2012/03/17 - 2012/03/17
1365位(同エリア2037件中)
滝山氏照さん
東京都八王子市にも花街があります。
JR中央線八王子駅北口から放射線状に歩く即ち「ユーロード」の途中から左へ路地を入ると黒塀の建物が見えます。
歴史は古く、八王子は甲州街道に沿って横山宿、八日市宿、八幡宿を含め15を配する宿場町であり、併せて織物産業が盛んであったという当地の歴史的背景があります。
とりわけ明治時代には織物を求めて全国各地から商人が買付けにきますが社交場として料亭が造られ、それと共に接待のために芸者が集まり花街が形成されます。
昭和4年(1929)には芸妓150名、料理屋14軒、待合36軒、桶屋39軒の規模だったそうですが太平洋戦争が始まりますと華美遊興は禁止され休業、更に八王子空襲により打撃を受けます。
戦後は洋服の需要が拡大するにつれて八王子の花街も復興発展し、芸妓215名、料亭45軒と隆盛を極めます。
しかしながら昭和30年代には織物業の衰退と共に芸妓並びに料亭の数が減少し、平成9年(1997)には芸妓14名、割烹料亭11軒となって花街の歴史が風前の灯火の状況となります。
これに対し地元中町商店会では八王子花街・黒塀通りを保存する協議会を結成、花街の伝統を宣伝し芸妓さんたちも技芸を披露するために種々イベントに参加しています。
2022年7月18日追記
黒壁通りの一角に掲示されている説明板には下記の通り紹介されています。
『 八王子花街・黒壁通り
八王子花柳界は地場産業の織物の発展と共に明治初期から旦那衆の接待や、宴会用として料理屋・芸者桶屋の二行が成立し、生まれました。その後、明治30年に大火に見舞われたのを機に遊郭は田町に移転し、花街は「中町」周辺に集約されました。地場産業の織物の生産は、明治・大正と発展し、仲買人等の交流盛んになるのと共に花街は益々繁盛し、大正末期には150名ほどの芸妓数を持ち「料亭」・「待合」・「芸者置屋」の三業で成り立つ三業組合「見番」も出来ました。
太平洋戦争末期に大空襲を受け一面焼け野原になってしまいましたが、戦後の復興期には織物業が大発展を遂げ、それと共に花街も最盛期を迎え、昭和27年には芸妓数が200名を超えましたが、その後織物業の衰退と共に減少の一途を辿りました。
そこで今、地元町会としましては、時代と共に薄れゆく大正・昭和初期の街並み情緒を復活させるべくだ一歩を踏み出しました。
中町鳥海・中町商店街
中町地区まちづくり協議会 』
- 交通手段
- 徒歩
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この旅行記へのコメント (1)
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- 横浜臨海公園さん 2012/08/04 20:56:42
- 八王子花街
- 滝山氏照さま、こんばんは。
八王子市は、昭和20年(1945年)8月に1回の空襲で市内被災率95.5%と言う全国で最大の被害を受け壊滅してしまいました。
因みに、八王子に続き福井市が93%、長岡市が90%、広島市が89%と続きます。
空襲被災建造物が現存する事は存じておりましたが、黒塀通りが被災もせずに残存している事を初めて知り得ました。
横浜臨海公園
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