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石橋山で敗戦した頼朝を見逃したことで鎌倉入部の際、御家人に列せられ併せて侍所の所司となったものの将軍頼家に讒言したとして解任され自領へ戻った梶原景時(かじわら・かげとき、1140~1200)の居館(神奈川県高座郡寒川町一之宮)を訪問しました。<br /><br />治承4年(1180)、伊豆に配流された源頼朝(みなもとのよりとも、1147~1199)が近辺豪族のあと押しを得て平氏に反旗を挙げますが、平氏追討軍大庭景親(おおばかげちか、生年不詳~1180)らの追撃を受け土肥椙山に逃れます。<br /><br />追討軍に同道の梶原景時(かじわら・かげとき、1140?~1200)は頼朝の隠れ場を承知していながら、景親には「もうここにはいないから他所を探そう」と言い、頼朝の房総への逃亡を助けます。やがて勢力を得た頼朝は下総・武蔵の豪族達を従え遠祖の本領であった鎌倉に入ります。<br /><br />鎌倉に本領を定めた頼朝に対し、臣従してきた平氏に与した豪族の中で大庭景親と梶原景時に、頼朝は景親は平氏の主力と見てこれを許さず誅殺し、逆に景時に対しては助命し即座に家人として取り立てます。<br /><br />鎌倉幕府創設にあたり地元の鎌倉を熟知している景時は現在で言えば総務部長としてあらゆる役割を果たし、結果頼朝の信頼を得ることになります。<br /><br />梶原景時の才覚は上述の総務部長的な役割に留まらず、侍所(さむらいどころ)所司(準責任者)としての活躍ぶりでした。<br /><br />侍所は御家人の進退・賞罰すべて扱う武家体制の心臓部であり、詳しくは軍隊の動員、戦功の有無、規律違反に至る日常行動の評定まで関与する役所で御家人の首根っこを押える権力でした。<br /><br />侍所別当(責任者)は三浦氏に繋がる和田義盛(わだよしもり、1147~1213)ですが年齢若く、人間的に未熟であったせいかその実務は所司である景時に集中してきます。<br /><br />換言すれば鬼検事風の気質を持つ景時は鎌倉幕府体制における統制責任者として活躍をしますが、御家人の中で結城朝光(ゆうきともみつ、1168~1254)に不忠の疑いありと言って失脚させる動きをしますが、これを聞いた朝光は驚き、有力御家人三浦義村(みうら・よしむら、生年不詳~1239)に相談、これに他の御家人も加わり結果として「景時を弾劾すべき」として景時の所司解任を66名に亘る御家人署名をして当時の将軍頼家に提出、頼家から示された弾劾状を見た景時は弁解の言葉も発することは無かったようです。<br /><br />その後まもなく鎌倉の景時邸は壊され景時は追放、本領の相模一之宮に退き、その後念ずるところあってか一族を率いて上洛し、そこで謀反を起こし別の将軍を立てて宮廷の認可を得て第二の鎌倉幕府を開府する考えに傾注します。<br /><br />そこで景時は自らの家臣共々密かに一之宮を出て、上洛を目指しますが駿河国清見関にて地元の幕府家人に覚えられついに合戦となり、嫡男共々討取られ梶原氏は滅亡します。<br /><br />本当に景時は結城朝光の不忠の疑いを探り彼の失脚を目論んだが故に他の有力御家人を含む66名の弾劾に遭ったのでしょうか。<br /><br />頼朝が亡くなり将軍となった頼家では求心力が失われ、政治体制が有力御家人が評議員となり討議・決定する方式に変更されます。<br />その中で討議に加わる御家人の利害関係が衝突する事が日常茶飯事であり、利害一致した場合特定の人物が共通の敵に挙げられることで殲滅される図式が浮かび上がり権力闘争に繋がります。<br /><br />次に新将軍の乳母や乳母夫そしてその子どもたちが側近として大きな権力を得て新将軍の考えに影響を与え、結果として新将軍をコントロールします。<br /><br />景時は侍所の所司と同時に新将軍頼家の乳母夫(めのと)でありますが頼家の場合には景時だけではなくずらりと他の有力御家人も顔を揃えており、御家人側から見ると権力者として映る景時に対する嫉妬心から一致協力して景時排除の策に出た結果とも思われます。<br /><br />かつては頼朝の信頼を背景に上総介広常(かずさのすけ・ひろつね、生年不詳~1184)の暗殺や源義経(みなもとの・よしつね、1159~1189)を讒言し死に追い込むなどした為、他御家人達から嫌われる存在であった事が引き金となったことと無関係ではなかったと思われます。<br />

相模一宮 度重なる讒言に他御家人より猛反発を受け孤立無縁の中侍所NO2の所司を解任され京都に向け出奔するも駿河で殺害された梶原景時居館跡訪問

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2012/08/13 - 2012/08/13

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滝山氏照

滝山氏照さん

石橋山で敗戦した頼朝を見逃したことで鎌倉入部の際、御家人に列せられ併せて侍所の所司となったものの将軍頼家に讒言したとして解任され自領へ戻った梶原景時(かじわら・かげとき、1140~1200)の居館(神奈川県高座郡寒川町一之宮)を訪問しました。

治承4年(1180)、伊豆に配流された源頼朝(みなもとのよりとも、1147~1199)が近辺豪族のあと押しを得て平氏に反旗を挙げますが、平氏追討軍大庭景親(おおばかげちか、生年不詳~1180)らの追撃を受け土肥椙山に逃れます。

追討軍に同道の梶原景時(かじわら・かげとき、1140?~1200)は頼朝の隠れ場を承知していながら、景親には「もうここにはいないから他所を探そう」と言い、頼朝の房総への逃亡を助けます。やがて勢力を得た頼朝は下総・武蔵の豪族達を従え遠祖の本領であった鎌倉に入ります。

鎌倉に本領を定めた頼朝に対し、臣従してきた平氏に与した豪族の中で大庭景親と梶原景時に、頼朝は景親は平氏の主力と見てこれを許さず誅殺し、逆に景時に対しては助命し即座に家人として取り立てます。

鎌倉幕府創設にあたり地元の鎌倉を熟知している景時は現在で言えば総務部長としてあらゆる役割を果たし、結果頼朝の信頼を得ることになります。

梶原景時の才覚は上述の総務部長的な役割に留まらず、侍所(さむらいどころ)所司(準責任者)としての活躍ぶりでした。

侍所は御家人の進退・賞罰すべて扱う武家体制の心臓部であり、詳しくは軍隊の動員、戦功の有無、規律違反に至る日常行動の評定まで関与する役所で御家人の首根っこを押える権力でした。

侍所別当(責任者)は三浦氏に繋がる和田義盛(わだよしもり、1147~1213)ですが年齢若く、人間的に未熟であったせいかその実務は所司である景時に集中してきます。

換言すれば鬼検事風の気質を持つ景時は鎌倉幕府体制における統制責任者として活躍をしますが、御家人の中で結城朝光(ゆうきともみつ、1168~1254)に不忠の疑いありと言って失脚させる動きをしますが、これを聞いた朝光は驚き、有力御家人三浦義村(みうら・よしむら、生年不詳~1239)に相談、これに他の御家人も加わり結果として「景時を弾劾すべき」として景時の所司解任を66名に亘る御家人署名をして当時の将軍頼家に提出、頼家から示された弾劾状を見た景時は弁解の言葉も発することは無かったようです。

その後まもなく鎌倉の景時邸は壊され景時は追放、本領の相模一之宮に退き、その後念ずるところあってか一族を率いて上洛し、そこで謀反を起こし別の将軍を立てて宮廷の認可を得て第二の鎌倉幕府を開府する考えに傾注します。

そこで景時は自らの家臣共々密かに一之宮を出て、上洛を目指しますが駿河国清見関にて地元の幕府家人に覚えられついに合戦となり、嫡男共々討取られ梶原氏は滅亡します。

本当に景時は結城朝光の不忠の疑いを探り彼の失脚を目論んだが故に他の有力御家人を含む66名の弾劾に遭ったのでしょうか。

頼朝が亡くなり将軍となった頼家では求心力が失われ、政治体制が有力御家人が評議員となり討議・決定する方式に変更されます。
その中で討議に加わる御家人の利害関係が衝突する事が日常茶飯事であり、利害一致した場合特定の人物が共通の敵に挙げられることで殲滅される図式が浮かび上がり権力闘争に繋がります。

次に新将軍の乳母や乳母夫そしてその子どもたちが側近として大きな権力を得て新将軍の考えに影響を与え、結果として新将軍をコントロールします。

景時は侍所の所司と同時に新将軍頼家の乳母夫(めのと)でありますが頼家の場合には景時だけではなくずらりと他の有力御家人も顔を揃えており、御家人側から見ると権力者として映る景時に対する嫉妬心から一致協力して景時排除の策に出た結果とも思われます。

かつては頼朝の信頼を背景に上総介広常(かずさのすけ・ひろつね、生年不詳~1184)の暗殺や源義経(みなもとの・よしつね、1159~1189)を讒言し死に追い込むなどした為、他御家人達から嫌われる存在であった事が引き金となったことと無関係ではなかったと思われます。

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 天神社鳥居<br /><br />

    天神社鳥居

  • 梶原景時館址<br /><br />天神社の奥に「梶原景時館址」石碑が在ります。かつては広大な敷地を有していたと推察されますが、現在は石碑は立派ですがフェンスに囲まれた狭い一角に小さな社が建っておりいささか失望を隠せません。

    イチオシ

    梶原景時館址

    天神社の奥に「梶原景時館址」石碑が在ります。かつては広大な敷地を有していたと推察されますが、現在は石碑は立派ですがフェンスに囲まれた狭い一角に小さな社が建っておりいささか失望を隠せません。

  • 境内<br /><br />現在の天神社は境内と言うほどの敷地が乏しくみじめな状態となっています。<br /><br />

    境内

    現在の天神社は境内と言うほどの敷地が乏しくみじめな状態となっています。

  • 拝殿<br /><br />簡単な拝殿が建立しています。これではかつての鎌倉有力御家人を祀るにはふさわしい拝殿とはいえません。

    拝殿

    簡単な拝殿が建立しています。これではかつての鎌倉有力御家人を祀るにはふさわしい拝殿とはいえません。

  • 敷地内遊具設備<br /><br />一部は天神社に似つかわしくないブランコなど遊園地と思わせる遊具が設置されています。

    敷地内遊具設備

    一部は天神社に似つかわしくないブランコなど遊園地と思わせる遊具が設置されています。

  • 伝 梶原氏一族郎党(七氏)の墓<br /><br />天神社から50mほど東に行きますと五輪塔を祀った一角があります。傍らの説明では梶原景時一行が当館を出て上洛途中に清見関で討死した為、当館留守居役であった家族・家臣らが弔った墓であるとも、又は館に残った七名の家臣が景時の妻と共に信州へ逃れ、後日梶原家復権・所領安堵を幕府に願ったが許されず結果自刃しそれを祀ったものとも言われています。

    伝 梶原氏一族郎党(七氏)の墓

    天神社から50mほど東に行きますと五輪塔を祀った一角があります。傍らの説明では梶原景時一行が当館を出て上洛途中に清見関で討死した為、当館留守居役であった家族・家臣らが弔った墓であるとも、又は館に残った七名の家臣が景時の妻と共に信州へ逃れ、後日梶原家復権・所領安堵を幕府に願ったが許されず結果自刃しそれを祀ったものとも言われています。

  • 内堀の名残?<br /><br />説明では後の水路は当時の内堀の名残となっています。

    内堀の名残?

    説明では後の水路は当時の内堀の名残となっています。

  • 箙の梅<br /><br />梶原景季(かじわら・かげすえ、1162~1200)は景時の長男で勇猛果敢歌道にも秀でた「弓取り」であったとして紹介されています。

    箙の梅

    梶原景季(かじわら・かげすえ、1162~1200)は景時の長男で勇猛果敢歌道にも秀でた「弓取り」であったとして紹介されています。

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