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JR相模線北茅ヶ崎駅から国道45号を北進し円蔵交差点を右折、鎌倉幕府宿老大庭景義(おおばかげよし、1128?~1210)の拠点となった懐嶋(ふところじま、神奈川県茅ヶ崎市円蔵)居館を訪問しました。<br /><br />大庭氏は桓武平氏の血を引く坂東八平氏のひとつで鎌倉氏の一族であり、平安時代後期の11世紀後半、現在の神奈川県藤沢市のやや北よりの大庭を本拠とし茅ヶ崎にかけての広大な土地を支配していた豪族であります。<br /><br />大庭氏と源氏との関係は古く、鎌倉権五郎景正(かまくら・げんごろう・かげまさ、1069?没~年不詳)は16歳で源義家(みなもとのよしいえ、1039?~1106)に従陣し後三年の役で活躍して以来の深い繋がりがあります。<br /><br />然しながらその後保元の乱、続く平治の乱を経て源氏の凋落、逆に平氏全盛の時代を迎えますと、源氏恩顧の豪族は本領保全に努め平氏勢力に合迎することで親平氏路線を歩む事となります。<br /><br />一方伊豆配流の源頼朝が周辺の豪族の後押しを得て治承4年(1180)伊豆にて反平氏の旗揚げをしますが、平治の乱で源義朝に属して戦った大庭景義(おおばかげよし、1128?~1210)は当然ながら頼朝側にはせ参じます。<br /><br />他方平家全盛時代を生きた実弟の大庭景親(おおば・かげちか、生誕不詳?~1180)は頼朝挙兵の直前まで都に滞在して反平氏の旗振りである源頼政(みなもとのよりまさ、1104~1180)の挫折を見ており改めて親平氏の立場を強めます。<br /><br />上述の状況下で兄弟はそれぞれの立場から源氏と平氏に分かれますが、まず弟の景親は平氏側総大将となって石橋山の戦いで勝利し、敗走する頼朝らを追討するも今一歩で安房に逃してしまいます。<br /><br />房総にて頼朝は勢力を盛り返すと形勢は逆転、上総・下総・武蔵の豪族は時代の流れを読み取る中で頼朝の旗下に忠従を誓い、我先とばかり先頭に立ち頼朝は遠祖本領の鎌倉に入府します。<br /><br />最後まで親平氏の立場を貫く姿勢を持ちながらも次第に頼朝勢に包囲され、ついに降人となって頼朝の前に出頭した景親ですが三浦一族に預けの身となるも首謀者という理由で斬首されます。<br /><br />他方景義は本領を安堵され、頼朝の側近となって御家人としての役割を果たします。例えば鶴岡八幡宮を元八幡から現在の場所に移転する奉行を勤めるほか、頼朝の住居である御所造営の責任者としての働きをします。<br /><br />建久4年(1193)景義は同じ相模有力御家人の岡崎義実(おかざき・よしざね、1112?~1200))とともに老齢を理由に出家し家督を嫡男の大庭景兼(おおば・かげかね、生没不詳)が継ぎ、景義は鎌倉を出て自領内に謹慎させられていたようで、建久6年(1195)に彼は頼朝に上申書を提出しています。<br /><br />即ち「あらぬ嫌疑を掛けられ蟄居して3年経過していますが、もう余命いくばくもありません。承ればこの度頼朝公には晴れのご上洛とか、お許しを賜りぜひお供に加えて頂きたい。」<br /><br />これに対し頼朝は快諾し上洛の供を命じます。この時の上洛は二度目ではありますが征夷大将軍としては初めてで、頼朝が檀那となって再建させた東大寺の供養に臨むものでありました。<br /><br />これにより晴れの東大寺供養の日、景義は北条義時、小山朝光らと共に頼朝の牛車の直前を行進、これが武士にとって最大の栄誉であった事は言うまでもありません。<br /><br />景義は承元4年(1210)に82歳で死去、その後大庭氏は惨めな没落を迎えることとなります。即ち、建暦3年(1213)に起こった和田の乱において嫡男小次郎景兼は和田氏に与し合戦において戦死し、ここに遠祖景正以来の大庭領を失う事になります。

相模茅ヶ崎 恩顧平氏支持を貫いて囚われ斬首の実弟の大庭景親に対し側近宿老として将軍頼朝を支えた実兄大庭景義本拠の『懐嶋館』訪問

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2012/08/13 - 2012/08/13

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR相模線北茅ヶ崎駅から国道45号を北進し円蔵交差点を右折、鎌倉幕府宿老大庭景義(おおばかげよし、1128?~1210)の拠点となった懐嶋(ふところじま、神奈川県茅ヶ崎市円蔵)居館を訪問しました。

大庭氏は桓武平氏の血を引く坂東八平氏のひとつで鎌倉氏の一族であり、平安時代後期の11世紀後半、現在の神奈川県藤沢市のやや北よりの大庭を本拠とし茅ヶ崎にかけての広大な土地を支配していた豪族であります。

大庭氏と源氏との関係は古く、鎌倉権五郎景正(かまくら・げんごろう・かげまさ、1069?没~年不詳)は16歳で源義家(みなもとのよしいえ、1039?~1106)に従陣し後三年の役で活躍して以来の深い繋がりがあります。

然しながらその後保元の乱、続く平治の乱を経て源氏の凋落、逆に平氏全盛の時代を迎えますと、源氏恩顧の豪族は本領保全に努め平氏勢力に合迎することで親平氏路線を歩む事となります。

一方伊豆配流の源頼朝が周辺の豪族の後押しを得て治承4年(1180)伊豆にて反平氏の旗揚げをしますが、平治の乱で源義朝に属して戦った大庭景義(おおばかげよし、1128?~1210)は当然ながら頼朝側にはせ参じます。

他方平家全盛時代を生きた実弟の大庭景親(おおば・かげちか、生誕不詳?~1180)は頼朝挙兵の直前まで都に滞在して反平氏の旗振りである源頼政(みなもとのよりまさ、1104~1180)の挫折を見ており改めて親平氏の立場を強めます。

上述の状況下で兄弟はそれぞれの立場から源氏と平氏に分かれますが、まず弟の景親は平氏側総大将となって石橋山の戦いで勝利し、敗走する頼朝らを追討するも今一歩で安房に逃してしまいます。

房総にて頼朝は勢力を盛り返すと形勢は逆転、上総・下総・武蔵の豪族は時代の流れを読み取る中で頼朝の旗下に忠従を誓い、我先とばかり先頭に立ち頼朝は遠祖本領の鎌倉に入府します。

最後まで親平氏の立場を貫く姿勢を持ちながらも次第に頼朝勢に包囲され、ついに降人となって頼朝の前に出頭した景親ですが三浦一族に預けの身となるも首謀者という理由で斬首されます。

他方景義は本領を安堵され、頼朝の側近となって御家人としての役割を果たします。例えば鶴岡八幡宮を元八幡から現在の場所に移転する奉行を勤めるほか、頼朝の住居である御所造営の責任者としての働きをします。

建久4年(1193)景義は同じ相模有力御家人の岡崎義実(おかざき・よしざね、1112?~1200))とともに老齢を理由に出家し家督を嫡男の大庭景兼(おおば・かげかね、生没不詳)が継ぎ、景義は鎌倉を出て自領内に謹慎させられていたようで、建久6年(1195)に彼は頼朝に上申書を提出しています。

即ち「あらぬ嫌疑を掛けられ蟄居して3年経過していますが、もう余命いくばくもありません。承ればこの度頼朝公には晴れのご上洛とか、お許しを賜りぜひお供に加えて頂きたい。」

これに対し頼朝は快諾し上洛の供を命じます。この時の上洛は二度目ではありますが征夷大将軍としては初めてで、頼朝が檀那となって再建させた東大寺の供養に臨むものでありました。

これにより晴れの東大寺供養の日、景義は北条義時、小山朝光らと共に頼朝の牛車の直前を行進、これが武士にとって最大の栄誉であった事は言うまでもありません。

景義は承元4年(1210)に82歳で死去、その後大庭氏は惨めな没落を迎えることとなります。即ち、建暦3年(1213)に起こった和田の乱において嫡男小次郎景兼は和田氏に与し合戦において戦死し、ここに遠祖景正以来の大庭領を失う事になります。

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 神明大神宮道・石標<br /><br />旧懐嶋館跡地は現在では明神大神宮になっています。石標には出家した景義が当神宮を創建したと記されています。

    神明大神宮道・石標

    旧懐嶋館跡地は現在では明神大神宮になっています。石標には出家した景義が当神宮を創建したと記されています。

  • 神明大神宮<br /><br />

    神明大神宮

  • 神明大神宮境内・案内図<br /><br />正面に拝殿が在り、拝殿の左側脇道から拝殿後にかけて懐嶋館に関する石碑等が配置されています。

    神明大神宮境内・案内図

    正面に拝殿が在り、拝殿の左側脇道から拝殿後にかけて懐嶋館に関する石碑等が配置されています。

  • 神明大神宮・拝殿<br /><br />左右の樹木の先に拝殿があり、拝殿手前左側には神輿殿が見られ、典型的な神社のレイアウトとなっています。

    イチオシ

    神明大神宮・拝殿

    左右の樹木の先に拝殿があり、拝殿手前左側には神輿殿が見られ、典型的な神社のレイアウトとなっています。

  • 神明大神宮社誌<br /><br />鎮座地:茅ヶ崎市円蔵字御屋敷2282番地<br />御祭神:天照大神<br />境内地:225坪

    神明大神宮社誌

    鎮座地:茅ヶ崎市円蔵字御屋敷2282番地
    御祭神:天照大神
    境内地:225坪

  • 円蔵祭雑子の由来

    円蔵祭雑子の由来

  • 円蔵大神宮説明碑

    円蔵大神宮説明碑

  • 神明大神宮・拝殿

    神明大神宮・拝殿

  • 懐嶋館址・石碑<br /><br />神明大神宮拝殿の左側を入りますと大庭景義の居館址の懐嶋館址石碑が眼に入り、その石碑の奥に大庭景義像が鎮座しています。

    懐嶋館址・石碑

    神明大神宮拝殿の左側を入りますと大庭景義の居館址の懐嶋館址石碑が眼に入り、その石碑の奥に大庭景義像が鎮座しています。

  • 懐嶋平権守大庭景能(義)像<br /><br />

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    懐嶋平権守大庭景能(義)像

  • 「源頼朝、奥州征伐につき景義の意見を聞く」石碑<br /><br />奥州藤原氏追討の準備をしている中、朝廷許可が与えられず焦燥の日を重ねていた時、頼朝が景義に「すでに追討軍を集めてしまったのに勅許が来ない。どうしたものか。」とたずねると、景義は「軍の事については将軍の命令を聞くが、天子の詔は聞かない、と言われています。既に追討の件は朝廷に申し上げていますからご返事を待つ必要はありません。早々に出陣すべきです。」と返事をしこの景義の一言で頼朝は奥州征伐に踏み切ったとのことです。

    「源頼朝、奥州征伐につき景義の意見を聞く」石碑

    奥州藤原氏追討の準備をしている中、朝廷許可が与えられず焦燥の日を重ねていた時、頼朝が景義に「すでに追討軍を集めてしまったのに勅許が来ない。どうしたものか。」とたずねると、景義は「軍の事については将軍の命令を聞くが、天子の詔は聞かない、と言われています。既に追討の件は朝廷に申し上げていますからご返事を待つ必要はありません。早々に出陣すべきです。」と返事をしこの景義の一言で頼朝は奥州征伐に踏み切ったとのことです。

  • 懐島平権守景義公没八百年祭石碑

    懐島平権守景義公没八百年祭石碑

  • 「懐嶋平権守景能(義)・大庭小次郎景兼公」の層塔<br /><br />左石標には「大庭小次郎景兼公」と刻され、景義の子息と思われます。

    「懐嶋平権守景能(義)・大庭小次郎景兼公」の層塔

    左石標には「大庭小次郎景兼公」と刻され、景義の子息と思われます。

  • 奉載板

    奉載板

  • 顕彰碑

    顕彰碑

  • 鶴岡八幡宮景能(義)公祭之碑<br /><br />「懐嶋郷 景能祭」と刻されています。

    鶴岡八幡宮景能(義)公祭之碑

    「懐嶋郷 景能祭」と刻されています。

  • 懐嶋館土塁跡石碑<br /><br />基底幅:2.5m、高さ:1.5mと刻されています。<br />辺りは既に住宅地となっていますから土塁などは一切残っておらず、また地勢的には台地状でもない平坦の館にしては軽微な土塁であり、本格的な防御する土塁とは言いがたく理解に苦しみます。

    懐嶋館土塁跡石碑

    基底幅:2.5m、高さ:1.5mと刻されています。
    辺りは既に住宅地となっていますから土塁などは一切残っておらず、また地勢的には台地状でもない平坦の館にしては軽微な土塁であり、本格的な防御する土塁とは言いがたく理解に苦しみます。

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