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 平安時代に開坑し、戦国時代前半に山名氏によって本格的な採掘が行われ始めたのが生野銀山です。明治に入りその銀を運ぶために飾磨と生野を結ぶ専用道路として整備されたのが、今に伝わる「銀の馬車道」です。正式には「生野鉱山寮馬車道」というそうですが、日本初の高速産業道路という位置付けでした。今回の「ちょっと遠出」旅は、「銀の馬車道資料館」でそんな歴史を見つめ、生野鉱山(銀山)と鉱山を中心に開けた町を見学しました。帰りには最近話題を呼んでいる天空の城「竹田城祉」に寄ってみました。

生野銀山から天空の城「竹田城」/兵庫県・神埼郡神河町、朝来市

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2012/11/25 - 2012/11/25

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ひま人

ひま人さん

 平安時代に開坑し、戦国時代前半に山名氏によって本格的な採掘が行われ始めたのが生野銀山です。明治に入りその銀を運ぶために飾磨と生野を結ぶ専用道路として整備されたのが、今に伝わる「銀の馬車道」です。正式には「生野鉱山寮馬車道」というそうですが、日本初の高速産業道路という位置付けでした。今回の「ちょっと遠出」旅は、「銀の馬車道資料館」でそんな歴史を見つめ、生野鉱山(銀山)と鉱山を中心に開けた町を見学しました。帰りには最近話題を呼んでいる天空の城「竹田城祉」に寄ってみました。

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
観光バス JRローカル 私鉄 徒歩

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  •  銀の馬車道交流館。「銀の馬車道プロジェクト」として、沿道周辺に残る歴史遺産の整備がすすめられ、ここ神河町内に「銀の馬車道交流館」が開館しています。馬車道に関する資料等の展示、歴史が解説されています。

     銀の馬車道交流館。「銀の馬車道プロジェクト」として、沿道周辺に残る歴史遺産の整備がすすめられ、ここ神河町内に「銀の馬車道交流館」が開館しています。馬車道に関する資料等の展示、歴史が解説されています。

  •  現在の銀の馬車道。生野鉱山と(朝来市)と飾磨港(姫路市)を結ぶ道路で、鉱山関連物資の輸送のために明治6年(1875年)に旧但馬街道(生野街道)の整備に着工し、明治9年(1878年)竣工しました。<br /> 生野鉱山に招聘されていたフランス人技師レオン・シスロイの設計で、当時ヨーロッパの最新技術だった「マカダム舗装」(一番下に粗い採石を敷き、その上に細かい石、さらに砂を並べて固めたもの)がとり入れられまた。全長49km、道路幅6m以上が確保され、馬車などの車両がすれ違える幅員とし、日本初の高速道路といわれています。

     現在の銀の馬車道。生野鉱山と(朝来市)と飾磨港(姫路市)を結ぶ道路で、鉱山関連物資の輸送のために明治6年(1875年)に旧但馬街道(生野街道)の整備に着工し、明治9年(1878年)竣工しました。
     生野鉱山に招聘されていたフランス人技師レオン・シスロイの設計で、当時ヨーロッパの最新技術だった「マカダム舗装」(一番下に粗い採石を敷き、その上に細かい石、さらに砂を並べて固めたもの)がとり入れられまた。全長49km、道路幅6m以上が確保され、馬車などの車両がすれ違える幅員とし、日本初の高速道路といわれています。

  •  銀の馬車道交流館内の展示、模型の馬の足元が、「マカダム舗装」の再現したものです。

     銀の馬車道交流館内の展示、模型の馬の足元が、「マカダム舗装」の再現したものです。

  •  当時、生野鉱山に詰めていた生野代官所跡。

     当時、生野鉱山に詰めていた生野代官所跡。

  •  旧生野鉱山職員宿舎。明治元年(1868年)、わが国初の官営鉱山となった生野銀山に、政府はフランス人鉱山技師を招聘するなど近代化を進め、町内には外国人が暮らす洋館のほかに、日本人用の官舎も建ててられました。明治29年には当時所管であった宮内省から三菱合資会社に払下げられ、以来三菱の鉱山として栄えてきました。現在復元公開されているのが、日本人用の職員宿舎です。三菱の社宅として建てられたものもあります。

     旧生野鉱山職員宿舎。明治元年(1868年)、わが国初の官営鉱山となった生野銀山に、政府はフランス人鉱山技師を招聘するなど近代化を進め、町内には外国人が暮らす洋館のほかに、日本人用の官舎も建ててられました。明治29年には当時所管であった宮内省から三菱合資会社に払下げられ、以来三菱の鉱山として栄えてきました。現在復元公開されているのが、日本人用の職員宿舎です。三菱の社宅として建てられたものもあります。

  •  旧生野鉱山職員宿舎。明治29年以降明治後期の復元したものです。

     旧生野鉱山職員宿舎。明治29年以降明治後期の復元したものです。

  •  旧生野鉱山職員宿舎。明治9年の状態に復元したものです。

     旧生野鉱山職員宿舎。明治9年の状態に復元したものです。

  •  旧生野鉱山職員宿舎。大正期に復元したもので、映画俳優「志村喬記念館」に使用されています。

     旧生野鉱山職員宿舎。大正期に復元したもので、映画俳優「志村喬記念館」に使用されています。

  •  志村喬記念館。日本映画の名優の一人として知られる志村喬さんの生家も社宅でした。明治38年生野で誕生。父親は冶金技師として明治時代から大正時代に生野鉱山に勤務していました。<br /> 館内には志村さんの生い立ちや代表作、遺品など展示されています。

     志村喬記念館。日本映画の名優の一人として知られる志村喬さんの生家も社宅でした。明治38年生野で誕生。父親は冶金技師として明治時代から大正時代に生野鉱山に勤務していました。
     館内には志村さんの生い立ちや代表作、遺品など展示されています。

  •  カラミ石、鉱石から銀や銅を製錬した後の鋼滓を成型した重さ約100kgの石です。家の土台や塀材として生野町のあちらこちらに見られます。この時代からすでにこのようなリサイクル品として利用されていました。

     カラミ石、鉱石から銀や銅を製錬した後の鋼滓を成型した重さ約100kgの石です。家の土台や塀材として生野町のあちらこちらに見られます。この時代からすでにこのようなリサイクル品として利用されていました。

  •  生野銀山代官所門。

     生野銀山代官所門。

  •  生野銀山、菊のご門柱。宮内省管轄時代のものです。

     生野銀山、菊のご門柱。宮内省管轄時代のものです。

  •  生野銀山、金香瀬坑口。生野銀山は大同2年(807年)に発見されたと伝えられ、室町年間の天文11年(1542年)には山名祐豊時代に銀鉱の本格的な採掘がはじまりました。織田・豊臣の各時代を経て、江戸時代に幕府が「銀山奉行」を設置。その後「生野代官」が置かれ、やがて生野銀山は最盛期を迎えます。明治元年、政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人ジャン・フランソワ・コァニェが着任し、軌道や巻き上げ機の新設など先進的施策により、めざましい近代化を遂げました。明治22年に宮内省の所管へ移され皇室財産に。次いで明治29年に三菱合資会社へ払下げられ、国内有数の大鉱山として稼働しましたが、昭和48年に閉山し長い歴史の幕を閉じました。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350k以上、深さ880mの深部まで達しており、採掘した鉱石の種類は70種以上にも及んでいます。

     生野銀山、金香瀬坑口。生野銀山は大同2年(807年)に発見されたと伝えられ、室町年間の天文11年(1542年)には山名祐豊時代に銀鉱の本格的な採掘がはじまりました。織田・豊臣の各時代を経て、江戸時代に幕府が「銀山奉行」を設置。その後「生野代官」が置かれ、やがて生野銀山は最盛期を迎えます。明治元年、政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人ジャン・フランソワ・コァニェが着任し、軌道や巻き上げ機の新設など先進的施策により、めざましい近代化を遂げました。明治22年に宮内省の所管へ移され皇室財産に。次いで明治29年に三菱合資会社へ払下げられ、国内有数の大鉱山として稼働しましたが、昭和48年に閉山し長い歴史の幕を閉じました。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350k以上、深さ880mの深部まで達しており、採掘した鉱石の種類は70種以上にも及んでいます。

  • 生野銀山坑口、人形が鉱石を採掘している仕掛けです。

    生野銀山坑口、人形が鉱石を採掘している仕掛けです。

  •  生野銀山、採掘に使用されていたトロッコです。

     生野銀山、採掘に使用されていたトロッコです。

  •  鉱山資料館。校内模型を展示し、江戸時代の鉱石を掘り出す作業を再現しています。

     鉱山資料館。校内模型を展示し、江戸時代の鉱石を掘り出す作業を再現しています。

  •  吹屋資料館。幕府に献上する上納銀を作るために、精錬を繰り返した吹大工たち。徳川時代には精練所を「吹屋」、その作業者を「吹大工」と呼びました。吹屋は素吹き・南蛮紋・荒灰吹・上銀吹という五段階の工程に分かれており、この資料館では11体の電動人形により各工程の作業を忠実に再現しています。

     吹屋資料館。幕府に献上する上納銀を作るために、精錬を繰り返した吹大工たち。徳川時代には精練所を「吹屋」、その作業者を「吹大工」と呼びました。吹屋は素吹き・南蛮紋・荒灰吹・上銀吹という五段階の工程に分かれており、この資料館では11体の電動人形により各工程の作業を忠実に再現しています。

  •  生野銀山は明治元年(1868年)に日本初の官営鉱山(政府直轄)となり、明治政府は近代化を押し進めるために「お雇い外国人第1号」のフランス人技師、ジャン・フランソワ・コァニェ(写真の胸像)を鉱山師兼鉱学教師として雇い入れました。コァニェが帰国するまでの10年の間、政府は精練所の工事に着手、生野で日本の近代化工業の模範鉱山・製鉱所の確立を目指しました。

     生野銀山は明治元年(1868年)に日本初の官営鉱山(政府直轄)となり、明治政府は近代化を押し進めるために「お雇い外国人第1号」のフランス人技師、ジャン・フランソワ・コァニェ(写真の胸像)を鉱山師兼鉱学教師として雇い入れました。コァニェが帰国するまでの10年の間、政府は精練所の工事に着手、生野で日本の近代化工業の模範鉱山・製鉱所の確立を目指しました。

  •  竹田城祉(雲海の竹田城、合成写真です)。天空の城として最近特に人気が高く、山城のためタクシーの利用が多く道路事情が悪く2時間待ちさえもあります。<br /> 2008年4月26日(このブログに「名城めぐり・竹田城」として掲載済)に登城しているので、今回は竹田城の虎伏山に対する立雲峡から見ることにしました。<br /> この写真は立雲峡からの眺めですが、雲海は午前2時から8時頃までだそうです。

     竹田城祉(雲海の竹田城、合成写真です)。天空の城として最近特に人気が高く、山城のためタクシーの利用が多く道路事情が悪く2時間待ちさえもあります。
     2008年4月26日(このブログに「名城めぐり・竹田城」として掲載済)に登城しているので、今回は竹田城の虎伏山に対する立雲峡から見ることにしました。
     この写真は立雲峡からの眺めですが、雲海は午前2時から8時頃までだそうです。

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