2012/08/25 - 2012/08/30
30位(同エリア66件中)
きっちーさん
準備中
1930年10月27日。
日本の圧政に耐えかねた、台湾原住民六部落の武装蜂起、『霧社事件』。
マヘボ頭目モーナ・ルーダオを中心に、徹底抗戦の構えをみせる台湾原住民の山岳地帯のゲリラ戦法に手を焼いた日本側は、抗日蜂起を見送った部族を利用し原住民同士をぶつけたり、毒ガス投下までして事態の鎮静化を計りました。
約1ヶ月に渡って続いた殺戮ののち、生き残った抗日原住民は「保護蕃収容所」に隔離・収容されます。
1931年4月25日。
日本当局は利用した「味方」部族へ与えた武器を回収する直前、ふたたび原住民をつかって『ロードフ保護蕃収容所』で抗日投降者57人を殺害し、36人を斬首。
『シーパウ保護蕃収容所』では、137人が殺され65人が首級をとられました。
襲撃の際、桜駐在所の警部補と警察官は機関銃で応戦するポーズはとったものの、奇襲では1人死亡・7人負傷という、実質スルー。
これを、『第二霧社事件』もしくは『保護蕃襲撃事件』と呼ばれます。
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さて。
本日は、日本側の計略により収容所で起こった虐殺事件。
『第二霧社事件』後、抗日原住民の生存者298人のうち、病人をのぞく278人が二度に分けて強制移住させられた先の、川中島(現・清流部落)へ向かいます。
いつも通り、地元バスを使ってひとりで行くつもりだったのですけど。
ホテルのレセプションの人たちに、「危ないからひとりで行くのはやめなさい」と台北のホテルマンさんに続いて再度忠告を受けたため、タクシーをチャーターすることに致しました。
経験上、日本軍が散々悪いことをした地域で日本人と明かして戦跡めぐりをしていても、地元の方に面と向かってなじられたり、ましてや暴力行為といったことをされたことは一切ありませんでしたので、そういった面では自分的には、さほど危険があると感じないのですが・・。
ただし、地域を良く知る地元の人の忠告を無視するのは愚かしいとも思うので、ここは地元のタクシー利用をするっちゅー折衷案☆ -
ホテルの人が手配してくれたイエローキャブの運転手さんは、人の良さそうな雰囲気の洪昆寶さんv
「霧社事件にまつわるフィールドワークをしているので、清流部落へ行きたい。私はひとりで、清流部落とその周辺を20〜30分見てまわるつもり。その間、申し訳ないが待機してもらって、帰りにまた埔里まで乗せてもらえないでしょうか?」
筆談に片言の中国をまじえて尋ねると、すでにホテル側からおおよその内容を知らされていたらしく、「大丈夫、わかってる。乗ってください」
そう、促されます。
洪さんは、日本語や英語は話されないようですが、筆談慣れしていて筆談によるコミュニケーションを面倒がらずに応じてくれます。
こういう運転手さんは、言葉に難アリの旅行者には助かります!
ホテルの方の人選に感謝しつつ、しゅっぱーつ。
清流部落は、地図や事件当時強制移住させられた抗日部族の生存者証言を読んだりすると、埔里市内からけっこう離れた場所にあるとは薄々感じていたものの、タクシーで走ってもハッキリ言って遠い!! -
市内から出たあと、タクシーは一直線に産業道路を進んだかと思えば、みるみる車一台通らないような蛇行する山道を抜け、文字通り山ひとつ越えて走った先に―――。
ようやく史料写真で観た、清流部落のかたまる中州へ続く長い橋が見えてきました。
なんかでっかく『川中島』って書いてあるんですけどー。
日本が勝手に付けた名前だから、もともとの名前(もしくは新しい地名)しか表記されていないものだとばかり思っていたので、かなり不思議な気持ち。
この疑問を、台北の日本語の通じるとあるお店で口にしたところ、
「台湾人は、良い歴史も辛い歴史も大切に残します。日本の植民地時代の象徴的建物も韓国は確か壊しましたが、台湾は違う考え方です。文化遺産として登録を目指します。どんな形であれ台湾の歴史の一部だ、という考えからです」
お店の方が、そうおっしゃっていたのが印象的でした。
まあ、あまりに酷い経緯がありますし、自分なら辛い記憶を想起させる対象物を壊しちゃうほうに傾くのは、心情的には非常に近しく理解できますが。
広島の原爆遺跡などを思い出すと、台湾の人の考え方にも一理あるなあ、と考えさせられました。 -
橋を渡り、集落をまっすぐ走る一本道を行きます。
わかりやすく間違えようもない、部落入り口の橋の前で降ろしてくれるのかと思いきや。
洪さんのタクシーは、橋を渡ってなおずんずん集落の奥へ奥へと、走っていきます。
「はあ〜。時間が巻き戻ったみたいだ・・」
車窓の外に広がる清流部落に目立った建物は無く、集落の中心をつらぬく一筋の道沿いに、ポツリポツリと民家が現れ、その周囲には見渡す限りの田園風景が広がっています。 -
北港渓に近く、稲作がおこなわれている豊かな土地。
しかし――。
『そこで新生活を始められるという喜びではなく、全員が殺されるという恐怖であった』
収容所から移住計画を日本側から告げられたとき、抗日原住民たちの頭を真っ先によぎったのはそんな考えだったそうです。
(オビンタダオ証言『台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言』より)
川中島の対岸『眉原』には、確執のあるサラマオの人々が移住しており、対立部落による報復を恐れたのもあったそうですが、埔里からこれほど離れた土地、しかも周囲に目が無い場所では、日本側に虐殺されてもアッサリ隠蔽されてしまいそうに思えます。 -
霧社を追われ、収容所でも虐殺の嵐に襲われた抗日原住民の人々が住む、埔里から街から離れた清流部落の風景は、当時から農村だったという風景をいまだ留めているように写ります。
洪さんのタクシーは集落を縦断し、大きく隆起する山すそ近くまで走ると、入り組んだ小道の一軒の民家の前で停車します。 -
「な、なに、ここ?」
『川中島工作房』の看板が門前に掲げてありますが、それ以外はフツーの民家に見えます。
『歓迎入内参観』
とありますし、台湾原住民の観光客向け体験工房のような場所で、洪さんは一定時間停めておける駐車場でも探しているのかと思いましたが。
「ここを見て、ゆっくり写真を撮ってきて下さい。私は近くの駐車場で待っているから。」
相変わらずニコニコと優しく微笑んで、すぐそばに見える警察署の駐車場(!)へゆるゆる走っていきます。
いいのか!?
無断駐車!(しかも警察署!!) -
それにしても、オイラはフィールドワークをしに来たのであって、原住民小物の手作り体験をしにやって来た訳では・・(汗)。やや興味はありますけど。
「ひょっとして、あんま趣旨が伝わって無かったかなあ〜?」
軽く首をかしげながらも、善意しか感じられない洪さんのおススメに従って、いちおう工房見学をすることに致します。
それにしたって、観光客どころか村民もほとんど見かけないような、閑静な集落です。
「観光客の姿も無いのに、どうやって経営してるのかな」
シーズン中だけ開けてるとか?
イヤイヤ、今はもう夏休みも終わってるような・・。
あれ?
台湾の夏休みって、日本と同じ時期なのかしら??
つか、日本の地方へ行くと必ずガラス工房(もしくは美術館)や、蕎麦打ち体験施設があるようなものなのかしら〜。 -
「にーはおー」
蕎麦打ち・・もとい、工作房へ顔を入れると、中にいた小柄なお婆さんが少し驚いた様子ながらも、笑顔で招き入れてくれます。
『川中島工作房』は、観光客向け体験施設ではなく工房直販所施設。
手織りのストールやアクセサリー類など、お婆さんの手作り原住民グッズが工房の壁に並べられています。
お願いすれば作りかたも指導してくれそうですけど☆
「ナーリィレン?ハンゴォ?」(どこのひと?韓国人?)
使い込まれたミシンを前に、端切れなどを片付ける手を止め、ニコニコとお婆さんが話しかけてきます。
「えと、我是ルィーヴェンレン(日本人)」
「日本人なの?!あなた、ひとりで来たの?」
目を丸くして、お婆さんが日本語で尋ねてきます。
さ、さすが台湾のお年寄り。
イントネーションに狂いのない、完璧な日本語です。
「そのう、タクシーですけど。ひとり旅です」
「ひとりだなんて大丈夫?」
「ええ、皆さん親切なので。霧社事件の関連地域をまわってるんです」
「霧社事件、知っているの」
「はい。以前、タイヤル族の人たちが日本へ裁判のためにいらして。その訴えを聞いて初めて事件を知ったんです。
それで、どうしても現場へ行ってみたくて。
霧社へも行って来ました」
お婆さんはホッと息を吐いて、「裁判の話しは知っているわ」と呟きます。
「むかし皆さんには、日本が大変申し訳ないことを致しまして。すみませんでした」
ペコリと頭を下げると、彼女は苦笑して、
「霧社へはいまも祭りの時には行くのよ。裁判を起こした人たちは、昔はおなじタイヤル族で霧社では一緒だったけど。今は別の部族なの」
まつり?
べつの部族? -
ひと口に『台湾原住民』といっても、政府認定の部族のほかにも台湾原住民の小グループが存在します。
原住民は、言語体系や生活様式、信仰などで共通する部族に振り分けられているそうですが、外から見たら小さな差異でも共同体によっては重要な違いはあるので、認定がなくても独自の部族だという主張があるんだそうです。
また、同じ部族であっても言語・文化・習俗が異なったりするので、部外者には理解しづらい部分があります。
原住民コミュニティーの研究が進むと、新たに認定を受ける部族も出てきているそうです。
事前に読んだ『霧社事件』の関連書籍によると、霧社の住民はタイヤル語族系セイダッカ語(「セデック」とも)を話し、男性は基本的にガヤ(gaya)またはガガ(gaga)という小グループの一員で、タックガヤに所属する・・・・という、わかるようなわからんような〜。
タイヤル族とセイダッカ族では、どうちがうのだろーか?
なんとなく、『タイヤル系セイダッカ(セデック)族』という漠然とした理解であったのですが、ちがうのかな?
分からないことは聞いてみよう!
「おばさんは、何族なんですか?」
うまく聞き取れず紙に書いてもらうと、
『賽徳族』
の文字。
『克』が抜けていますが、『賽徳克族』(セイダッカ/セデック族)というのが、お婆さんのエスニック・アイデンティティーなんですね。
2008年4月23日に、セイダッカ族はタイヤル族とはべつの独自民族認定されたので、おそらく「私たちはタイヤルではなくセイダッカ族よ」ということをおっしゃりたかったのかなー?
セイダッカ族と蜂起に加わった部落の生存者は、収容所での虐殺事件ののちこの川中島へ強制移住させられました。
霧社地域や耕作地は、セイダッカ族の追放と入れ替わりに、日本側についた部族の所有となったそうですが、お婆さんによると現在では霧社地域の祭儀の際にはセイダッカ族も霧社へ戻って参加するのだそうです。 -
さて、そんなお話を伺いつつ、工房も見学〜。
お婆さんの工房で売られているものは、彼女の手作りだそうです。
既製品に刺繍をしたものもありますが、ストールなどは手織り。
手作りでも500元〜800元(約2000円以下)くらいのお値段なので、フツーにお安いと思います!
織物どころかミシンもあまり得意ではないので、「うらやましいですよー」と話すと、彼女は得意そうに「マスコミの取材も受けたのよ!」と、かなり立派な本に載った自身の特集記事を披露してくれます。
「やはり御家族も手仕事は得意なんですか?」
「いや、娘も孫も全然なのよ」
あー、そうなんですね・・。
台湾原住民といっても、手仕事のレベルが高い世代は、もうお婆さんくらいの年代になっちゃってるのかも。 -
せっかくなので、お婆さんおススメのポシェットを買って、ここからようやくフィールドワーク。
ちなみに、
「この辺りの写真とか、村を勝手に撮っても大丈夫でしょうか?」
「ああ!そんなの全然かまわないわよ」
とのコト。
ほらー!
ひとりじゃ危ないなんて、やっぱりなかったじゃん。 -
戦跡をめぐる時、戦中(侵略戦争)&戦後(度重なる補償放棄)の日本の態度が現地で快く思われていないことを、十二分に理解すべきと思います。
けど、だからといってアジア各地の事件があった地域が、危害を及ぼす「危ない場所」というのはやっぱり訪れる側の後ろめたさに裏打ちされた「フォビア」か、あとは特定地域への若干の偏見かなーとも感じます。
まあ、洪さんが比較的「大丈夫な施設」を選んでくれたのかも知れませんけど。
中国や韓国との領土問題でも、あんなふうに一気に険悪化しちゃうのは政治的外交の不手際はもちろんですが、戦後補償の問題と歴史認識が共有化されていないところが根っこにあるように感じます。
頭越しの国家間の取り決めで、補償から置き去りにされた人々が発する声を聞くとき、日本が侵略戦争下何をしたかの認識が弱い外国人フォビアな人々のあいだには、相手の感情がどこから来ているのかさえ思い至らない、深刻な溝が横たわっているように思えるのです。 -
出口まで見送ってくれるお婆さんと、人懐こい工房のニャンコに手をふり、清流部落を歩き始めます。
洪さんは、相変わらず警察署の駐車場で運転席に座ったまま、のんびり休憩をとっているようなので、集落の中央を走る一本道をてくてくと進みます。 -
警察署の壁に描かれた、
←このようなレリーフや、ちょっとしたプレートが無ければただの農村にしか見えず、博物館で見たような台湾原住民が住む村といった、特殊建築などは見当たりません。 -
住人の姿もほとんどなく、道沿いにある民家も新しそうなのに空き家だったりして。
農耕地は広いものの、世帯数は非常に少ないように見えます。 -
「農業をやっている人以外は都心部へ出ちゃって、あまり村の中だけで生活している人はいないのかなあ」
抗日六部落の生き残り―――セイダッカの人々の、川中島への強制移住当時、この部落にはすでに先住の18戸129人の漢人入植者が居住していました。(『抗日霧社事件をめぐる人々』より)
もともと川中島は、タイヤル族眉原(バイバラ)群の居住地で、日本の台湾統治以降、官有地となり、漢人の入植がおこなわれます。 -
眉原(バイバラ)群を排除して、漢族を入植。
そして、今度は漢族の彼/彼女たちを北斗郡に移住させ、六部落の生き残りを住まわせる。
タイヤル(強制退去)→漢族(強制退去)→蜂起した六部族(強制移住)。
当然、これらの人々の間には軋轢が生まれるわけで、人々の絆を引き裂くやり方には憤りを感じます。 -
結局、こういった人を引き裂くやり方は、その時点では上手くやったつもりでいるかも知れないけど、絶対そんなことなくて。
やられた方は忘れないわけです。
日本人が、「ご迷惑を」とか「遺憾な」という表現で、遠まわしに直接的な謝罪を回避する姿勢をとり続けているのも、酷いと思うし。
あの工房のお婆さんの複雑な笑顔があらわすように、時を経ても謝罪と補償と出来事の記憶の共有が出来ない限り、私たち自身をも引き裂くやり方なんだ、と思います。 -
たまに、スクーターで走り去る村民の方を見かけるほか、緑深くも閑散とした農道を歩いていくと、集落の中央にこじんまりとした広場が。
駐車場を兼ねた広場って感じかな? -
ここには、日本の侵略戦争下での地名『川中島』と、現在の地名『清流』が記憶をとどめるように同居しています。
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「ひょっとしたら、社会科見学で学生さんたちが来ることもあんのかなー?」
広場内のお店もクローズしていますが、観光バスの駐車場としてもじゅうぶんなスペース。
村内規約みたいな看板もあって面白いのですけど、本当に人の姿が見当たらない。
綺麗に手入れされた田んぼや道が無ければ、歴史の舞台を再現した撮影現場にでも来たような心持ちになります。
群馬に似た田園風景に、なんとなくリラックスしてしまいながら、ずいぶん時間をすごしてしまったことに気づいて、あわてて警察署の駐車場へ走ります。 -
「どいぶーちー!」(すんませーん)
ばたたっと、せわしなく帰ってきたルィーヴェンレンにやや目を丸くしながら、文庫本をめくっていた洪さんが「もういいの?」と首をかしげます。
「いや、よくないです。橋の辺りで写真撮りたいです」
「ああ、じゃあ乗んなさいよ」
清流部落の面積はさほど広くないものの、徒歩でまわるのはさすがにお時間がかかるので、洪さんは車で集落の入り口にあたる橋まで連れて行ってくれます。
サンクス!洪さん!! -
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