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<br />はじめに<br />これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。 <br /><br />思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。 <br /><br />公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。 <br /><br /><br /><br /><br /><br />目 次<br />(0) 旅たち前 <br />(1) 2月5日(日)関空〜マニラへ出発 <br />(2) 2月6日(月)マニラ市内の散策 <br />(3) 2月7日(火)マバラカットへ <br />(4) 2月8日(水)コレヒドール島へ <br />(5) 2月月9日(木)マニラ〜関空・帰国 <br />

マニラ・マバラカット・コレヒドールの戦跡を訪ねる:旅立ち前

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2012/02/05 - 2012/02/09

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明石DS

明石DSさん


はじめに
これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。

思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。

公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。





目 次
(0) 旅たち前
(1) 2月5日(日)関空〜マニラへ出発
(2) 2月6日(月)マニラ市内の散策
(3) 2月7日(火)マバラカットへ
(4) 2月8日(水)コレヒドール島へ
(5) 2月月9日(木)マニラ〜関空・帰国

旅行の満足度
5.0
  • 2012年2月7日<br />マバラカット東飛行場跡<br /><br />////////////////////////////////////<br /><br />神風特別攻撃隊”誕生の地、フィリピン・マバラカットへ<br />2008/平成20年から秋は中国、冬は常夏のぺリリュー島(パラオ)・サイパン・グアムなどの戦跡を巡っている。昨年、満洲「延吉」へ行ったあと来年は何処に?と思いついたのがフィリピン。 <br /><br />戦跡巡りが趣味などと言いながら昭和19年後半から終戦までの一年足らずの間に、フィリピンで50万人余も日本軍兵士が亡くなっていることすら知らなかった。そして、“神風特別攻撃隊”がフィリピンで誕生し、その第一陣が出撃した。この旅を機に特攻隊のことを改めて考える機会となった。 <br /><br />■神風特別攻撃隊に思う <br /><br />特攻隊の編成に中心的役割を担った大西中将自らが特攻作戦を「統率の外道」と場ィつぶやいた”ように、これだけ大規模、継続しての特攻作戦は過去の戦争にはないだろう。世界史の上でも初めてのことであり、ゆえに特攻については様々な意見がある。 <br /><br />その特攻を語るとき、いつも議論になることがある。それは・・・。 <br /><br />(一)「特攻作戦の是非について」<br />(二)「特攻は命令だったのか?志願だったのか?」<br />(三)「“後から俺も行く”と送り出した上官が戦後に生き残ったことについて」 <br /><br />この三つについて私が思うことを述べる。平成24年62歳になる一小市民である私の思いであり誰にも同意を求めるものではない。 <br /><br />(一)「特攻作戦の是非について」 <br /><br />敷島隊が大戦果を上げた直後の11月、大西中将に面と向かって特攻を拒否した美濃部正少佐の言葉が、特攻作戦の本質を表していると思う。彼は戦後、特攻を次のように語っている。 <br /><br />『戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。 <br /><br />当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません』 <br /><br />彼が言うように大西中将が特攻作戦を決意したときは、通常攻撃では戦果をあげられず搭乗員の戦死だけが空しく増え続けていた。「俺一人でも敵空母に体当たりしてやるから、ワイヤーで零戦に爆弾をしばりつけてくれ」と整備兵に懇願する者が出ていた状況下、圧倒的優位な敵に対して起死回生の効果をもたらす戦法は特攻攻撃しかなかった。 <br /><br />だから私は特攻作戦を「是」とするだけではなく、感動し賛美し日本の誇りだと思っている。そして未来に危急存亡の時を迎えても、必ずやその精神は継承され続けていくことと信じる。 <br /><br />(二)「特攻は命令だったのか?志願だったのか?」 <br /><br />私は「特攻は命令」だと思っている。そしてその命令を下したのは、私の解釈では一人大西瀧治郎中将である。特攻隊員の多くはその作戦に納得し、自ら志願して飛立った者も多い。そして命令を下した大西中将は戦い終結に際し見事に責任をとった。 <br /><br />「命令か志願か?」そこに答えを求める必要はない。特攻隊員も上官から発せられた言葉から「命令」「強制」と感じた者もいただろうし、「志願」と受け取った者もいただろう。航空特攻の最年少は16歳、主体は二十歳に満たない、或いは25歳にならない少年青年たちが夢ある明日を断ち切り、家族を守り、国を守るために笑みを浮かべて敢然と飛び立っていった。 <br /><br />そんな少年、青年が少なくとも一人でもいたのは事実だろう。いや一人ではなく二人、二人ではなくもっともっといただろう。そのことに私は言葉に出来ない感動と畏敬を抱く。心身強健の選りすぐられた若者が明日も生きていたい、明後日も来年もまだまだ生き続けたいというのは当然のことだ。 <br /><br />誰だって死ぬのは嫌だ。青春真っ只中の若者こそがその気持ちが一番強くて当然だろう。それでも彼等は笑みを浮かべて飛び立った。またそれをすぐに「洗脳」と言うつまらぬ性根の奴がいる。この「洗脳」ということについても「命令か?」「志願か?」と同じ次元で語るに落ちる。 <br /><br />一つ言えるのは、当時特攻出撃の渦中でさえも、卑怯に生き延びようとした上官・高官が存在していたようだが、多くの若き特攻隊員はそんな全てを知りながらも自らの命を捧げて散っていった。 <br /><br />そんな彼等の一途な気持ちは「あいつが行くなら俺も行く、あいつの敵をとる」という気持ちだったろうというのが私の推測であり、もし私がその立場になれば素直にそれが一番だ。 <br /><br />特攻を非難する徒輩がいくら「特攻は犬死だ」と声高に叫ぼうが、特攻がたとえ命令強制であったとしても「あいつだけに行かしはしない・・・」 そのことのみで私も行く。それが神風特別攻撃隊の真実の姿だと私自身はそう思っている。 <br /><br />(三)「後から俺も必ず行く”と送り出した上官が戦後に生き残ったことについて」 <br /><br />特攻第一陣からしばらくは当然厳粛な雰囲気もあり、特別な作戦だったようだが、それが日々のこととなればやがて送り出す側は慣れてしまう。そんな送り出す側と、隊員として選ばれた者の間には当初と違った雰囲気が出てくるのは十分想像できる。 <br /><br />そして「後から必ず行く」と送り出した上官が戦後に生き残ったということがある。一途な若者を「日々の作戦」となった特攻として死地に送り出し、自らは彼等との約束を守ることなく終戦後の人生を全うした。 これに対して私は次のように思っている。 <br /><br />山本七平が戦犯体験から曰く<br />『普段はどんな大言壮語をしようと、安全地帯にいる間はどんな立派な人道的な言辞を弄していようと、いざとなれば、そんなもの全部「嘘の塊」にすぎず、自己顕示欲と虚栄心の所産にすぎないということは、もう見飽きるほど見てきた。』 <br /><br />上記の言葉に尽きると思う。「最後には必ず自分も行く」と約束し真実その時点では死の覚悟が出来ていた上官も、いざとなれば自決は難しい。そんなことは戦場や戦犯収容所では普通の人間に普通に起きることだ。約束を守れず生き延びた上官も普通の人間であり、犯罪者でも卑怯者でもなければ鬼畜生でもない。 <br /><br />なんら命の危険もない場所に生き続けている私が、そんな上官を非難する資格は元よりない。上官と同じ境遇になった時、出来得れば約束を裏切らない人間でありたいと願うだけだ。それすらまことに心もとない。 <br /><br />神風特別攻撃隊関係の本やネットのブログで得々とそういった上官の非をあげつらっているのが沢山ある。そんな戦後の日本人や元特攻隊員を残念に思う。 戦後に生き延びた上官も部下の霊を終生弔いながら生きている人たちがほとんどだろう。 <br /><br />そして特攻の生みの親、大西瀧治郎中将は「貴様らだけを死なせはしない。俺も必ず後から行く。」を実践し見事に決着をつけた。たとえ他に誰が生き残ろうが、それで良し。それが特攻精神の真髄であるはずだ。 <br /><br />大西瀧治郎中将の壮絶な死が、他の生きるを許し、他が生きることによって大西中将の死がより輝きをまし価値を高めた。共に見事なり。 <br /><br /><br />マバラカットにて「神風特別攻撃隊」に思う <br /><br />http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&amp;v=HgSIML9xJgM<br />

    2012年2月7日
    マバラカット東飛行場跡

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    神風特別攻撃隊”誕生の地、フィリピン・マバラカットへ
    2008/平成20年から秋は中国、冬は常夏のぺリリュー島(パラオ)・サイパン・グアムなどの戦跡を巡っている。昨年、満洲「延吉」へ行ったあと来年は何処に?と思いついたのがフィリピン。

    戦跡巡りが趣味などと言いながら昭和19年後半から終戦までの一年足らずの間に、フィリピンで50万人余も日本軍兵士が亡くなっていることすら知らなかった。そして、“神風特別攻撃隊”がフィリピンで誕生し、その第一陣が出撃した。この旅を機に特攻隊のことを改めて考える機会となった。

    ■神風特別攻撃隊に思う

    特攻隊の編成に中心的役割を担った大西中将自らが特攻作戦を「統率の外道」と場ィつぶやいた”ように、これだけ大規模、継続しての特攻作戦は過去の戦争にはないだろう。世界史の上でも初めてのことであり、ゆえに特攻については様々な意見がある。

    その特攻を語るとき、いつも議論になることがある。それは・・・。

    (一)「特攻作戦の是非について」
    (二)「特攻は命令だったのか?志願だったのか?」
    (三)「“後から俺も行く”と送り出した上官が戦後に生き残ったことについて」

    この三つについて私が思うことを述べる。平成24年62歳になる一小市民である私の思いであり誰にも同意を求めるものではない。

    (一)「特攻作戦の是非について」

    敷島隊が大戦果を上げた直後の11月、大西中将に面と向かって特攻を拒否した美濃部正少佐の言葉が、特攻作戦の本質を表していると思う。彼は戦後、特攻を次のように語っている。

    『戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。

    当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません』

    彼が言うように大西中将が特攻作戦を決意したときは、通常攻撃では戦果をあげられず搭乗員の戦死だけが空しく増え続けていた。「俺一人でも敵空母に体当たりしてやるから、ワイヤーで零戦に爆弾をしばりつけてくれ」と整備兵に懇願する者が出ていた状況下、圧倒的優位な敵に対して起死回生の効果をもたらす戦法は特攻攻撃しかなかった。

    だから私は特攻作戦を「是」とするだけではなく、感動し賛美し日本の誇りだと思っている。そして未来に危急存亡の時を迎えても、必ずやその精神は継承され続けていくことと信じる。

    (二)「特攻は命令だったのか?志願だったのか?」

    私は「特攻は命令」だと思っている。そしてその命令を下したのは、私の解釈では一人大西瀧治郎中将である。特攻隊員の多くはその作戦に納得し、自ら志願して飛立った者も多い。そして命令を下した大西中将は戦い終結に際し見事に責任をとった。

    「命令か志願か?」そこに答えを求める必要はない。特攻隊員も上官から発せられた言葉から「命令」「強制」と感じた者もいただろうし、「志願」と受け取った者もいただろう。航空特攻の最年少は16歳、主体は二十歳に満たない、或いは25歳にならない少年青年たちが夢ある明日を断ち切り、家族を守り、国を守るために笑みを浮かべて敢然と飛び立っていった。

    そんな少年、青年が少なくとも一人でもいたのは事実だろう。いや一人ではなく二人、二人ではなくもっともっといただろう。そのことに私は言葉に出来ない感動と畏敬を抱く。心身強健の選りすぐられた若者が明日も生きていたい、明後日も来年もまだまだ生き続けたいというのは当然のことだ。

    誰だって死ぬのは嫌だ。青春真っ只中の若者こそがその気持ちが一番強くて当然だろう。それでも彼等は笑みを浮かべて飛び立った。またそれをすぐに「洗脳」と言うつまらぬ性根の奴がいる。この「洗脳」ということについても「命令か?」「志願か?」と同じ次元で語るに落ちる。

    一つ言えるのは、当時特攻出撃の渦中でさえも、卑怯に生き延びようとした上官・高官が存在していたようだが、多くの若き特攻隊員はそんな全てを知りながらも自らの命を捧げて散っていった。

    そんな彼等の一途な気持ちは「あいつが行くなら俺も行く、あいつの敵をとる」という気持ちだったろうというのが私の推測であり、もし私がその立場になれば素直にそれが一番だ。

    特攻を非難する徒輩がいくら「特攻は犬死だ」と声高に叫ぼうが、特攻がたとえ命令強制であったとしても「あいつだけに行かしはしない・・・」 そのことのみで私も行く。それが神風特別攻撃隊の真実の姿だと私自身はそう思っている。

    (三)「後から俺も必ず行く”と送り出した上官が戦後に生き残ったことについて」

    特攻第一陣からしばらくは当然厳粛な雰囲気もあり、特別な作戦だったようだが、それが日々のこととなればやがて送り出す側は慣れてしまう。そんな送り出す側と、隊員として選ばれた者の間には当初と違った雰囲気が出てくるのは十分想像できる。

    そして「後から必ず行く」と送り出した上官が戦後に生き残ったということがある。一途な若者を「日々の作戦」となった特攻として死地に送り出し、自らは彼等との約束を守ることなく終戦後の人生を全うした。 これに対して私は次のように思っている。

    山本七平が戦犯体験から曰く
    『普段はどんな大言壮語をしようと、安全地帯にいる間はどんな立派な人道的な言辞を弄していようと、いざとなれば、そんなもの全部「嘘の塊」にすぎず、自己顕示欲と虚栄心の所産にすぎないということは、もう見飽きるほど見てきた。』

    上記の言葉に尽きると思う。「最後には必ず自分も行く」と約束し真実その時点では死の覚悟が出来ていた上官も、いざとなれば自決は難しい。そんなことは戦場や戦犯収容所では普通の人間に普通に起きることだ。約束を守れず生き延びた上官も普通の人間であり、犯罪者でも卑怯者でもなければ鬼畜生でもない。

    なんら命の危険もない場所に生き続けている私が、そんな上官を非難する資格は元よりない。上官と同じ境遇になった時、出来得れば約束を裏切らない人間でありたいと願うだけだ。それすらまことに心もとない。

    神風特別攻撃隊関係の本やネットのブログで得々とそういった上官の非をあげつらっているのが沢山ある。そんな戦後の日本人や元特攻隊員を残念に思う。 戦後に生き延びた上官も部下の霊を終生弔いながら生きている人たちがほとんどだろう。

    そして特攻の生みの親、大西瀧治郎中将は「貴様らだけを死なせはしない。俺も必ず後から行く。」を実践し見事に決着をつけた。たとえ他に誰が生き残ろうが、それで良し。それが特攻精神の真髄であるはずだ。

    大西瀧治郎中将の壮絶な死が、他の生きるを許し、他が生きることによって大西中将の死がより輝きをまし価値を高めた。共に見事なり。


    マバラカットにて「神風特別攻撃隊」に思う

    http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=HgSIML9xJgM

  • 2012年2月7日<br />マバラカット西飛行場跡<br /><br />■私が思う「特攻作戦の総括」 <br /><br />日本という国は世界広しといえど、主要な国の中では唯一建国以来ほぼ単一民族、島国。そして男系継承による万世一系の天皇陛下を戴き、皇室のもとに一つの家族のような国の形を保っている。それが故に、日本国民は他国に比べて類い稀のない平穏な歴史の中で暮らしてきた。 <br /><br />その上、四季があり自然に恵まれ農耕民族として温厚な性質を有する。そんな日本が覇権主義吹き荒れる時代に、独立を保つために戦いに挑まねばならなかった。そして明治維新後、日清・日露戦争とも大国相手に勝利を得た。 <br /><br />その結果、世界の白人列強に伍して後、有色人種代表となった日本と、それを叩き潰そうとする白人列強の間で起きた戦いが大東亜戦争である。ルーズベルトは無論だが 同盟国だったドイツのヒットラーの著書「我が闘争」にもアジア人蔑視を書いている。この戦いは白人の黄禍論から端を発した歴史の必然だと確信する。 <br /><br />日本は怯まずこの歴史的な戦いに踏み込んだ。もし日本が白人から仕掛けられた戦争を忌避し、白人の軍門に下っていれば、今の世界は全く違った物になっており、それはこの地球を40%の白人が今より遙かに強権的に支配し、60%の有色人種は白人に媚を売りながら生きるか、或いは奴隷となって生きるのか。そんな世界になっていると思う。 <br /><br />日本人の民族の資質として、終戦までの日本では有り得ない光景だろうが、日本のプロ野球の投手が外国人助っ人バッターにボールをぶつけて、怒りで向ってくる外人バッターから迷わず外野まで一目散に走って逃げる姿。あれが「微笑ましい?」「大和魂を失った?」日本人の正味の姿だと思っている。 <br /><br />他の民族とりわけ狩猟民族と比較すれば、格段に温厚であり、冷徹な人種差別も出来ない日本人が、好戦的な白人と戦うには何を置いても精神面で強い気概を持たねば戦うことは出来ない。その精神とは「軽き命」に他ならない。日本人が強くなるのは「軽き命」という精神を有すればこそだ。 <br /><br />それが日本人の戦いの強さの根源であり「命は惜しくない」「命より大切な物がある」「恥を知る」だから温厚なはずの日本人が白兵戦を戦える。 敵から見ればこんな強敵はいないだろう。 <br /><br />そして特攻隊が編成された。 <br /><br />その特攻の精神の根源も、やはり「軽き命」であり、昭和19年10月21日セブから発進し未帰還となった特攻ゼロ号とも称される久納好孚中尉は「戦果確認の為の直掩機はもったいないから不要」と上官に進言した。これこそ西郷隆盛の遺訓「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」この精神である。 <br /><br />大儀の前には「名誉も要らず名も要らず命さえ要らない」。これこそが日本人の真骨頂だ。それ故、特攻隊に関しての戦後の多くの中傷・非難も基本的には勝手にほざいておけと一笑に付す。 <br /><br />我日本人足らんと欲す。特攻隊は日本人の誇りであり未来永劫心ある日本人に勇気を与え続けてくれる。 何をするにも大事なのは結果ではなく志だ。私の敗者の定義は戦いに挑んで敗れた者のことではなく、戦うべき時に戦わなかった者である。結果は時の運もある。 <br /><br />我特攻を賛美し感動する。敵も特攻に慣れて戦果上らず、さりとて何の方策なく日常作戦になった特攻に行くぞ悲しき、しかしながらそれでも行く。愚かなりと笑わば笑え、我はそうは思わじ。 <br /><br />以上が私の“神風特別攻撃隊”の総括だ。 <br /><br />2011/平成24年3月18日(日)記 <br /><br /><br /><br />私が思う「特攻作戦の総括」 <br />http://www.youtube.com/watch?v=FBVeZnlFsOQ<br /><br /><br /><br />

    2012年2月7日
    マバラカット西飛行場跡

    ■私が思う「特攻作戦の総括」

    日本という国は世界広しといえど、主要な国の中では唯一建国以来ほぼ単一民族、島国。そして男系継承による万世一系の天皇陛下を戴き、皇室のもとに一つの家族のような国の形を保っている。それが故に、日本国民は他国に比べて類い稀のない平穏な歴史の中で暮らしてきた。

    その上、四季があり自然に恵まれ農耕民族として温厚な性質を有する。そんな日本が覇権主義吹き荒れる時代に、独立を保つために戦いに挑まねばならなかった。そして明治維新後、日清・日露戦争とも大国相手に勝利を得た。

    その結果、世界の白人列強に伍して後、有色人種代表となった日本と、それを叩き潰そうとする白人列強の間で起きた戦いが大東亜戦争である。ルーズベルトは無論だが 同盟国だったドイツのヒットラーの著書「我が闘争」にもアジア人蔑視を書いている。この戦いは白人の黄禍論から端を発した歴史の必然だと確信する。

    日本は怯まずこの歴史的な戦いに踏み込んだ。もし日本が白人から仕掛けられた戦争を忌避し、白人の軍門に下っていれば、今の世界は全く違った物になっており、それはこの地球を40%の白人が今より遙かに強権的に支配し、60%の有色人種は白人に媚を売りながら生きるか、或いは奴隷となって生きるのか。そんな世界になっていると思う。

    日本人の民族の資質として、終戦までの日本では有り得ない光景だろうが、日本のプロ野球の投手が外国人助っ人バッターにボールをぶつけて、怒りで向ってくる外人バッターから迷わず外野まで一目散に走って逃げる姿。あれが「微笑ましい?」「大和魂を失った?」日本人の正味の姿だと思っている。

    他の民族とりわけ狩猟民族と比較すれば、格段に温厚であり、冷徹な人種差別も出来ない日本人が、好戦的な白人と戦うには何を置いても精神面で強い気概を持たねば戦うことは出来ない。その精神とは「軽き命」に他ならない。日本人が強くなるのは「軽き命」という精神を有すればこそだ。

    それが日本人の戦いの強さの根源であり「命は惜しくない」「命より大切な物がある」「恥を知る」だから温厚なはずの日本人が白兵戦を戦える。 敵から見ればこんな強敵はいないだろう。

    そして特攻隊が編成された。

    その特攻の精神の根源も、やはり「軽き命」であり、昭和19年10月21日セブから発進し未帰還となった特攻ゼロ号とも称される久納好孚中尉は「戦果確認の為の直掩機はもったいないから不要」と上官に進言した。これこそ西郷隆盛の遺訓「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」この精神である。

    大儀の前には「名誉も要らず名も要らず命さえ要らない」。これこそが日本人の真骨頂だ。それ故、特攻隊に関しての戦後の多くの中傷・非難も基本的には勝手にほざいておけと一笑に付す。

    我日本人足らんと欲す。特攻隊は日本人の誇りであり未来永劫心ある日本人に勇気を与え続けてくれる。 何をするにも大事なのは結果ではなく志だ。私の敗者の定義は戦いに挑んで敗れた者のことではなく、戦うべき時に戦わなかった者である。結果は時の運もある。

    我特攻を賛美し感動する。敵も特攻に慣れて戦果上らず、さりとて何の方策なく日常作戦になった特攻に行くぞ悲しき、しかしながらそれでも行く。愚かなりと笑わば笑え、我はそうは思わじ。

    以上が私の“神風特別攻撃隊”の総括だ。

    2011/平成24年3月18日(日)記



    私が思う「特攻作戦の総括」
    http://www.youtube.com/watch?v=FBVeZnlFsOQ



  • 2012年2月7日<br />マバラカット東飛行場跡<br /><br />//////////////////////////////////////<br /><br />2011.平成23年11月30日(水) <br /><br /><br />■フィリピン・マバラカット <br /><br />先日「日本海軍を想う」を読み、特攻隊ゼロ号の男という『久納 好孚(くのう こうふ)少佐:1921年(大正10年)1月15日 - 1944年(昭和19年)10月21日:享年23歳)』のことを知った。 <br /><br />/////////////<br />享年とは《天から享(う)けた年の意》人のこの世に生存していた年数。死んだときの年齢。行年(ぎょうねん)。・・・今まで、享年は数え年として記してきたが、この世に生きた年なので、今後、私は満年齢で記す。<br />//////////// <br /><br />来年の戦跡巡りは、来年2月にフィリピンのマバラカットを訪ねることに決めた。久納中尉は特攻一号とされている有名な関行男大尉より四日早い昭和19年10月21日に爆装零戦で、大和隊の列機1機と直掩1機の合計3機でフィリピンのセブ基地を出撃した。列機と直掩機の二機は悪天候の為に帰還したが久納機は未帰還となった。 <br /><br />久納中尉は出撃前日、「僕は明日出撃したら絶対に戻ってこない。特攻できない時はレイテ湾へ行く」と周囲に語っていたと言われている。そんな久納中尉のことを「日本海軍を想う」には以下のように記されている。 <br /><br />抜粋↓ <br /><br />『最初、玉井副長が志願者を募った際、作戦としての成否に自信を持てない気配を察知すると、「どうせ間もなく戦死する身だ。やってみようじゃないか」という趣旨の発言をして、自ら第一号の志願者となり、また、「直掩機は無駄だから他に使ってほしい、戦果の確認も不要。名誉も要らない。ただ敵艦に突入するだけ」と発言。そのとおり何の気負いもなく端然と出撃し、淡々と戦死しました。 <br /><br />その立ち居振る舞いの見事さは、源平合戦や戦国時代の名ある武将のそれを彷彿させるもので、戦後多くの論者が説くような「絶望的」「苦悩」「懊悩」などは微塵もみられません。 <br /><br />戦時中、関大尉の名が特攻第一号として発表され、戦後もほぼ定着してくると、彼に同情的な人たちは、第一号以前の人という意味で、彼を「ゼロ号の男」と呼ぶようになりましたが(大野芳、神風 特攻隊ゼロ号の男)、おそらく彼にとってはその好意も無用なものであったでしょう。』 <br /><br />「戦果の確認も不要、名誉も要らない」「ただ突入するだけ」・・・そんな久納中尉は、一体どんな人物だったのだろう。 <br /><br />最初の特攻隊の編制は、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」 <br /><br />隊名は本居宣長の、“敷島の大和ごころを人とはば 朝日に匂ふ山桜花”から命名・・か。 <br /><br />○&quot;神風特攻隊「ゼロ号」の男?海軍中尉久納好孚の生涯 (光人社NF文庫)&quot;¥1+送料250=¥251 <br /><br />○&quot;敷島隊 死への五日間?神風特攻隊長関行男と四人の若者の最後 (光人社NF文庫)&quot;\30+250=\280 <br /><br />○ &quot;敷島隊の五人?海軍大尉関行男の生涯 (上・下) (文春文庫)&quot;¥1+1+500=\502 <br /><br />とりあえずアマゾンで上記の中古本を買った。神風特別攻撃隊のことも知らないことばかりなり。とにかく大東亜戦争について知らないことばかりで今更ながら途方にくれる。歴史を学ぶのは大変だ。 <br /><br />○:猪口力平参謀・中島少佐共著の「神風特別攻撃隊の記録」は明石図書館にあるのでそれを借りる。 <br /><br />旅行記をやっとこさ書き終えたらすぐに次ぎを考えたくなる。いつまでこの気持ちが続くのだろう。フィリピンは四日か五日の短い旅だ。英語は駄目だし、オプショナルツアーがあるのでそれに頼るつもり。さあどうなるかなあ・・・。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />--------------------------------------<br /><br />2011.平成23年12月1日(木) <br /><br /><br />■フィリピンへの旅 <br /><br />昨日の今日で来年の2月のマニラの四泊五日の旅を申し込んだ。空港⇔ホテルの送迎だけであとは全て自由行動の格安ツアー、参加が一人だけでも成立する。 <br /><br />今回は初めて利用する「STW」、STワールドと言うらしい。HISより安かった。全部込みで¥85,000円。オプショナルツアーもフィリピン旅行代理店・フレンドシップツアーに理想的なツアーを見つけた。 <br /><br />「マニラ戦跡ツアー」と「モンテンルパ刑務所」 <br /><br />まるで私の為に用意してくれているかのようなツアーだ。後は半日マニラ市内観光をすればマニラ三日間の日程も詰まってしまう。これから孫が次々と出来る予定で金も掛るし何かと忙しいが、それでも行ける時に行きたい。仕事も暇で稼ぎも少ないけど行ける時に行きたい。 <br /><br />その代わり酒飲めず煙草吸わず博打もせず交際費少なく服もたいして買わず、普段あまり金を使わないほうだと思う。何より私の強みは収入の範囲で計算できる。食費月1万円で済ませと言われれば出来るような気がする。借金は嫌いだし、いつも先々の取り越し苦労をして生きて来た。 <br /><br /><br /><br />-------------------------------------<br /><br />2011.平成23年12月2日(金) <br /><br /><br />■フィリピンへの旅に備えて <br /><br />特攻隊のことをちょっと調べようと思っただけで、その量の膨大なることに今更ながらに驚く。戦争と言うのはホントに凄い。そりゃあ国家の存亡を賭けての戦いだから当たり前といえば当たり前なのだろうが、今の能天気な日本しか知らない私には想像を絶する。 <br /><br />大東亜戦争の戦域の広大さ、そこに各戦闘部隊を展開するエネルギーたるや甚大である。消耗するばかりの兵器武器弾薬、そして金儲けに繋がらない兵隊の日々の活動。そして戦うために後方からあらゆる物資を送り続ける兵站業務。要塞・陣地・飛行場などの構造物の構築。 <br /><br />一体どれだけの資金があったのだろう。大東亜戦争中に海外との商貿易は成り立っていたのだろうか?普通の経済活動はあったのだろうか?全てが兵隊・軍人であるはずものなく会社員がいて公務員がいて、戦争とは別にそれなりの経済活動は無論あったのだろう。 <br /><br />ならば戦時中、日本は海外に何を輸出し、又何を輸入し、どんな商売で儲けていたのだろう。今の日本が全然面白くないので、終戦までの日本と日本人を振り返っているのが、私の今の息抜きだ。これからも到底真似は出来ないが当時の日本人の精神を鏡としてだけ生きていこう。 <br /><br />戦争とは究極の人間活動に他ならないことが良く分かる。生か死か?の世界だから。今、山岡荘八(著)の「小説・太平洋戦争」(5)(6)を読んでいる。小説とあるようにノンフィクションとは言えないのだろうが、山岡は報道班員として多くの軍人たちも交流を持ち前線へも帯同している。 <br /><br />そして自虐史観の本ではなく、時系列に太平洋戦争を将軍・幹部将校たちの人物描写と共に解説してくれているので全体像が分かり易い。まあ誰が何を書いていようが日本軍批判非難は、私の場合一切無視なので構わないが。終戦までの日本と日本人は今に比較すれば素晴らしかった。いや有史以来最高に輝く時だったのかもと思う。終戦を境に腐り続けているというのが私の思いだ。 <br /><br />「特別攻撃隊」のことをこれを機に少しは勉強しよう。 <br /><br />一応マニラのオプショナルツアーで、マニラ半日観光・戦跡巡り・モンテンルパ刑務所と中三日間の日程は決まった。ホンマこんなことを決めるのは早い、あとで“しまったもっと別の方が良かったのに・・・”と思うことは度々のことだがそれでも構わない。それがこの俺だフフフ。死ぬまで治らない。 <br /><br />----------------------------------<br /><br />2011.平成23年12月7日(水) <br /><br /><br />■マニラへ <br /><br />マニラに行く前に、太平洋の戦いがどうだったのか?知りたいと思ったが、太平洋の戦いを理解するには、あまりにも複雑多岐にわたりすぐには自分の頭で整理など出来ない。でも、大雑把から始めて逐次紐解いて行けばその内だいたいのことが分かるようになるだろう・・・と。 <br /><br />戦記本を読んでも島の名前もやたら多いし、各部隊名も次々で参加人数も半端でなく多い。特にフィリピンの攻防は凄い人数だ。そんなことも初めて知ることになった。 <br /><br />フィリピンの戦い (1941-1942年)::: フィリピンの戦い (1944-1945年) <br /><br />フィリピンの戦いには「勝ち戦」と「負け戦」の二つがある。マッカーサーを追い出した開戦当初と、米軍逆上陸のサイパン陥落後の昭和19年からとの戦いがある。ウィキペディアの資料によっても勝ち戦の日本軍戦死者は「4,130」だが、昭和19年から終戦までの戦死者は「336,352」とある。厚生省の資料では軍人軍属「498,600人」。 <br /><br />昭和12年から始まった支那事変から通じて終戦までの8年間に及ぶ中国大陸での戦没者が「455,700人」と比べても如何にフィリピンで数多くの兵士が亡くなったのかが分かる。終戦までフィリピンでは戦いが継続されていたようだが、正味の戦闘は昭和19年9月以降から20年6月主力部隊壊滅までの一年足らずの間に50万人・・・か。 <br /><br />終戦後にフィリピンから引揚げた日本人は総数「133,123」・軍人軍属「108,912」・邦人「24,211」とある。インパール作戦戦死者26,000人、ビルマ全土164,500と比較してもフィリピンが圧倒的に多い。 <br /><br />米軍との本格的戦闘の前に、それまで司令官だった黒田重徳中将が中央に意見具申したフィリピンでの戦いについての正論が大本営の反発をかったがために更迭され、満洲から急遽山下奉文中将が第14方面軍司令官としてマニラに赴任した。 <br /><br />しかし第14方面軍は寺内元帥を長とする南方軍総司令官に隷属し、第四航空軍(冨永恭次中将)も、輸送を司る第三船舶部隊も寺内元帥の直接指揮下にあり山下中将の自由にならなかった。 <br /><br />その上、寺内 寿一大将は10月23日に山下中将を呼びつけ「命令が出たらやるんだ!」と大喝した挙句、その後十日もせぬうちにマニラを離れてサイゴンに逃げた?寺内元帥はその後サイゴンを離れず終戦を迎え1946年(昭和21年) マレーシアのレンガムで拘留中に病死している。享年67歳。 <br /><br />私が今知る範囲では、山下奉文中将の戦略が正しいと思う。山下中将は兵力を分散せずに米軍とルソン島での最終決戦を考えていた。それがレイテ島で始まりガダルカナルのような逐次増派で泥沼に嵌ってしまった。 <br /><br />今のところ <br /><br />私が開戦時の東条英機であり陸海軍を実質統帥する立場であれば、まずもって開戦しても最終目的は米国へ日本軍が上陸しワシントンを占領し米国を降伏させることなど非現実的であり、豪州も同様である。当時の日本軍の戦争終結のシナリオもそうだったと思う。 <br /><br />ならば、真珠湾攻撃などはせずに、インドシナ半島からシンガポール、そしてインドネシア・フィリピンと手中にしたところで占領地にまず善政を施し、それぞれの国の独立を認めながら共に連合国と戦う一蓮托生の強固な軍事同盟国とする。 <br /><br />そしてフィリピン・パラオ・北マリアナ諸島・グアムの範囲を連合国との戦いの最前線とし、数多くの島々を不沈空母として、そこに飛行場及び永久陣地を構築し長期戦に備える。北は樺太南部と北方四島を最前線として同じように浮沈空母としての機能を持たせる。もし千島列島に米軍が上陸し飛行場及び陣地構築すればそれは順次攻撃破壊する。 <br /><br />ニューギニア、豪州上陸及び豪州まで陸海軍が進出することは、あまりに戦線拡大遠距離で兵站が延びきりマイナスばかりが大きい。それよりもこちらに誘き出して数多くの浮沈空母でもある陸上基地から航空機を発進させ、それに加えて神出鬼没に艦隊決戦を挑んで戦へば、幾ら米軍が大機動部隊をもってしても本拠地より遠くでの戦いとなり不利である。 <br /><br />そしてビルマ・インド方面に一気に侵攻し、やはりインドの独立を認め軍事同盟国とする。それと並行しインドシナ半島の各国も独立を認める。そしてインドを含めた東アジアが日本と一蓮托生になれば、援蒋ルートなど霧消し、そうなれば蒋介石も共産党を敵として戦うために日本との停戦と満洲を認め日本軍と協調して共産党との戦いに戻る。 <br /><br />東アジア各国が独立を手に入れ、日本との軍事同盟を結び連合国を相手にすれば連合国と停戦交渉が可能になるはずだ。山本五十六が「一年、二年は戦ってみせます」と言って陸軍との協調もなく一挙に戦線を拡大したのが最大の敗因だと思う。 <br /><br />確かに全てにおいて米国は日本を圧倒する力があっただろうが、あの時点では連合国もドイツとの戦いがメーンであり日本との戦いにそれほど積極的になれなかったはずだ。それなのに真珠湾攻撃をし、その後怒涛の勢いで南下しフィリピンを手中にしても更に豪州にまで迫ろうとした。これが最悪だったと思う。 <br /><br />違った戦争が出来たはずだ。太平洋の戦いを少し知っただけの今の時点での感想だが、それだけでも歯がゆく感じる。 <br /><br />第二次世界大戦等の戦争犠牲者数<br />http://www.max.hi-o.ne.jp/nvcc/TR7.HTM <br /><br />

    2012年2月7日
    マバラカット東飛行場跡

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    2011.平成23年11月30日(水)


    ■フィリピン・マバラカット

    先日「日本海軍を想う」を読み、特攻隊ゼロ号の男という『久納 好孚(くのう こうふ)少佐:1921年(大正10年)1月15日 - 1944年(昭和19年)10月21日:享年23歳)』のことを知った。

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    享年とは《天から享(う)けた年の意》人のこの世に生存していた年数。死んだときの年齢。行年(ぎょうねん)。・・・今まで、享年は数え年として記してきたが、この世に生きた年なので、今後、私は満年齢で記す。
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    来年の戦跡巡りは、来年2月にフィリピンのマバラカットを訪ねることに決めた。久納中尉は特攻一号とされている有名な関行男大尉より四日早い昭和19年10月21日に爆装零戦で、大和隊の列機1機と直掩1機の合計3機でフィリピンのセブ基地を出撃した。列機と直掩機の二機は悪天候の為に帰還したが久納機は未帰還となった。

    久納中尉は出撃前日、「僕は明日出撃したら絶対に戻ってこない。特攻できない時はレイテ湾へ行く」と周囲に語っていたと言われている。そんな久納中尉のことを「日本海軍を想う」には以下のように記されている。

    抜粋↓

    『最初、玉井副長が志願者を募った際、作戦としての成否に自信を持てない気配を察知すると、「どうせ間もなく戦死する身だ。やってみようじゃないか」という趣旨の発言をして、自ら第一号の志願者となり、また、「直掩機は無駄だから他に使ってほしい、戦果の確認も不要。名誉も要らない。ただ敵艦に突入するだけ」と発言。そのとおり何の気負いもなく端然と出撃し、淡々と戦死しました。

    その立ち居振る舞いの見事さは、源平合戦や戦国時代の名ある武将のそれを彷彿させるもので、戦後多くの論者が説くような「絶望的」「苦悩」「懊悩」などは微塵もみられません。

    戦時中、関大尉の名が特攻第一号として発表され、戦後もほぼ定着してくると、彼に同情的な人たちは、第一号以前の人という意味で、彼を「ゼロ号の男」と呼ぶようになりましたが(大野芳、神風 特攻隊ゼロ号の男)、おそらく彼にとってはその好意も無用なものであったでしょう。』

    「戦果の確認も不要、名誉も要らない」「ただ突入するだけ」・・・そんな久納中尉は、一体どんな人物だったのだろう。

    最初の特攻隊の編制は、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」

    隊名は本居宣長の、“敷島の大和ごころを人とはば 朝日に匂ふ山桜花”から命名・・か。

    ○"神風特攻隊「ゼロ号」の男?海軍中尉久納好孚の生涯 (光人社NF文庫)"¥1+送料250=¥251

    ○"敷島隊 死への五日間?神風特攻隊長関行男と四人の若者の最後 (光人社NF文庫)"\30+250=\280

    ○ "敷島隊の五人?海軍大尉関行男の生涯 (上・下) (文春文庫)"¥1+1+500=\502

    とりあえずアマゾンで上記の中古本を買った。神風特別攻撃隊のことも知らないことばかりなり。とにかく大東亜戦争について知らないことばかりで今更ながら途方にくれる。歴史を学ぶのは大変だ。

    ○:猪口力平参謀・中島少佐共著の「神風特別攻撃隊の記録」は明石図書館にあるのでそれを借りる。

    旅行記をやっとこさ書き終えたらすぐに次ぎを考えたくなる。いつまでこの気持ちが続くのだろう。フィリピンは四日か五日の短い旅だ。英語は駄目だし、オプショナルツアーがあるのでそれに頼るつもり。さあどうなるかなあ・・・。






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    2011.平成23年12月1日(木)


    ■フィリピンへの旅

    昨日の今日で来年の2月のマニラの四泊五日の旅を申し込んだ。空港⇔ホテルの送迎だけであとは全て自由行動の格安ツアー、参加が一人だけでも成立する。

    今回は初めて利用する「STW」、STワールドと言うらしい。HISより安かった。全部込みで¥85,000円。オプショナルツアーもフィリピン旅行代理店・フレンドシップツアーに理想的なツアーを見つけた。

    「マニラ戦跡ツアー」と「モンテンルパ刑務所」

    まるで私の為に用意してくれているかのようなツアーだ。後は半日マニラ市内観光をすればマニラ三日間の日程も詰まってしまう。これから孫が次々と出来る予定で金も掛るし何かと忙しいが、それでも行ける時に行きたい。仕事も暇で稼ぎも少ないけど行ける時に行きたい。

    その代わり酒飲めず煙草吸わず博打もせず交際費少なく服もたいして買わず、普段あまり金を使わないほうだと思う。何より私の強みは収入の範囲で計算できる。食費月1万円で済ませと言われれば出来るような気がする。借金は嫌いだし、いつも先々の取り越し苦労をして生きて来た。



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    2011.平成23年12月2日(金)


    ■フィリピンへの旅に備えて

    特攻隊のことをちょっと調べようと思っただけで、その量の膨大なることに今更ながらに驚く。戦争と言うのはホントに凄い。そりゃあ国家の存亡を賭けての戦いだから当たり前といえば当たり前なのだろうが、今の能天気な日本しか知らない私には想像を絶する。

    大東亜戦争の戦域の広大さ、そこに各戦闘部隊を展開するエネルギーたるや甚大である。消耗するばかりの兵器武器弾薬、そして金儲けに繋がらない兵隊の日々の活動。そして戦うために後方からあらゆる物資を送り続ける兵站業務。要塞・陣地・飛行場などの構造物の構築。

    一体どれだけの資金があったのだろう。大東亜戦争中に海外との商貿易は成り立っていたのだろうか?普通の経済活動はあったのだろうか?全てが兵隊・軍人であるはずものなく会社員がいて公務員がいて、戦争とは別にそれなりの経済活動は無論あったのだろう。

    ならば戦時中、日本は海外に何を輸出し、又何を輸入し、どんな商売で儲けていたのだろう。今の日本が全然面白くないので、終戦までの日本と日本人を振り返っているのが、私の今の息抜きだ。これからも到底真似は出来ないが当時の日本人の精神を鏡としてだけ生きていこう。

    戦争とは究極の人間活動に他ならないことが良く分かる。生か死か?の世界だから。今、山岡荘八(著)の「小説・太平洋戦争」(5)(6)を読んでいる。小説とあるようにノンフィクションとは言えないのだろうが、山岡は報道班員として多くの軍人たちも交流を持ち前線へも帯同している。

    そして自虐史観の本ではなく、時系列に太平洋戦争を将軍・幹部将校たちの人物描写と共に解説してくれているので全体像が分かり易い。まあ誰が何を書いていようが日本軍批判非難は、私の場合一切無視なので構わないが。終戦までの日本と日本人は今に比較すれば素晴らしかった。いや有史以来最高に輝く時だったのかもと思う。終戦を境に腐り続けているというのが私の思いだ。

    「特別攻撃隊」のことをこれを機に少しは勉強しよう。

    一応マニラのオプショナルツアーで、マニラ半日観光・戦跡巡り・モンテンルパ刑務所と中三日間の日程は決まった。ホンマこんなことを決めるのは早い、あとで“しまったもっと別の方が良かったのに・・・”と思うことは度々のことだがそれでも構わない。それがこの俺だフフフ。死ぬまで治らない。

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    2011.平成23年12月7日(水)


    ■マニラへ

    マニラに行く前に、太平洋の戦いがどうだったのか?知りたいと思ったが、太平洋の戦いを理解するには、あまりにも複雑多岐にわたりすぐには自分の頭で整理など出来ない。でも、大雑把から始めて逐次紐解いて行けばその内だいたいのことが分かるようになるだろう・・・と。

    戦記本を読んでも島の名前もやたら多いし、各部隊名も次々で参加人数も半端でなく多い。特にフィリピンの攻防は凄い人数だ。そんなことも初めて知ることになった。

    フィリピンの戦い (1941-1942年)::: フィリピンの戦い (1944-1945年)

    フィリピンの戦いには「勝ち戦」と「負け戦」の二つがある。マッカーサーを追い出した開戦当初と、米軍逆上陸のサイパン陥落後の昭和19年からとの戦いがある。ウィキペディアの資料によっても勝ち戦の日本軍戦死者は「4,130」だが、昭和19年から終戦までの戦死者は「336,352」とある。厚生省の資料では軍人軍属「498,600人」。

    昭和12年から始まった支那事変から通じて終戦までの8年間に及ぶ中国大陸での戦没者が「455,700人」と比べても如何にフィリピンで数多くの兵士が亡くなったのかが分かる。終戦までフィリピンでは戦いが継続されていたようだが、正味の戦闘は昭和19年9月以降から20年6月主力部隊壊滅までの一年足らずの間に50万人・・・か。

    終戦後にフィリピンから引揚げた日本人は総数「133,123」・軍人軍属「108,912」・邦人「24,211」とある。インパール作戦戦死者26,000人、ビルマ全土164,500と比較してもフィリピンが圧倒的に多い。

    米軍との本格的戦闘の前に、それまで司令官だった黒田重徳中将が中央に意見具申したフィリピンでの戦いについての正論が大本営の反発をかったがために更迭され、満洲から急遽山下奉文中将が第14方面軍司令官としてマニラに赴任した。

    しかし第14方面軍は寺内元帥を長とする南方軍総司令官に隷属し、第四航空軍(冨永恭次中将)も、輸送を司る第三船舶部隊も寺内元帥の直接指揮下にあり山下中将の自由にならなかった。

    その上、寺内 寿一大将は10月23日に山下中将を呼びつけ「命令が出たらやるんだ!」と大喝した挙句、その後十日もせぬうちにマニラを離れてサイゴンに逃げた?寺内元帥はその後サイゴンを離れず終戦を迎え1946年(昭和21年) マレーシアのレンガムで拘留中に病死している。享年67歳。

    私が今知る範囲では、山下奉文中将の戦略が正しいと思う。山下中将は兵力を分散せずに米軍とルソン島での最終決戦を考えていた。それがレイテ島で始まりガダルカナルのような逐次増派で泥沼に嵌ってしまった。

    今のところ

    私が開戦時の東条英機であり陸海軍を実質統帥する立場であれば、まずもって開戦しても最終目的は米国へ日本軍が上陸しワシントンを占領し米国を降伏させることなど非現実的であり、豪州も同様である。当時の日本軍の戦争終結のシナリオもそうだったと思う。

    ならば、真珠湾攻撃などはせずに、インドシナ半島からシンガポール、そしてインドネシア・フィリピンと手中にしたところで占領地にまず善政を施し、それぞれの国の独立を認めながら共に連合国と戦う一蓮托生の強固な軍事同盟国とする。

    そしてフィリピン・パラオ・北マリアナ諸島・グアムの範囲を連合国との戦いの最前線とし、数多くの島々を不沈空母として、そこに飛行場及び永久陣地を構築し長期戦に備える。北は樺太南部と北方四島を最前線として同じように浮沈空母としての機能を持たせる。もし千島列島に米軍が上陸し飛行場及び陣地構築すればそれは順次攻撃破壊する。

    ニューギニア、豪州上陸及び豪州まで陸海軍が進出することは、あまりに戦線拡大遠距離で兵站が延びきりマイナスばかりが大きい。それよりもこちらに誘き出して数多くの浮沈空母でもある陸上基地から航空機を発進させ、それに加えて神出鬼没に艦隊決戦を挑んで戦へば、幾ら米軍が大機動部隊をもってしても本拠地より遠くでの戦いとなり不利である。

    そしてビルマ・インド方面に一気に侵攻し、やはりインドの独立を認め軍事同盟国とする。それと並行しインドシナ半島の各国も独立を認める。そしてインドを含めた東アジアが日本と一蓮托生になれば、援蒋ルートなど霧消し、そうなれば蒋介石も共産党を敵として戦うために日本との停戦と満洲を認め日本軍と協調して共産党との戦いに戻る。

    東アジア各国が独立を手に入れ、日本との軍事同盟を結び連合国を相手にすれば連合国と停戦交渉が可能になるはずだ。山本五十六が「一年、二年は戦ってみせます」と言って陸軍との協調もなく一挙に戦線を拡大したのが最大の敗因だと思う。

    確かに全てにおいて米国は日本を圧倒する力があっただろうが、あの時点では連合国もドイツとの戦いがメーンであり日本との戦いにそれほど積極的になれなかったはずだ。それなのに真珠湾攻撃をし、その後怒涛の勢いで南下しフィリピンを手中にしても更に豪州にまで迫ろうとした。これが最悪だったと思う。

    違った戦争が出来たはずだ。太平洋の戦いを少し知っただけの今の時点での感想だが、それだけでも歯がゆく感じる。

    第二次世界大戦等の戦争犠牲者数
    http://www.max.hi-o.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

  • 2012年2月6日<br />サンチャゴ要塞 憲兵隊本部跡<br /><br />////////////////////////////////////////<br /><br />2011.平成23年12月18(日) <br /><br /><br />■「敷島隊の五人(上)」森史郎(著) <br /><br />フィリピンのマバラカット飛行場から“神風特別攻撃隊”の第一号と言われている関行男大尉他四名のことを描いた本の上巻を読み終えた。 <br /><br />関行男大尉といっても23歳の若さであり、他の四人は19歳、20歳である。みんな頭脳明晰・体力強健、厳しい訓練と鉄拳に鍛えられて操縦士に選ばれた勇士たちだ。その一人一人に物語があり逸話があり英雄伝として後世に残るべき人たちだ。 <br /><br />戦後の戦争否定・自虐史観で英雄たちは、今もって埋もれたままだが、楠正成が甦ったように彼等も正等に評価を得る時が来ると信じる。戦後67年、日本と日本人の精神はホンマに腐ってしまったから。 <br /><br />戦跡巡りを始めて、戦争に関する本を読みだして改めて思うのは、日本人は決して好戦的ではなく、元々温和で臆病、大人しい民族だと思う。しかし「白兵戦では負けなかった」というのは本当だと思っている。なぜ私は日本人は臆病と言いながら白兵戦では強いと言うのか。 <br /><br />それは恥の文化と通じるが、「臆病を恥じるな卑怯未練を恥じよ」の精神に尽きる。日本人は“ガタイ”(図体)も大きくないし、筋肉質でもない。それこそ農耕民族と狩猟民族の体と精神の違いだと思う。やはり個々の闘争心では狩猟民族の方が圧倒的に強いのではないのか・・・と。 <br /><br />なのに日本軍は強かったのか?今までも言ってきたが「軽き命」こそが日本人の強さであり、それに勝る強さはない。それは狩猟民族とて持ち得ない。“ガタイ”が貧弱で闘争心が強くなくても「軽き命」を実践する性根があれば誰にも負けることはない。どんな強靭な相手でも、命のやり取りなど簡単に出来ない。それを日本軍兵士は簡単に実践した。 <br /><br />「兵士は消耗品」「一兵卒はゴミみたいな物」「死して虜囚の辱めを受けるな」「命は一銭五輪」 <br /><br />これこそ日本軍の強さであり、今後も戦う限りは必須条件だと信じる。上記の言葉を今の日本人はまるで「悪である」かのように言っているが、私はそれこそ日本人の日本人たる美徳であり、それを失くせば日本人なんてただの弱者に過ぎない。 <br /><br />軽き命こそ恥の文化の根源だ。命が軽ければ軽いほど人は輝きを増す。命が軽ければ軽いほど人は強くなる。命より大切なものが多い人間ほど立派に生きることが出来る。 <br /><br />それを洗脳と言わば言え、特攻を賛美出来ぬ日本人は日本人にあらず。しかして特攻は邪道であることに変わりない。極力採用すべき戦術ではないが、その精神は何にも変え難く大切だ。 <br /><br />------------------------------<br /><br />2011.平成23年12月20(火) <br /><br /><br />■冨永恭次中将 <br /><br />マニラから昭和20年1月16日、特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言っていた陸軍特攻隊創設者でもあり、陸軍初の特攻隊、万朶隊の出撃命令を出した富永中将は、1月12日フィリピンでの陸軍特攻隊の最後を見送った後、残存兵を残して台北へ敵前逃亡したと言われている。 <br /><br />台北への脱出の真相は分からないが、その後満洲に配置換えになり終戦後シベリアに抑留。昭和30年に日本に帰国し五年後に死亡。享年68歳。敵前逃亡と言われているようだが、冨永中将の長男:富永靖少尉は特攻隊として戦死している。 <br /><br />ウィキペディアによれば・・・以下のようである。 <br /><br />『長男 富永靖(慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となり、第58振武隊員(特攻隊員)として1945年5月25日都城より出撃、特攻死。陸軍大尉。)冨永少尉は、父からもらった日の丸を持って出撃した。その際、あまりに堂々としていたため、見送りにきた第100飛行団の参謀が後で「あの隊員は誰だ」と下士官に尋ねたところ、「富永閣下のご子息です」という答えが返ってきたという。』 <br /><br />この息子にして、何故敵前逃亡の汚名を着た父親がいるのか?シベリアから帰還してたった五年で富永中将は亡くなったが真相はどうであったのか?特攻隊出撃時の訓示も一升瓶をぶら下げてくるような人物だったらしいが、その逸話で人物像がなんとなく想像できる。 <br /><br />息子が父親の汚名を補って余りある。今の日本のように「緊張感もなく」「厳しい義務もなく」のんべんだらりと人生を全うし恥も外聞もない社会に生きていれば、まともな人間が誰なのか?分からない。 <br /><br />戦場では即座に本質が出る。命が掛れば・・・。一体今の人間に当てはめればどうなるのだろう?そんな時自分ならどうだ?と心に問うが、何も自信がない。一つだけ分かるのは、その時に死んだ方が良いということだけだ。死んでいれば最低でもなんとか子孫は救われる。 <br /><br />多くが死んで少なく生き延びた者は誰しも疑問符が付く。それは仕方がない。生き延びた者の宿命であり、戦死者への償いでもある。自分がどんな人間なのか?今の世の中では分かりようがない。偽善社会だから、偽善に生きて行けるから。それは幸なのか不幸なのか? <br /><br /><br />----------------------------------<br /><br />2011.平成23年12月23(金) <br /><br /><br />■神風特別攻撃隊 <br /><br />1944年/昭和19年10月21日に第一陣がマバラカット東飛行場「敷島隊」、セブ島基地から「大和隊」が飛び立った。しかし敷島隊は米艦を発見できず帰投した。そして特攻二機・直掩一機の三機でセブ基地から飛び立った大和隊も二機は、悪天候でエンジン不調で帰投しているが久納好孚中尉はそのままレイテ湾に向ったのか未帰還だった。 <br /><br />セブ基地では、21日の発進を前に徹夜で零戦を整備していた。そして午後三時になって「空母六を基幹とするする敵機動部隊、スルアン島東方60マイル附近にあり」との第一報が来た。そして出撃命令を受けて三機の特攻機が爆装され、直掩機二機の5機が準備万端待機状態になった。 <br /><br />しかし中島正少佐の訓示が延々と続き敵機来襲を恐れて周囲はみんなイライラしていた。そこに案の定、グラマンが襲い掛かり虎の子の五機は無残にも一瞬にして破壊された。このあと予備機がすぐに準備されたが、特攻二機、直掩一機の発進となる。それもバラバラで飛び立ったようだ。 <br /><br />そんな状況での発進になったが久納好孚中尉は初志貫徹「一度飛び立てば還ることはない」との言葉通り、単独でレイテ湾に突入していったと思われる。しかし戦果の確認は今もって米軍資料からもない。 <br /><br />大西中将曰く特攻は「統率の外道」ならば、中島正少佐をはじめ特攻隊を送り出した上官たちのその後が気になる。大西中将は割腹自決をしてその責任を取ったが、多くの高官・上官は冨永中将のように「最後の一戦で本官も特攻する」との訓示をしながら戦後に生き延びた。 <br /><br />大西中将の副官であり特攻隊の編制から出撃、その全てに係わっていた門司親徳(もじ ちかのり)氏は戦後、丸三証券社長となり2008年死亡:91才の長寿を全うした。関行男を選抜し水杯を交わした玉井浅一中佐も、戦後に生き延び1964年62歳で死亡。やはりその場にいてそれからも出撃を見送り続けた猪口力平大佐も1983年死亡、80歳。 <br /><br />中島正少佐も戦後に生き延び航空自衛隊「空将」で退官となっている。その他にも多くの高官・上官が若き特攻隊兵士に出撃を命じながら戦後に生き抜いた。それは許されることなのだろうか?彼らが幾ら生涯特攻で散華した若者の霊を弔い自責の念にさいなまれて過ごしたとしても許されることなのだろう・・・か。 <br /><br />関係者が生き残り戦後にその真実・事実を伝え、散華した若者の崇高なる行為を将来に伝える役目も重大である。そのためにも自責の負い目を背負い生き抜くことが使命なのか?それでは誰が死に誰が生きるべきだったのか?特攻を考える時、いつもこのことが私の胸にひっかかる。 <br /><br />「誰が死に誰が生きるべきだったのか?」 <br /><br />しかし思うにやはり特攻に積極的に関与した高官・上官が、大西・宇垣の両中将だけではなく、戦後その全てを書き残したあとにでも死を持って「彼等の後に続くべきだった」と思わざるを得ない。それくらいこの神風特別攻撃隊、その他、すべての特攻隊作戦というのは「統率の外道」であり、命令権者の死の覚悟なくして実行すべきものではないと信じる。 <br /><br />少なくとも己に死の覚悟なくば、部下である若者を必死あるのみの特攻隊としてただの一人足りたりとも送り出してはならない。 <br /><br />航空機の特攻に限ればウィキペディアによると「海軍航空特攻隊員:2,531名」「陸軍航空特攻隊員:1,417名」 計3,948名 その他の特攻作戦による者をすべて合計すれば、合計14,009名を数えるとのこと・・・。 <br /><br />その一人一人に忘れてはならない尊き物語がある。一人でも多くの英霊の物語が世に出て戦後の日本人の心に何かを伝えて欲しい。 <br /><br /><br />------------------------------------<br /><br />2011.平成23年12月28日(水) <br /><br /><br />■映画:山本五十六 <br /><br />期待せずに見に行った。やはり面白くなかった。三国同盟締結に反対した海軍、その先鋒にたった山本を讃え、しかしながら最後には世相や周囲の圧力に屈し海軍も三国同盟締結に賛成し、大東亜戦争に踏み切ったことが間違いであることが前提の内容だった。 <br /><br />そんな映画は見たくもないが見てしまった。いつになったら日本人の誇りを喚起する戦争映画を作るのだろう。その時が日本再生の一歩を踏み出した時でもあるはずだ。 <br /><br />国とも言えぬ北朝鮮に拉致された同胞を救うことも出来ない今の日本に何の価値があるのか?子孫に誇り得る何を残せるのか?偉大なる先人のあら探しをして、今の自分たちの不甲斐なさを隠そうとしているのか?とことんつまらぬ日本人に成り下がったものだ。 <br /><br /><br />■神風特別攻撃隊 <br /><br />「空と海の涯で?第一航空艦隊副官の回想 (1978年)」:門司 親徳(著) ¥ 407 <br /><br />「特攻 特別攻撃隊 」:(宝島SUGOI文庫)別冊宝島編集部; 文庫; ¥ 1 <br /><br />「昭和の名将と愚将」: 半藤一利×保坂正康(著) ¥ 292 <br /><br />「神風特別攻撃隊の記録」:猪口力平 中島正(共著) <br /><br />「あ々神風特攻隊」:安延多計夫(著) <br /><br />「神風特攻の記録」:金子敏夫(著) <br /><br />今までも特攻隊の本は結構読んでいるけど、来年のマニラ行きに備えて特攻隊に関する本を読んでいる。中古本を買ったり図書館で借りたり・・・。特攻作戦を始めた経緯が具体的に少し分かって来た。 <br /><br />「あ々神風特攻隊」:安延多計夫(著)を今日読み終わったが、この本は米国の資料を下にして米軍からの視点で特攻攻撃を描写してくれている。米軍がいかに神風特別攻撃隊を恐れ神経質に警戒していたかが分かる。著者は台湾での海軍特攻隊の参謀だった。その身びいきを差し引いても米軍資料の解説内容は妥当だと感じた。 <br /><br />特攻機に対しての米英軍の対策が入念になって確かに敵艦に体当たりする以前に撃墜されることが圧倒的に多くなったが、それでもその間隙を縫って一機、二機が突入を果たす。それだけでも多くの敵を倒し敵を恐怖に落とし込む。 <br /><br />http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/tokkou_3.htm#picket <br /><br />大西中将の言うように「統率の外道」として始まった特攻隊だが、それ以降もあらゆる戦闘において特攻隊が編制され突き進んでいった。若き同期の桜たちの一途な国を守り家族を守るために「あいつが行くなら俺も行く」という気持ちであり、もし私がその立場になれば素直にそれが一番だ。 <br /><br />それが尊き精神だ。そこから卑怯に生き延びた上官・高官が当時少なからず身近に存在しても、彼等の多くはそんな卑怯者に追従する道を選択することはなかったと信じる。だから今更そんな者を探しだし糾弾し、あげつらっても何か得るところはあるのだろうか?最近そんな気がしてきた・・・。 <br /><br /><br /><br /><br />

    2012年2月6日
    サンチャゴ要塞 憲兵隊本部跡

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    2011.平成23年12月18(日)


    ■「敷島隊の五人(上)」森史郎(著)

    フィリピンのマバラカット飛行場から“神風特別攻撃隊”の第一号と言われている関行男大尉他四名のことを描いた本の上巻を読み終えた。

    関行男大尉といっても23歳の若さであり、他の四人は19歳、20歳である。みんな頭脳明晰・体力強健、厳しい訓練と鉄拳に鍛えられて操縦士に選ばれた勇士たちだ。その一人一人に物語があり逸話があり英雄伝として後世に残るべき人たちだ。

    戦後の戦争否定・自虐史観で英雄たちは、今もって埋もれたままだが、楠正成が甦ったように彼等も正等に評価を得る時が来ると信じる。戦後67年、日本と日本人の精神はホンマに腐ってしまったから。

    戦跡巡りを始めて、戦争に関する本を読みだして改めて思うのは、日本人は決して好戦的ではなく、元々温和で臆病、大人しい民族だと思う。しかし「白兵戦では負けなかった」というのは本当だと思っている。なぜ私は日本人は臆病と言いながら白兵戦では強いと言うのか。

    それは恥の文化と通じるが、「臆病を恥じるな卑怯未練を恥じよ」の精神に尽きる。日本人は“ガタイ”(図体)も大きくないし、筋肉質でもない。それこそ農耕民族と狩猟民族の体と精神の違いだと思う。やはり個々の闘争心では狩猟民族の方が圧倒的に強いのではないのか・・・と。

    なのに日本軍は強かったのか?今までも言ってきたが「軽き命」こそが日本人の強さであり、それに勝る強さはない。それは狩猟民族とて持ち得ない。“ガタイ”が貧弱で闘争心が強くなくても「軽き命」を実践する性根があれば誰にも負けることはない。どんな強靭な相手でも、命のやり取りなど簡単に出来ない。それを日本軍兵士は簡単に実践した。

    「兵士は消耗品」「一兵卒はゴミみたいな物」「死して虜囚の辱めを受けるな」「命は一銭五輪」

    これこそ日本軍の強さであり、今後も戦う限りは必須条件だと信じる。上記の言葉を今の日本人はまるで「悪である」かのように言っているが、私はそれこそ日本人の日本人たる美徳であり、それを失くせば日本人なんてただの弱者に過ぎない。

    軽き命こそ恥の文化の根源だ。命が軽ければ軽いほど人は輝きを増す。命が軽ければ軽いほど人は強くなる。命より大切なものが多い人間ほど立派に生きることが出来る。

    それを洗脳と言わば言え、特攻を賛美出来ぬ日本人は日本人にあらず。しかして特攻は邪道であることに変わりない。極力採用すべき戦術ではないが、その精神は何にも変え難く大切だ。

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    2011.平成23年12月20(火)


    ■冨永恭次中将

    マニラから昭和20年1月16日、特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言っていた陸軍特攻隊創設者でもあり、陸軍初の特攻隊、万朶隊の出撃命令を出した富永中将は、1月12日フィリピンでの陸軍特攻隊の最後を見送った後、残存兵を残して台北へ敵前逃亡したと言われている。

    台北への脱出の真相は分からないが、その後満洲に配置換えになり終戦後シベリアに抑留。昭和30年に日本に帰国し五年後に死亡。享年68歳。敵前逃亡と言われているようだが、冨永中将の長男:富永靖少尉は特攻隊として戦死している。

    ウィキペディアによれば・・・以下のようである。

    『長男 富永靖(慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となり、第58振武隊員(特攻隊員)として1945年5月25日都城より出撃、特攻死。陸軍大尉。)冨永少尉は、父からもらった日の丸を持って出撃した。その際、あまりに堂々としていたため、見送りにきた第100飛行団の参謀が後で「あの隊員は誰だ」と下士官に尋ねたところ、「富永閣下のご子息です」という答えが返ってきたという。』

    この息子にして、何故敵前逃亡の汚名を着た父親がいるのか?シベリアから帰還してたった五年で富永中将は亡くなったが真相はどうであったのか?特攻隊出撃時の訓示も一升瓶をぶら下げてくるような人物だったらしいが、その逸話で人物像がなんとなく想像できる。

    息子が父親の汚名を補って余りある。今の日本のように「緊張感もなく」「厳しい義務もなく」のんべんだらりと人生を全うし恥も外聞もない社会に生きていれば、まともな人間が誰なのか?分からない。

    戦場では即座に本質が出る。命が掛れば・・・。一体今の人間に当てはめればどうなるのだろう?そんな時自分ならどうだ?と心に問うが、何も自信がない。一つだけ分かるのは、その時に死んだ方が良いということだけだ。死んでいれば最低でもなんとか子孫は救われる。

    多くが死んで少なく生き延びた者は誰しも疑問符が付く。それは仕方がない。生き延びた者の宿命であり、戦死者への償いでもある。自分がどんな人間なのか?今の世の中では分かりようがない。偽善社会だから、偽善に生きて行けるから。それは幸なのか不幸なのか?


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    2011.平成23年12月23(金)


    ■神風特別攻撃隊

    1944年/昭和19年10月21日に第一陣がマバラカット東飛行場「敷島隊」、セブ島基地から「大和隊」が飛び立った。しかし敷島隊は米艦を発見できず帰投した。そして特攻二機・直掩一機の三機でセブ基地から飛び立った大和隊も二機は、悪天候でエンジン不調で帰投しているが久納好孚中尉はそのままレイテ湾に向ったのか未帰還だった。

    セブ基地では、21日の発進を前に徹夜で零戦を整備していた。そして午後三時になって「空母六を基幹とするする敵機動部隊、スルアン島東方60マイル附近にあり」との第一報が来た。そして出撃命令を受けて三機の特攻機が爆装され、直掩機二機の5機が準備万端待機状態になった。

    しかし中島正少佐の訓示が延々と続き敵機来襲を恐れて周囲はみんなイライラしていた。そこに案の定、グラマンが襲い掛かり虎の子の五機は無残にも一瞬にして破壊された。このあと予備機がすぐに準備されたが、特攻二機、直掩一機の発進となる。それもバラバラで飛び立ったようだ。

    そんな状況での発進になったが久納好孚中尉は初志貫徹「一度飛び立てば還ることはない」との言葉通り、単独でレイテ湾に突入していったと思われる。しかし戦果の確認は今もって米軍資料からもない。

    大西中将曰く特攻は「統率の外道」ならば、中島正少佐をはじめ特攻隊を送り出した上官たちのその後が気になる。大西中将は割腹自決をしてその責任を取ったが、多くの高官・上官は冨永中将のように「最後の一戦で本官も特攻する」との訓示をしながら戦後に生き延びた。

    大西中将の副官であり特攻隊の編制から出撃、その全てに係わっていた門司親徳(もじ ちかのり)氏は戦後、丸三証券社長となり2008年死亡:91才の長寿を全うした。関行男を選抜し水杯を交わした玉井浅一中佐も、戦後に生き延び1964年62歳で死亡。やはりその場にいてそれからも出撃を見送り続けた猪口力平大佐も1983年死亡、80歳。

    中島正少佐も戦後に生き延び航空自衛隊「空将」で退官となっている。その他にも多くの高官・上官が若き特攻隊兵士に出撃を命じながら戦後に生き抜いた。それは許されることなのだろうか?彼らが幾ら生涯特攻で散華した若者の霊を弔い自責の念にさいなまれて過ごしたとしても許されることなのだろう・・・か。

    関係者が生き残り戦後にその真実・事実を伝え、散華した若者の崇高なる行為を将来に伝える役目も重大である。そのためにも自責の負い目を背負い生き抜くことが使命なのか?それでは誰が死に誰が生きるべきだったのか?特攻を考える時、いつもこのことが私の胸にひっかかる。

    「誰が死に誰が生きるべきだったのか?」

    しかし思うにやはり特攻に積極的に関与した高官・上官が、大西・宇垣の両中将だけではなく、戦後その全てを書き残したあとにでも死を持って「彼等の後に続くべきだった」と思わざるを得ない。それくらいこの神風特別攻撃隊、その他、すべての特攻隊作戦というのは「統率の外道」であり、命令権者の死の覚悟なくして実行すべきものではないと信じる。

    少なくとも己に死の覚悟なくば、部下である若者を必死あるのみの特攻隊としてただの一人足りたりとも送り出してはならない。

    航空機の特攻に限ればウィキペディアによると「海軍航空特攻隊員:2,531名」「陸軍航空特攻隊員:1,417名」 計3,948名 その他の特攻作戦による者をすべて合計すれば、合計14,009名を数えるとのこと・・・。

    その一人一人に忘れてはならない尊き物語がある。一人でも多くの英霊の物語が世に出て戦後の日本人の心に何かを伝えて欲しい。


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    2011.平成23年12月28日(水)


    ■映画:山本五十六

    期待せずに見に行った。やはり面白くなかった。三国同盟締結に反対した海軍、その先鋒にたった山本を讃え、しかしながら最後には世相や周囲の圧力に屈し海軍も三国同盟締結に賛成し、大東亜戦争に踏み切ったことが間違いであることが前提の内容だった。

    そんな映画は見たくもないが見てしまった。いつになったら日本人の誇りを喚起する戦争映画を作るのだろう。その時が日本再生の一歩を踏み出した時でもあるはずだ。

    国とも言えぬ北朝鮮に拉致された同胞を救うことも出来ない今の日本に何の価値があるのか?子孫に誇り得る何を残せるのか?偉大なる先人のあら探しをして、今の自分たちの不甲斐なさを隠そうとしているのか?とことんつまらぬ日本人に成り下がったものだ。


    ■神風特別攻撃隊

    「空と海の涯で?第一航空艦隊副官の回想 (1978年)」:門司 親徳(著) ¥ 407

    「特攻 特別攻撃隊 」:(宝島SUGOI文庫)別冊宝島編集部; 文庫; ¥ 1

    「昭和の名将と愚将」: 半藤一利×保坂正康(著) ¥ 292

    「神風特別攻撃隊の記録」:猪口力平 中島正(共著)

    「あ々神風特攻隊」:安延多計夫(著)

    「神風特攻の記録」:金子敏夫(著)

    今までも特攻隊の本は結構読んでいるけど、来年のマニラ行きに備えて特攻隊に関する本を読んでいる。中古本を買ったり図書館で借りたり・・・。特攻作戦を始めた経緯が具体的に少し分かって来た。

    「あ々神風特攻隊」:安延多計夫(著)を今日読み終わったが、この本は米国の資料を下にして米軍からの視点で特攻攻撃を描写してくれている。米軍がいかに神風特別攻撃隊を恐れ神経質に警戒していたかが分かる。著者は台湾での海軍特攻隊の参謀だった。その身びいきを差し引いても米軍資料の解説内容は妥当だと感じた。

    特攻機に対しての米英軍の対策が入念になって確かに敵艦に体当たりする以前に撃墜されることが圧倒的に多くなったが、それでもその間隙を縫って一機、二機が突入を果たす。それだけでも多くの敵を倒し敵を恐怖に落とし込む。

    http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/tokkou_3.htm#picket

    大西中将の言うように「統率の外道」として始まった特攻隊だが、それ以降もあらゆる戦闘において特攻隊が編制され突き進んでいった。若き同期の桜たちの一途な国を守り家族を守るために「あいつが行くなら俺も行く」という気持ちであり、もし私がその立場になれば素直にそれが一番だ。

    それが尊き精神だ。そこから卑怯に生き延びた上官・高官が当時少なからず身近に存在しても、彼等の多くはそんな卑怯者に追従する道を選択することはなかったと信じる。だから今更そんな者を探しだし糾弾し、あげつらっても何か得るところはあるのだろうか?最近そんな気がしてきた・・・。




  • 2012年2月7日<br />マバラカット西飛行場跡<br /><br />////////////////////////////////////<br /><br />2012.平成24年1月10日(火) <br /><br /><br />■「空と海の涯(はて)で」:門司親徳(著)<br />http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/mo/chikanor.html <br /><br />「特攻生みの親」と言われる大西瀧治郎中将の副官をしていた人の回想記を読んでいる。東大出身の銀行マンから海軍主計中尉として太平洋戦争勃発時、真珠湾攻撃から戦場に出ていた人なので、海軍主計士官からみた太平洋戦争の様子が良く分かる。 <br /><br />銀行マンらしく几帳面でマメに日記を付けていた人のようで、時系列もしっかりとして文章も読みやすく面白い。まだ半分も読んでいないけど、戦争真っ只中でありながら戦場になっていない場所での日々の様子も伺えて興味深い。「ふ〜ん、そうやろな、南洋諸島といってもそこが戦場になるまでは、リゾート地での平和を満喫の日々なのか・・・」 <br /><br />昭和16年12月8日の真珠湾奇襲のために択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾から空母「端鶴(ずいかく)」の主計中尉(24歳)として向かう時、戦地赴任手当(通称:トンプク)を支給するか否か?戦争は始まっていないので中止になれば引き返す。そんなことにもやきもきしている様子がおかしい。 <br /><br />この本を読めば戦争と言うのは、どこにおいてもそれぞれの部隊の自己完結能力の優劣、すなわち後方からの支援の優劣が勝敗を決めることがホント良く分かる。ようするに当たり前だが総合力が勝敗を決する大きな要素だ。しかし、その総合力も圧倒的差があれば精神論は吹っ飛ぶが、そうでなければある程度は精神論でカバーできると信じる。 <br /><br />そこが日本と日本以外の国との決定的な違いだ。日本は特別な国だから。これはその是非とは関係なく特別だから特別としか言いようがない。他に類がないのが特別だ。だから日本は総合力においてある程度劣っていても対等以上に戦うことが出来る。しかし太平洋での連合国相手の戦いは精神論でカバーできない差があり、そのことを最初から意識していないかのような戦略戦術であり悲惨な戦いとなった。 <br /><br />戦争は人間同士の戦いであり、「腹が減っては戦が出来ない」というのは戦の原点でもある。その兵隊が生きるための賄い、戦うための武器の調達《武器、弾薬、食糧の補給や海軍予算の編成などを担当》をした主計隊の士官の目から見た戦争の実態というのは戦争の真実に迫るように思う。この本は本当にオモシロイし勉強になる。 <br /><br /><br />-----------------------------<br /><br />2012.平成24年1月17日(火) <br /><br /><br />■“神風特別攻撃隊”「特攻を拒否した少佐」 <br /><br />大西長官が“神風特別攻撃隊”を「統率の外道」と語ったように、必死の作戦は邪道であり恒常的な戦法としては本来有り得ない。しかしながら万万が一恒常的に継続する必要に迫られたならば、無論通常作戦以上の万全の準備と後方支援の下に行うべきものだ。特攻に反対した搭乗員も数多くいるのは当然だろう。ベテラン搭乗員は全員胸の内はそうだったのではと思う。 <br /><br />そのなかに大西長官に向って敢然と反対論を述べ、特攻を受け入れなかった美濃部正大尉がいる。彼は昭和19年7月夜間戦闘機隊指揮官としてフィリピンに配属された。同年11月、すでに特攻第一陣が出撃しその後順次特攻出撃を行っていた時である。少佐に昇進した美濃部は大西長官に呼び出された。 <br /><br />呼ばれた理由はパラオ島の傍らにコッソル水道があり、米軍はそこに飛行艇50機余りを進出させ日本内地との輸送妨害をしている。その飛行艇を叩き潰す相談である。 <br /><br />美濃部少佐が「夜間、戦闘機で飛び立ち夜明けに銃撃で叩きます」と言うと、大西長官は「君は生きて帰って来れるのか?」と問われ、「冗談じゃあありませんよ」というのが現場の美濃部少佐の答えであった。無事に帰れる可能性は限りなく小さい。 <br /><br />大西長官「君が行ってはいかん」<br />美濃部少佐「私以外に行ける者はおりません。もし、どうしても他の者に行かせろとおっしゃるなら、無駄死にです。彼等を無駄に殺すようなものです」 <br /><br />「それなら特攻でいいだろう」と言った長官に美濃部は憤然と「特攻ならいいだろうという考えには承服しかねます。(中略)どうしてもやれとおっしゃるなら、私の思うとおりにやる。部下の使い方ぐらい、私は良く知っています。どうか好きなようにやらせていただきたい」 <br /><br />大西長官はこのように面と向かって特攻に反対した美濃部少佐を認め、その後、12月1日、再び呼び出され日本で夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の編成を命じられた。この芙蓉部隊は終戦まで多大の戦果をあげることになる。そして美濃部少佐は戦後、航空自衛隊に入り退任後は日本電装学園長となり平成7年に82歳で亡くなっている。 <br /><br />「芙蓉部隊」<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%99%E8%93%89%E9%83%A8%E9%9A%8A <br /><br />その美濃部少佐の大西評は「剛毅な大西中将の姿ではなく、むしろ冷静に自分の意見に耳を傾けてくれる上官としての包容力が印象に残っている」とのことだ。戦後に生きた美濃部少佐も特攻を全否定しているのではなく唯一残る公式見解では特攻に対して次のように述べている <br /><br />『戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません』(「彗星」夜襲隊より) <br /><br />この言葉こそ特攻の本質を突いているように思えてならない。 <br /><br /><br />?特攻を拒否した少佐” <br /><br /><br />美濃部正少佐 <br /><br /><br />「芙蓉部隊、特攻せずPART1」 <br />http://youtu.be/BMBTmYh2ZrE<br /><br />「芙蓉部隊、特攻せずPART2/2」 <br />http://youtu.be/1o5DBslSSJw<br /><br /><br />---------------------------<br /><br />2012.平成24年1月18日(水) <br /><br /><br />■神風特別攻撃隊 <br /><br />もし“神風特別攻撃隊”なくして終戦を迎えていれば・・・。 <br /><br />大東亜戦争時、帝国陸海軍に「玉砕」も「自決」も「神風特別攻撃隊」もなく日本はポツダム宣言を受け入れ終戦となっていれば、大東亜戦争はどんな戦争になっていたのだろう? <br /><br />玉砕や自決、特攻を「犬死」といったり、「愚かな」といったり、「クレージー」と言ったり、「洗脳だ」「馬鹿だ」と言う奴がいるが、みんな心のなかでは、なんと思っているか・・・分かっている。誰も馬鹿になどしていない、口汚くそれらのことを非難しても、心の中ではみんななんて思っているのか <br /><br />もし両親や兄弟、近親者、友達や知り合いのなかに、玉砕・自決・特攻でなくなった者あらば、誰しも心の中では誇りとなっている。幾らみんなの前では「犬死」と叫ぼうが・・・人間であるならば、誰しも、人種民族問わず・・・。玉砕も自決も特攻もない大東亜戦争は考えられない。少なくともその精神だけでも継承せねばならない。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    2012年2月7日
    マバラカット西飛行場跡

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    2012.平成24年1月10日(火)


    ■「空と海の涯(はて)で」:門司親徳(著)
    http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/mo/chikanor.html

    「特攻生みの親」と言われる大西瀧治郎中将の副官をしていた人の回想記を読んでいる。東大出身の銀行マンから海軍主計中尉として太平洋戦争勃発時、真珠湾攻撃から戦場に出ていた人なので、海軍主計士官からみた太平洋戦争の様子が良く分かる。

    銀行マンらしく几帳面でマメに日記を付けていた人のようで、時系列もしっかりとして文章も読みやすく面白い。まだ半分も読んでいないけど、戦争真っ只中でありながら戦場になっていない場所での日々の様子も伺えて興味深い。「ふ〜ん、そうやろな、南洋諸島といってもそこが戦場になるまでは、リゾート地での平和を満喫の日々なのか・・・」

    昭和16年12月8日の真珠湾奇襲のために択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾から空母「端鶴(ずいかく)」の主計中尉(24歳)として向かう時、戦地赴任手当(通称:トンプク)を支給するか否か?戦争は始まっていないので中止になれば引き返す。そんなことにもやきもきしている様子がおかしい。

    この本を読めば戦争と言うのは、どこにおいてもそれぞれの部隊の自己完結能力の優劣、すなわち後方からの支援の優劣が勝敗を決めることがホント良く分かる。ようするに当たり前だが総合力が勝敗を決する大きな要素だ。しかし、その総合力も圧倒的差があれば精神論は吹っ飛ぶが、そうでなければある程度は精神論でカバーできると信じる。

    そこが日本と日本以外の国との決定的な違いだ。日本は特別な国だから。これはその是非とは関係なく特別だから特別としか言いようがない。他に類がないのが特別だ。だから日本は総合力においてある程度劣っていても対等以上に戦うことが出来る。しかし太平洋での連合国相手の戦いは精神論でカバーできない差があり、そのことを最初から意識していないかのような戦略戦術であり悲惨な戦いとなった。

    戦争は人間同士の戦いであり、「腹が減っては戦が出来ない」というのは戦の原点でもある。その兵隊が生きるための賄い、戦うための武器の調達《武器、弾薬、食糧の補給や海軍予算の編成などを担当》をした主計隊の士官の目から見た戦争の実態というのは戦争の真実に迫るように思う。この本は本当にオモシロイし勉強になる。


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    2012.平成24年1月17日(火)


    ■“神風特別攻撃隊”「特攻を拒否した少佐」

    大西長官が“神風特別攻撃隊”を「統率の外道」と語ったように、必死の作戦は邪道であり恒常的な戦法としては本来有り得ない。しかしながら万万が一恒常的に継続する必要に迫られたならば、無論通常作戦以上の万全の準備と後方支援の下に行うべきものだ。特攻に反対した搭乗員も数多くいるのは当然だろう。ベテラン搭乗員は全員胸の内はそうだったのではと思う。

    そのなかに大西長官に向って敢然と反対論を述べ、特攻を受け入れなかった美濃部正大尉がいる。彼は昭和19年7月夜間戦闘機隊指揮官としてフィリピンに配属された。同年11月、すでに特攻第一陣が出撃しその後順次特攻出撃を行っていた時である。少佐に昇進した美濃部は大西長官に呼び出された。

    呼ばれた理由はパラオ島の傍らにコッソル水道があり、米軍はそこに飛行艇50機余りを進出させ日本内地との輸送妨害をしている。その飛行艇を叩き潰す相談である。

    美濃部少佐が「夜間、戦闘機で飛び立ち夜明けに銃撃で叩きます」と言うと、大西長官は「君は生きて帰って来れるのか?」と問われ、「冗談じゃあありませんよ」というのが現場の美濃部少佐の答えであった。無事に帰れる可能性は限りなく小さい。

    大西長官「君が行ってはいかん」
    美濃部少佐「私以外に行ける者はおりません。もし、どうしても他の者に行かせろとおっしゃるなら、無駄死にです。彼等を無駄に殺すようなものです」

    「それなら特攻でいいだろう」と言った長官に美濃部は憤然と「特攻ならいいだろうという考えには承服しかねます。(中略)どうしてもやれとおっしゃるなら、私の思うとおりにやる。部下の使い方ぐらい、私は良く知っています。どうか好きなようにやらせていただきたい」

    大西長官はこのように面と向かって特攻に反対した美濃部少佐を認め、その後、12月1日、再び呼び出され日本で夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の編成を命じられた。この芙蓉部隊は終戦まで多大の戦果をあげることになる。そして美濃部少佐は戦後、航空自衛隊に入り退任後は日本電装学園長となり平成7年に82歳で亡くなっている。

    「芙蓉部隊」
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%99%E8%93%89%E9%83%A8%E9%9A%8A

    その美濃部少佐の大西評は「剛毅な大西中将の姿ではなく、むしろ冷静に自分の意見に耳を傾けてくれる上官としての包容力が印象に残っている」とのことだ。戦後に生きた美濃部少佐も特攻を全否定しているのではなく唯一残る公式見解では特攻に対して次のように述べている

    『戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません』(「彗星」夜襲隊より)

    この言葉こそ特攻の本質を突いているように思えてならない。


    ?特攻を拒否した少佐”


    美濃部正少佐


    「芙蓉部隊、特攻せずPART1」
    http://youtu.be/BMBTmYh2ZrE

    「芙蓉部隊、特攻せずPART2/2」
    http://youtu.be/1o5DBslSSJw


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    2012.平成24年1月18日(水)


    ■神風特別攻撃隊

    もし“神風特別攻撃隊”なくして終戦を迎えていれば・・・。

    大東亜戦争時、帝国陸海軍に「玉砕」も「自決」も「神風特別攻撃隊」もなく日本はポツダム宣言を受け入れ終戦となっていれば、大東亜戦争はどんな戦争になっていたのだろう?

    玉砕や自決、特攻を「犬死」といったり、「愚かな」といったり、「クレージー」と言ったり、「洗脳だ」「馬鹿だ」と言う奴がいるが、みんな心のなかでは、なんと思っているか・・・分かっている。誰も馬鹿になどしていない、口汚くそれらのことを非難しても、心の中ではみんななんて思っているのか

    もし両親や兄弟、近親者、友達や知り合いのなかに、玉砕・自決・特攻でなくなった者あらば、誰しも心の中では誇りとなっている。幾らみんなの前では「犬死」と叫ぼうが・・・人間であるならば、誰しも、人種民族問わず・・・。玉砕も自決も特攻もない大東亜戦争は考えられない。少なくともその精神だけでも継承せねばならない。







  • 2012年2月5日<br />ネルソン管制塔跡<br /><br />/////////////////////////////////<br /><br />2012.平成24年1月19日(木) <br /><br />■フィリピン <br /><br />1565年からスペインの植民地となり、次いでアメリカ・・・と、400年にも及ぶ長期間、白人の植民地だったフィリピンなのに、何故?大東亜戦争を通じ、そして終戦後も支那朝鮮を別にして、他の東南アジア諸国と違って反日感情が強かったのか? <br /><br />今回フィリピンでの戦いを調べてその理由の一端が分かった。まず太平洋戦勃発時は米国の植民地だったが、その時フィリピンは3年後の1944年:昭和19年の独立が約束されていた。 <br /><br />「フィリピンの歴史」<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 <br /><br />/////////////////////////////////<br />1934年に民主党フランクリン・ルーズヴェルト政権下で将来の独立を認めるフィリピン独立法=タイディングス・マクダフィー法が議会で可決、10年後のフィリピン独立を承認。1935年5月には憲法が批准され、同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とした米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。<br />//////////////////////////////// <br /><br />すでに独立準備政府が成立しており、日本がフィリピン攻撃を始めた16年末の3年後には400年に及ぶ白人統治から念願の独立を果たせるはずだった。そんな時に日本のフィリピン攻略が始まり、フィリピンは戦場となった。そして日本軍占領後も物資調達のため軍票を乱発しインフレ・食糧不足が加速し、そんな日本の軍政はフィリピン人の反感をかった。日本も1943/昭和19年にはホセ・ラウレルを大統領として独立を認めたが時既に遅し。 <br /><br />そしてマニラで市民を巻き込んでの市街戦が起こった。フィリピンのマニラ市街戦での死者は日本軍1万6555人、米軍1010人、マニラ市民10万人と言われている。そしてこのことが戦後、日本軍の市民虐殺のように言われ戦後の反日感情の原因となった。 <br /><br />しかし実際のマニラ市街戦は、マッカーサーが豪州に逃れた時に、オープンシティーとして戦火に巻き込まず日本軍に占領を許した。その為に市民は、マッカーサーの逆上陸に際して、まさかこのマニラを戦火に巻き込むことはしないだろうと思い避難する市民がいなかった。 <br /><br />それなのに米軍は容赦をせず無差別爆撃により多くの市民を巻き添えにした。そして武器なき弱体化している日本軍守備隊に対して、米軍はマニラを包囲し退路を断たれた日本軍は徹底抗戦の道しかなかった。そして米軍供与の武器を持ちゲリラ化したマニラ市民を巻き込んでの戦いとなり日本軍に殺害された者も多数出た。 <br /><br />しかしマニラ市街の破壊の大半は日本軍の行為ではなく「(参照)対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒であり、そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった」というのが事実だと思う。その責任の転嫁が山下奉文大将の死刑執行だとも言われている。 <br /><br />----------------------------------<br /><br />2012.平成24年1月22日(日) <br /><br /><br />■「レイテ戦記」:大岡昇平(著) <br /><br />図書館で借りてきてレイテ戦記を読み始めた。まだ数ページを読んだだけだが、今まで気付かなかった太平洋での戦いの一端が分かり敗戦に至る経緯が見えてくる。 <br /><br />大東亜戦争は敗戦とはいえ日本の輝く歴史であると信じるが、反省すべきは山ほどある。こんな稚拙な戦いだったのか?と、海軍の愚かな真珠湾奇襲もそうだが、その後の無謀な戦域拡大。そして、この本の21頁に書いてあることを読み、根本的にこの戦争は一体何だったのか?大本営参謀本部は何を考えていたのかと思わざるをえない。 <br /><br />それは・・・↓。 <br /><br />『当時中国満洲戦線には200万人の大軍が常駐していたのに、太平洋戦線には15個師団25万人しかさけなかった。主敵が米英であることがわかっていながら、大軍をソ連と重慶の押さえとして動かすことが出来なかった。・・・これは太平洋戦争の最大の戦略矛盾で、18年のガダルカナル撤退以来、日本軍が始終防禦に立たされ、主導権を取り返すことが出来なかった理由の一つである。』 <br /><br />ホンマや・・と。これは一体何やったんや?南方に進出し、米英他連合国との戦端を開くなら、主敵はどこなのか大所に立てば即座に分かる。米軍をそこまで侮っていたのかとも思えない。「1〜2年は戦って見せます」と山本五十六も強敵米国を認識し、誰もがわかっていたはずだ。 <br /><br />昭和18年9月30日に絶対国防圏が定められたようだが、その時はニューギニアまでもが含まれていた。しかし18年9月と言えばガダルカナルから撤退し、山本五十六も戦死、イタリアも降伏していた。 <br /><br />そんな時点でまだこの調子とは・・・。陸海軍の間に戦況の認識のズレがあり、細部の情報も不足し現場の司令官クラスでも全く現状の正しい認識が出来ていなかったと思える。ホンマに何でヤンと思うことばかりなり。 <br /><br />フィリピンでも開戦以来、南方への兵站基地に過ぎないとの認識で飛行場もなければ沿岸防御施設も全然出来ていなかった。守備する第14軍司令官・黒田中将は昭和18年5月に赴任しながら、フィリピン人の妾を持ち、その年10月に日本がフィリピンの独立を認めその初代大統領となったラウレルやフィリピン要人たちとゴルフ三昧だったらしい。 <br /><br />それくらい能天気だった。これはサイパン・グアムやその他も同じような感じだ。司令官の愚かさというより、どことも同じような状態だったのは司令官でさえも全く実情がわかっていなかったといえる。なんやねん?これは・・・である。 <br /><br />陸海軍の相互の情報交換もなく、全てが行き当たりばったりで、次々と水が漏れて初めて慌てて水漏れを防ごうとする対処療法に追われていたのだろう。この黒田中将の任を解いて山下奉文大将が赴任したのは、レイテ島米軍上陸二週間前のことだ。これではどうしようもない。 <br /><br />大東亜戦争の戦いで緒戦を除き、勝てないままの戦いが続き敗戦に到ったのは、一体どこで何を間違ったのか、もっと他に戦い方があったはずだ。戦争をしない為にも戦争を知ることが必須だ。戦争アレルギーを持たず専門家だけではなく日本国民全部が学び知る必要がある。一家庭の存亡と同じく、自分と家族が生きて行くためになくてならない国であるのだから。 <br /><br />戦争を始めるあたっては、その戦争目的をはっきりすること。戦争目的というのは、すなわち終戦をどのような形で終わることを目的とするのか・・・だ。 <br /><br />米国と戦うなら、米国の首都ワシントンを陥れ相手を屈服させるのか?それは誰も考えていなかったろう。ならば、やはりどこかで停戦に持ち込み、戦前の日米交渉時の問題をどうクリアーすれば互いに矛を収めるのか? <br /><br />それは戦いながらの駆け引きになる。イタリアが降伏し、ドイツが敗れた。それでも日本は戦い続けた。想像するだけでも終戦・停戦を決めるのは難しい。こっちが思っても相手は有利ならば、停戦交渉など受け入れずどこまで攻め込んで来るのはいうまでもない。 <br /><br />ならば停戦ではなく降伏をするのか?・・・降伏を頭に描けば、次々と最悪のことを思い浮かべる。皇室の解体・植民地化・国の分割占領・占領軍によっての虐殺・降伏反対の軍人による暗殺・内戦等々。とくに軍部や政府の中枢に近い者は降伏には大きな決断を有する。そこには自分の命だけではなく家族一族を含めて降伏後のあらゆる恐怖が脳裏に浮かぶ。 <br /><br />似非平和を享受してきた今の人間には、なかなかその恐怖の現実は想像できないだろう。何とっても相手は殺し合いをしてきた敵なのだ。降伏するくらいならいっそのこと一蓮托生一億玉砕を目指そうとするのは十分考えられる。 <br /><br />まあボチボチ生涯の課題として大東亜戦争を考えていくしかない。 <br /><br /><br />--------------------------------<br /><br />2012.平成24年1月23日(月) <br /><br /><br />■「レイテ戦記」:大岡昇平(著) <br /><br />台湾沖航空戦:昭和19年10月12日〜16日<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6 <br /><br />真実の結果 <br /><br />日本軍の損害:日本軍 航空機 312機 <br /><br />米軍の損害:航空機89機、搭乗員約100名<br />      大破:キャンベラ(重巡洋艦)、ヒューストン(軽巡洋艦)<br />      小破:ハンコック(正規空母)<br /><br /><br />大本営海軍部の誤報  ↓ <br /><br />10月19日、「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と発表した。 <br /><br />アメリカでは、投資家の一部が大本営発表の内容を信じたために、一時株価が大暴落するという事態も発生した。 <br /><br />40頁参照<br />『大本営海軍部は、敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせ、勅語まで出た戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんないいにくくともいわねばならなぬ真実というものはある。 <br /><br />もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫するこということは起こらなかったかも知れない三個師団の決戦部隊が危険水域に海上輸送されることはなく、犠牲は16師団と、ビサヤ・ミンダナオからの増援部隊だけですんだかも知れない。1万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて餓死するという事態は起こらなかったかも知れないのである。』 <br /><br />78頁参照<br />『台湾沖航空戦の勝利を信じていた軍では、レイテ上陸はマッカーサー軍の単独企図で、その兵力は、二個師団ぐらいだろうと思っていた。増援を得た上は、攻勢を取り、カリガラ方面に主力を結集して、敵をレイテ湾に追い落すつもりであった。11月16日までにタクロバンに入城し、マッカーサー将軍を捕虜にした時、西南太平洋軍全体の降伏を要求すべきかどうか、を真面目に検討したという。』 <br /><br />この海軍の誤報とその後も速やかに訂正しなかった海軍の信じがたい行為によって、35〜50万人が戦死ともいわれるフィリピンでの凄惨な戦いが始まった。しかし追い詰められた状況ではこういったことが度々起きるのだろう。誰もが普通とは違う意識下に行動していることを肝に銘じておかなければならない。 <br /><br /><br />■「戦うつもりはなくても戦いは始まることもある」 <br /><br />日本は米国との戦いをのぞんでいなかった。しかし敵が自分より強い相手であることがわかっていても引き下がることが出来ず戦いに踏み切った。 <br /><br />これからもそういったケースがあるだろう。「世界でも」「社会でも」「会社でも」「個人でも」・・・こんなことは日常的に普通によくある話しだから。 <br /><br />そして日本は大東亜戦争に敗れ、敗戦の惨めさを今も引きずっている。二度と同じ事を繰り返さないために何をすべきか?答えは簡単だ。 <br /><br />やりたくない相手に仕掛けられることがあるのだから、そんな時でも相手に勝つには、相手より強くなるしかない。しかし総合力において強くなるのは、「国土の大きさ」「資源の多寡」「人口」「民族の資質」等々いろんな条件があるので、幾ら努力してもどうしようもない一面がある。 <br /><br />しかし今なら、そんな諸条件など関係なく、これさえ持てば相手がどこであれ「対等」といえる兵器が存在する。それは大量破壊兵器「核兵器」。そうだ・・・。大東亜戦争の反省なら、一発答えが出る。そしてこれ以外にない。 <br /><br />軍事力では世界No.1の米国を葬るだけの核ミサイルを備え、核ミサイル装備の原子力潜水艦を常時遊弋させていれば、どこの国であろうが「戦うつもりはなくても戦いが始まる」ことの確率は大幅に下げることが出来る。そして「もしやられても」それに匹敵しての「仕返しは可能だ」。 <br /><br />これしかないし、議論の余地もない。 <br /><br /><br /><br /><br />

    2012年2月5日
    ネルソン管制塔跡

    /////////////////////////////////

    2012.平成24年1月19日(木)

    ■フィリピン

    1565年からスペインの植民地となり、次いでアメリカ・・・と、400年にも及ぶ長期間、白人の植民地だったフィリピンなのに、何故?大東亜戦争を通じ、そして終戦後も支那朝鮮を別にして、他の東南アジア諸国と違って反日感情が強かったのか?

    今回フィリピンでの戦いを調べてその理由の一端が分かった。まず太平洋戦勃発時は米国の植民地だったが、その時フィリピンは3年後の1944年:昭和19年の独立が約束されていた。

    「フィリピンの歴史」
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

    /////////////////////////////////
    1934年に民主党フランクリン・ルーズヴェルト政権下で将来の独立を認めるフィリピン独立法=タイディングス・マクダフィー法が議会で可決、10年後のフィリピン独立を承認。1935年5月には憲法が批准され、同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とした米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。
    ////////////////////////////////

    すでに独立準備政府が成立しており、日本がフィリピン攻撃を始めた16年末の3年後には400年に及ぶ白人統治から念願の独立を果たせるはずだった。そんな時に日本のフィリピン攻略が始まり、フィリピンは戦場となった。そして日本軍占領後も物資調達のため軍票を乱発しインフレ・食糧不足が加速し、そんな日本の軍政はフィリピン人の反感をかった。日本も1943/昭和19年にはホセ・ラウレルを大統領として独立を認めたが時既に遅し。

    そしてマニラで市民を巻き込んでの市街戦が起こった。フィリピンのマニラ市街戦での死者は日本軍1万6555人、米軍1010人、マニラ市民10万人と言われている。そしてこのことが戦後、日本軍の市民虐殺のように言われ戦後の反日感情の原因となった。

    しかし実際のマニラ市街戦は、マッカーサーが豪州に逃れた時に、オープンシティーとして戦火に巻き込まず日本軍に占領を許した。その為に市民は、マッカーサーの逆上陸に際して、まさかこのマニラを戦火に巻き込むことはしないだろうと思い避難する市民がいなかった。

    それなのに米軍は容赦をせず無差別爆撃により多くの市民を巻き添えにした。そして武器なき弱体化している日本軍守備隊に対して、米軍はマニラを包囲し退路を断たれた日本軍は徹底抗戦の道しかなかった。そして米軍供与の武器を持ちゲリラ化したマニラ市民を巻き込んでの戦いとなり日本軍に殺害された者も多数出た。

    しかしマニラ市街の破壊の大半は日本軍の行為ではなく「(参照)対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒であり、そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった」というのが事実だと思う。その責任の転嫁が山下奉文大将の死刑執行だとも言われている。

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    2012.平成24年1月22日(日)


    ■「レイテ戦記」:大岡昇平(著)

    図書館で借りてきてレイテ戦記を読み始めた。まだ数ページを読んだだけだが、今まで気付かなかった太平洋での戦いの一端が分かり敗戦に至る経緯が見えてくる。

    大東亜戦争は敗戦とはいえ日本の輝く歴史であると信じるが、反省すべきは山ほどある。こんな稚拙な戦いだったのか?と、海軍の愚かな真珠湾奇襲もそうだが、その後の無謀な戦域拡大。そして、この本の21頁に書いてあることを読み、根本的にこの戦争は一体何だったのか?大本営参謀本部は何を考えていたのかと思わざるをえない。

    それは・・・↓。

    『当時中国満洲戦線には200万人の大軍が常駐していたのに、太平洋戦線には15個師団25万人しかさけなかった。主敵が米英であることがわかっていながら、大軍をソ連と重慶の押さえとして動かすことが出来なかった。・・・これは太平洋戦争の最大の戦略矛盾で、18年のガダルカナル撤退以来、日本軍が始終防禦に立たされ、主導権を取り返すことが出来なかった理由の一つである。』

    ホンマや・・と。これは一体何やったんや?南方に進出し、米英他連合国との戦端を開くなら、主敵はどこなのか大所に立てば即座に分かる。米軍をそこまで侮っていたのかとも思えない。「1〜2年は戦って見せます」と山本五十六も強敵米国を認識し、誰もがわかっていたはずだ。

    昭和18年9月30日に絶対国防圏が定められたようだが、その時はニューギニアまでもが含まれていた。しかし18年9月と言えばガダルカナルから撤退し、山本五十六も戦死、イタリアも降伏していた。

    そんな時点でまだこの調子とは・・・。陸海軍の間に戦況の認識のズレがあり、細部の情報も不足し現場の司令官クラスでも全く現状の正しい認識が出来ていなかったと思える。ホンマに何でヤンと思うことばかりなり。

    フィリピンでも開戦以来、南方への兵站基地に過ぎないとの認識で飛行場もなければ沿岸防御施設も全然出来ていなかった。守備する第14軍司令官・黒田中将は昭和18年5月に赴任しながら、フィリピン人の妾を持ち、その年10月に日本がフィリピンの独立を認めその初代大統領となったラウレルやフィリピン要人たちとゴルフ三昧だったらしい。

    それくらい能天気だった。これはサイパン・グアムやその他も同じような感じだ。司令官の愚かさというより、どことも同じような状態だったのは司令官でさえも全く実情がわかっていなかったといえる。なんやねん?これは・・・である。

    陸海軍の相互の情報交換もなく、全てが行き当たりばったりで、次々と水が漏れて初めて慌てて水漏れを防ごうとする対処療法に追われていたのだろう。この黒田中将の任を解いて山下奉文大将が赴任したのは、レイテ島米軍上陸二週間前のことだ。これではどうしようもない。

    大東亜戦争の戦いで緒戦を除き、勝てないままの戦いが続き敗戦に到ったのは、一体どこで何を間違ったのか、もっと他に戦い方があったはずだ。戦争をしない為にも戦争を知ることが必須だ。戦争アレルギーを持たず専門家だけではなく日本国民全部が学び知る必要がある。一家庭の存亡と同じく、自分と家族が生きて行くためになくてならない国であるのだから。

    戦争を始めるあたっては、その戦争目的をはっきりすること。戦争目的というのは、すなわち終戦をどのような形で終わることを目的とするのか・・・だ。

    米国と戦うなら、米国の首都ワシントンを陥れ相手を屈服させるのか?それは誰も考えていなかったろう。ならば、やはりどこかで停戦に持ち込み、戦前の日米交渉時の問題をどうクリアーすれば互いに矛を収めるのか?

    それは戦いながらの駆け引きになる。イタリアが降伏し、ドイツが敗れた。それでも日本は戦い続けた。想像するだけでも終戦・停戦を決めるのは難しい。こっちが思っても相手は有利ならば、停戦交渉など受け入れずどこまで攻め込んで来るのはいうまでもない。

    ならば停戦ではなく降伏をするのか?・・・降伏を頭に描けば、次々と最悪のことを思い浮かべる。皇室の解体・植民地化・国の分割占領・占領軍によっての虐殺・降伏反対の軍人による暗殺・内戦等々。とくに軍部や政府の中枢に近い者は降伏には大きな決断を有する。そこには自分の命だけではなく家族一族を含めて降伏後のあらゆる恐怖が脳裏に浮かぶ。

    似非平和を享受してきた今の人間には、なかなかその恐怖の現実は想像できないだろう。何とっても相手は殺し合いをしてきた敵なのだ。降伏するくらいならいっそのこと一蓮托生一億玉砕を目指そうとするのは十分考えられる。

    まあボチボチ生涯の課題として大東亜戦争を考えていくしかない。


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    2012.平成24年1月23日(月)


    ■「レイテ戦記」:大岡昇平(著)

    台湾沖航空戦:昭和19年10月12日〜16日
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6

    真実の結果

    日本軍の損害:日本軍 航空機 312機

    米軍の損害:航空機89機、搭乗員約100名
          大破:キャンベラ(重巡洋艦)、ヒューストン(軽巡洋艦)
          小破:ハンコック(正規空母)


    大本営海軍部の誤報  ↓

    10月19日、「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と発表した。

    アメリカでは、投資家の一部が大本営発表の内容を信じたために、一時株価が大暴落するという事態も発生した。

    40頁参照
    『大本営海軍部は、敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせ、勅語まで出た戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんないいにくくともいわねばならなぬ真実というものはある。

    もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫するこということは起こらなかったかも知れない三個師団の決戦部隊が危険水域に海上輸送されることはなく、犠牲は16師団と、ビサヤ・ミンダナオからの増援部隊だけですんだかも知れない。1万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて餓死するという事態は起こらなかったかも知れないのである。』

    78頁参照
    『台湾沖航空戦の勝利を信じていた軍では、レイテ上陸はマッカーサー軍の単独企図で、その兵力は、二個師団ぐらいだろうと思っていた。増援を得た上は、攻勢を取り、カリガラ方面に主力を結集して、敵をレイテ湾に追い落すつもりであった。11月16日までにタクロバンに入城し、マッカーサー将軍を捕虜にした時、西南太平洋軍全体の降伏を要求すべきかどうか、を真面目に検討したという。』

    この海軍の誤報とその後も速やかに訂正しなかった海軍の信じがたい行為によって、35〜50万人が戦死ともいわれるフィリピンでの凄惨な戦いが始まった。しかし追い詰められた状況ではこういったことが度々起きるのだろう。誰もが普通とは違う意識下に行動していることを肝に銘じておかなければならない。


    ■「戦うつもりはなくても戦いは始まることもある」

    日本は米国との戦いをのぞんでいなかった。しかし敵が自分より強い相手であることがわかっていても引き下がることが出来ず戦いに踏み切った。

    これからもそういったケースがあるだろう。「世界でも」「社会でも」「会社でも」「個人でも」・・・こんなことは日常的に普通によくある話しだから。

    そして日本は大東亜戦争に敗れ、敗戦の惨めさを今も引きずっている。二度と同じ事を繰り返さないために何をすべきか?答えは簡単だ。

    やりたくない相手に仕掛けられることがあるのだから、そんな時でも相手に勝つには、相手より強くなるしかない。しかし総合力において強くなるのは、「国土の大きさ」「資源の多寡」「人口」「民族の資質」等々いろんな条件があるので、幾ら努力してもどうしようもない一面がある。

    しかし今なら、そんな諸条件など関係なく、これさえ持てば相手がどこであれ「対等」といえる兵器が存在する。それは大量破壊兵器「核兵器」。そうだ・・・。大東亜戦争の反省なら、一発答えが出る。そしてこれ以外にない。

    軍事力では世界No.1の米国を葬るだけの核ミサイルを備え、核ミサイル装備の原子力潜水艦を常時遊弋させていれば、どこの国であろうが「戦うつもりはなくても戦いが始まる」ことの確率は大幅に下げることが出来る。そして「もしやられても」それに匹敵しての「仕返しは可能だ」。

    これしかないし、議論の余地もない。




  • 2012年2月6日<br />マッキンレー米軍記念墓地<br /><br />////////////////////////////////////////<br /><br />2012.平成24年1月26日(木) <br /><br /><br />■「レイテ戦記」:大岡昇平(著) <br /><br />「レイテ沖海戦」はウィキペディアにも膨大な量の解説が書かれている。その最大の注目点が栗田艦隊がレイテ湾を目前にしての「謎の反転」(昭和19年10月25日)である。 <br /><br />&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6 <br /><br />そのことについてこのレイテ戦記でも大岡昇平が詳しく述べており、その整理として以下のことを記している。 <br /><br />/////////////// <br /><br />一、レイテ湾の輸送船は、進むに従って逃れ去るであろう。上陸開始以来一週間に近いから、兵員資材の大部分を揚陸して、空船にちがいない。 <br /><br />二、レイテ湾に入ればタクロバンの飛行場から攻撃を受けるだろう。 <br /><br />三、討ち洩らした機動部隊のほかに、強力な新手部隊が、レイテ湾南方に待機しているらしい。 <br /><br />四、二群の新手の機動部隊が北方にいる。 <br /><br />要するに出口のないレイテ湾内で、航空機の袋叩きに会うという判断がすべてを決定したのだが、これらはすべて想像である。偵察機を持たない栗田長官は、すべて自分の想像したものによって決断していた。しかも彼はこれを退却と思いたくはなかった。 <br /><br />/////////////// <br /><br />戦後のインタビューの中で、レイテ湾目前(あと航行1時間)にして北への反転の決断について・・・「あの時は非常に疲れていた」との言葉が真実なら、そこにこの決断に「誤り」があったと本人が認めていると思わざるを得ない。 <br /><br />一応この反転について賛否両論多種多様な見方かたがあり、当時大和の通信士として現場にいた方のを読んでも反転についての是非は難しいようだ。これからも論争に決着はつかないのだろうが、結果を知る戦後の私にとっては、やはりレイテ湾に突入すべきだったというのが正直な気持ちだ。 <br /><br />「大和艦橋から見たレイテ海戦」<br />http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-reite-tuduku0.html <br /><br />湾内への突入によって艦隊の全滅を恐れたのだろうが、最初から栗田長官はこの作戦に納得いかない気持ちが意識下にあったのだろう。とにかくこういった戦場においては、山口多聞中将の口ぐせだったという言葉 <br /><br />「人間、死ぬか生きるかの瀬戸際に立って、判断に迷うような時には、まっしぐらに死に突っこむことだ」 <br /><br />これは至言だと思う。この時点では日本海軍もすでに瀬戸際だったはずだ。まともな正規空母艦隊もすでになく、栗田艦隊も航空機の援護もない状態だった。南雲・栗田等々消極的戦法に傾きがちな官僚的将官が司令官の座に定着したまま太平洋での艦隊決戦に向ったことが日本の不幸に繋がった。 <br /><br />そして何より以下の「YouTube」の証言こそが、謎の反転の真実を示していると私は思う。チャネル桜が「戦艦大和 副砲長 元海軍少佐 深井俊之助」のインタビュー映像を撮ってくれた。現場にいた者にしか分からない艦橋の固唾を飲む雰囲気がリアルに伝わってくる。 <br /><br /><br />「レイテ沖海戦(H18.10.16) 」 <br /><br />http://youtu.be/D_wG58TEnyM<br /><br /><br />-----------------<br /><br />2012.平成24年1月27日(金) <br /><br /><br />■「レイテ戦記」:大岡昇平(著) <br /><br />「レイテ戦記」大岡昇平(著)は小説とあるが、内容はレイテ戦争史そのもので、時々刻々と変化するレイテの日米の戦いを詳細に解説している記録である。大岡本人は、19年3月の召集兵として、フィリピン・ミンドロオ島サンホセを警備していた中隊に属した一等兵・暗号手だった。 <br /><br />部隊名・地名等々あまりに詳細で、じっくり読めないが、もし自分の父親、身内がこのレイテ戦で亡くなったり従軍しているのを調べようと思えばこれほどありがたい本はないだろう。日米双方の膨大な戦記・資料を比較検討しながら、真実に迫ろうとしているのが伝わってくる。 <br /><br />片岡中将「従軍記」「須山日誌」、他に「第一師団レイテ戦記」「57連隊戦記・レイテの雨」米側「昨日の子供たち」「或る連隊の戦い」等々、同じ戦場で敵味方として戦い戦記を残している。それらを検証することによって真実の姿が現れてくる。 <br /><br />当時レイテに上陸していた米軍は、「砲兵10:1」「歩兵3:1」が確実に勝利を目指す原則だった。この一つをとってみても、日本軍がこの太平洋諸島での戦いが、いかに勝利とは及びもつかない体制であったことが分かる。しかし、大陸に200万、そして太平洋に25万・・・当初、日本もこれだけの人数がいたのにもかかわらず・・・である。 <br /><br />そして、武器・弾薬・その他食糧を第一とした後方支援体制が、米軍と比較すれば月とスッポン以上に乖離した状況であり、なんやねんこれは?としか思えない。人も武器も物も無かったのではなく、あまりにも無駄に海の藻屑としたり、遅きに失したり、有効利用できなかったのだ。戦いそのものに負けての敗戦ならまだ納得も行くが、まったくそうではないのでやりきれない。こんな戦は二度としてはならないと痛感する。 <br /><br />米軍の資料にレイテ島ピナモポアンにおいて日本軍と戦った連隊長:ヴァーベック大佐が第六軍情報部に提出した報告に、日本軍の戦いぶりを詳細に記述している。 <br /><br />その中の一節には以下のようなことが記されている。 <br /><br />『敵と交戦した者は、その見事な戦闘ぶりによって感銘を受けた。向こう見ずな攻撃、無益な犠牲や一般に戦術の初歩に反した行動は見られなかった。敵の最も顕著なる特徴は射撃の組織的なこと、あらゆる武器の使用の統御にある。敵の射撃は例外なく最大の効果を発揮する瞬間まで抑制されていた。』 <br /><br />これは軍の統制は無論だが、裏返せば日本軍にいかに弾薬が少なかったかを如実に表したことだと思う。 <br /><br />これを報告したヴァーベック大佐は祖父が宣教師として明治初年に来日し、彼も日本生まれで日本語もある程度出来たようだ。戦後、朝鮮戦争にも参加し、1950年東京に再び来た彼はGHQの意向に反し、靖国神社に参拝し、レイテで戦った第一師団長:片岡中将に出会い師団の善戦を賞賛している。そんな彼の生い立ちから、過酷な戦場で日本軍と戦った彼の心情に、日本を想う複雑な気持ちが伺える。 <br /><br />フィリピンでの戦いは、戦死者の膨大なることから当たり前であるのだろうが、こんなに大変な戦場だったのか?と、今まで何も知らなかったことに我ながら呆れる。マニラ四泊五日の旅なのに、何故レイテ戦記を読むのか?と、思ったけど、フィリピンの戦いの凄まじさの一端を感じることが出来ただけでもその価値ありとする。 <br /><br />でもやっと上の半分、それもほとんど読み流す程度で頁をめくりながら・・・。とても完読は無理だ。レイテ戦・フィリピンの戦いについては「第三大隊の戦史」というHPを見つけた。 <br /><br />「第三大隊の戦史」<br />http://www.sakai.zaq.ne.jp/hohei13/index.html <br /><br /><br /><br /><br />

    2012年2月6日
    マッキンレー米軍記念墓地

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    2012.平成24年1月26日(木)


    ■「レイテ戦記」:大岡昇平(著)

    「レイテ沖海戦」はウィキペディアにも膨大な量の解説が書かれている。その最大の注目点が栗田艦隊がレイテ湾を目前にしての「謎の反転」(昭和19年10月25日)である。

    "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6

    そのことについてこのレイテ戦記でも大岡昇平が詳しく述べており、その整理として以下のことを記している。

    ///////////////

    一、レイテ湾の輸送船は、進むに従って逃れ去るであろう。上陸開始以来一週間に近いから、兵員資材の大部分を揚陸して、空船にちがいない。

    二、レイテ湾に入ればタクロバンの飛行場から攻撃を受けるだろう。

    三、討ち洩らした機動部隊のほかに、強力な新手部隊が、レイテ湾南方に待機しているらしい。

    四、二群の新手の機動部隊が北方にいる。

    要するに出口のないレイテ湾内で、航空機の袋叩きに会うという判断がすべてを決定したのだが、これらはすべて想像である。偵察機を持たない栗田長官は、すべて自分の想像したものによって決断していた。しかも彼はこれを退却と思いたくはなかった。

    ///////////////

    戦後のインタビューの中で、レイテ湾目前(あと航行1時間)にして北への反転の決断について・・・「あの時は非常に疲れていた」との言葉が真実なら、そこにこの決断に「誤り」があったと本人が認めていると思わざるを得ない。

    一応この反転について賛否両論多種多様な見方かたがあり、当時大和の通信士として現場にいた方のを読んでも反転についての是非は難しいようだ。これからも論争に決着はつかないのだろうが、結果を知る戦後の私にとっては、やはりレイテ湾に突入すべきだったというのが正直な気持ちだ。

    「大和艦橋から見たレイテ海戦」
    http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-reite-tuduku0.html

    湾内への突入によって艦隊の全滅を恐れたのだろうが、最初から栗田長官はこの作戦に納得いかない気持ちが意識下にあったのだろう。とにかくこういった戦場においては、山口多聞中将の口ぐせだったという言葉

    「人間、死ぬか生きるかの瀬戸際に立って、判断に迷うような時には、まっしぐらに死に突っこむことだ」

    これは至言だと思う。この時点では日本海軍もすでに瀬戸際だったはずだ。まともな正規空母艦隊もすでになく、栗田艦隊も航空機の援護もない状態だった。南雲・栗田等々消極的戦法に傾きがちな官僚的将官が司令官の座に定着したまま太平洋での艦隊決戦に向ったことが日本の不幸に繋がった。

    そして何より以下の「YouTube」の証言こそが、謎の反転の真実を示していると私は思う。チャネル桜が「戦艦大和 副砲長 元海軍少佐 深井俊之助」のインタビュー映像を撮ってくれた。現場にいた者にしか分からない艦橋の固唾を飲む雰囲気がリアルに伝わってくる。


    「レイテ沖海戦(H18.10.16) 」

    http://youtu.be/D_wG58TEnyM


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    2012.平成24年1月27日(金)


    ■「レイテ戦記」:大岡昇平(著)

    「レイテ戦記」大岡昇平(著)は小説とあるが、内容はレイテ戦争史そのもので、時々刻々と変化するレイテの日米の戦いを詳細に解説している記録である。大岡本人は、19年3月の召集兵として、フィリピン・ミンドロオ島サンホセを警備していた中隊に属した一等兵・暗号手だった。

    部隊名・地名等々あまりに詳細で、じっくり読めないが、もし自分の父親、身内がこのレイテ戦で亡くなったり従軍しているのを調べようと思えばこれほどありがたい本はないだろう。日米双方の膨大な戦記・資料を比較検討しながら、真実に迫ろうとしているのが伝わってくる。

    片岡中将「従軍記」「須山日誌」、他に「第一師団レイテ戦記」「57連隊戦記・レイテの雨」米側「昨日の子供たち」「或る連隊の戦い」等々、同じ戦場で敵味方として戦い戦記を残している。それらを検証することによって真実の姿が現れてくる。

    当時レイテに上陸していた米軍は、「砲兵10:1」「歩兵3:1」が確実に勝利を目指す原則だった。この一つをとってみても、日本軍がこの太平洋諸島での戦いが、いかに勝利とは及びもつかない体制であったことが分かる。しかし、大陸に200万、そして太平洋に25万・・・当初、日本もこれだけの人数がいたのにもかかわらず・・・である。

    そして、武器・弾薬・その他食糧を第一とした後方支援体制が、米軍と比較すれば月とスッポン以上に乖離した状況であり、なんやねんこれは?としか思えない。人も武器も物も無かったのではなく、あまりにも無駄に海の藻屑としたり、遅きに失したり、有効利用できなかったのだ。戦いそのものに負けての敗戦ならまだ納得も行くが、まったくそうではないのでやりきれない。こんな戦は二度としてはならないと痛感する。

    米軍の資料にレイテ島ピナモポアンにおいて日本軍と戦った連隊長:ヴァーベック大佐が第六軍情報部に提出した報告に、日本軍の戦いぶりを詳細に記述している。

    その中の一節には以下のようなことが記されている。

    『敵と交戦した者は、その見事な戦闘ぶりによって感銘を受けた。向こう見ずな攻撃、無益な犠牲や一般に戦術の初歩に反した行動は見られなかった。敵の最も顕著なる特徴は射撃の組織的なこと、あらゆる武器の使用の統御にある。敵の射撃は例外なく最大の効果を発揮する瞬間まで抑制されていた。』

    これは軍の統制は無論だが、裏返せば日本軍にいかに弾薬が少なかったかを如実に表したことだと思う。

    これを報告したヴァーベック大佐は祖父が宣教師として明治初年に来日し、彼も日本生まれで日本語もある程度出来たようだ。戦後、朝鮮戦争にも参加し、1950年東京に再び来た彼はGHQの意向に反し、靖国神社に参拝し、レイテで戦った第一師団長:片岡中将に出会い師団の善戦を賞賛している。そんな彼の生い立ちから、過酷な戦場で日本軍と戦った彼の心情に、日本を想う複雑な気持ちが伺える。

    フィリピンでの戦いは、戦死者の膨大なることから当たり前であるのだろうが、こんなに大変な戦場だったのか?と、今まで何も知らなかったことに我ながら呆れる。マニラ四泊五日の旅なのに、何故レイテ戦記を読むのか?と、思ったけど、フィリピンの戦いの凄まじさの一端を感じることが出来ただけでもその価値ありとする。

    でもやっと上の半分、それもほとんど読み流す程度で頁をめくりながら・・・。とても完読は無理だ。レイテ戦・フィリピンの戦いについては「第三大隊の戦史」というHPを見つけた。

    「第三大隊の戦史」
    http://www.sakai.zaq.ne.jp/hohei13/index.html




  • 2012年2月6日<br />サンチャゴ要塞<br /><br />////////////////////////////////<br /><br />2012.平成24年1月28日(土) <br /><br /><br />■「レイテ戦記」:大岡昇平(著) <br /><br />★『帝国海軍はやたらに戦闘艦の建造と乗員養成に熱心で、近代戦遂行に必要な輸送と護衛に気を入れなかった。それが西南太平洋全域にわたる戦争を遂行することが出来なかった原因の一つであった。18年度からあわてて護送駆逐艦を民間に発注したり、高速輸送艦の建造を始めたが、それが竣工した頃には、それらを有効に使用する作戦を立てる余地がなくなっていたのである。』 <br /><br />★『「土居正巳少佐」「高橋正二少佐」「金子中二少佐」・・・レイテ戦においては陸軍大学48期卒の若き参謀が活躍していた。』 <br /><br />★『原口大隊の奮戦は、惨めな語り草の多いリモン峠の戦いの中の華といえる。大隊長:原口豊二大尉(24才戦死)は大正9年生まれ、24歳の大隊長である。リモン峠の激戦地において師団最左翼の孤立した戦場で、作戦の余地もなく絶対後退を許されない戦場であったが、大尉の弾力性のある指揮によって優勢な敵を15日支え、一時は二キロ推し戻すことが出来た。 <br /><br />対峙した米軍の精鋭部隊の大隊長:クリフォード中佐は12月1日軍師団長から「貴下及び貴部隊の奮戦は永久に記憶されるであろう。貴部隊はレイテ島の諸部隊の語り草になっている」とのメッセージ受領し、後に大統領から表彰された。連隊長昇格後翌年ミンダナオで戦死している。これはそのまま原口大隊にあてはまる言葉である。 <br /><br />原口大尉は鹿児島生まれ、幼時よい家庭にあって、古い孝行の美徳を守り、兄弟と争ったことがなかった。人当たりも良く大言壮語する当時の士官候補生とは全く違っていた。良く戦う将校がこの型に多いのは、中国戦線も認められたことである。』 <br /><br />★『第102師団長:福栄真平(ふくえ しんぺい)中将・・・陣地偵察の為に訪れた友近軍参謀副長に向って「われわれは一体いつ帰れるのかね」と質問をし、友近少将を憤激させた。後に無断でセブ島に脱出して、一ヶ月間指揮権停止の処分を受ける。レイテ戦に従軍した最も不名誉な将軍となった。「戦後、戦犯容疑により逮捕され、死刑判決を受け、1946年(昭和21年)、シンガポールのチャンギーにて銃殺刑が執行された。享年56歳」』 <br /><br />★『「第35軍司令部(鈴木宗作中将司令官:昭和20年4月19日戦死・享年54歳)の敵襲を受けたる時の無統制振りを十二分に拝見す」と土居参謀は苦々しげに書いている。「軍参謀の面々敵攻撃を受けたる時はサッパリだらしがない。小銃射撃を受けると思考力、判断力を失い、満足に言葉が出ない。予は暫時して副長に軽迫集中を慮(おもんばか)り、司令官戦場離脱の意見具申をなしたり」 <br /><br />一軍の司令部がこのように敵歩兵の急襲を受けるということは、めったに起こることではない(恐らく太平洋戦線で唯一の例であろう。)米軍でもまさか軍司令部を奇襲したとは思わなかったらしく、その記録には載っていない。』 <br /><br />///////////////////////////// <br /><br />戦争での作戦に対しての批判、人物評価、愚将や卑怯者についての話は、本当に難しい。作戦批判も人物評価に同じくである。大将・将軍のように誰もが知るような公人であれば別だが、誰もが知らない下級兵士に対しての批判は厳に慎まなければならない。 <br /><br />卑怯者の烙印を記すことは、本人は無論だが、その人物の先祖・現在・子孫に対して、どうしようもない重荷を背負わせることになる。安易に批判はできない。勇者ではないのに勇者と間違えるのは構わないが、その逆は、絶対駄目だ。 <br /><br />この本の中にも真の勇者は「百人に一人」という記述がどこかにあったが、そんなもの何の裏づけも無い。千人に一人なのかも?万人に一人なのかも?10人に一人くらいいるのかも?・・・何を基準に勇者とするのかも分からないから。 <br /><br />日頃「大言壮語」している者より、温厚で物静かな者に勇者が多いのは当然だろう。これはスピッツと同じで「弱い犬ほど良く吼える」は、すべてに共通だ。強ければ強いほど、見栄を張る必要はないし、相手を威嚇する必要もないし。 <br /><br />まあ真に弱い者も目立たないように静かだろう。そして卑怯者は、いろいろ頭を巡らせて、自分の立場を有利にしようと悪あがきばかりで、いろんなパターンがありそうだ。そしていつの時代、どんな状況下でも「正直者が馬鹿を見る」ことは目先はあっても長い目でみればないはずだ。いずれは「因果応報」の報いあり。 <br /><br />日本人というのは、一旦精神的な柱がなくなれば、ホンマにつまらぬ人間になる。捕虜になった途端に「自国の軍隊の悪口を言ったり、米軍に媚びたり」で、米軍兵士も驚いたようだった。それはシベリア抑留者のスターリン賛美も同様だ。日本人恥を失くせば屑になる。 <br /><br />ドイツのシベリア抑留者の態度は、日本人抑留者と全然違ってソ連軍に媚を売るようなことは、日本人に比べて圧倒的に少なく毅然としていたそうだから。だからドイツ人抑留者の死者は日本人に比較して圧倒的に多い。ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。日本人は60万で6万人(10%) <br /><br />そんな日本人だから終戦と同時に、敵が指名した戦犯容疑者をかばう事もせず日本官憲が探しまくった。その時から日本人は今に続くような屑になっている。極端に変る。まあ、情けないけど自分は屑ではないと言い切る自信はどこにもない。なんとか踏ん張りたいというのが願望だけど・・・。 <br /><br /><br />---------------------------------<br /><br />2012.平成24年1月30日(月) <br /><br /><br />■終戦時における日本軍の配置人員数 <br /><br />ふ〜ん、終戦時にまだ日本帝国陸海軍兵士は7百89万4千人余りもいたのか・・・。 <br /><br />終戦時における日本軍の配置人員数<br />             陸 軍    海 軍    総 計<br />  日 本 本 土   2,388,000  1,972,000  4,360,000 (小笠原諸島を含む)<br />  千 島 ・ 樺 太     88,000    3,000    91,000<br />  台湾・南西諸島    169,000    75,000   244,000<br />    朝     鮮    294,000    42,000   336,000<br />    満     州    664,000          664,000<br />  中 国 本 土   1,056,000    71,000  1,127,000 (海軍は香港を含む)<br />  南 方 方 面    744,000   202,000   946,000 (中部太平洋を含む)<br />  ラバウル方面      70,000    56,000   126,000 (南東太平洋)<br />     計      5,473,000  2,421,000  7,894,000<br />   内、海外配置人員  3,085,000   449,000  3,534,000<br />   総数に対する比率   56.4%    18.5%    44.8%<br />  〈『引揚げと援護三十年の歩み』(厚生省)より〉《『戦後引揚げの記録』(1991 若槻泰雄 時事通信社)から》 <br /><br />「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」<br />http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM <br /><br />戦争というのは、まことに理不尽なことであり、たまたまその時代にその年齢であった日本男子が国を守る役割を担い戦場に赴いた。そしてその中でも実際に敵の姿を真近に見て撃ち合ったのは、どれくらいの人数なのだろうか? <br /><br />フィリピンの戦場もニューギニア同様、飢餓に彷徨い人肉を喰らうこともあったようだ。日本軍も現地人を虐殺しただろうが現地人に多くの日本軍兵士が嬲り殺されてもいる。米軍の残虐もしかり、私は戦場で何が起こっても全ては戦争の範囲だと思っている。 <br /><br />「殺すか殺されるか」の世界にルールは有り得ない。戦場にあるのは「戦時国際法」ではなく「人としての道義」だけだ。もしその場面において自分が命に代えても守るべき道義的価値があるなら殺される道を選択すればよいだけの話だ。そして戦い終わり、結果、負けたら復讐されるのも掟としてある。 <br /><br />私にとって如何なる戦死よりも、一番自分自身辛いと思うのはBC級戦犯として無実の罪ながら死刑に処せられることである。大東亜戦争の結果1000人余りが死刑を宣せられた。勝者による復讐裁判によって・・・。白人の人種差別を含めての憎悪がここに表れている。 <br /><br />http://ja.wikipedia.org/wiki/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF <br /><br />そして、この不当な裁判によって処刑された多くの日本軍兵士の見事な態度には感動と敬服しかない。とても自分ではそんなことは出来そうにない。終戦を期に日本人は軍人も含めて下り坂を転げ落ちるように無様な姿を晒したと思っているが、この戦犯の方たちの態度は立派であり、それが日本人として救いでもある。 <br /><br />「戦争裁判」<br />http://depot3.blog75.fc2.com/blog-category-1.html <br /><br />このブログにも紹介されているが、一日も早くこの方たちが日本人みんなの知るところになり、あらためて「日本人としての誇り」「恥を知る心」を取り戻すきっかけになって欲しい。 <br /><br />大東亜戦争を日本人はどのように戦ったのか?どこでどんな戦いがあり、誰が英雄的な働きをし、どのように遠い異国の戦場で露と散ったのか?日本軍兵士の戦死が約2,300,000名なら二百三十万の物語があり、教科書に載せ語り継ぐべき「英雄伝」は、万とあるはずだ。           <br /><br />フィリピンの戦跡は膨大すぎて、“へぇ〜こんなんやったんか?”と驚くばかりだ。今更だけど・・・。戦争に学ぶことはまだまだ山ほどある。 <br /><br /><br />---------------------------------<br /><br />2012.平成24年2月1日(水) <br /><br /><br />■新年が明けたと思ったら・・・。 <br /><br />早くも2月か、もうすぐのマニラ行きに備えてデジカメ映画の脚本?準備も大方できた。いつも言っているように自己満足の極地で赤面の至りだが、誰にもそんなに迷惑もかけないので好きにやる。一小市民が内容を問われず自分の思いの丈を許可なく発信することが出来るなんて今でも信じられない。 <br /><br />前回の延吉の旅行記は、フォートラベルへの掲載は邪魔臭くて一旦やめたが、やはり再度アップロードした。今年に入ってからもぺリリュー島・方正への旅行記を見てそれぞれメールをくれた方がいる。一人は青年、一人は瀋陽在住の方からだった。中傷メールをもらったことはない。YouTubeには、そんな書き込みも時々あるけど・・・。 <br /><br />戦跡を巡ることによって、その戦いを興味を持って学び、知らなかったことを知ることが出来る。旅そのものはたった四泊五日だが、私にとってその前後の時間の方が遙かに長い。もしこの趣味がなければ、何にこの時間を費やしているのだろう?他にしたいことはあるのか?そしてこれ以上に自分にとって有意義なことはあるのか? <br /><br />日々「面白いこと」を探し求めているので、いつもそんなことを考えている。そんな性根だから、何でも薄っぺらい。この戦跡めぐりもそうだ。中国語もそうだし、すべては中途半端で自信を持っての特技も芸も取り得も技能も何もない。昔からそうだった。だからこれからもそうだろう。 <br /><br />夢中になれた少年サッカーの監督に比べて、それと同じかそれ以上に夢中になれるものにまだ出会えていない。そのことに夢中になれればその他のことはどうでもよくなる。命さえもそのためには惜しくもなくなるはずだ。プロゴルファー杉原が、ゴルフの為にガンの手術をしなかったように。自分の全てを投じれる何かがある人は幸福だ。 <br /><br />金が無くても、何も無くても、夢中になる物があればそれだけで人間は幸福だ。ゴッホは生前貧乏だったようだが、好きな絵を描くことが出来たから誰が何と言おうと十二分に幸福な人生だ。無論、金を貯めることに夢中なら、それも良し。 <br /><br />まあ、とりあえず死ぬまで夢中になれることを探し求めて生きる。死ぬ間際でもそんな物が見つかれば万歳である。それまで中途半端でも自分の好きなことをやっていたい。そのことに突然夢中になるかも知れない・・・し。 <br /><br />ボチボチ中国語を学び、ボチボチ旅をし、少々億劫ながら卓球もし、健康管理は面白く、仕事はお客さんが来てくれるまで続け、パソコンもオタクの様にやり続け、元気で120歳まで生きることを目標にこれからも生きる。 <br /><br />さあもうすぐ常夏のマニラに行こう。神風特別攻撃隊の第一陣が出撃したマバラカット西・東飛行場跡へ。マニラ市街戦は悲惨だった。そしてコレヒドール島へも。中国以外は初めてのところが多いので、いつも不安ばかりなり。今日百円ショップで百円四巻の蚊取り線香を買った。線香たてもちゃんと入っている。百円ショップは素晴らしい! <br /><br /><br />-------------------------------<br /><br />2012.平成24年2月3日(金) <br /><br /><br />■明後日の今頃はマニラ。 <br /><br />だいたい旅のイメージは出来た。イメージ通りとは行かないだろうけど、四泊五日のマニラの旅は如何様な旅になるのだろう・・・か? <br /><br />今はグーグルアースがあってマニラのホテルの位置も確認出来たし、行く場所も空から見える。本当にグーグルさまさまだ。5日の午後2時頃ホテルに着いたら、まず歩いて山下奉文大将が昭和19年10月6日マニラに降り立った飛行場跡に行こう。ホテルから1キロくらいのところにある。あるのはネルソンタワー(管制塔跡)だけだが・・・。 <br /><br />その次にどこに行こうか、マッキンリー(桜兵営)か、リサール公園に行けたらと思っている。 <br /><br /><br />---------------------------------<br /><br />2012.平成24年2月4日(土) <br /><br /><br />■明日。 <br /><br />明日の今頃はマニラのホテル・・・か。 <br /><br />真冬から真夏へ。凄惨だったマニラ市街戦は1945/昭和20年2月3日〜3月3日まで。ちょうど67年前の昨日3日、まず最初にサント・トーマス大学(捕虜収容所)を解放するために、戦車30輌を先頭にして米軍は侵攻してきた。 <br /><br />それに呼応して、フィリピン人ゲリラも蜂起し市街地は血みどろの戦場と化して行く。米軍がマニラを包囲したために日本軍は徹底抗戦しか道はなく、日本軍も米軍もフィリピンゲリラ(便衣兵)も、そして民間人も含めて無差別の殲滅戦になった。 <br /><br />ルネタ公園(リサール公園)から毎夜のように斬り込み隊が出たそうだ。銃もなく刀や竹やりで・・・信じられないが、そうだったのだろう。マッカーサーが部隊を残して家族と逃げたコレヒドール島にも行く。旅のメーンはマバラカット飛行場跡、道を隔てて西と東にある。 <br /><br />そこからレイテ湾方面に敵機動部隊を求めて神風特別攻撃隊が出撃した。飛び立てば左手にアラヤト山が見える。飛行場跡も1991年のビナツボ火山の大噴火の火山灰で、当時の地面は姿を隠してしまったようだけど・・・。でも周囲の自然の風景は変わりようが無いはずだ。 <br /><br />明日は2月5日、米軍マニラ市内に侵攻後の2日目。その時マニラ市街は、どんな様相だったのだろう。想像も及ばないが。腰痛もほとんど良くなったし、とにかく行って見よう。 <br /><br />auショップに行って、“スマートフォン”のマニラでの使い方を教えてもらった。インターネットを使えば一日定額¥2980円がかかるらしい。しかしデーターローミング機能をoffにしていたらネットは使えないけど課金はされないとのこと。メールを使う時だけonにして、一体メールは幾ら掛るのか?試してみよう。 <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    2012年2月6日
    サンチャゴ要塞

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    2012.平成24年1月28日(土)


    ■「レイテ戦記」:大岡昇平(著)

    ★『帝国海軍はやたらに戦闘艦の建造と乗員養成に熱心で、近代戦遂行に必要な輸送と護衛に気を入れなかった。それが西南太平洋全域にわたる戦争を遂行することが出来なかった原因の一つであった。18年度からあわてて護送駆逐艦を民間に発注したり、高速輸送艦の建造を始めたが、それが竣工した頃には、それらを有効に使用する作戦を立てる余地がなくなっていたのである。』

    ★『「土居正巳少佐」「高橋正二少佐」「金子中二少佐」・・・レイテ戦においては陸軍大学48期卒の若き参謀が活躍していた。』

    ★『原口大隊の奮戦は、惨めな語り草の多いリモン峠の戦いの中の華といえる。大隊長:原口豊二大尉(24才戦死)は大正9年生まれ、24歳の大隊長である。リモン峠の激戦地において師団最左翼の孤立した戦場で、作戦の余地もなく絶対後退を許されない戦場であったが、大尉の弾力性のある指揮によって優勢な敵を15日支え、一時は二キロ推し戻すことが出来た。

    対峙した米軍の精鋭部隊の大隊長:クリフォード中佐は12月1日軍師団長から「貴下及び貴部隊の奮戦は永久に記憶されるであろう。貴部隊はレイテ島の諸部隊の語り草になっている」とのメッセージ受領し、後に大統領から表彰された。連隊長昇格後翌年ミンダナオで戦死している。これはそのまま原口大隊にあてはまる言葉である。

    原口大尉は鹿児島生まれ、幼時よい家庭にあって、古い孝行の美徳を守り、兄弟と争ったことがなかった。人当たりも良く大言壮語する当時の士官候補生とは全く違っていた。良く戦う将校がこの型に多いのは、中国戦線も認められたことである。』

    ★『第102師団長:福栄真平(ふくえ しんぺい)中将・・・陣地偵察の為に訪れた友近軍参謀副長に向って「われわれは一体いつ帰れるのかね」と質問をし、友近少将を憤激させた。後に無断でセブ島に脱出して、一ヶ月間指揮権停止の処分を受ける。レイテ戦に従軍した最も不名誉な将軍となった。「戦後、戦犯容疑により逮捕され、死刑判決を受け、1946年(昭和21年)、シンガポールのチャンギーにて銃殺刑が執行された。享年56歳」』

    ★『「第35軍司令部(鈴木宗作中将司令官:昭和20年4月19日戦死・享年54歳)の敵襲を受けたる時の無統制振りを十二分に拝見す」と土居参謀は苦々しげに書いている。「軍参謀の面々敵攻撃を受けたる時はサッパリだらしがない。小銃射撃を受けると思考力、判断力を失い、満足に言葉が出ない。予は暫時して副長に軽迫集中を慮(おもんばか)り、司令官戦場離脱の意見具申をなしたり」

    一軍の司令部がこのように敵歩兵の急襲を受けるということは、めったに起こることではない(恐らく太平洋戦線で唯一の例であろう。)米軍でもまさか軍司令部を奇襲したとは思わなかったらしく、その記録には載っていない。』

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    戦争での作戦に対しての批判、人物評価、愚将や卑怯者についての話は、本当に難しい。作戦批判も人物評価に同じくである。大将・将軍のように誰もが知るような公人であれば別だが、誰もが知らない下級兵士に対しての批判は厳に慎まなければならない。

    卑怯者の烙印を記すことは、本人は無論だが、その人物の先祖・現在・子孫に対して、どうしようもない重荷を背負わせることになる。安易に批判はできない。勇者ではないのに勇者と間違えるのは構わないが、その逆は、絶対駄目だ。

    この本の中にも真の勇者は「百人に一人」という記述がどこかにあったが、そんなもの何の裏づけも無い。千人に一人なのかも?万人に一人なのかも?10人に一人くらいいるのかも?・・・何を基準に勇者とするのかも分からないから。

    日頃「大言壮語」している者より、温厚で物静かな者に勇者が多いのは当然だろう。これはスピッツと同じで「弱い犬ほど良く吼える」は、すべてに共通だ。強ければ強いほど、見栄を張る必要はないし、相手を威嚇する必要もないし。

    まあ真に弱い者も目立たないように静かだろう。そして卑怯者は、いろいろ頭を巡らせて、自分の立場を有利にしようと悪あがきばかりで、いろんなパターンがありそうだ。そしていつの時代、どんな状況下でも「正直者が馬鹿を見る」ことは目先はあっても長い目でみればないはずだ。いずれは「因果応報」の報いあり。

    日本人というのは、一旦精神的な柱がなくなれば、ホンマにつまらぬ人間になる。捕虜になった途端に「自国の軍隊の悪口を言ったり、米軍に媚びたり」で、米軍兵士も驚いたようだった。それはシベリア抑留者のスターリン賛美も同様だ。日本人恥を失くせば屑になる。

    ドイツのシベリア抑留者の態度は、日本人抑留者と全然違ってソ連軍に媚を売るようなことは、日本人に比べて圧倒的に少なく毅然としていたそうだから。だからドイツ人抑留者の死者は日本人に比較して圧倒的に多い。ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。日本人は60万で6万人(10%)

    そんな日本人だから終戦と同時に、敵が指名した戦犯容疑者をかばう事もせず日本官憲が探しまくった。その時から日本人は今に続くような屑になっている。極端に変る。まあ、情けないけど自分は屑ではないと言い切る自信はどこにもない。なんとか踏ん張りたいというのが願望だけど・・・。


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    2012.平成24年1月30日(月)


    ■終戦時における日本軍の配置人員数

    ふ〜ん、終戦時にまだ日本帝国陸海軍兵士は7百89万4千人余りもいたのか・・・。

    終戦時における日本軍の配置人員数
                 陸 軍    海 軍    総 計
      日 本 本 土   2,388,000  1,972,000  4,360,000 (小笠原諸島を含む)
      千 島 ・ 樺 太     88,000    3,000    91,000
      台湾・南西諸島    169,000    75,000   244,000
        朝     鮮    294,000    42,000   336,000
        満     州    664,000          664,000
      中 国 本 土   1,056,000    71,000  1,127,000 (海軍は香港を含む)
      南 方 方 面    744,000   202,000   946,000 (中部太平洋を含む)
      ラバウル方面      70,000    56,000   126,000 (南東太平洋)
         計      5,473,000  2,421,000  7,894,000
       内、海外配置人員  3,085,000   449,000  3,534,000
       総数に対する比率   56.4%    18.5%    44.8%
      〈『引揚げと援護三十年の歩み』(厚生省)より〉《『戦後引揚げの記録』(1991 若槻泰雄 時事通信社)から》

    「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」
    http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

    戦争というのは、まことに理不尽なことであり、たまたまその時代にその年齢であった日本男子が国を守る役割を担い戦場に赴いた。そしてその中でも実際に敵の姿を真近に見て撃ち合ったのは、どれくらいの人数なのだろうか?

    フィリピンの戦場もニューギニア同様、飢餓に彷徨い人肉を喰らうこともあったようだ。日本軍も現地人を虐殺しただろうが現地人に多くの日本軍兵士が嬲り殺されてもいる。米軍の残虐もしかり、私は戦場で何が起こっても全ては戦争の範囲だと思っている。

    「殺すか殺されるか」の世界にルールは有り得ない。戦場にあるのは「戦時国際法」ではなく「人としての道義」だけだ。もしその場面において自分が命に代えても守るべき道義的価値があるなら殺される道を選択すればよいだけの話だ。そして戦い終わり、結果、負けたら復讐されるのも掟としてある。

    私にとって如何なる戦死よりも、一番自分自身辛いと思うのはBC級戦犯として無実の罪ながら死刑に処せられることである。大東亜戦争の結果1000人余りが死刑を宣せられた。勝者による復讐裁判によって・・・。白人の人種差別を含めての憎悪がここに表れている。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF

    そして、この不当な裁判によって処刑された多くの日本軍兵士の見事な態度には感動と敬服しかない。とても自分ではそんなことは出来そうにない。終戦を期に日本人は軍人も含めて下り坂を転げ落ちるように無様な姿を晒したと思っているが、この戦犯の方たちの態度は立派であり、それが日本人として救いでもある。

    「戦争裁判」
    http://depot3.blog75.fc2.com/blog-category-1.html

    このブログにも紹介されているが、一日も早くこの方たちが日本人みんなの知るところになり、あらためて「日本人としての誇り」「恥を知る心」を取り戻すきっかけになって欲しい。

    大東亜戦争を日本人はどのように戦ったのか?どこでどんな戦いがあり、誰が英雄的な働きをし、どのように遠い異国の戦場で露と散ったのか?日本軍兵士の戦死が約2,300,000名なら二百三十万の物語があり、教科書に載せ語り継ぐべき「英雄伝」は、万とあるはずだ。          

    フィリピンの戦跡は膨大すぎて、“へぇ〜こんなんやったんか?”と驚くばかりだ。今更だけど・・・。戦争に学ぶことはまだまだ山ほどある。


    ---------------------------------

    2012.平成24年2月1日(水)


    ■新年が明けたと思ったら・・・。

    早くも2月か、もうすぐのマニラ行きに備えてデジカメ映画の脚本?準備も大方できた。いつも言っているように自己満足の極地で赤面の至りだが、誰にもそんなに迷惑もかけないので好きにやる。一小市民が内容を問われず自分の思いの丈を許可なく発信することが出来るなんて今でも信じられない。

    前回の延吉の旅行記は、フォートラベルへの掲載は邪魔臭くて一旦やめたが、やはり再度アップロードした。今年に入ってからもぺリリュー島・方正への旅行記を見てそれぞれメールをくれた方がいる。一人は青年、一人は瀋陽在住の方からだった。中傷メールをもらったことはない。YouTubeには、そんな書き込みも時々あるけど・・・。

    戦跡を巡ることによって、その戦いを興味を持って学び、知らなかったことを知ることが出来る。旅そのものはたった四泊五日だが、私にとってその前後の時間の方が遙かに長い。もしこの趣味がなければ、何にこの時間を費やしているのだろう?他にしたいことはあるのか?そしてこれ以上に自分にとって有意義なことはあるのか?

    日々「面白いこと」を探し求めているので、いつもそんなことを考えている。そんな性根だから、何でも薄っぺらい。この戦跡めぐりもそうだ。中国語もそうだし、すべては中途半端で自信を持っての特技も芸も取り得も技能も何もない。昔からそうだった。だからこれからもそうだろう。

    夢中になれた少年サッカーの監督に比べて、それと同じかそれ以上に夢中になれるものにまだ出会えていない。そのことに夢中になれればその他のことはどうでもよくなる。命さえもそのためには惜しくもなくなるはずだ。プロゴルファー杉原が、ゴルフの為にガンの手術をしなかったように。自分の全てを投じれる何かがある人は幸福だ。

    金が無くても、何も無くても、夢中になる物があればそれだけで人間は幸福だ。ゴッホは生前貧乏だったようだが、好きな絵を描くことが出来たから誰が何と言おうと十二分に幸福な人生だ。無論、金を貯めることに夢中なら、それも良し。

    まあ、とりあえず死ぬまで夢中になれることを探し求めて生きる。死ぬ間際でもそんな物が見つかれば万歳である。それまで中途半端でも自分の好きなことをやっていたい。そのことに突然夢中になるかも知れない・・・し。

    ボチボチ中国語を学び、ボチボチ旅をし、少々億劫ながら卓球もし、健康管理は面白く、仕事はお客さんが来てくれるまで続け、パソコンもオタクの様にやり続け、元気で120歳まで生きることを目標にこれからも生きる。

    さあもうすぐ常夏のマニラに行こう。神風特別攻撃隊の第一陣が出撃したマバラカット西・東飛行場跡へ。マニラ市街戦は悲惨だった。そしてコレヒドール島へも。中国以外は初めてのところが多いので、いつも不安ばかりなり。今日百円ショップで百円四巻の蚊取り線香を買った。線香たてもちゃんと入っている。百円ショップは素晴らしい!


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    2012.平成24年2月3日(金)


    ■明後日の今頃はマニラ。

    だいたい旅のイメージは出来た。イメージ通りとは行かないだろうけど、四泊五日のマニラの旅は如何様な旅になるのだろう・・・か?

    今はグーグルアースがあってマニラのホテルの位置も確認出来たし、行く場所も空から見える。本当にグーグルさまさまだ。5日の午後2時頃ホテルに着いたら、まず歩いて山下奉文大将が昭和19年10月6日マニラに降り立った飛行場跡に行こう。ホテルから1キロくらいのところにある。あるのはネルソンタワー(管制塔跡)だけだが・・・。

    その次にどこに行こうか、マッキンリー(桜兵営)か、リサール公園に行けたらと思っている。


    ---------------------------------

    2012.平成24年2月4日(土)


    ■明日。

    明日の今頃はマニラのホテル・・・か。

    真冬から真夏へ。凄惨だったマニラ市街戦は1945/昭和20年2月3日〜3月3日まで。ちょうど67年前の昨日3日、まず最初にサント・トーマス大学(捕虜収容所)を解放するために、戦車30輌を先頭にして米軍は侵攻してきた。

    それに呼応して、フィリピン人ゲリラも蜂起し市街地は血みどろの戦場と化して行く。米軍がマニラを包囲したために日本軍は徹底抗戦しか道はなく、日本軍も米軍もフィリピンゲリラ(便衣兵)も、そして民間人も含めて無差別の殲滅戦になった。

    ルネタ公園(リサール公園)から毎夜のように斬り込み隊が出たそうだ。銃もなく刀や竹やりで・・・信じられないが、そうだったのだろう。マッカーサーが部隊を残して家族と逃げたコレヒドール島にも行く。旅のメーンはマバラカット飛行場跡、道を隔てて西と東にある。

    そこからレイテ湾方面に敵機動部隊を求めて神風特別攻撃隊が出撃した。飛び立てば左手にアラヤト山が見える。飛行場跡も1991年のビナツボ火山の大噴火の火山灰で、当時の地面は姿を隠してしまったようだけど・・・。でも周囲の自然の風景は変わりようが無いはずだ。

    明日は2月5日、米軍マニラ市内に侵攻後の2日目。その時マニラ市街は、どんな様相だったのだろう。想像も及ばないが。腰痛もほとんど良くなったし、とにかく行って見よう。

    auショップに行って、“スマートフォン”のマニラでの使い方を教えてもらった。インターネットを使えば一日定額¥2980円がかかるらしい。しかしデーターローミング機能をoffにしていたらネットは使えないけど課金はされないとのこと。メールを使う時だけonにして、一体メールは幾ら掛るのか?試してみよう。






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