2012/08/25 - 2012/08/30
21位(同エリア60件中)
きっちーさん
準備中
1930年、日本の植民地統治下で台湾原住民六部落が抗日蜂起した『霧社事件』――。
その悲しい歴史の舞台となった山岳地帯を訪ねるため、台北から長距離バスでまずは霧社への玄関口、埔里の街を目指します。
例のガイドブックでは、埔里のホテルがあまり載っていなかったのでー(涙)。
今回、台北でお世話になっている『京都商務旅館』の日本語べらべらスタッフの皆さんに、「台湾のネットで泊まれるホテルを探してくれませんか?」とお願いします☆
2009年全国優良旅館の栄光に輝いたという、このホテルのスタッフさんは本っ当に親切v
いくつかの埔里のホテルを探してくれただけでなく、現地に電話をかけて価格交渉までしてくれました!!
おかげで、1泊2800元のホテルが1泊1400元に・・。
って、ソレ半額じゃん!!
すげーな。
しかし、「埔里から霧社へ行く」と言った途端、スタッフさん達が顔色を変えます。
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「危ないですよ!!」
「台風が、ですか?」
ただいま台湾では列島周囲を巨大台風『天秤』(日本名:14号)が旋回中。
「いや、それもそうなんですけど。あ。今日の天気は小雨だそうです」
軽くボケたら、やや天然っぽいスタッフさん(男性)は、天気も気になりだしたようです。いい人だ。
「本当に。危ないんですよ?」
うん。
よく言われる。
南京でも、重慶でも、ハルビンでも、山西省でも、ソウルでも、「そんなところへ行くなんて危ないよ」って言われた。
でもさ。
行ってみると、ちがうのだよ。
「学校ではあまり教えられてこなかった、戦時中の日本の加害行為を、直接訪ねて現場を見たり現地の声を聞きたい」
という旅の目的を話すと、地元の皆さんはこっちが恐縮してちっこくなってしまうくらい、親切にしてくれるだよ。 -
もちろん、そこに住む人たちの忠告を軽視してはいけないというのも、重々承知しています。
言葉も分からない旅行者では、子どもどころか、道理もなにもわからない赤ちゃんのようなものですから。
それこそ、少しのリスクでも慎重に行動するに越したことはありませんよね。
本気で心配してくださるスタッフさん達に、なにやら申し訳なくなってきます。
「危ないようなことはしません。現地に着いて、天候が怪しかったら山へは入りませんし、身の危険を少しでも感じるような要素があれば、街やホテルから離れないようにします」
約束をすると、ようやく笑顔を見せてくれて、「困ったことがあればいつでも連絡を」とホテルの名刺を手渡してくれます。
いい人たちだー!
台北最終日も、このホテルしよv
埔里から戻ってきた日のシングル・ルームの予約を入れ、いよいよ出発の日です。 -
愛用のちっこいトランクをコロコロ転がして、『台北西B站』へ。
昨日下調べをしたうえ、時刻表もゲットしていたので、迷わずチケット売り場のカウンターへ。
「ダオ、プゥリィ。イージャン、ピャオ」(到、埔里。一張票)
と、ところが・・!!
「没有」(売り切れです)
「えぇええーっ!!メイヨ〜??」
「8:20、没有」
あ、なんだ。
次の9:00の便でいいですよ。 -
びっくりした。
すいてそうなのに、いきなり売り切れって。
ドキッとしちゃったじゃん。
まあ、バスがダメなら高速鉄道という手もあるんですけど、最初は時間がかかっても、複雑なルートじゃなくて簡単な移動方法のが間違いないですからね。 -
9時が近づき、改札が始まります。
座席は決まっておらず、乗客は思い思いの席につきます。
お客さんがすべて乗り込み、定刻をむかえると、出発です。
時刻表どおりなら、これから3時間40分の長旅。
高速鉄道利用なら、台中そして埔里まで2時間。
半分以下の時間で行けちゃうのですが、最初は乗り換えのないバス・オンリーの交通手段で。
ヘタに乗り継ぎのあるような移動手段は、過去の経験上どうも苦手なもんで。
最初は、「いっかい乗ったら終点が目的地」のような移動が安心じゃ(笑)。 -
昨夜から、台北のニュースは再上陸するという巨大台風『天秤』への警戒・注意喚起がくり返されています。
『天秤』は台湾の南部から、台東・華蓮といった沿岸部を縫うようにして、台北方面へ北上する予報。
台湾の堅固な山岳を挟むとはいえ、ようはワタクシ、台風がやってくる方面へわざわざ移動しちょるという・・(汗)。
そりゃ、ホテルの人も心配するわなー。
しかも、山へ行くなんてアホかと思われるわなー。 -
台風の進路に向かって進んでいくものの、天気は良好。
11時くらいに、台中のバス・ターミナルで5分ほどのトイレ休憩を入れて、12:48に埔里国光客運站へ到了〜☆ -
埔里でのお宿は、某『歩き方』にも紹介されている、『阿波羅飯店』☆
バスターミナルから、歩いて・・そーだなあ7〜8分くらい?
距離はそんなに離れてはいないのですが、埔里中心部は交通量が多いので、信号待ちとかでちょっと時間がかかるかな。
台風による雨を警戒して、バスターミナルから近い宿を京都商務旅館のスタッフさんに台湾のネット検索してもらったのですが。
ターミナル付近に、女性がひとりで宿泊しても大丈夫そうなビジネスホテルは見つけられず、コチラのホテルを予約していただきました。 -
冒頭でも書きましたが、この阿波羅飯店、日本でフツーに予約すると正規料金2800元なんですが、台北で泊まったホテルの親切なレセプション・スタッフの男性が電話交渉したら、いきなり半額の1400元までお値引き!!
びっくりだな。
さすが、ロコ・パワー。
しっかし、ネットに載っている写真よりは、外観が相当古そうな・・。
だいじょうぶかしら(笑)。 -
阿波羅飯店の外観は、ぶっちゃけボロい感じですが。
レセプションの対応は親切だし、ロビーなどの内装はふつーにキレイです。
あ。
日本語はまったく通じませんでした。
まあ、ソレはいつものことなので、片言と筆談とブロークンイングリッシュでカヴァーだ!
唯一、「こわっ」と思ったのが、渡されたキーを持ってフロアへあがったら、客室がガラガラなこと! -
「おいおい、この階はオイラだけか・・?」
広い廊下の左右に開け放たれた客室をのぞきながら、やや不安。
隣がうるさいのはイヤだけど、いざっちゅー時に大声だしても誰もいませんでした、のがマズイよ。 -
自分の部屋番号のお部屋へ到着。
む。
奥行きがあって、広そう! -
え?
マジ広いんですけど。
そしてなぜかツイン??
シングルで頼んで、しかも半額にしてもらってるんですけど、いいのか?! -
お洒落でキレイな台北の『京都商務旅館』の内装に比べれば、いかにもビジネスホテルっぽいのですが。
とにかく、広い! -
天井も高い。
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お風呂も広い。
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トイレが・・・便座がトイレットペーパーから遠い(笑)!!!
これ、大人はいいけど。
小柄な人や子どもなんかは、いったん立ち上がって紙のほうへ行かないと手がとどかな・・・げっふん!
まあ、細かいことを気にするのはやめよう。 -
ホテルに荷物を置いて身軽になったら、いざ霧社へ。
明日はひょっとして台風直撃かも?なので、山岳地帯へ行くなら本当に今日しかチャンスがないかもです。 -
ここから霧社へは地元の南投バスで行きます。
『歩き方』マップでは長距離バスの「国光客運」とロコの「南光客運」では隣り合った別々の建物っぽく記載されていますが!
まったく同じ建物です!!!!
←正面道路側に「国光客運」の看板が出ていて、わきの道路の入り口に「南光客運」の看板が掲げられています。 -
えーと。
何時のバスがあるのかな?? -
ガイドブックには、埔里→霧社間はバスが「多発」とありますが。
壁に掲げられた時刻表を見ると、往きも帰りも1時間に1〜2本なので、どこが多いのか??と首を傾げたくなります。 -
「とりあえず、切符を買っとくか」
南投客運の切符売り場のカウンターで、
「到、霧社。一張票」
片道89元のバス・チケットを買い、ふと窓口の横を見るとカウンターの目立つ場所に、最新版の南投客運の時刻表が!! -
らっきー。
バス会社やバス停留所の電話番号つき。
便利だ。 -
これによると、壁にかかった時刻表よりは時間によってはプラス1本くらい、便がありますね。
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こっちは、帰りの便。
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このとき13時を少しまわったところだったので、壁の時刻表では次の便まで1時間。
しかし、最新版時刻表を見ると、13:30発の霧社往きがあります。
念のため、チケット売り場の女性に確認したところ、やはり次の便は13:30。
ヨシ!
そんなわけで、時間をロスすることもなく、車上の人となりました〜。
乗るときにバスの運転手さんに、
「霧社へ着いたら一声かけて下さい」
と、お願いしておきます。 -
発車時刻と同時にバスが出発します。
街を抜け、ほどなく傾斜のきつい山道に差し掛かると、短い時間でものすごい高地へぐんぐん登っていきます。
埔里から霧社までは、時刻表を見ると約1時間弱。
幸い、台風『天秤』の影響はまったく感じられず。
薄曇りではあるものの空は明るく、風も穏やか。
バスの揺れにまかせてウトウトしていると・・。
「あれ?いま通り過ぎなかったか??」
なんか、霧社っぽい街が車窓を通り過ぎていった気がします。 -
「でもなー。運転手さんにはお願いしてあるしな?」
それでも、なんか辺りの景色が牧場ぽくなってきて、どう考えてもおかしいので、バスが停車したところで運転席へ行き、
「あの〜、霧社はまだですかね?」
聞いてみます。
すると・・。
「しまったー!」
あきらかに運転手さんが焦っとるがな!!
やっぱ、さっきの町がそうだったのかーっ! -
どうも、忘れられていたみたいです。くすん。
まあ、このヤバイ山道を走ってたら、運転に集中して忘れちゃってもしょうがないか。
そもそも観光バスではないんだもんね。
どうしようかと思案していると、
「ここで30分待っていて欲しい。3:30に帰りの便が通るから」
と言われます。
じゃあ、そうすっか。
不安を感じつつも、バスを降ります。 -
しっかし、ここはドコー!!?
どうも、あたりは羊がたわむれる牧場(!!)や、けっこう本格的な洋館&シャトー(!!!!)、キャンプ場などがあり、『台湾原住民への旅』を目指していたワタクシ的には、周囲の状況がかなりビミョーなあんばいなんですけど・・。
あまり人が通らない駐車場にいると、たまに流れる海外での邦人殺害のニュースが頭をぐるぐるして、非常に不安な気持ちになります。
ひとりでバスを待つのもコワくなってきて、逡巡した末、通りがかりのタクシーをとめて乗せてもらえるよう交渉してみることに。
運良く通りがかりで停まってくれたのは、白髪頭のお爺なタクシー運転手さん。
「我想去、『霧社』。能不能、帯去?」
てけとーな中国語で尋ねると、
「もうすぐバス(公車)が来るから、それに乗っていった方がいいよ」
と、運転手さん。
不安そーな顔をするのを不憫に思ったのか、わざわざ車を降りるとバス停まで連れて行ってくれて、
「この場所にいなさい、あと10分でバスは来るから。10分だよ」
ゆっくりとした発音でくり返してくれます。
ふぬー!
台湾ぴーぽー優しいー。
でも、高くてもいいから乗せてって〜(涙)!! -
タクシーの運転手さん的には、まあまあもうすぐバスが来るんだし、わざわざ高いタクシーに乗らんとバスに乗ってきなはれってコトなんでしょうが。
くすん。
だって待ってる間が心配なのよ、ユー。
念のため。
台湾はひとりで路上に立っていて危険を感じるような国ではありません。
単に、想定外の事態に弱いヘタレなもんで。
もう目的地に着いていていい筈が、こうして知らない場所でひとりでいるのが不安になっただけで御座います。
タクシーお爺ちゃんは行ってしまい、ふたたび山道でひとりぼっちで立っていると、猫バスもとい南投客運バスがやってきました。
やったー!良かったヨー! -
手を挙げてバスを止め、そそくさとタラップに足を掛け、
「到、霧社。多少銭?」
小銭を数えながら顔をあげると、運転席に座っていたのは往きに声をかけ忘れて「あちゃー」と焦っていた、先ほどのドライバーさんでした。
眉毛をへたりと下げて、「悪かったね。お金はいいから、乗って」とおっしゃいます。
うっし、無賃乗車。
「あのう〜。たびたびで申し訳ないのですが、霧社についたらひと声・・」
「大丈夫!今度は忘れないから」
苦笑しながらギアを入れると、バスはぐらぐら左右に揺れる山道を下っていきます。 -
「小姐、到了」
ほどなく。
バスの運転手さんが、肩越しに振り向きます。
「しぇしぇ、にー!」
元気よくバスを降りると、そこはやはり往きの車窓越しに「ここかな?」と感じた小さな集落。
つ、ついに、来たんだ・・!!!! -
きっかけは、2008年5月4〜6日に幕張でおこなわれた『九条世界会議』で上映された、『出草之歌』というドキュメンタリー。
台湾原住民による靖国訴訟と、現代台湾社会での権利回復が主題でした。
それまで、美食と人情と風土&大好きなトニー・レオンの『悲情城市』のノスタルジックな風景しか追ってこなかった台湾に、別の世界を見た瞬間でした。
あれから、4年。
ガイドブックの片隅でしか知らなかった、霧社事件の現場へついに足を踏み入れたのです。
この日は8月27日。
夏休みの都合さえついてたら、ちょうど2ヵ月後の10月27日に来たかったんですけどねー。
1930年10月27日、日本の植民地統治下で苦しめられていた、霧社の台湾原住民マヘボ社の頭目、モーナ・ルーダオを中心とした抗日蜂起が勃発しました。
10月27日から11月下旬までの、約1ヶ月間。
抗日に立ちあがった部族の人々は、日本警察官隊・軍隊および日本側についた原住民を相手に戦いました。
その火蓋が切っておとされた、『霧社事件』勃発の現場に立っているのです。 -
まずは謝罪と敬意を持って、原住民蜂起のリーダーとなったモーナ・ルーダオさんの墓参りをしとくか、とおなじみのガイドブックを頼りに、バス停そばのY字に別れた小道を右手に下っていったのですが〜。
めっちゃ行き止まりではないか、ユー!!
「もォ〜!迷い方め〜っ」
ぶちぶち文句言いながら、今度は左側へ。
事件があった学校と、事件の記念碑が建つ公園がこの道の先にあるハズ。 -
お。
公園発見。 -
ありました。
『霧社原住民抗日群像』です。 -
こんなに日本人がたくさん来ている台湾に、こういった戦跡があることを知っている人がどのくらいいるのかな、と少し悲しい気持ちになります。
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台湾国内の旅行者さんらしき御夫婦に、自分写真のシャッターを押してもらいつつ、辺りを散策することにします。
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一人旅は、自分写真が難しいのだ。
「日本人だと知れると危ないですよー」と地元の方からアドバイスされた地域で日本語をしゃべるのを躊躇していますが、実際その場所に行ってみて「やばいなー」という経験は、個人的にはありません。
台湾人らしき御夫婦も、快くシャッターを押してくださいました。 -
ガイドブックの地図がイマイチあてにならないので、地元の案内図をチェック。
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航空写真と、霧社事件の関連施設の記載された案内板。
これによると〜! -
じゃん☆
モーナ・ルーダオさんのお墓はこの公園内にあるんですー。 -
つか、『霧社原住民抗日群像』のすぐ横に。
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お墓の前のモーナ・ルーダオ像。
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証言集などを読むと、とても背が高く知略に優れた人物と表現されるモーナ・ルーダオさん。
写真も残っています。 -
銅像のお顔は、頑固親父っぽい。
(写真だともっと優男風のお顔立ちだったようなー?) -
青年期に日本本土に連れて行かれ、武力の差を嫌というほど見せ付けられ、じっと我慢し部族の不満を抑えてきた、モーナ・ルーダオ。
そんな彼が耐え切れずに武力蜂起するほどの、日本人たちの行動がどういったものだったかは、事前に読んだ証言集の中で異口同音に語られていました。
女性に対する性搾取や、生存を脅かすほどの重労働、資源の簒奪、部族言語や習慣の否定と『日本化』の強制など、中国や韓国、東南アジアの島々で耳にしたような出来事が、この静かな山々の奥深くで歴然と行われていた事実に、この地に残る日本の罪深さを感じます。 -
えーと。
これが、お墓かな?
手を合わせます。 -
日本警察隊などによって、原住民蜂起が虐殺にちかいカタチで終結を迎えても、モーナ・ルーダオは見つかりませんでした。
捜索が打ち切られた、霧社事件から4年後の1934年(文献によっては33年)。
彼の遺体が山中の洞窟から発見されます。
モーナ・ルーダオの亡き骸は驚くべきことに、日本側によって『展示公開』されます。
この事実は、以前『人体の不思議展』に感じた嫌悪感と同様の残酷な出来事だと思います。
ところが、このあと遺体はふたたび行方不明となり、のちに -
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この旅行記へのコメント (8)
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- ElliEさん 2013/05/31 14:32:55
- その勇気に10票差し上げたいです
- きっちーさん、はじめまして。
日本人が何をしたか、知らなかった戦争の真実を直接確かめたいというきっちーさんの勇気に感動しました。
10票でも20票でも投票したい気分ですよ。
霧社事件については、台湾のテレビドラマで見たことがあります。
中国語がイマイチわからないので不完全な理解でしたが、その後自分で調べたりして、教科書には載っていない事実に驚愕しました。
でもこの眼で見ようと実際に行ってしまうきっちーさんはすごいですね。
しかも一人旅で!
中国通らしいきっちーさんですが、歴史に関する場所をあちこち旅していらして、もしかして研究家さんですか?
こんな風にテーマを持った旅行記はまさに私のツボです。
準備中とのことで、完成するのをお待ちしています。
フォローさせてくださいませ。
- きっちーさん からの返信 2013/05/31 23:10:36
- ありがとうございます!
- ElliEさん、こんばんは。
丁寧な感想を頂きまして、恐縮です。
ありがとうございます!
ノンビリ書いているのでなかなか進みませんが、ガンバリマス!
失敗ばかりの危なっかしい旅ですが、なんとか無事に帰ってこれているのは、100%現地の見知らぬ人たちの親切のおかげです。
なにかの研究家とかそんなではなく、言葉もしゃべれないくせに突っ走る素人旅行好きです(汗)。
かなりジェスチャーや落書き絵での意思疎通なんですけど、どこへ行ってもなんとなく通じるのが面白いですヨ。
台湾は、歴史的には日本がろくでもないことをしたのは間違いなく、それでも親切にしてくださる方が多くて、いろいろ頭が下がる思いでした。
霧社事件は、私も台湾のドキュメンタリーや『地球の歩き方』といったガイドブックのコラムでしか知らなかったのですけど、今回の旅の前に本屋さんで少ないながらも事件を取り上げた書籍を読んで、あらためてショックを受けました。
じっさいにまわってみると、現在は戦時中の悲劇を伝える地元観光地といった雰囲気です。
台湾はインフラがかなり良く、初めてでもアクセスは思ったより簡単でしたので、機会がありましたら足をお運びください☆
わたしは下戸なので見るだけでしたが、霧社のふもとの埔里はお酒が有名なようで、観光バスがガンガン来てましたし、嗜まれるようでしたら是非v
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- Takeさん 2013/05/08 12:35:39
- お初です
- 台湾に関わった牧師が就任したので、台湾熱におかされまして(笑)、12年2月に初台湾。 http://take1960jan.blog81.fc2.com/blog-entry-2427.html
その時の予習で知った霧社は次に訪れる最有力候補でして、その思いは過日見たセデック・バレでますます高まっています。
旅日記はたとえ同じところに行っても、その目的がどうであるか、何を見聞したいのか、によって大きく違いますが、きっちーさんのお話はまさに自分のためのガイドブックのようでした。大いに参考になりました。
2008年の9条会議は、ピースウォーク実行委員として地元(4月23日)には参加したものの、そのまま連れの温泉療養で秋田玉川温泉に行ってしまったので参加できませんでした。が、そのなかで台湾の問題が提議されたと聞いてこちらにも関心を持ちました。
またいろいろとご教授いただくこともあろうかと思いますがその節はよろしくお願いいたします。
- きっちーさん からの返信 2013/05/08 22:49:35
- RE: お初です
- Takeさん、こんばんは。
御感想を頂きまして、うれしいです。
ありがとうございます。
台湾旅行記、拝見しました。
ご、ごはんが美味しそうですね・・っ!!
交流もあって楽しい御旅行だったのが伝わってきました。
今回の旅行のきっかけは、靖国訴訟の本を読むなかで台湾原住民の方々の訴訟を知り、旅行ガイドブックの『霧社事件』を斜め読みしていただけだったので、九条世界会議での台湾の方たちの視点で撮られたドキュメンタリーが一番おっきかったですね。
あのなかで、日本の支援団体の人が原住民の方の言葉を靖国側の人に日本語に訳すシーンがあるのですが、どうも意訳している部分があって。
前提として日本側の植民地支配時代の弾圧という、ゆるぎない事実があるわけですし、原住民の方たちに寄り添いたい気持ちはわからないでもないですけど。
訳される方の想いで、原住民の皆さんの言葉を変えてしまうのは誠実じゃないような気がして、「実際に現地に行って自分で確かめたい」とずっと思っていました。
霧社では、初対面なのにいろんな方が助けてくださって、心に残るひとり旅になりました。
また、機会があったら訪れてみたいと思っていマスv
Takeさんの再訪も、さらに楽しい旅になるといいですね。
ありがとうございました!
きっちー
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- 哈桑湖さん 2013/01/06 16:28:55
- 霧社は、平和なんですね
- きっちー様
霧社に行かれたんですね。すごく平和に見えます。
あの霧社事件のあったところには、見えないですね。
台湾人の親日感情には、私自身も多少不思議なところがありますが。
戦前に台湾にいた日本人によると、台湾の植民地経営は黒字で、ここであげた利益の半分を、赤字の朝鮮の植民地経営に充てていたと。
当時、日本人が朝鮮人にとっていたような態度を、台湾人にはしなかったようです。戦前に台湾人の留学生が、日本本土で、朝鮮人に対する差別的な態度で、ショックを受けたようです。
末端の日本人、台湾人同志は、平穏に生活を営み、台湾人男性と日本人女性の結婚は、かなりあったようです。日本人女性は、高嶺の花だったようです。
蒋介石一派の国民党の連中が日本敗戦と同時にやってきたのですが、だらしない敗残兵の恰好で上陸してきて、官憲の腐敗が目に余ったようです。
この国民党の腐敗に対して、犬(日本)が去って、豚(中国国民党)がやってきた、とささやかれました。
ヤミタバコの販売をしていた老婦人を、国民党の警官が暴行を」加えたことに発して、台湾全土で、台湾人による暴動が発生しました。
このときの国民党政府の弾圧が、すさまじかったのです。こんなことなら、まだ日本統治下の方がよかったと言われたようです。またこの事件を境に、
台湾人は中国人ではない、という意識を持つようになったようです。
テレビに出てきて、南京事件は無かった、従軍慰安婦の軍の関与は無かった
靖国に参拝しろとおっしゃる、元台湾人で、現在日本国籍を取られた、保守派の著名な論客のせんせい、台湾人からはあまり好かれていないようです。
- きっちーさん からの返信 2013/01/06 17:57:51
- 霧社に移り住んだ人々
- 二・二八事件ですね。
記念館のある二二八和平公園には、2度行きました。
あそこを訪れる日本人は多いようで、日本語を話すお年寄りやお店の人に親切にしてもらった思い出がある場所です。
「日本は台湾統治に際して、朝鮮や中国人にしたような態度を台湾人にはとらなかった」というのはよく語られますが、私はそう思っていません。
今回の旅のメインテーマだった『霧社事件』が起こる前段で続けられていた、台湾原住民に対する日本人の行為は、中国や韓国で日本による強制労働や搾取といった、よく耳にした振る舞いと全く変わらないものでした。
*道らしい道のなかった霧社などの山間部に道路建設を行う際、義務出役や農耕期の使役がおこなわれ、収穫が死活問題になる原住民側に多大な負担を強いた。
*また支払われるはずの賃金も、支払いが遅れがちなうえピンはねが常習化していた。
台湾人男性と日本女性の結婚というのは、某有名俳優さんくらいしかよく知らないんですけども〜(汗)。スミマセン。
ただ、日本人男性と原住民女性の「結婚」はいろんな証言の中で語られていました。
日本人男性と台湾人(原住民)女性の「結婚」は霧社でもおこなわれましたが、正妻でなかったり、パワーゲームの道具として女性が使われ、用が済めば一方的に婚姻解消されたりと、実態は言葉通りの「結婚」とは程遠いものだと感じます。
*「結婚」はしたものの籍に入れることはなく台湾での家族を捨て、正妻(日本人)とともに日本へ帰国した警部補
*日本人による原住民の女性へのレイプ事件があっても、日本の巡査へ抗議することは出来ず泣き寝入り
*日本人のレイプによって原住民女性に子どもができると、産んですぐ川へ捨てるものの、その後コミュニティーのなかで嫁ぐことが出来ず、一生独身で過ごすことになった
「*」は日本で出版されている『霧社の反乱・民衆側の証言』であつめられた、台湾原住民の方たちの証言です。
こういった原住民側の証言を読めば、現在の結婚に含有される「両性の合意に基づく、対等なもの」と比較しても、根本的に「両者は婚姻関係だった」とか、「日本人の態度は中国や朝鮮半島でのとは違っていた」、とするのには疑問がある内容でした。
霧社事件のあった霧社地域は、旅行記ではまだくわしく書けてないんですが、蜂起した人々は居留地に移住させられ、かわりに日本側についた人々に土地が与えられたという経緯がありますから、事件現場ではあるのですが、住民感情はちょっと違った面があるのかもしれませんね。
書くのが遅いので、イタリア旅行記も止まっていますが(汗)、地道に書き終えたいものです。←今年も(!)目標
ではでは〜。
- 哈桑湖さん からの返信 2013/01/14 18:44:11
- 人を褒めるには裏があるかもですね」
- > きっちー様
台湾については、少し無知でした。
台湾上陸の際に、日本軍と台湾の住民との、激しい戦争だったようですね。
台湾人がこのときに、1万5000人死亡したようですね。
先の大戦では、日本はアジア各国で、流血の惨事を引き起こしたと信じていました。
ところが、テレビで金美齢女史が,日本の植民地支配を肯定し、また先の大戦を肯定されました。
なるほど、そのような面もあったのかと、思ったものです。
ところが、あまりにも旧日本軍を肯定するので、不思議だなあと。
また金美齢女史は、南京事件を否定しています。
でも、この南京戦に参加した、元日本軍兵士の何人かと、直接話したことがあります。
彼らは「ともかく食べ物がなかった。
自分たちですら食べ物がないのに、捕虜にやれるはずがない。」と。
友人が「うちの祖父は、銃弾が不足していたので、中国人捕虜を、刀で始末した、だから夜中にうなされている」こんな話も。
この金美齢女史、「従軍慰安婦に軍の関与がなかった」とも。
軍医だった方の証言として、「軍医が管理していたのに、軍の管理がなかったはずがない」と言っています。
この金美齢女史、派遣切りにあった若者に、「日本の若者は甘えすぎ」このように、面と向かっておっしゃっていました。私はこの一言で、彼女に対する見方が、変わりました。
台湾人で、日本の植民地支配を肯定する人は、中国と日本との分断を図るひとで、背後にはアメリカのCIAがある、このように言う友人がいます。
台湾人留学生が、私の大学にいましたが「台湾軍の体罰は、かつての日本軍が残したものだ。上官に何度殴られたか。無理な命令でも、反対はできない。台湾軍は、日本軍と同じだ」と、徴兵時代の思い出を語っていました。
日本軍に対するイメージは、良くなかったんだなあと、そのときは思いましたが。
それにしても、尖閣、竹島には、反中、反韓を叫ぶのに、米兵による沖縄での婦女子の暴行事件、大半はノーコメントですね。
自称愛国者なんてものは、こんなものかと、笑えてきます。
- きっちーさん からの返信 2013/01/15 19:44:15
- 金美齢さん
- 哈桑湖さん、こんばんはー。
金美齢さんの発言は初めてうかがいました。
まあ、こういった方の発言が受け入れられやすい土壌が日本側のメディアにあることが、そもそも情けないようなような〜(汗)。
大きな書店には、植民地時代の暗部を追及する書籍(日本語訳)があるの
ですけれど、そっちは作家さんも含めて映像メディアでもあまり紹介されませんよね。
情けないことですー。
今月の沖縄行きに際して、沖縄戦の本をいくつか読みましたが、沖縄にも「慰安所」が非常に多くあり、那覇市だけでも18ヶ所の慰安所が確認されています。
ほかにも座間味2ヶ所、渡嘉敷1ヶ所など、日本軍が駐留わずか2ヵ月後に住民の家を接収し「慰安所」をもうけたという住民証言もありました。
17ヶ所の「慰安所」があった宮古島では、戦後日韓の有志により日本軍「慰安婦」の碑が建立されています。
(第10回特別展カタログ『軍隊は女性を守らない 沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』wam より)
お参りしてきたいんですが、宮古は結構離れているので今回は無理かなー(涙)。
沖縄では、九州・沖縄・朝鮮半島の女性達が連れてこられており、内務省・警察は犯罪(刑法で罰せられる)であることを認識していながら、軍の「必要」のために目をつぶっていました。
すでに1937年大審院(現在の最高裁にあたる)で、上海の海軍慰安所へ女性を騙して連れて行ったことが、犯罪として認定されていました。
慰安所の設置計画・立案、業者の選定・依頼・資金旋、女性集め、輸送、慰安所管理など、全面的に日本軍が管理運用していたことは、『陸軍省副官通牒 軍慰安所従業婦等募集に関する件 1938.3.4』『内務省警保局 支那渡航婦女に関する件伺 1938.11.4』などの日本側の資料でもあきらかにされてきました。
(『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』 かもがわ出版)
哈桑湖さんの書かれていた、軍医さんの証言を裏付けるものは、「慰安婦」にされた女性(少女・幼女を含む)達や日本軍資料のみならず、住民の人たちの証言にも出てきます。
沖縄では、現地の方にお話を伺う機会も持てそうなので、現状(米軍基地問題)も含めて、聞いてこようとおもいまーす!
問題は、交通です。
沖縄フィールドワークのため、半年ぶりにハンドル握ります。
さすがに雪は降ってないでしょうが(笑)。
雨でもこわいよー。晴れでもやばいよー。
そんな、沖縄行きです・・。
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