2013/01/11 - 2013/01/11
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ソフィさん
2013年1月11日(金)
車中私は、林芙美子の「下駄で歩いた巴里」なる、紀行集を読んでいた。
いま読んでいる部分は、昭和6年(1931年)彼女がひとりで、シベリア鉄道の三等車で日本からパリに向かいつつあるところだ。
彼女の生まれは明治36年(1903年)だから、当時の年齢は28歳。
満洲事変のさなか、戦争のきな臭さい空気の中を、日本人だけでなく外国人旅行客さえほとんどいない列車に乗って、女ひとりの長旅をやり遂げつつある勇気と好奇心の強さに、深く感心している。
言葉が通じないのに、旅行客同士あるいは車掌などと、気心を通わせているところも凄い。
もうすぐ品川という時に、左側に真新しくて綺麗な高層ビルの並びを見る。
大崎の貨物ヤード跡地が、開発されたのだろう。
大崎の貨物ヤードには、昭和29年(1954年)、私が蒸気機関車のハンドルを握り、貨車の入換えをした思い出がある。
私の操縦が「うまい」と褒めてくれた、ベテラン入換掛の笑顔が目に浮かぶ。
新米の運転士がうまい筈はないのだが、貨物ヤードの貨車の並び具合を見ながら、先を読んだので入換掛と呼吸が合ったのだろう。
当時私の所属は、品川機関区の副機関士。
この機関区には、D51やC57など、めぼしい蒸気機関車が配置されていた。
私は先ず投炭訓練で鍛えられ、試験に合格してから機関助士として蒸気機関車の罐焚きに従事した後、機関車の運転に携わった。
投炭試験は、たしか6分40秒間に、訓練用罐のたしか24カ所に所定の厚さの石炭が投入できるかどうかで、採点された。
合格まで、数週間かかったように記憶する。
それでも実際にD51に乗務したところ、罐の圧力が規定の16キロに対し11キロまでしか上がらず、甚だ心もとのないスタートだった。
機関士を始めた後には、D51のハンドルをとり黎明の山手貨物線を颯爽と駆け抜けたり、C57で朝霞の米軍基地まで、朝鮮戦争帰りのGIたちを送り届ける緊張を味わったりした。
新幹線が品川に停まるようになり、便利になった。
この品川駅にも、助役として勤務したことがある。
切符売り、切符切り、ホームに立って酔っ払いの相手まで、現場第一線の苦労を経験する。
品川機関区は品川駅の海側にあり、さらにその海側には屠殺場があった。
隣接して製薬会社の動物血液天日干し場があり、海風の日には血の生臭い匂いが駅に漂った。
また七輪を借りて自分で臓物を焼く露店の焼肉屋もあり、安くて量も多いので、何度か出かけたものだった。
東京駅はすっかり生まれ変わったと聞く。
この駅には、昭和40年代の末ごろ三年間にまたがり、東京南鉄道管理局で、保守管理の責任部長としてかかり合ったので、子供のように感じる。
生まれ変わった新しい駅との出会いも、今回の旅の楽しみの一つだが、とりあえずホテルにチェックインしようと、中央線に乗換え新宿に向かう。
関連の写真を「ソフィーさんの旅行記」http://4travel.jp/traveler/katase/に掲載します。
ご覧ください。
(2013年2月8日 片瀬貴文 記)
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