板橋旅行記(ブログ) 一覧に戻る
下総国守護大名とされた千葉氏の内乱によって亥鼻城(いのはなじょう)を追われた千葉実胤(ちば・さねたね、1442~1466)自胤(よりたね、1446~1494)兄弟は扇谷上杉氏執事の太田道灌(おおた・どうかん)の支援を得て鎌倉道に近く荒川の南側の丘陵地に築いた赤塚城(あかつかじょう、東京都板橋区赤塚)を訪問しました。 <br />                                          15世紀半ば、室町幕府の関東統括機関、鎌倉府の公方と公方を補佐する管領職上杉氏との主導権争い(享徳の乱)に関東一円の豪族はどちらに与するのか旗色を鮮明にせざるをえない状況に置かれます。<br /><br />その中で代々下総の有力武士団で下総守護の千葉氏宗家である千葉胤直(ちば・たねなお、1419ー1455)は上杉方に加わり、公方軍と戦います。<br /><br />ところが千葉氏内部では一族の馬加康胤(まくわり・やすたね、1398?ー1456)並びに原胤房(はら・たねふさ、生誕不詳ー1471)が公方方につき宗家本拠である千葉城を攻撃、千葉城は落城し胤直は嫡男共々自害、ここに千葉氏宗家は滅亡します。<br /><br />これに対し管領上杉氏は胤直の弟胤賢(たねかた、生誕不詳ー1455)の子、実胤(さねたね)並びに自胤(よりたね)を千葉氏嫡流家として取り立て市川城にて公方軍の進撃を阻止しますが耐えられず武蔵国に逃れ、上杉氏に庇護を求めます。<br /><br />赤塚城に拠点を置いた千葉自胤は、太田道灌支配下の軍として各地を転戦し功を挙げ赤塚城周辺に自領を足立区や大宮まで拡大する一方、道灌の導きによりかつての千葉氏宗家の回復攻略を試み臼井城を落城させますが同地に支持勢力を持たなかったこともあり結果いかんともしがたく、回復を諦め以降武蔵千葉氏としての道を固めます。<br /><br />道灌死亡後は北進する新興勢力小田原北条氏により江戸城が北条氏の手に落ち、これを機に小田原北条氏軍門に降り、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐までその勢力を持ち続けました。<br /><br />皮肉にも千葉宗主家を継承した馬加千葉氏もその後自領を維持する事ができず、やむなく小田原北条氏康(ほうじょう・うじやす)の娘を迎え姻戚関係を結ぶことで北条氏の勢力下に置かれ上述の豊臣秀吉による小田原征伐を迎えます。<br /><br />地勢的には東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地状となっている城郭跡がほぼ南北に広がり、その北側は一段低くなってそこにはかつては水堀の一部が大きな池となって、傍らには板橋区立郷土資料館並びに同区立美術館があり、池の向こうには高速道路が東西に走っています。<br /><br />城郭跡を含め一帯は公園化され、歴史的遺構は殆ど見かけず、道路から城郭に向かう途中に土塁・空堀が見られる程度となって全体としての見所が少なくやや落胆した気持ちは隠せません。<br /><br />然しながら二郭にあたる城郭の東側は広い梅林となっており、訪問した日は梅の花の見ごろで近隣の人たちが三々五々来園があり予定外の喜びでした。<br /><br /><br /><br />2023年5月16日追記<br /><br />公園化された現地説明板には下記の通り喜寿されています。<br /><br />「 武 蔵 千 葉 氏 と 赤 塚 城 跡<br /><br />下総に守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正2年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉氏の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入場しました。<br /><br />寛正4年(1466)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。<br /><br />その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年(1590)まで勢力を振るいました。<br /><br />城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかとなっていません。<br /><br />   平成13年3月<br />               板 橋 区 教 育 委 員 会 」

武蔵板橋 道灌ゆかりの地を訪ねる・一族内乱で追われた千葉氏嫡流が扇谷上杉氏の執事太田道灌の支援を得て武蔵千葉氏として復活の拠点『赤塚城』訪問

6いいね!

2012/03/12 - 2012/03/12

155位(同エリア247件中)

0

20

滝山氏照

滝山氏照さん

下総国守護大名とされた千葉氏の内乱によって亥鼻城(いのはなじょう)を追われた千葉実胤(ちば・さねたね、1442~1466)自胤(よりたね、1446~1494)兄弟は扇谷上杉氏執事の太田道灌(おおた・どうかん)の支援を得て鎌倉道に近く荒川の南側の丘陵地に築いた赤塚城(あかつかじょう、東京都板橋区赤塚)を訪問しました。 
                                          15世紀半ば、室町幕府の関東統括機関、鎌倉府の公方と公方を補佐する管領職上杉氏との主導権争い(享徳の乱)に関東一円の豪族はどちらに与するのか旗色を鮮明にせざるをえない状況に置かれます。

その中で代々下総の有力武士団で下総守護の千葉氏宗家である千葉胤直(ちば・たねなお、1419ー1455)は上杉方に加わり、公方軍と戦います。

ところが千葉氏内部では一族の馬加康胤(まくわり・やすたね、1398?ー1456)並びに原胤房(はら・たねふさ、生誕不詳ー1471)が公方方につき宗家本拠である千葉城を攻撃、千葉城は落城し胤直は嫡男共々自害、ここに千葉氏宗家は滅亡します。

これに対し管領上杉氏は胤直の弟胤賢(たねかた、生誕不詳ー1455)の子、実胤(さねたね)並びに自胤(よりたね)を千葉氏嫡流家として取り立て市川城にて公方軍の進撃を阻止しますが耐えられず武蔵国に逃れ、上杉氏に庇護を求めます。

赤塚城に拠点を置いた千葉自胤は、太田道灌支配下の軍として各地を転戦し功を挙げ赤塚城周辺に自領を足立区や大宮まで拡大する一方、道灌の導きによりかつての千葉氏宗家の回復攻略を試み臼井城を落城させますが同地に支持勢力を持たなかったこともあり結果いかんともしがたく、回復を諦め以降武蔵千葉氏としての道を固めます。

道灌死亡後は北進する新興勢力小田原北条氏により江戸城が北条氏の手に落ち、これを機に小田原北条氏軍門に降り、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐までその勢力を持ち続けました。

皮肉にも千葉宗主家を継承した馬加千葉氏もその後自領を維持する事ができず、やむなく小田原北条氏康(ほうじょう・うじやす)の娘を迎え姻戚関係を結ぶことで北条氏の勢力下に置かれ上述の豊臣秀吉による小田原征伐を迎えます。

地勢的には東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地状となっている城郭跡がほぼ南北に広がり、その北側は一段低くなってそこにはかつては水堀の一部が大きな池となって、傍らには板橋区立郷土資料館並びに同区立美術館があり、池の向こうには高速道路が東西に走っています。

城郭跡を含め一帯は公園化され、歴史的遺構は殆ど見かけず、道路から城郭に向かう途中に土塁・空堀が見られる程度となって全体としての見所が少なくやや落胆した気持ちは隠せません。

然しながら二郭にあたる城郭の東側は広い梅林となっており、訪問した日は梅の花の見ごろで近隣の人たちが三々五々来園があり予定外の喜びでした。



2023年5月16日追記

公園化された現地説明板には下記の通り喜寿されています。

「 武 蔵 千 葉 氏 と 赤 塚 城 跡

下総に守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正2年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉氏の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入場しました。

寛正4年(1466)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。

その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年(1590)まで勢力を振るいました。

城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかとなっていません。

   平成13年3月
               板 橋 区 教 育 委 員 会 」

交通手段
私鉄 徒歩
  • 赤塚城跡公園・入口<br /><br />なだらかなスロープの左右には城跡の雰囲気が漂っています。<br /><br />

    赤塚城跡公園・入口

    なだらかなスロープの左右には城跡の雰囲気が漂っています。

  • 深い谷間<br /><br />偽木の奥には急峻な谷が控えています。

    深い谷間

    偽木の奥には急峻な谷が控えています。

  • 土塁の一部

    土塁の一部

  • 堀底から城郭を見る<br /><br />整備されてなだらかな勾配となっています。<br /><br />

    堀底から城郭を見る

    整備されてなだらかな勾配となっています。

  • 城郭広場<br /><br />主郭に相当する広場は芝生が敷かれ公園となっていますが、北端には微かですが土塁が確認されます。<br /><br />

    城郭広場

    主郭に相当する広場は芝生が敷かれ公園となっていますが、北端には微かですが土塁が確認されます。

  • 主郭広場

    主郭広場

  • 主郭からの展望<br /><br />すぐ下には東西に長い池が見えますが、釣堀を楽しんでいる年配の方々がいます。<br />更に向こうには高速道路が走っています。

    主郭からの展望

    すぐ下には東西に長い池が見えますが、釣堀を楽しんでいる年配の方々がいます。
    更に向こうには高速道路が走っています。

  • 赤塚城跡石碑

    イチオシ

    赤塚城跡石碑

  • 赤塚城跡石碑

    赤塚城跡石碑

  • 赤塚城跡公園案内図

    赤塚城跡公園案内図

  • 城跡の梅林

    城跡の梅林

  • 城跡の梅林<br /><br />

    城跡の梅林

  • 梅の花

    梅の花

  • 主郭から池方面へ<br /><br />足場の悪い階段を降りて池に向かいます。

    主郭から池方面へ

    足場の悪い階段を降りて池に向かいます。

  • 赤塚溜池<br /><br />赤塚城のある台地を下りますと溜池があります。訪問時には釣り人が楽しんでいます。かつてはこの溜池は赤塚城の外堀だったとされます。

    赤塚溜池

    赤塚城のある台地を下りますと溜池があります。訪問時には釣り人が楽しんでいます。かつてはこの溜池は赤塚城の外堀だったとされます。

  • 板橋区立郷土資料館<br /><br />あいにく休館日でした。

    板橋区立郷土資料館

    あいにく休館日でした。

  • 特別企画展示ポスター<br /><br />「大名とその家臣団の備え」とあります。入館できず残念!

    特別企画展示ポスター

    「大名とその家臣団の備え」とあります。入館できず残念!

  • 空堀の一部

    空堀の一部

  • 空堀の一部

    空堀の一部

  • 赤塚城跡周辺地図

    赤塚城跡周辺地図

この旅行記のタグ

6いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP