2012/02/05 - 2012/02/09
1355位(同エリア1873件中)
明石DSさん
ここからの早朝の眺望も見納めか
部屋は古くてエレベーター待ちは長いけど
満足の四泊だった
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5日目:2月9日(木):晴
マニラ〜関空:帰国
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2012/平成24年2月9日(木)
■帰国の朝
あっという間のマニラ五日目の朝を迎え帰国の日になった。今朝も早朝から眼が覚め湯量タップリの温水シャワーを浴びて出かける準備をする。11時15分にはホテルロビーで「アティックツアーズ・マニラ支店」のMさんと待ち合わせ空港まで送ってくもらう。
“MPT・ホテル”の30階からの眺望は最高だった。この部屋からマニラの風景を毎日見ていたから、MOAの高さ55メートルの観覧車からの景色がホンマにつまらなく感じた。建物古く2基のエレベーターの待ち時間は長いが、景色良く部屋広くシャワーの温水湯量タップリで私には十二分のホテルだった。
今日は帰国の日で、マニラ:14:40(発)PRO408便で関空へ。マニラ最後の観光予定は、フィリピン空軍博物館。ここに「小野田寛郎さん」の潜伏中の所持品などが展示されているのを見ておきたいと思った。
「小野田寛郎さん」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
- 旅行の満足度
- 5.0
-
??ホテルの玄関
-
35階建てのホテルを見上げる
-
両替したペソも余裕だったし
「500ペソ」を「300ペソ」に値切っただけで乗った
正味100ペソの距離だろうけど
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■フィリピン空軍博物館へ
行くにはまだ朝早かったが、向こうに着いてそこらをブラブラすれば良いと思って7時前にホテル近くからタクシーに乗った。乗る時に行き先を告げたら運ちゃんが「500ペソ」というので、「えっ?そんな遠いか?」と思ったが今日帰国で、昨日両替してペソもまだ余裕があったし乗り換えも邪魔臭いと思って「300ペソならOK」と言ってしまった。
実際、10分ほどで到着し100ペソもしない距離だと思ったが仕方なし。しかしこの運ちゃん、博物館に行くには空軍基地のゲートを通る。その通過の交渉をしたので「500ペソくれ」と言う。確かにゲートを通るとき“運ちゃん”は車を降りて警備員と何か話をしていた。しかし、ふざけやがってええ加減にしろ!と300ペソを渡して降りた。こんなタクシー最初に乗り換えるべきだったと反省。
博物館の開館は午前8時、「地球の歩き方」にちゃんと8時と書いてあった。8時か、それでも早いなあ・・・。まだ8時まで30分以上有ったけど、横が空軍航空公園になっており実際に使っていた各種飛行機が展示されている。高射砲のような武器の展示もあったが、飛行機も武器も見てカッコええなと思うけど知識が無いので何も分からず。
ちなみに以下のHPで詳しくこの博物館の内容が記されている。
「フィリピン空軍博物館(Philippine Air Force Museum)」の展示内容
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/philippinesmanila/area112.html
8時になって管理者だけで誰もいない博物館に入って行った。入場は無料。小野田さんの資料の展示もそうだが、昔の写真が結構たくさん展示されており興味深かった。ここでも展示写真を写真に撮る。
小野田さんのことも詳しく知らないが、軍人としてもそうだが人間として、その生き様には敬服する。
「人物探訪:小野田寛郎の30年戦争」
『小野田寛郎(ひろお)は昭和14(1939)年、和歌山の中学を卒業すると、貿易商社に就職し、中国の漢口(今の武漢)の支店に務めた。17歳にして英国製の背広を着て、米国車に乗り、夜のダンスホールに入りびたる日々だった。「あいつはホールで中国娘を口説くために中国語を勉強している」などと言われた。』
自由奔放に生きていた若者が、一旦軍人になればその任務をとことん全うし、復員後も日本人の鏡のような言動でその範を示してくれている。その一つに政府からの見舞金や全国から寄せられた義援金の全てを靖国神社に寄付している。そして“バージさん”曰く「ルバングの村にも多額の寄金をした」そうである。
1922年生まれだから2012/平成24年の今年90歳になられる小野田さんだが、これからも健康に留意し一日でも長生きをしてもらいたい。
8時から45分くらいかけてゆっくり見ていた。そして小学校の低学年の親子連れで学校からの見学なのか、そんな一団が入って来るのと入れ替わりに外に出た。
隣の空軍公園に出ていた屋台のアイスクリームを食べ、そのあと、豆腐にタピオカ、黒蜜シロップをかけて“タホ(Taho)”というのを食べる。これは初めてで、その時は何か知らなかったけが美味かった。日本でもこれなら十分人気でそうだ。お腹に優しい。安い! -
フィリピン空軍博物館は8時開館
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ジェット戦闘機同士の空戦とは
一体どんな戦いになるのだろう? -
7時過ぎから8時まで
退屈せずにブラブラ過ごせた -
このゲートはタクシーに乗ったまま通過
運転手が警備員と交渉していた
歩いてならパスポートが必要かも -
一番のりで博物館へ
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1955年/ニコルス飛行場
現在:ニノイ・アキノ国際空港 -
1950年/ルネタ公園(リサール公園)
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小野田寛郎さんの展示コーナー
「フィリピン空軍博物館(Philippine Air Force Museum)」の展示内容
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/philippinesmanila/area112.html -
『17歳にして英国製の背広を着て、
米国車に乗り、夜のダンスホールに入りびたる日々だった。』
そんな克己心旺盛の青年だったからこそ
ルバング島での30年があったのだと思う -
人物探訪: 小野田寛郎の30年戦争
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog437.html257Enippon/jogdb_h18/jog437.html
小野田寛郎さんの展示コーナー
http://youtu.be/o_LzdAzY744 -
午前8時46分、子供連れの団体が入って来た
私は交代で退出した -
空軍航空公園
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屋台のアイスクリームを食べ・・・。
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それから“タホ(Taho)”も食べる
美味かった、これなら日本でも人気になりそうに思う -
こんなところで国産飛行機「YS-11A」に出会うとは
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日本航空機製造社の双発ターボプロップ旅客機
一日も早く国産ジェット戦闘機の製作を祈る -
フィリピン軍司令部(HEADQUARTERS PHILIPPINE ARMY)
米軍記念墓地の近くにあった
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■マッキンレーに行く
この空軍博物館で予定終了だったが、まだ11時まで2時間くらいあったので、最後にここからフォート・マッキンレーに行くことにしてタクシーに乗った。
でもこのタクシーが曲者だった。最後の日にタクシーで嫌な思いを連続二回、やはりなかなか楽しいだけで終わらせてくれない。この時は朝の嫌な思いもあるし、タクシーに乗ってすぐに「ユーズ・メーター」と言った。運ちゃんは「ヤー」と言いながらスイッチを押した風には見えなかった。しかし、シフトレバーの上に置いたままの右手がデジタルメーターの前にあってメーターが見えない。
気になってそこに目を何度かやったが、そこから手をのけないので停止するまでメーターは見えずじまいだった。そして10分ちょっと走って米軍記念墓地の前で停まった。その時、運ちゃんが手をどけて初めてメーターの数字が見えた。そこには300の数字が・・・。「くそったれ!」と思ったが、嫌味に思い切り笑顔でサンキューと言って300ペソを手渡した。
その嫌味の笑顔の意味が通じたのだろう。目もあわせずうつむき加減で走り去った。俺は金持ち日本人だ、くれてやる。奴等も生きるためか、これも旅の面白さの一つであり緊張感を持たしてくれる。「騙される奴が悪い」そんな世界も現実には一杯ある。海外旅行はそれを実感さしてくれる。でも大金は絶対ゴメンだ。
前回ここに来た時は“バージさん”と一緒だったから車で入っていった。今回一人で歩いて入ろうとしたら門の警備員に呼び止められパスポートの提示を求められた。空軍博物館に入るのに基地ゲートでパスポートがいるかも?と思って持って来ていたので入ることができた。空軍博物館では運ちゃんが交渉してくれたからか?提出しなかったけどここは身分証が必要だった。
昭和19年10月20日、19日夜から20日に掛けて“神風特別攻撃隊”がマバラカットで編成され、米軍がレイテ島に上陸して来たその20日、マッキンレー桜兵営に山下奉文大将が頼みとする武藤章参謀が夕刻クラーク飛行場に到着し、ここにあった第14軍方面軍司令部に到着した。
武藤章「巣鴨日記」
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=993&forum=9&viewmode=flat&order=ASC&start=110
『山下大将は私の着任を非常に喜ばれた。私は山下大将からシャツ、褌を分けてもらい、一風呂浴びて一息ついた。山下大将は「何もかも駄目だ。よろしく頼む」との事であった。』
「何もかも駄目だ。よろしく頼む」との山下の言葉が全てが物語っている。まさにそんな状態だったのだろう。そのフォート・マッキンレーの今は米軍記念墓地(Manila American Cemetery and Memorial)の周囲も高層ビルが林立し、当時を想像するのも難しい。
空軍博物館の展示写真の中に1954の航空写真が一枚あったが、戦前戦中のこのあたりの写真は、まだ見ていないので分からない。残念だったのは高台のはずなのにマニラ市外が望めないことだ。
9時半:マニラ戦跡巡りの旅はこれで終わった。 -
米軍記念墓地(American Cetery)
一等地にこれだけ綺麗に整備された広大な記念墓地・・・か -
1954年/ボニファシオ・マカティー
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墓苑の入口
周囲には高層マンションが続々と建築中 -
米軍記念墓地
入場の際は身分証明書(パスポート)が必要だった -
北北西方向へ向って歩き始める
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■米軍記念墓地からホテルまで歩いて帰る
そこから方位磁石で“MPT・ホテル”に歩いて戻ることにした。ここから北北西方向がホテル。土地勘がないのでとにかくその方向に向ってひたすら歩く。
「Rizal Dr」→「Oton.St」→を通り、キョロキョロしながらマニラの路地裏?の散策を楽しんで歩いた。でも「Kalayaan Flyover」の高架道路に突き当たり渡る場所が分からず、仕方なく高架道路沿いに渡る場所を探した。ブエンディア(Buendia)駅に歩道橋があって道路の向こう側にやっと行けた。
向こう側が見えるのに渡る場所のないもどかしさを経験した。これじゃあホンマ、川に橋が架かっていないのと同じだ。とりあえず渡れてホッとした。
そして見知った道であるマカティー通りに辿り着き時間内に戻れて一息つく。10時半が過ぎてもまだ道が定かではなく、汗びっしょりでちょっと焦った。記念墓地からホテルまで地図上の全く直線でも4キロある。曲がりくねりながらの帰路だから6キロは歩いただろう。早足1時間20分ほど、ホテルの部屋到着は11時頃だった。 -
Rizal Dr
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フムフム、通りも高級住宅街の雰囲気が
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Oton.St
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「Oton.St」
マニラの裏通りかなぁ〜 -
高架道路があって、道を渡る所がない
道沿いに歩けど向こうに渡れず -
やっとブエンディア(Buendia)駅の歩道橋があり
向こう側に行けた -
フィリピン国鉄(PNR)南方線
ブエンディア(Buendia)駅 -
30階3000号室よ、ありがとう!
ロビーでの待ち合わせ時間「11:15」の1分前
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■ホテルから空港へ
出掛けに帰り支度はしていたので、ともかくすぐにシャワーを浴びて早々に部屋を出る羽目になった。部屋を出たのは11時15分、すでにロビーでの待ち合わせ時間だった。でも下に下りても迎えはまだで待たすことは無かった。そして、やってきたのは初日に世話になったMさんではなく男性ガイドだった。
正午に空港に着き、手際よく出国手続きの案内をしてもらい出国審査に並んで搭乗口{N2}に到着。入国時と同じく手間暇なく「えっ、もう入った」と、あっという間の気がする。マニラから違法薬物を運び出そうとして逮捕されモンテンルパ刑務所に入っている日本人も多くいると聞く。
「バタス 刑務所の掟」藤野眞功(著)も来る前に読んだ。でもこのマニラ空港での入出国を経験して、そのあっけなさに「これじゃあ持ち出そうとしかねないなあ〜」と、逮捕はやはり仕組まれた上でのものなのか??
3700ペソ(日本円7,000円)ほど残っていたので、空港免税店で土産のチョコレートを三箱買う。全部使い切って家に持ち帰ったのはコイン一枚。すでに行方不明。チョコレートはフランス製とデンマーク製、我が家の分はフランス製の分だったが美味かった。
サラバ!マニラ -
蚊取り線香は必要なかった
エアコンもほとんど使わず
エアコンは古くて音はうるさい -
一階ロビーから道を写す
待ち合わせ時間の5分過ぎ、11:20 -
空港到着は12:00
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男性ガイドは手際よく出国カードも用意してくれた
あっという間に搭乗口まで -
残っていたペソで土産のチョコレートを買う
-
搭乗口「N2」
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充実の五日間のフィリピンから日本へ
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帰りの飛行機は空いていた
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■マニラ〜関空へ
14:20分頃搭乗したが、離発着で渋滞し離陸待ちの「大小さまざま」「色さまざま」いろんな飛行機が行儀良く並んでいた。これだけ数多くの飛行機が世界中を飛びまわり、よく落ちないものだといつも感心している。あんまり乗りたくはないけど仕方がない。
マニラ→関空便:PRO 408便は空いていた。私の横に坐った人は、別の空席に移っていった。窓側の座席を頼んだけど帰路の座席Noも「47A」来る時は「41K」で翼の上、やっぱり翼の上。私は翼を見たいのではない。アラヤット山が見たかったのに・・・。しょうがないと諦める。
飛行機は15:18分、約40分遅れて離陸した。
またフィリピンに来ることはあるのだろうか?戦跡ということではいくらでも訪れる場所はあるけど。マニラの人と接してそんな嫌な思いはしなかった。まあ言葉が出来ないので、現地の人とのかかわりが少なかったこともあるだろうが。何となくそんな感じがした。“バージさん”曰く、カトリック教徒がほとんどだからということもあるのだろうか? -
離陸を待つ飛行機で渋滞中
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さらば!マニラ
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フィリピン航空の機内食
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19:40、関空着
着陸時の心拍数はいかほどに
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■無事に帰国
日本時間午後7時40分関空到着。関空からポートアイランドへ午後8時発のベイシャトルに乗るためには、7時50分空港前のバス停に到着しなければと焦る、トップグループで入国審査、そして荷物検査を駆け抜けバス停に走ったが、すでにバスは出た後。万事休す。1時間待ちとなった。
常夏のマニラから真冬の日本、寒さを感じる間もなかったが、ここでやっと寒さを感じた。トボトボと時間つぶしに3階のソバ屋へ。信州そば処「そじ坊」に入り一息つく。そして9時発の船に乗ってポートアイランドに到着。午後9時40分車を運転して我が家に向う。高速道路を使わず国道2号線を走って帰った。 -
20時(発)の??ベイシャトルに乗れず
次は21時(発) -
信州そば処「そじ坊」で蕎麦を食す
ホッと一息なり -
ベイシャトルに乗って関空からポートアイランドへ
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ベイシャトル船内
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神立尚紀(著)
「戦士の肖像」
「零戦隊長 二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯」
「特攻の真意 大西瀧治郎」
神立尚紀氏
1963年生の報道写真家とあるが、上記の著書は元搭乗員たちの取材と一級資料を元にした素晴らしい内容だ。当時の航空隊の雰囲気が良く分かる。 -
ポートアイランドからマイカーで自宅へ
自宅着は午後10時半頃
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■帰宅後から長〜い旅は始まる
無事帰宅から私の旅は始まる。これからが長〜い。
初めての国フィリピン、マニラ。
常夏の国でのんびりしてるのか嫌な思いはタクシーで二回だけ。その他、ヤバイ雰囲気を察して避けたからかも。マニラは大都会の割りに物価は安く、お得感を十分味わえた。もっともチャイナ・タウンやスラムのような下町などは行けなかったら、ごくごく一部の見聞でしかない。しかし「百聞は一見にしかず」、知らなかったフィリピンが身近になった。
ジプニーはマニラの象徴だ。こんなにも多くのジプニーが走っているなんて、ジプニーの極彩色のボディペイントは、それだけで楽しめる。マニラの足、フィリピンの足だ。乗れなかったのが残念だけど、これを乗りこなすにはしばらくの滞在が必要だ。
マバラカットへ行くことになり“神風特別攻撃隊”のことを改めて考える機会を得た。今までで一番本を読み、今までモヤモヤとしていた“神風特別攻撃隊”に関してのいろんな疑問に対しても自分なりに整理が出来た。
戦争は悪なのか???ならば家族を守り国を守るために戦うことも悪なのか?
自分で自分の国を守ろうともせず、外国軍隊の駐留を頼み米国の庇護の下に生きるのが好きなのか・・・。それが終戦後の日本だけど、考えるだけで惨めだ。
今のままで良いと言う日本人にはうんざりだが、そんな奴がまだまだ周りにうじゃうじゃいる。祝祭日に日に丸の旗を玄関に掲げる私は、ごく少数派だ。それが少数派ということこそおかしいと思わないのか?
国あっての自分であり家族ではないのか?もっと自分の国に誇りと感謝の気持ちがあってしかるべきだろう。再生日本を祈る!
了
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