2014/01/11 - 2014/01/11
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文月の士さん
戦国時代、織田信長の中国攻めの最初の合戦となった三木合戦の地(兵庫県三木市)を訪れました。
織田信長の武将羽柴秀吉、後の豊臣秀吉が三木城主、別所長治と戦った歴史的な遺跡が残っています。
三木合戦は1578年(天正6年)〜1580年(天正8年)まで続いた戦いで、後に「三木の干殺し」と言われました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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最初に平井山本陣跡(秀吉の本陣)に行きました。
秀吉は別所長治の三木城が堅固なため正攻法の城攻めをあきらめ、兵糧攻めにするため三木城の周囲に土塁と柵を築き、要所々に付城(つけじろ)を築きました。
本陣跡の登り口には説明板が設置してあります。 -
平井山本陣跡説明版
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本陣跡まで登山道が整備されています。
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愛宕社が途中にありました。地元の人に祀られているようです。
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武者溜り(兵士達が屯していた場所)
山の斜面が人手によって削られ平坦になっています。 -
人の手によって道が造られています。
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人の手によって道が造られています。人手によって山の斜面が削られていることがはっきりとわかります。
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人の手によって道が造られています。
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本陣跡
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本陣跡
山の頂上の平坦な個所を利用していたようです。 -
本陣跡
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本陣跡
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本陣跡
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本陣跡
平坦な部分は結構広いです。 -
本陣跡
展望台から三木城跡を望めます。右側の山が三木城跡です。三木城跡から左側に見えている青い建物は三木市役所です。 -
櫓台状の土盛り
櫓が設置されていたものと思われます。 -
大手口
人の手によって斜面を削られ道が造られていることがはっきりとわかります。最っとも高低差のある所で人の背丈ほどあります。 -
竹中半兵衛の墓(三木市平井)
竹中半兵衛は秀吉の軍師で、病のため一時は京都で病気療養をしていましたが、武士は戦場で死ぬのが本望と秀吉の承諾を得て平井山本陣に戻り、平井の陣中で亡くなりました。
平井山本陣のある山の麓に葬られています。 -
竹中半兵衛の墓
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竹中半兵衛の墓
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竹中半兵衛の墓
竹中半兵衛は地元の人に手厚く祀られており、墓前に花の絶えることがありません。
この写真は2013年に撮影。 -
竹中半兵衛の墓
2002年撮影。 -
竹中半兵衛の墓
2002年撮影 -
竹中半兵衛の墓
2002年撮影 -
慈眼寺山城跡への登り口です。
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慈眼寺山城跡(三木市久留美)
付け城の一つです。三木城の真北に築かれています。三木城まで直線で約2Kmです。 -
慈眼寺山城跡
真正面に三木城跡が望めます。 -
三木城跡
三木城は別所長治の居城です。城跡は公園になっています。 -
三木城跡
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三木城跡
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別所長治像
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別所長治辞世の句
「今はただ恨みもあらじ諸人の命にかわる我が身と思えば」
長治は将兵の命を救うことを条件に切腹しました。 -
谷大善の墓
谷大善は秀吉方の武将で平田山に陣所を構えていました。三木城に兵糧を運び込もうとした別所・毛利軍の夜襲を受けて壮烈な戦死を遂げました。 -
谷大善の墓
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淡河弾正定範戦死の碑
淡河弾正定範は別所方の武将で大村坂の合戦でこの地で戦死しました。 -
淡河弾正定範戦死の碑と同じ場所に、平田大村加佐の合戦で亡くなった秀吉、別所方双方の兵士が葬られています。
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明石道峯構付城跡
三木城を取り囲んでいた付け城の一つです。三木城の南側に位置します。 -
明石道峯構付城跡
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明石道峯構付城跡
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三木合戦企画展
三木合戦の企画展が開催されていました。 -
三木合戦企画展
三木合戦鳥瞰図 -
三木合戦企画展
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三木合戦企画展
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