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日光へ寄った芭蕉は、<br />翌日、裏見の滝と憾満ヶ淵へ行っている。<br />それに倣(なら)って、ボクも訪ねた。<br />

裏見の滝、憾満ヶ淵と日光東照宮宝物館(芭蕉の道を歩く 4)

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2012/10/05 - 2012/10/05

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hide-bach

hide-bachさん

日光へ寄った芭蕉は、
翌日、裏見の滝と憾満ヶ淵へ行っている。
それに倣(なら)って、ボクも訪ねた。

同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 奥の細道で芭蕉は、(以下「奥の細道」原文による)<br /><br />「二十余丁山を下って滝あり。<br />岩頭の頂(いただき)より飛流して百尺、<br />千岩の碧潭(へきたん)に落たり。岩窟に身をひそめ入りて、<br />滝の裏側より見れば、うらみの滝と申し侍るなり。<br /><br />・ 暫時は(しばらくは)滝に籠るや夏(げ)の初」<br /><br />と記している。<br /><br />日光東照宮入り口の神橋から、<br />120号線安良沢郵便局前バス停を右折する場所に<br />「裏見の滝右」の案内看板がある。<br />しばらく上り道を行くと、<br />突き当たり状態になるところの右側に駐車場がある。<br />ご丁寧に立派なお手洗いも付いている。<br /><br />駐車場脇にある裏見の滝への案内図を見ていると、<br />初老の男性が奥様とお嬢さんと三人で来た。<br />男性が同じように地図を覗き込んだので、<br />「どうしてここにお出でになったのですか?」と、<br />お訊ねすると、この近くに住んでいる方であった。<br />いつも「裏見の滝右」方向とかいた案内を見て、<br />120号線を通っているので、<br />覗く気になったのです。あなたは?」と逆襲された。<br />「奥の細道で芭蕉が日光の翌日訪ねたとあったので、<br />見学にきました。」と答える。<br /><br />芭蕉は埼玉の草加から栃木に入って、<br />室の八嶋こと野州一ノ宮 大神神社(おおみわじんじゃ)へ寄って、<br />次の日に鹿沼で一泊、その後日光に来ている。<br />初日は日光東照宮に参詣し、<br />曾良の旅日記によれば、<br />翌日、裏見の滝と憾満ヶ淵を訪ねている。<br /><br />案内図にある裏見の滝への道順を参考にして、<br />駐車場反対側の道を山の中へ進む。<br /><br />

    奥の細道で芭蕉は、(以下「奥の細道」原文による)

    「二十余丁山を下って滝あり。
    岩頭の頂(いただき)より飛流して百尺、
    千岩の碧潭(へきたん)に落たり。岩窟に身をひそめ入りて、
    滝の裏側より見れば、うらみの滝と申し侍るなり。

    ・ 暫時は(しばらくは)滝に籠るや夏(げ)の初」

    と記している。

    日光東照宮入り口の神橋から、
    120号線安良沢郵便局前バス停を右折する場所に
    「裏見の滝右」の案内看板がある。
    しばらく上り道を行くと、
    突き当たり状態になるところの右側に駐車場がある。
    ご丁寧に立派なお手洗いも付いている。

    駐車場脇にある裏見の滝への案内図を見ていると、
    初老の男性が奥様とお嬢さんと三人で来た。
    男性が同じように地図を覗き込んだので、
    「どうしてここにお出でになったのですか?」と、
    お訊ねすると、この近くに住んでいる方であった。
    いつも「裏見の滝右」方向とかいた案内を見て、
    120号線を通っているので、
    覗く気になったのです。あなたは?」と逆襲された。
    「奥の細道で芭蕉が日光の翌日訪ねたとあったので、
    見学にきました。」と答える。

    芭蕉は埼玉の草加から栃木に入って、
    室の八嶋こと野州一ノ宮 大神神社(おおみわじんじゃ)へ寄って、
    次の日に鹿沼で一泊、その後日光に来ている。
    初日は日光東照宮に参詣し、
    曾良の旅日記によれば、
    翌日、裏見の滝と憾満ヶ淵を訪ねている。

    案内図にある裏見の滝への道順を参考にして、
    駐車場反対側の道を山の中へ進む。

  • (裏見の滝への道)<br />

    (裏見の滝への道)

  • (裏見の滝への上り階段)<br />

    (裏見の滝への上り階段)

  • 遊歩道が設置されているので、山肌にある上り下りの階段を進み、 <br />左手に大谷川(だいやがわ)の流れを見ながら進むと <br />突き当りが滝である。 <br /><br />芭蕉の説明では、滝を裏側から見て、 <br />これを「うらみの滝」といっているが、 <br />今は木道と観瀑台が設置されており、 <br />裏側から見ることはできない。 <br />高さ40mほど、立派な滝である。 <br /><br />(芭蕉が裏側から見た滝はこのように見えただろうか)

    遊歩道が設置されているので、山肌にある上り下りの階段を進み、
    左手に大谷川(だいやがわ)の流れを見ながら進むと
    突き当りが滝である。

    芭蕉の説明では、滝を裏側から見て、
    これを「うらみの滝」といっているが、
    今は木道と観瀑台が設置されており、
    裏側から見ることはできない。
    高さ40mほど、立派な滝である。

    (芭蕉が裏側から見た滝はこのように見えただろうか)

  • (作られた誘導路) <br />

    (作られた誘導路)

  • (山道左手の大谷川) <br />

    (山道左手の大谷川)

  • (山肌に沿った道)

    (山肌に沿った道)

  • (裏見の滝)

    (裏見の滝)

  • 先客が数人観瀑台から写真を撮っている。 <br />しっかりした三脚にカメラを構えているプロのような方もいる。、 <br />観瀑台は滝の飛沫が飛んで、涼しく感じられ、 <br />今まで昇ってきた道で吹き出した汗が、 <br />嘘のように引いていく。 <br /><br />(千岩の碧潭に落ちるさま) <br /><br />滝の落ちた所は、芭蕉が「千岩の碧潭に落たり」と言っているが、 <br />なるほど滝つぼは、碧(みどり)に澄んでいた。 <br />絶え間なく流れ落ちる滝の、大きな音を後ろに聞きながら、 <br />芭蕉の見た滝と同じだろうかと考えながら帰途に着いた。 <br /><br />

    先客が数人観瀑台から写真を撮っている。
    しっかりした三脚にカメラを構えているプロのような方もいる。、
    観瀑台は滝の飛沫が飛んで、涼しく感じられ、
    今まで昇ってきた道で吹き出した汗が、
    嘘のように引いていく。

    (千岩の碧潭に落ちるさま)

    滝の落ちた所は、芭蕉が「千岩の碧潭に落たり」と言っているが、
    なるほど滝つぼは、碧(みどり)に澄んでいた。
    絶え間なく流れ落ちる滝の、大きな音を後ろに聞きながら、
    芭蕉の見た滝と同じだろうかと考えながら帰途に着いた。

  • (裏見の滝2)

    (裏見の滝2)

  • (憾満ヶ淵) <br />

    (憾満ヶ淵)

  • 裏見の滝から戻り120号線を日光東照宮方面に進むと、 <br />右手に「日光 田茂澤御用邸記念公園」があるので、 <br />御用邸公園を過ぎた所の信号を右折する。 <br /><br />(旧田茂沢御用邸記念公園の門)

    裏見の滝から戻り120号線を日光東照宮方面に進むと、
    右手に「日光 田茂澤御用邸記念公園」があるので、
    御用邸公園を過ぎた所の信号を右折する。

    (旧田茂沢御用邸記念公園の門)

  • 御用邸記念公園については、 <br />(この御用邸は大正天皇のご静養のため明治32年(1899)に造営された。 <br />その後大正天皇のご即位に伴い、大正7年から9年にかけて、 <br />大規模な増改築がなされ現在の姿となりました。 <br />また、昭和19年には、現在の平成天皇が疎開のため、 <br />約一年間滞在されている。 <br />栃木県では、平成10年から修復整備して、 <br />広く県民が利用できる公園として公開された。) <br />要約すると以上のように、 <br />旧田茂沢御用邸の概略が記されている。 <br /><br />(田茂沢御用邸記念公園) <br />

    御用邸記念公園については、
    (この御用邸は大正天皇のご静養のため明治32年(1899)に造営された。
    その後大正天皇のご即位に伴い、大正7年から9年にかけて、
    大規模な増改築がなされ現在の姿となりました。
    また、昭和19年には、現在の平成天皇が疎開のため、
    約一年間滞在されている。
    栃木県では、平成10年から修復整備して、
    広く県民が利用できる公園として公開された。)
    要約すると以上のように、
    旧田茂沢御用邸の概略が記されている。

    (田茂沢御用邸記念公園)

  • 話がそれてしまったが、 <br />旧田茂沢御用邸記念公園の信号を右折したら、 <br />突き当りを左折して、出た十字路を右折する。 <br />十字路の右手向こう側に庚申塚の石碑が三基あります。 <br />その十字路を右折してT字路に出たら、 <br />さらに右折するとお寺があり門前に石碑があるので、 <br />ここを左折すると、大谷川に架かる橋があるので渡る。 <br />橋を渡り終えた左に駐車場があるが、 <br />この駐車場を左に見て道なりに右へ行くと、 <br />突き当たりに公園風の駐車場があり、 <br />右手にお手洗いがあり、 <br />左手は少し高い所に飲食店がある。<br /> <br />(公園風の憾満ヶ淵の駐車場この右手にお手洗いがある) <br />

    話がそれてしまったが、
    旧田茂沢御用邸記念公園の信号を右折したら、
    突き当りを左折して、出た十字路を右折する。
    十字路の右手向こう側に庚申塚の石碑が三基あります。
    その十字路を右折してT字路に出たら、
    さらに右折するとお寺があり門前に石碑があるので、
    ここを左折すると、大谷川に架かる橋があるので渡る。
    橋を渡り終えた左に駐車場があるが、
    この駐車場を左に見て道なりに右へ行くと、
    突き当たりに公園風の駐車場があり、
    右手にお手洗いがあり、
    左手は少し高い所に飲食店がある。

    (公園風の憾満ヶ淵の駐車場この右手にお手洗いがある)

  • (右手の建物がお手洗い) <br />

    (右手の建物がお手洗い)

  • (左手の高台にある飲食店) <br />

    (左手の高台にある飲食店)

  • 駐車場と左の飲食店との間に通路があり、 <br />「憾満ヶ淵」直進の矢印の看板が見える。 <br />直線の道路の奥に山門が見え、 <br />左右は樹木が栽培されているような、 <br />石を配置した公園になっている。 <br /><br />(通路と憾満ヶ淵の案内看板) <br />

    駐車場と左の飲食店との間に通路があり、
    「憾満ヶ淵」直進の矢印の看板が見える。
    直線の道路の奥に山門が見え、
    左右は樹木が栽培されているような、
    石を配置した公園になっている。

    (通路と憾満ヶ淵の案内看板)

  • (憾満ヶ淵の案内) <br />

    (憾満ヶ淵の案内)

  • (石を配置した公園) <br />

    (石を配置した公園)

  • (奥に見える山門)

    (奥に見える山門)

  • 進むと右手に大正天皇の歌碑があり、 <br /><br />(水辺夏月 <br />・ 衣手もしぶきにぬれて大谷川 <br />         月夜涼しく岸つたいせり) <br /><br />と彫られている。 <br /><br />

    進むと右手に大正天皇の歌碑があり、

    (水辺夏月
    ・ 衣手もしぶきにぬれて大谷川
             月夜涼しく岸つたいせり)

    と彫られている。

  • その先の慈雲寺の扁額のある山門をくぐると、 <br />右手は大谷川が音を立てて流れており、 <br />すぐ左手に慈雲寺の説明板があって、 <br />白壁のお堂が建っている。 <br />説明板には、 <br />(承応3年(1654)に、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、 <br />阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の像を祀った。 <br />当時の建物は明治35年(1903)9月の洪水で流失し、 <br />現在の本堂は昭和48年になって復元された。以下省略)とある。 <br /><br /><br />(慈雲寺の扁額) <br />

    その先の慈雲寺の扁額のある山門をくぐると、
    右手は大谷川が音を立てて流れており、
    すぐ左手に慈雲寺の説明板があって、
    白壁のお堂が建っている。
    説明板には、
    (承応3年(1654)に、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、
    阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の像を祀った。
    当時の建物は明治35年(1903)9月の洪水で流失し、
    現在の本堂は昭和48年になって復元された。以下省略)とある。


    (慈雲寺の扁額)

  • (白壁のお堂が見える、復元された本堂)

    (白壁のお堂が見える、復元された本堂)

  • このお堂の先に、地蔵様が何基あるのか、山際にずらりと並んでいる。 <br />誰が数えたのかわからないが、全部で84基あるそうであるが、 <br />行きに数えた地蔵様と、帰り際に数えた地蔵様の数が合わず、 <br />お化け地蔵の異名を貰っている。 <br /><br />並ぶ地蔵様に沿って進むと、 <br />右手大谷川の流れが激しく渦巻いて進んでいるのがわかり、 <br />崖っぷちに「霊屁閣(れいひかく)」と名づけられた、護摩壇がある。 <br /><br />(地蔵様が川に向って並ぶ様は壮観) <br />

    このお堂の先に、地蔵様が何基あるのか、山際にずらりと並んでいる。
    誰が数えたのかわからないが、全部で84基あるそうであるが、
    行きに数えた地蔵様と、帰り際に数えた地蔵様の数が合わず、
    お化け地蔵の異名を貰っている。

    並ぶ地蔵様に沿って進むと、
    右手大谷川の流れが激しく渦巻いて進んでいるのがわかり、
    崖っぷちに「霊屁閣(れいひかく)」と名づけられた、護摩壇がある。

    (地蔵様が川に向って並ぶ様は壮観)

  • (護摩壇の川向こうに見える大岩に「憾満」の梵字があると言う) <br />

    (護摩壇の川向こうに見える大岩に「憾満」の梵字があると言う)

  • この護摩壇の対岸の岩に、 <br />晃海大僧正が筆を投げたところ「憾満」の梵字が現れたと言う。 <br />この霊屁閣の対岸までの大谷川を、「憾満ヶ淵」という。 <br /><br />憾満ヶ淵について、 <br />(男体山から噴出した溶岩によって造られた奇勝で、 <br />古くから不動明王が現れる霊地と言われる。 <br />川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、 <br />晃海大僧正が真言の最後の句の「かんまん」を取り、 <br />憾満ヶ淵と名づけたと言う。−後略)とある。(日光市) <br /><br /><br />(憾満ヶ淵の流れ) <br />

    この護摩壇の対岸の岩に、
    晃海大僧正が筆を投げたところ「憾満」の梵字が現れたと言う。
    この霊屁閣の対岸までの大谷川を、「憾満ヶ淵」という。

    憾満ヶ淵について、
    (男体山から噴出した溶岩によって造られた奇勝で、
    古くから不動明王が現れる霊地と言われる。
    川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、
    晃海大僧正が真言の最後の句の「かんまん」を取り、
    憾満ヶ淵と名づけたと言う。−後略)とある。(日光市)


    (憾満ヶ淵の流れ)

  • (憾満ヶ淵2) <br />

    (憾満ヶ淵2)

  • この辺りまで川に向って、石の地蔵が並んでいるが、 <br />憾満ヶ淵の辺りは恰好の散歩道で、 <br />外国人の方もよくお出でになり、 <br />閑静な境地である。 <br /><br /><br />(ずらりと並ぶお地蔵様) <br />

    この辺りまで川に向って、石の地蔵が並んでいるが、
    憾満ヶ淵の辺りは恰好の散歩道で、
    外国人の方もよくお出でになり、
    閑静な境地である。


    (ずらりと並ぶお地蔵様)

  • (お地蔵様) <br />

    (お地蔵様)

  • (宝物館の鳥居)<br />

    (宝物館の鳥居)

  • 日光の二社一寺を巡って、駐車場に戻る道の中ほどに、 <br />東照宮宝物館がある。 <br /><br />その宝物館の左方に鳥居があり、脇に句碑がある。 <br />その句碑には、 <br /><br />「・あらたふと 青葉わか葉の 日の光 <br />芭蕉翁おくの細みち日光山吟」 <br /><br />と彫ってあるらしいが、句碑が古く読み取れない。 <br /><br />(芭蕉句碑) <br />

    日光の二社一寺を巡って、駐車場に戻る道の中ほどに、
    東照宮宝物館がある。

    その宝物館の左方に鳥居があり、脇に句碑がある。
    その句碑には、

    「・あらたふと 青葉わか葉の 日の光
    芭蕉翁おくの細みち日光山吟」

    と彫ってあるらしいが、句碑が古く読み取れない。

    (芭蕉句碑)

  • (芭蕉句碑2−字が読み取れない)

    (芭蕉句碑2−字が読み取れない)

  • 石の鳥居の後ろに、葵のご紋がついたいかめしい扉があるが、 <br />これについて説明板があるので、記載して置きたい。 <br /><br />「重要文化財 石唐門 石鳥居 <br />これは寛永十八年(1641)東照宮奥社に建てられたが、 <br />天和三年(1683)震災により破損したので、 <br />奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが、 <br />当宮三百五十年祭記念として、ここに移し建てた。 <br />幕府の作業方 大棟梁 平内氏の設計により巨石から切り出されたもので、 <br />江戸時代における代表的石造り美術である。」とある。(東照宮社務所)

    石の鳥居の後ろに、葵のご紋がついたいかめしい扉があるが、
    これについて説明板があるので、記載して置きたい。

    「重要文化財 石唐門 石鳥居
    これは寛永十八年(1641)東照宮奥社に建てられたが、
    天和三年(1683)震災により破損したので、
    奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが、
    当宮三百五十年祭記念として、ここに移し建てた。
    幕府の作業方 大棟梁 平内氏の設計により巨石から切り出されたもので、
    江戸時代における代表的石造り美術である。」とある。(東照宮社務所)

  • つまり、東照宮350年祭記念して、 <br />震災で破損し山深く埋もれていた石造りの唐門を、 <br />ここ日光東照宮宝物館の庭に移築した。 <br />この石の唐門は、一つの巨石からできており、 <br />製作者は幕府の作業方の大棟梁 平内氏の設計によるもので、 <br />江戸時代の石造美術である。 <br /><br />芭蕉句碑を見に行って、 <br />なんか、とてつもなく貴重な「石の唐門」を見たような気がした。 <br />大収穫であった。 <br /><br />(石唐門の徳川家葵のご紋) <br />

    つまり、東照宮350年祭記念して、
    震災で破損し山深く埋もれていた石造りの唐門を、
    ここ日光東照宮宝物館の庭に移築した。
    この石の唐門は、一つの巨石からできており、
    製作者は幕府の作業方の大棟梁 平内氏の設計によるもので、
    江戸時代の石造美術である。

    芭蕉句碑を見に行って、
    なんか、とてつもなく貴重な「石の唐門」を見たような気がした。
    大収穫であった。

    (石唐門の徳川家葵のご紋)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • heidi77さん 2013/07/16 15:33:02
    滝の裏側に
    はじめまして

    昔にこの滝を訪れた時は、滝の裏側に行くことが
    できましたが、今は通行止めになっているのでしょうか?
    人が少なくて穴場の好きな滝の一つです♪

    ご訪問&投票ありがとうございました<(_ _)>

    hide-bach

    hide-bachさん からの返信 2013/07/16 16:35:27
    RE: 滝の裏側に
    heidi77さん

    ご訪問ありがとうございました。
    お訊ねの滝の裏側に、
    芭蕉の頃は行けた様でっすが、
    裏側に行く道は見当たりませんでした。

    hide-bach

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