2012/03/07 - 2012/03/07
1608位(同エリア3047件中)
滝山氏照さん
大岡越前守忠相(おおおか・えちぜんのかみ・ただすけ、1677ー1751)は江戸時代を代表する江戸町奉行です。
享保元年(1716)に紀伊藩主吉宗が第8代将軍に就くと、かねてから伊勢国山田奉行として厳正なる裁きをしている忠相を江戸町奉行に抜擢します。
忠相が江戸町奉行に任命された時、北町奉行でしたが、2年後にその奉行所(数寄屋橋)が南町奉行と改名されて、南町奉行として活動します。
町奉行所は北と南が月交代ですが、その休みの月でも調査や報告書作成にあたり実質は常時仕事をしている状態ですから、その責任者たる者の多忙たるや一言では表現できない事だったと思われます。
忠相は江戸町奉行を20年、社寺奉行を15年勤め、寛延元年10月に1万石に加増し三河国大平の大名となります。
寛延4年、病気により社寺奉行を辞し、同年6月に将軍吉宗が亡くなると後を追うように12月に死去します。
江戸町奉行は現代で言うと都知事と裁判官の一人二役ですから相当重要でハードな職務であります。
月番の奉行は午前10時に登城し、午後2時に下城のあと、役宅に戻り吟味・訴訟を行います。非番の奉行は、月番の町奉行へ寄って連絡事務をとったり、午前中に登城して老中と打ち合わせ報告をしたりで休む暇はほとんどない状況です。
そんな中で江戸町奉行であった大岡忠相の屋敷跡が裁判所とか弁護士会館近隣に存在していた説明文を見て偶然だったのかどうだったのか一瞬頭をよぎります。
2023年5月17日 追記
「将軍と側用人」講談社現代新書 大石慎三郎 著 には次のように
大岡忠相について紹介されています。
(167ページ5行目)
「大岡忠相は延宝5年(1677)幕府旗本である大岡美濃守忠高の4男として生まれた。将軍吉宗が貞亨元年(1684)生まれであるから、主人より7歳年上になる。母は北条出羽守氏重の娘で、忠相は男6人女4人の10人兄弟のうちの第7子であったが、兄1人が若死にしているので3男と記されている書物もある。江戸で生まれたと考えられるが、その月日は不明である。名は忠相の他に、求馬とも市十郎とも、また忠右衛門ともいった。貞亨3年(1686)、忠相10歳の時に同族である大岡忠真の所に養子に入った。この頃、実父忠高は奈良町奉行として2700石を知行し、養家の父忠真は御徒頭として1420石を知行していたから、実家・養家ともに高級旗本だったといえる。
系図が消失しているため詳しくはわからないが、大岡家の祖先は摂政関白九条教実の庶子で教実の弟の頼経やその頼嗣が鎌倉時代に北条氏に擁立されて鎌倉に下った際に彼らに従ったが、やがて頼嗣が京都に帰ったため、大岡家の祖先は九条家の荘園のある三河国吉良西庄に隠退したらしい。その子孫が同国碧海郡大岡村に移り、村名を取って大岡氏を名乗ったといわれる。
数代の後、大岡助勝という人物が出るが、彼を大岡家では初代とし、中興の開祖としている。助勝は徳川氏の祖とされる松平清康・広忠の2代に仕えたが、特に広忠のおぼえがめでたかったため、その名の一字を貰って名前を忠勝と改めた。この時以来、大岡家にあっては、名前の一字に「忠」を用いる習わしになったといわれている。
忠勝の子忠政も徳川家康に忠勤をはげみ、家康の関東移封に従って関東に移り、知行地として相模国高座郡堤村(現神奈川県茅ヶ崎市堤)に380石を与えられた。これが以後の大岡氏の伝領となる。忠政の時に大岡家は3家に分かれるが、忠政の第4子忠吉の家が忠相の実家であり、第3子忠世の家が忠相の養家である。
大岡忠相は元禄13年(1700)、24歳で養父の遺領1920石を継ぐ。彼の幕府における役職の最初は御所院番で、次が御徒頭、さらに御使番から御目付に進んだ。大岡忠相は正徳2年(1712)には伊勢の山田奉行に転じるが、この時、紀州藩主をつとめていた吉宗の目にとまった。そして、吉宗が将軍になった直後の享保2年(1717)、御普請奉行から江戸町奉行に取り立てられ、以後20年にもわたってこの重要な役職を務めるのである。」
(168ページ最終行)
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
滝山氏照さんの関連旅行記
銀座・有楽町・日比谷(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
5