)に力を尽くした。その結果、藩主は死を許されたが、戦争責任は家老田中土佐(たなかとさ)、神保内蔵助(じんぼくらのすけ)、萱野権兵衛にあるとされ、田中、神保は既に死亡しており、萱野権兵衛のみがその罪を一身に背負い切腹した。この碑は昭和9年、有志の手によって建立された。】
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「御三階跡(ごさんかいあと)」自分でよんでね!明治時代に移築しました。参考にどうぞ「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10704397/」
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御三階跡
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本丸内部、「月見櫓」より
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茶壷櫓より廊下橋と高石垣(高さ19m)
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茶壷櫓より
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「月見櫓」下側に「荒城の月碑」土井晩翠直筆の碑です。
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表門、鉄門(くろがねもん)
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ライブカメラ、いつもこの映像を確かめて出掛けて行きます。お世話になっています。
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ライブカメラの下で撮りました。比べて下さい。「http://www.ntt-east.co.jp/fukushima/mado/detail/turugajou.html」
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会津若松市葵高校 薙刀(なぎなた)部の女学生も花見に来ていた。
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売店、皆さんソフトクリームを美味しそうに食べていた。
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鶴ヶ城稲荷神社
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一旦休憩、三の丸南側に「佐川官兵衛顕彰碑」「福島八重隊」よりコピーです。【会津士魂を体現した、会津屈指の名将 旧鶴ヶ城三の丸地内にある顕彰碑 西南戦争で官兵衛が戦死した熊本県南阿蘇村の大石で造られています。佐川官兵衛は剣術、馬術と歌道に秀でた文武両道の人で、人情に厚く、その人柄で部下たちに慕われた会津藩家老です。会津藩主松平容保が京都守護職を務めた際には、京都日新館の学校奉行、容保が外出する際の警護にあたる別選組や諸生組の隊長を兼任しました。鳥羽伏見の戦いで、薩長勢と戦った際、刀は折れ、銃弾により眼を負傷したにもかかわらず、平然と指揮を執っていたことから「鬼官兵衛」と恐れられました。その後の戊辰戦争では、軍事奉行頭取として各地を転戦します。「佐幕派強い者番付」にも部名を謳われるほどで、その指導力は容保からも高く評価されていました。材木町住吉河原での戦いでは、わずかな兵力で西軍に甚大な損害をあたえました。これは籠城戦開始後、会津藩のあげた唯一の勝利といわれているものです。】
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会津陸上競技場、南側の「みつばちの碑」
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福島県立博物館の東側「コヒガンザクラ」説明版からです。【小彼岸櫻の由来 この櫻は県立博物館竣工記念として会津藩祖保科正之公ゆかりの地長野県高遠町(現伊那市)より贈られたものです。正之公は二代将軍徳川秀忠公の第九子で高遠藩保科氏の養子に入り城主を経て寛永20年(1643)会津藩主となり名君とうたわれました。高遠城のコヒガンザクラは長野県の天然記念物として指定されておりエドヒガンとマメザクラの中間種で花は小ぶりで赤みを帯びているのが特徴です。昭和61年 丙寅(ひのえ とら)年 博物館】福島県立博物館は「福島県会津若松市城東町1−25 」
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明石市から50ccオートバイで日本一周している方。大学生のようでした。
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FTV福島テレビ会津若松支社跡に「アドリア北出丸カフェ」(右側)おしゃれな喫茶店が出来ました。(宣伝料はいただいておりません)
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鶴ヶ城会館、レストラン前に「照姫しだれ桜」と命名されていました。
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鶴ヶ城会館「桜ヶ馬場と八重」「鶴ヶ城の瓦」の説明版「桜ヶ馬場と八重」を写しました。【山本(新島)八重か籠城した戊辰戦争時、この場所には「桜ヶ馬場」と呼ばれた会津藩の馬の練習場がありました。現在の鶴ヶ城は城内いたるところに桜樹があり、春になると見事に咲き誇ります。しかし、江戸時代の鶴ヶ城には「桜ヶ馬場」以外に桜樹はほとんど無かったと言われています。また、桜ヶ馬場の北側には家老らの武家屋敷が立ち並んでいました。鶴ヶ城での一カ月に及んだ籠城戦ののち開城した慶応4年(1864年)9月22日、と23日、ここ桜ヶ馬場で人員調べがあり、男子は猪苗代送りとなりました。この時八重は、男装し弟の山本三郎と称して人員検査を通通したのでした。八重の弟三郎は、鳥羽伏見の戦いで銃撃を受け亡くなっていました。また、兄覚馬も京都の四条河原で処刑されたとの誤報が八重には届いていたのです。】
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「椿坂」【北出丸から本丸へと通じる城への玄関口。この坂を制するものが城を制すると言われる程、重要な坂でした。】と会津若松観光公社のHPの説明です。
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大手門(太鼓門)より。“遊女石”は下記を参照して下さい。「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10013920/」
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テレビ中継車が来ており、満開の桜を実況中継していた。しんちゃん中継電波に興味があり、中継するパラボラアンテナを見ていたら、「中継電波は背あぶり山で中継して郡山市まで送ります」等説明してくれました。「実況中継の裏側に立てばテレビに映りますよ!」と言われたが…
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再び月見櫓へ。カメラマンが昼間同様ウジャウジャ居た。間をぬってパシャ!
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夜の廊下橋
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夜の「蒲生時代の表門」より
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夜桜がお堀に反射して幻想的であった。写真ではイマイチである。以上鶴ヶ城櫻完。
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