2012/02/05 - 2012/02/09
1205位(同エリア1972件中)
明石DSさん
マニラの2月は降水量も年間通じて一番少ない
今日も晴れ、眺望良し
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4日目:2月8日(水):晴
コレヒドール島へ
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2012/平成24年2月8日(水)
■コレヒドール島(Corregidor Island) へ行く朝
マニラ四日目の朝も早起きで薄暗いうちから眼が覚める。小さい頃のことは覚えていないが、大人になってから我が家の布団で寝る以外に熟睡出来たという記憶はない。たまたま疲れてよく寝たというのはあると思うが、自宅以外は寝れないというのがまるで自分の脳にインプットされているようだ。家内もそうだが、息子たちもみんなどこでも寝れるタイプなので、家内似で私に似ずホンマ良かった。
早朝からホテル近くに両替に行こうとしたら、またもドアの鍵を掛けるのに一苦労。鍵穴二つで鍵二つ、その内一つは掛け方が分からず帰国まで使わなかった。それでも何度も出入りに苦労する。コツがあるのだろうけど、コツを掴むまでに到らず。満洲の安宿でもよくあるけど。
何とか鍵をクリアーして、両替に行く。どこの店とも24Hという表示があるので窓口で声を掛けたら、すぐ傍で寝ていた兄ちゃんが起きて来た。鉄格子越しに「ジャパニーズイエン・ハウマッチ」というと「フィフティーフォ・54」というので両替した。5400ペソ。これでもう両替も不要だろう。最後にあまった分は空港でチョコレート他を買った。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
ドアの鍵は二つだけど
どちらも癖があり閉めるも開けるも難しい
コツを掴めぬまま明日帰国となる -
残金が不安になり1万円を両替する
5400ペソを手に入れ不安解消す
たとえ貧乏旅行でも金に少しの余裕なければ面白さも半減 -
コレヒドール・ターミナルへ
午前6時51分、マニラの路上
渋滞とジプニーでの出勤風景
このタクシーはデジタルメーターが上にある
下についているタクシーはメーターが見難い
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■コレヒドール・ターミナル
コレヒドール観光も「フレンドシップ・ツアー」で予約をしてもらっている。私が頼んだのは予約だけでホテルから港への送迎はなし。午前7時15分までに、コレヒドール・ターミナルに行くようにと言われているので早めにホテルを出ようとしたが、またもや鍵が掛らず、突っ込んだ鍵が抜けず、出掛けからちょっと焦った。
ホテル傍のマカティー通りでタクシーに乗り、まだ7時前のマニラ市街をタクシーの車中で眺めた。もうすでに渋滞発生、どのジプニーも満員状態でトロトロ進んでいる。7時10分頃に波止場に到着したが、コレヒドール行きの船乗り場が分からずウロウロ。親切な人に教えてもらって無事にターミナルに到着。すでに多くの人が待合室に座っていた。
日本でプリントして持って来た予約書を乗船券売り場の窓口に出したら、何故か?「待ってくれ」と、すぐに手続きしてくれない。英語は出来ないし分けが分からず待っていたら、一人の“おっちゃん”がやって来た。この“おっちゃん”こそが“エドさん”(エドワルド・フェルナンデス/64歳)。2007年以降にコレヒドール観光に行った日本人はこの人がガイドだったと思う。2006年に採用され前任者から1年間引き継ぎ研修後にガイドを始めたようだ。2007からなら既に5年、今年は6年目になる。
ターミナルで会った時はまだ何者か分からず。この“おっちゃん”が、一人で来た私に問う?
「あなた何時帰る」
「明日」
「明日なら、今日は行ってはダメ。午後から風が吹いて船が戻れなくなるかも知れない」
「えっ、こんな天気良いのに???」
「駄目、駄目、もし船が出ないと、あなた帰れない。マニラに戻れない。責任とれない。」
私は、分けが分からず、「えっ今日の午後嵐になるの?」と思うしかなかった。もっと長いことやり取りしていたが、“エドさん”のダメが真に迫っていて、昼からホンマに天気が崩れるのか?と思うしかなく、そこで一旦諦めた。そして、今日これからどうしよう、モンテンルパに行こうか・・と、頭を巡らせながらも、ホンマかいな。と待合室にいる多くの人たちを見て、やっぱり納得出来なかった。
そして、すぐ近くに日本人のグループがいたので聞いたら、彼等も明日帰国とのこと。彼らはツアーガイドと一緒に来ているので、“エドさん”に係わることはない。「そうか、この“おっちゃん”は、一人で来た者に対して明日帰国の場合は、不慮の場合の責任のことを考えてダメと言えと指示されているのか」と分かった。ホンマにやばいところだった。船が出てしまっては元も子もないところで気がつき、“エドさん”に強引に行くからと言って窓口で乗船券をもらった。
「一体この対応はなんやねん」と思うが、今まで個人やその日に窓口に飛び込みで来た者との間に、いろんなトラブルがあったのだろう。きっとこれからも“エドさん”さんは一人でターミナルに来た日本人には、同じ事を頑固に言うはずだ。「明日帰国ならダメ」と言われるので、日本人の皆さん!そのつもりで・・・。でも帰国が明後日でも大して変らないと思うけど??一日で天気が回復する保証はないし。 -
?ジプニーの車体の絵画を見るのは面白い
ジプニーは次から次と来る -
すぐにここに来れなかった
何人かに教えてもらって辿り着く -
集まっている人の多いのには驚いた
毎日こんな感じで多くの人がコレヒドールを訪れるのか?
ふ〜ん・・・。
“エドさん”の「明日帰国なら今日は行ってはダメ」にはビックリ仰天 -
出航コレヒドールへ
白の制服姿の美人船乗り
かっこいい
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■いざコレヒドールに向って出航
とりあえず冷や汗をかいたが、無事に7時50分頃乗船。桟橋には迷彩服を来て自動小銃を持った兵士?のような人物も何故かいた。やはりフィリピンは拳銃や自動小銃は身近だ。警備員もみんな普通に持っているし。
乗船券を体に貼って入船、その番号が席番号になっている。客は日本人よりもそれ以外の人が多い。アメリカ人・フィリピン人が多いのか?乗船してからも出航はせず、やっと8時20分頃に船は桟橋を離れた。
私の座席は右側窓側、まず最初に見えてきたのは右側遠くにバターン半島。今回の旅は“神風特別攻撃隊”がメーンでそっちのことで精一杯。マニラ市街戦もそうだが、それ以外のことは知識なく、コレヒドールも震洋部隊のことを少し調べただけでここに来たので・・・。「あああれがバターン半島か」と眺めるだけしかなかった。「ふ〜ん、けっこう高い山並みが続く半島だなあ・・・」と。
「バターン半島」=「バターン死の行進」と連想してしまうが、私の認識はウィキペディアでの以下の記述が真実だと思っている。
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フィリピンにいた日本軍元兵士の証言として、次のように紹介している。
「日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったといわれているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くには当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ」
約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。
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もっとも3万人ほどの日本軍に対して、捕虜の人数だけで約7万6千と倍以上の戦力を持ち武器装備とも上回りながら、降伏した米比軍こそ米軍史に消せぬ汚点を残している。そして日本への捕獲を嫌がってトラックを破壊した米軍捕虜が徒歩で、トラックを温存した部隊はそれで収容所に入ったのは皮肉だ。昭和17年4月9日、米比軍降伏す。 -
米国??白人客もけっこう沢山いた
その他一体何ヶ国がこの船に -
迷彩服を着た軍人なのか?
自動小銃を手にブラブラと
一体何者? -
日本製の高速艇「アイランド・クルーザー」にて
毎日1便、土日祭日2便
定刻8時だが20分遅れの8時20分出航する -
バターン半島が程なく見えて来る
3万の日本軍に7万の米比軍が降伏か
その上行軍でバタバタと倒れる始末
何が「死の行進」だ、恥を知れ米比軍
勝利の記録(九) 比島作戰―バターン半島總攻撃の前夜―
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400304_00000 -
コレヒドール島
我縁有ってコレヒドールに来る事になった
人生一度にして二度とはないだろう
縁とはまことに不思議なものなり
勝利の記録(十二) 比島作戰―コレヒドール島へ最後の砲撃―
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400307_00000
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■コレヒドール島が見えてきた。
マニラから西48キロ、マニラ湾口にある“おたまじゃくし”の形の島。その島が目の前に見えてきた。マニラを旅先に選んでいなければ、この島は「マッカーサーが逃げ出した要塞の島」というくらいで、その他のことは知らないままの生涯になっただろう。なにかの縁あってここに来る事になった。
船の中から正面にコレヒドール、右手にバターン半島がグングンと近づき船はノース・ドッグの波止場に9時40分頃に到着。マニラを8時20分に出航し、1時間20分の船の旅となった。波止場には観光バスが並んでおり、日本人観光客用には一台が用意されている。「へぇ〜、そんなに日本人以外の旅行者は多いのか?」と意外な感じがする。この島の観光と言ってもそれはイコール戦跡巡りという感じで、他にありそうにも思えないし。
バスは当時の路面電車を模した島巡りの観光バス(日本製)で、周囲の視界すこぶる良く気に入った。席は自由。私は最後尾の椅子に座る。そして日本人用バスのガイドが、“エドさん”だった。確かに日本語なのだろうが、聞き取りにくくお世辞にも上手ではない。しかし憎めない人柄で、日本語説明については諦めるしかない。そして、戦跡の説明についても日本語が無く、“イントラムロス”なんかもそうだが、日本人観光客が多いにも係わらずまことに不親切だ。
フィリピン人と言うのはスペインの植民地時代が長く、その次にアメリカの統治下であり、多くの人が英語も使いこなしアメリカに憧れ、スペイン混血を意識して欧米志向が強い感じがする。まだまだアジアの中で貧しい国の範疇だと思うが、アジアの中での欧米という意識が、その説明に日本語併記をしようとしないフィリピン人の気質を感じる。日本人としては“何でやねん”と面白くない。でも、しかし、なるほど、日本の各所や観光地のハングル・中国語説明には気分が悪い。やっぱりフィリピンを支持す。(笑)
ノース・ドッグからバターン半島がくっきり見えた。バスは動き出し今は木が生い茂った島内へと向う。途中、樹齢何年か知らないが米軍の砲爆撃でも生き残ったアカシヤの大木を車中から写す。そこから建物跡や大砲・弾薬庫・グランド・灯台・震洋の格納されていただろう海岸の洞窟跡などを次々見て回ったが、どこをどう走ってそこが島内のどこなのか?まったく分からず。はっきり分かったのはマリンタトンネルだけだ。 -
白黒黄色、黒は少なかったが、雑多な人種
こんな光景を見るたびいつも思うのは
一体何ヶ国人がこの場に集っているのか? -
昔コレヒドールを走っていた路面電車を模した観光バス(これも日本製)
-
この内、一台が日本人用
日本語ガイドは、私に「今日は駄目だ出直せ」と言ったあの“エドさん”
コレヒドール名物“おっちゃん”として、あと20年頑張って -
船が着いた北ドッグよりバターン半島を望む
バタアン半島敵軍降伏
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300483_00000&seg_number=004 -
北ドッグを望む
米軍の凄まじい砲爆撃で丸裸になった島も
今はこの通り樹木生い茂る島となっている -
ミドルサイド米軍兵舎
「アサノセメント硬い」
ゆえに建物としての形を今に残す
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■ミドルサイド米軍兵舎
最初に立ち寄ったのは道路沿いに残っている崩壊した建物。“エドさん”曰く「米軍兵舎跡、アサノセメントで作られている」とのこと。「アサノセメント、百%日本製のセメント、今でも硬い」と、しょっちゅう“アサノセメント”が出てきた。「センカンヤマト センカンムサシ」も。
「ミナサン、ゴランクダサイ スイマセン」「ミナサン 向こうの場所は、大きなサメ、タクサン」「コレミテクダサイ、アサノセメント」「キカンジュウ、サンタマリア。(機銃の弾が当たればサンタマリアになる)」「ミナサン。ゴランクダサイ」「マリンタトンネル、このトンネルはホントイイヨ、中には電気、発電機もありますよ。」
今年64歳の名物ガイド“エドさん”その時は何故か分かったような気になったけど、ICレコーダーの言葉も解読難しく、帰国後に写した写真をネットで確認しながら書いている。言う必要もないだろうけどガイドの評価なんかものともせず、これからも長生きして、コレヒドール島日本人観光客の名物ガイドとして頑張ってもらいたい。
日本人諸氏へ、是非、日本軍慰霊の戦跡巡りと“エドさん”に会いにコレヒドールへ! -
この日の日本人専用バスの一団
なにゆえか同じ世代のオッサンばかり
日本人女性の姿はなかったと思う -
“エドさん”ここでメチャ愛想よく写真を撮ってくれる
その後ろで業者のオバちゃんが写真を撮っていたのを
その時は知らなかった、帰路の船中で100ペソで買う
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■ウェイ砲列(Battery Way)12インチ臼砲四門。
1942年/日本軍との砲兵戦を交えた強力な砲台、ギアリー砲台と並び称される。
ミドルサイドの兵舎跡の次はウェイ砲列(Battery Way)、弾薬庫の説明も受けたような気がする。米軍のコレヒドールへの砲爆撃は凄まじいものだったが、それでもこのコンクリート要塞群は、アサノセメントの硬さゆえなのかその姿を概ね留めている。
この大砲の前で記念撮影タイム。“エドさん”が張り切って、一人一人のデジカメを手に持って写してくれた。「えらい親切に・・・」と思っていたが、実はその時に待機のカメラマンが販売用に写していたのだった。帰路の船中で記念写真として売りに来た。料金は100ペソ、大体の人が買っていた、私も無論買った。
大砲の砲身に砲弾が直撃し、砲身に凹みが出来て使用不能になったウェイ砲もあった。この要塞建物には、どことも必ず電話ボックスがあり電話が備え付けられていた。弾薬庫も重たい砲弾の出し入れに天井にレールが付けられている。
当時の近代要塞として素晴らしい設備が随所にほどこされていたのが良く分かる。満洲各地で日本軍要塞の施工の素晴らしさを見てきたが、やはりそれを凌駕する。レールも敷かれた完璧の要塞だったのだろう。 -
大砲に砲弾当たる
へこんだ砲身、使えぬ大砲となる
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島全体が堅固な要塞となしていた
今でもその様子は驚くばかりなり
米軍の戦は、まず相手を上回る武器の備えの上に
日々の快適な暮らしを担保しなければ戦わない
それ故何をおいても補給の完璧を確保しての戦いとなる
そしてそれが単純に勝利に結びつく
「腹が減っては戦は出来ぬ」は真理なり
武器弾薬と飯さえ確保していれば日本は米軍を圧倒した
敗戦の原因はひとへに
「飯・武器弾薬」の補給が途絶えたことによる -
どこにでも電話ボックスあり
セメントはアサノセメント硬い -
弾薬庫の天井には運搬用のレールが
これだけの要塞に陣を構えながら
あっけなく日本軍に降伏した米軍
戦の経験なき米軍、最初は弱かった -
路面電車が要塞間を結ぶ
なるほど勝利には
「武器弾薬・飯」が勝利の第一要件だが
緒戦の米軍惨敗を見れば
第一要件だけでは勝利はおぼつかない
それに加えて戦の経験とモチベーションが第二の要件だ -
兵器修理所(ORDNANCE REPAIR SHOP)
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■ハーン砲(Battery Hearn)12インチ砲一門。
次は兵器修理所(ORDNANCE REPAIR SHOP)を右手に見ながらハーン砲台(Battery Hearn)へ行った。1942年3月6日の日付で、このハーン砲台の前で日本軍兵士が大勢で万歳している記念写真がある。その砲台の前に来て今自分が立つことになった。そして“エドさん”の掛け声で砲台前に日本人が並び万歳の写真を撮る。
ハーン砲
「29,000ヤード、1942年/バターン並びにカビテの日本軍に対して何の役にも立たなかった」
ハーン砲の横には「爆弾のクレーターに注意(Beware Open Bomb Crater)」と縄を張って囲んでいた。 -
ハーン砲(Battery Hearn)
役立たずのハーン砲・木偶の坊とはこいつのことか
なにやら恥ずかしそうにその巨体を晒している -
1942/昭和17年の勇者たち
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“エドさん”曰く
「これは日本軍の航空機の残骸」
操縦士は誰なのか? -
「爆弾のクレーターに注意(Beware Open Bomb Crater)」
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この入場門に「Battery Grubbs」の表記あり
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■グラッブス砲(Battery Grubbs)10インチ砲二門。
ハーン砲と似ているが“エドさん”曰く「これはバッテリー・グラブス砲」とのこと。
英語ネットの日本語翻訳では「1899年に島で反乱が起きた時に死んだヘイデンY.グラブス中尉を記念して、この名前が付けられた」とあったけど・・・。
この砲台要塞には発電所跡・弾薬庫跡などがあり、規模も大きかった。この大砲は54トンの錘の上げ下げで大砲を「アガリ、サガリ」ということで上下に動すようだ。この大砲の金属を“エドさん”曰く「アセチレン カット、54トン、1キロ100ペソ」ということで、あっちこっちがガスで切断され金属盗にあっているのかも??ここから運搬してマニラに運ぶ手間暇を考えれば採算に合うのか、良く分からない。 -
大砲も過去の遺物となりにけり
日本の核武装の一日も早い達成を願う
核には核しか抑止力足り得ず
核兵器搭載の弾道弾ミサイルの配備と
核ミサイル搭載の原子力潜水艦が必須だ -
核兵器保持反対論者に問う
核攻撃を受ければいかんとする?
仕方がないとあきらめるのか? -
バターン半島がすぐ近くに見える
この海峡を日本軍兵士が泳いで脱出した -
54トンの錘(おもり)が
大砲を「アガリ・サガリ」する -
弾痕跡激しくも未だ建物は形を留める
“エドさん”曰く
「セメントはアサノセメント、硬い」 -
いつの頃かは知らねども
ここに吉田部隊が駐屯する
彼らは如何に戦い、そして・・・
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■吉田部隊用
建物の入り口に朱色のペイントで「吉田部隊用」と書かれた要塞跡に入って行った。“エドさん”がこの字を前に「これは日本ペイント、別のお客さ“エドさん”さん、それは日本ペイントじゃない、これはアサヒペイント。別のお客さ、“エドさん”これはアサヒペイントじゃない、これは関西ペイント」と笑いを誘う。「きっと」「絶対」「必ず」いつもここに来れば“エドさん”は言うに違いない。ここでネタをばらしていても必ず笑う。
そしてこの中で“エドさん”が用意していた線香に火を灯し、遠く故国を離れて亡くなった日本人兵士の方々に対して“エドさん”さんの音頭で全員が黙祷をし慰霊をした。ありがとう!“エドさん”。 -
吉田部隊用
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コレヒドールで戦い亡くなった日本軍兵士のご冥福を祈る
“エドさん”に感謝! -
バスで移動中も得意の日本語?で
熱弁を振るう“エドさん”
“エドさん”さんに会いにコレヒドールへ!
このバスで日本人一団がコレヒドールを行く
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■コレヒドール島の戦いは、日本軍にとって昭和17年の緒戦の勝利と昭和20年の玉砕がある。
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“マッカーサー”のコレヒドール脱出/日本軍占領
1941年/昭和16年12月24日
フィリピンのマヌエル・ケソン大統領と家族、首脳陣はマニラを離れコレヒドール(岩)へ逃げる。同日マッカーサーも家族(夫人と息子)、参謀長官たちとコレヒドールに移る。イブの夜だったのでマリンタ・トンネル内の大統領本部で恒例のミサが催された。
1942年2月20日、夜11時
ケソン大統領一行は、マッカーサーの見送りを受けて潜水艦“Swordfish号”に乗りコレヒドールを離れた。
3月10正午
マッカーサーはウェンライト将軍をコレヒドールに呼び出し、ルーズベルト大統領命令によってフィリピン退去することの説明をした。
マッカーサー曰く
「私は今、この命令に従うか、軍をやめるか、どちらか一方をとらねばならなぬ状況に陥ったのだ。君の司令の届く限り、私がいやいやながら、ここを去ることに決めたことを伝えて欲しい」
ウェンライト曰く
「もちろんです。生きている限りバターンにいます。」
3月11日未明
マッカーサー一行は、PTボート41の停泊する北マイン・ドックへ向った。そして迎えに来た魚雷艇に乗って3月13日7時、ミンダナオ島のボゴ桟橋に着いた。
3月17日9時
飛行機に乗ってダーウィンの南、バッチェラー・フィールドに到着し、約三時間後さらに南方のアリス・スプリングに無事着陸した。
3月22日
ウェンライトは中将に昇格し、フィリピン諸島における全米軍の指揮を任された。
4月9日
バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏を申し入れ、残余の部隊も11日までに大半が降伏した。捕虜は7万以上。
4月29日夜
「岩」(コレヒドール)に医療品を供給した海軍PBYの二機が責任者のモート・デビットソン船長に率いられて23人の看護婦と50人の乗客を乗せて飛び立った。この便がコレヒドール島を去る最後の便となった。
5月6日正午
コレヒドールにいたウェインライト中将が降伏を申し入れた。本間中将は、降伏はフィリピン全土の米比軍が伴わなければならないと主張し、ウェインライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。
降伏した時点でコレヒドールには、米陸軍:4,492人、フィリピン・スカウト:1,028人、比軍:1,742人、米海軍:1,715人、比海軍予備隊員:400人、民間軍:2,302人、計11,67。その他含めて総勢13,193人の米比軍が駐留していた。
本間中将は、降伏はフィリピン全土の米比軍が伴わなければならないと主張し、ウェインライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。
大日本帝国陸軍コレヒドール総攻撃昭和17年1/4
http://www.youtube.com/watch?v=BIYzqvxC0hQ
大日本帝国陸軍コレヒドール総攻撃昭和17年2/4
http://www.youtube.com/watch?v=EZI0EYlYBHo&feature=related
大日本帝国陸軍コレヒドール総攻撃昭和17年3/4
http://www.youtube.com/watch?v=IIm2ksDHfuw&feature=related
大日本帝国陸軍コレヒドール総攻撃昭和17年4/4
http://www.youtube.com/watch?v=iP3HQkmDcTA&feature=related
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この広いグランドは閲兵場
1945/米軍落下傘部隊がここにも降下した
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■トップサイドへ行く
このトップサイドは、島内の一番高い所にある米軍司令部・閲兵場などがある。“おたまじゃくし”の左目?くらいに位置し、米軍施設の中心だったようだ。350メートルの世界一長いと言われるマイル・ロング兵舎跡(Mile Long Barracks)もある。
太平洋戦争記念館(PACIFIC WAR MEMORIAL MUSEUM)もあり、中には当時の写真が多く展示され興味深かった。この広い閲兵場に皇軍兵士が日の丸を掲げ、三八式(九九式)歩兵銃を担いで闊歩している写真もあった。
いろんな建物遺跡があちこちにあり写真に撮ったが、多すぎてどれがどれが分からない。映画館跡もあった。瓦礫となった建物があちこちにあるトップサイドの風景だけど、それでも往時はこの広いグランドや建物を含めて、さぞかし美しい風景だったろうと思う。
白人どもの美的感覚やなすことは、この軍事施設の整然たる美をもってしても一目置かざるを得ない。そんな強敵相手と良くぞ戦ったと思う。黄色人種vs白人種の戦いだった。負けたとはいえ目にも見せたりである。 -
マイル・ロング兵舎
350m世界一長い兵舎 -
大きな機銃は米軍
小さな機銃は日本軍との説明あり -
太平洋戦争記念館(PACIFIC WAR MEMORIAL MUSEUM)
写真の展示に見ごたえあり -
閲兵場
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1942年5月5日の夜日本軍この地を占領する
日本軍は5月5日の夜に上陸作戦を実施し、6日正午、
ウェインライト中将(3月22日に昇進)が降伏を申し入れた。
本間中将は、降伏はフィリピン全土の米比軍が伴わなければならないと主張し、
ウェインライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。 -
閲兵場(Parade Ground)
日米決戦、緒戦の戦いでの米軍の弱さがよく分かる -
戦後再建された灯台
海抜約191m、島内最高地点
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■灯台に登った。
戦後に再建されたそうだが、“エドさん”が「コレはスペイン灯台。スペイン灯台ワネ、一階、二階、三階、四階、もし上行きます。気をつけてクダサイ。スパイラル階段」と言って、登るのは希望者だけで、見学時間も少なかったが、私は無論登りに行った。少しでも高い場所から写真を撮り周囲を見渡したいから・・・。
急なスパイラル階段のあとは鉄梯子だったが、展望台に出た。島の広さは9平方キロ、191mが最高標高。おたまじゃくしの尻尾まで見えたが、灯台周囲の樹木が育ちすぎて眺望は、遙か遠くしか望めず。島の全体像がイマイチ分からないし、トップサイドもほとんど見えなくて残念だった。 -
ロング・マイル兵舎、その向こうにバターン半島
樹木が生い茂って景色イマイチ -
灯台、展望台から?おたまじゃくしの尻尾”まで見える
灯台周囲の樹木を早急に伐採すべし -
展望台への急階段
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灯台横の売店で土産を買う
売店の看板娘、笑顔良し! -
灯台横の売店で買った土産
南ドッグ方向を写す
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■コレヒドール・ホテルで昼食
昼食は「コレヒドール・ホテル」、おたまじゃくしの首の真ん中高台。バイキング形式で、今日のコレヒドール・ツアー客が一同に会してなのだろう。人種も雑多、一体何ヶ国?何種の種族・民族がこれだけの中にいるのだろう・・・と。白黒黄色、観光地で見るには面白いが、日本が多民族共生国家になることだけは絶対嫌だ。フィリピンもそうだが東南アジアのほとんどの国が白人の植民地となり、どことも奴等の都合で混血そして人種の坩堝にされてしまった。
そうなってしまっては最早仕方がないから、それを受け入れざるを得ず。決して望んで東南アジア各国・南米・アフリカ、その他の国が多民族共生国家になったのではない。野生動物が同一種だけでグループを作り他と共存をはかることはあっても自ら好んで他種と混じり合うことは有り得ない。超高齢化社会を迎える日本だが、移民の導入には絶対反対する。今後50年辛抱し、我々世代が全てあの世に行けば、バランスのとれた国になる。江戸時代は3千万人だった。今後50年我慢しろ。未来の為に。
今回のコレヒドールツアーのなかに、日本人の“おっちゃん”がフィリピン女性を連れての参加は一人もいなかった。男性グループでの参加が多かったが、昼食で一緒の席になったのは山形県からゴルフがメーンで来ている、私より少し上か同世代の男性ばかりのグループだった。日本人“おっちゃん”も景気が悪くなったのか?
食堂から南ドッグ「south beach port」の桟橋が見える。ここには第10震洋部隊がいた。そしてここと反対の北側に第12震洋部隊がいたが、その松枝隊が昭和20年2月15日:スービック湾の敵艦船に向って出撃し戦火を上げた。その翌日の16日からコレヒドールに米軍が上陸してきた。
このホテルの土産物店で「苦悩と栄光の島:コレヒドール」アルフォンソ・アルイット(著)の本を購入した。この本は帰国後ホント参考になった。フィリピン人の書いたものだが、マッカーサーの脱出経過やウェンライト中将の降伏に至るまでのことが、そして、1944年のコレヒドールの奪還についても米軍サイドの視点で書かれている。
それによればコレヒドールへの落下傘降下部隊にも犠牲者があり、第一波、第二波と降下したが、あまりに死傷者が多いので第三波は取りやめになったともある。この本では、コレヒドールを取り戻すために連合国側は「死者及び行方不明225人。負傷405人。落下が原因で負傷した者240人」の犠牲を出したとある。
記述によれば日本軍側は「死者4,500人。捕虜20人。海に逃げ出そうとして殺された者200人。洞窟で生き埋め約500人と推定」とある。米軍は海に逃げる日本軍兵士を容赦なく殺したのだ。この4,500人の死者の多くは、2月21日or23日or25日と資料によって日付の記述が違うが、夜半、マリンタトンネル内に爆薬を仕掛け地上の米軍殲滅を謀ったが、地響きすれど岩山は爆破されず一酸化炭素の爆風が日本軍に逆流し、一瞬にして多数の守備隊が壊滅した。その数3千名ともある。 -
昼食バイキング
世界各地?からこの日ここに来た人たち
一期一会の出会いの不思議
それは運命、縁としかいえない
「ここに集う皆の幸福を祈る」
というのは社交辞令
「他人(ひと)の〇〇は蜜の味」・・・ムムム -
ここにも美人が
コレヒドールは美人ばかり?
「コレヒドール」
アルフォンソ・アルイット(著)を買う -
コレヒドール・ホテル
ここで昼食バイキング
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昭和20年2月15日:第12震洋、松枝隊出撃する。
コレヒドール島にて
出撃を見送った第七震洋部隊:Iさんの話
震洋艇隊が出撃のために並んでエンジンかけている。見送りにもらった日の丸の旗をマフラーにして、搭乗服を着て。笑って手を振るんですよね。すごいなと思ったです。山崎部隊もああいうふうに笑顔で笑って行けるんかなと、こう感じたです。
つくり顔じゃないんですよ。本当に笑顔でね。何かスポーツの試合でも勝ったような格好でね、出ていく。凄いなと思うのと、わたしらの部隊がもし無事だったらね、あの代わり自分たちが出るんではなかったかと、こういうことを感じました。
手を振るんですよ。敬礼はわたしらがしたんですがね。向こうは手を振って出ていきました。日の丸の旗が、よく印象に残ってます。手を振ってね、その笑い顔、笑顔で出ていくのに衝撃を受けましたね、実際のところ。これは山崎部隊がやるべきことをこの人らがやるのかと、、山崎部隊の搭乗員は皆ね、ああやって笑って手を振って出られるかなと、そういうことを感じました。
戦果を上げたときに万歳してね、わたしらは喜びましたけどね、その陰には、「ああ、今死んだんだ、今死んだんだ」いうのがね、はっきり読み取れますよね。
Iさんは、24日から25日早朝まで12時間かけてバターン半島に泳ぎ着いた。そして、そこに待ち構えていた日系米軍兵士に捕らわれ五ヶ所くらいの収容所を点々としたのち昭和20年12月日本への復員を果たしている。
Iさんの震洋特攻についての思い。
当時はそれしかなかったんですよね。1人の命で大きな船を沈めるということは、当時はそれしかなかったですね。私はその兵器が憎いとも悪いとも思ったことはないんです。計画した人の大きな誤算だと思います。戦争いうのはそんな簡単なもんじゃなかったですよ。本当の戦争を知ったら、あのぐらいでとても戦果を上げられることはないと思いますね。
部下をゴミみたいに見過ぎですよね。その証拠に、私の軍隊の歴史とかは何も残ってないです。呉へ行こうが、どこへ行こうが何も残ってないんですよ。
大勢の亡くなった戦友たちのことを思うと、このまま黙って死ぬわけにはいかんと思ったんです。遺体はどこでどういうふうに死んで、何が残っているのか、分からんわけですよね。
まあ、何もかもさらけ出して伝えおこうと思って。平和がどれだけ尊いものか、戦争がどれだけみじめなものかということをね、知ってほしいと思うんです。以上
[証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100520_00000&seg_number=001
水上特攻隊
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-suijyou-tokkou-kojima1.html
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騎士道精神の欠片もないマッカーサー
コレヒドールから部隊を置き去りにしての脱出が
生涯の負い目になったマッカーサー
誰がどのように彼を高く評価しようが、
私にとって奴はつまらぬ人間でしかない
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■マッカーサー“I shall return”
昼食を食べてノースドッグの海岸沿いに憎っくきマッカーサーの銅像が立っている。部下を置いてオーストラリアに脱出したことが、プライドの塊のマッカーサーの生涯の負い目になっただろう。そのことで日本軍及び日本に対しての復讐の実行は執念とも言える。
山下大将がフィリピン・バギオでの降伏に際して、ウェンライトは無論、シンガポールで山下に降伏を迫られた英軍:パーシバル中将までも、わざわざバギオに呼び寄せて立ち会わせた。山下奉文・本間雅春将軍の処刑もしかり。
昭和20年9月27日、昭和天皇陛下との会談で、陛下の誠実な態度に感動し、その後の日本に対しての気持ちが変ったのかもしれないが。私には所詮敵の将軍でありマッカーサーの終戦前後の騎士道の欠片もない様々な行為は到底容認できず憎っき奴でしかない。 -
アチコチに逃げた将軍像恥を知れ
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海外沿いにある洞窟
中腹にも各所にこのような洞窟があった
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■震洋艇:水上特攻
海岸沿いに大小さまざまな洞窟が口を開いていたあった。“エドさん”の説明では、「震洋艇が格納されていた洞窟」と言っていたが、ここがどこなのか、どれがその洞窟なのか走りながら車中から目るだけで良く分からない。
帰国後、バスの経路を辿れば、この洞窟は第12震洋隊が使った洞窟なのだろう。 -
海辺の岩壁に掘られた洞窟
こんな洞窟に震洋艇を格納していたのだろうか -
震洋艇の格納庫らしき洞窟
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[証言記録 兵士たちの戦争]“ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜{4}{5}{6}
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210033_00000
回想録『第12震洋隊物語』
http://navgunschl.sblo.jp/article/40853345.html
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[証言記録 兵士たちの戦争]“ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜
昭和20年2月15日:第12震洋、松枝隊出撃する。
第12震洋:松枝隊の生き残り:Tさんの話
Tさんはコレヒドール島に上陸する前に船の上でグラマンの攻撃を受け負傷し、生死の境を彷徨(さまよ)いながらマニラの病院で傷を治していた。そんな時、コレヒドールに配属された仲間が見舞いに来てくれ、松枝隊長の手紙も持参してくれた。
松枝義久隊長からの手紙の内容は
「志願しながら負傷して目的を達成できず無念だと思うが、後のことは心配せず療養に専念して早く良くなってください。あとは私たちが君の初志を貫くように、みんなで頑張っている。特攻攻撃するのに全力を尽くします」というようなことが書いてあったんですよ。
松枝中尉の印象は
「鹿児島の人で、中尉のお兄さんも海軍経理学校で優等生なったような人。そういう人なんですが、まあ普通のこの海軍兵学校出の人に比べれば少し、ちょっとレベルの違う人だと。非常に部下思いで年はまだ若かったと思うんですよ。年齢でいったら21、2ぐらいかな。優しい人でした。
Tさんの震洋部隊への思い
「私は生きていて良かったと思わない。死んどったほうがよかったかもしれないです。命拾いして良かったとは思わないね。私ははむしろ真っ先に敵艦に行ってね、体当たりした、死んどったほうが、自分の本心としては本望だと思うし。私はその時体当たりして、ああ、Tさん凄かったなあと言われたほうがね、よかったかも。いまだにそんな思ってるんです。 」
以上松枝隊は震洋特攻での初出撃、そして初戦果を上げた。
[証言記録 兵士たちの戦争] “ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100577_00000 -
日本人墓地公園
鎮魂
1991.5.5/和歌山歩兵六十一聯隊戦友会
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■日本人墓地公園へ行く
日本人墓地はおたまじゃくしの尻尾の付け根の南側、すぐ左前方にカバロ島(Caballo Island)、遠くは小野田さんのいた“ルバング島”に面したところにある。“バージさん”曰く「Lubang Island」、「g」は発音しないので“ルバン・アイランド”。フィリピンでは「ルバング」と言っても誰も分からないそうだ。
どのツアーもそうだろうけど、このコレヒドール・バスツアーもその例にもれず、駆け足巡りなので、どこをどう巡って、そこが島のどのあたりなのか?さっぱり分からないままだった。帰国後写真を見て、グーグルアースを見て、その他の資料を見ながら、自分が周ったところを思い出しながらこれを記している。
どこをどう周ったのか?さっぱり分からず、コースの地図と簡単な説明を書いた物を用意してくれればありがたいのに・・・と、その時切に思ったが、帰国後それをちゃんともらっていたのに気がついた。
コレヒドールはアメリカの意思なのか?フィリピン政府の意思なのか?知らないが、「戦跡の島」として未来に残そうとしているのか、島全体が要塞島と整備されている。大砲は綺麗にペイントされているが、建物の多くは瓦礫と化したまま。20年後のコレヒドールはどうなのだろう?
日本平和庭園も綺麗に整備されていた。サイパン・グアムもそうだったが・・・。慰霊碑も建てさせず慰霊も嫌がる中共政府、その点でも満洲と太平洋では大違いだ。敷地内には日本軍の大砲も並び、それぞれの慰霊碑が墓地公園の各所に建てられている。2009年11月吉日に建てられた「大東亜戦争フィリピン戦没者慰霊碑」は観音像が海を背にして、故国日本の北東方向を向いて立っていた。
次々場所を変えて行くので感傷にひたる暇もなく、写真を撮るに忙しく、写してきた写真を見ながら旅を辿る。あ〜、コレでいいのか?といっても仕方がない。 -
日本人墓地公園内に居並ぶ大砲
大砲には日本語の文字が刻まれている -
いろんな慰霊碑・墓碑が建てられていた
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この形の碑が数多く並んでいた
一つに七名の名前が刻まれている
17歳の年齢もあった -
「桜隊道」“マリンタ・トンネル”東口
「長さ835フィート×30.48センチ≒250メートル」
「幅24フィート≒7,3メートル」
「24本の横穴」
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■日本軍名「桜隊道」“マリンタ・トンネル”東口(Malinta Tunnel, East Entrance)
この“マリンタ・トンネル”東口がバスツアーの集合場所のようだった。日本人バスとそれ以外のバスはコースが若干違うのかもしれない。そして最後はここに集合して揃ったところでトンネルに入る。私たちのバスが一番乗りで他のバスが来るのをトンネルの入り口でしばし待っていた。
入り口はこげ茶色に塗られた鉄の扉で閉じられていた。下はトンネル内に続くレールの跡もある。「長さ835フィート×30.48センチ≒250メートル」「幅24フィート≒7,3メートル」「24本の横穴」最近の日本の道路のトンネルはこれくらいの大きさがあるかも・・・高さは高いように感じた。まあレールが敷かれ路面電車が走っていたくらいだからその大きさは当然だろうが。
しばらく待って扉が開き“エドさん”さんを先頭に入って行った。250メール先の出口の明かりが小さく見える。トンネルといっても横左右に計24本のトンネルが作られ、その先にもトンネルが作られ一大地下要塞になっている。日本兵もこのトンネル内に立て篭もり、最後は地上を制圧した米軍をこのトンネルごと吹き飛ばそうと爆薬を仕掛けたが、頭上の岩は地響きをたてて揺れただけでビクともせず、爆風がトンネル内に吹き込み一酸化炭素中毒で、爆破と共に突撃準備をしていた日本軍兵士の多くは倒れた。
目撃した米軍兵士の回想:2月21日?の夜
『はじめにガラガラという音がした。コレヒドール島の岩々の下を走る地下貨物列車の如き音だった。続いてすさまじい爆発と共に島が揺さぶられた。トンネル入口からは炎があたり一面に噴き出ていた。その炎は丘の頂上を吹き抜けていた。丘の斜面はぼろぼろに崩れて下方の道路に駐屯中のエーブル中隊を生き埋めにした。岩々、残骸および日本人の遺体が雲のように夜の空に舞い上がった。
50人ほどの日本軍が一列になって攻撃して来た。機関銃が彼らをなぎ倒した。他の兵士はトンネルから出て突進してきた。我々の大砲は一日中鳴り響いたままだった。米軍は穴からガソリンを垂れ流して、TNT爆破でトンネルの入口を塞いだ。第34落下傘部隊の小編隊はトンネルおよび洞窟の中より歌声を、後には爆音を耳にした。その音はだんだん消え去ってなくなってゆくのだった』
米軍がトンネル・洞窟内にガソリンを流し込んだり、入口を爆破して日本軍兵士を生き埋めにしている。それで内部で日本軍兵士たちは最後に歌を歌い手榴弾などで自決したのだろう。「焼き殺し、生き埋めにし」・・・これが米軍のやり方でもある。戦争とはどこでもかくのごとく悲惨なものなり。
トンネル内で時々立ち止り当時の映像や音楽のパフォーマンスがある。追加料金は不要でみんな行く。説明分からず付いて歩き見て歩くが、ほとんど記憶にない。帰国後写した写真を見ながら「あっ、こんなん見てたのか・・・」というええ加減さだ。前もっての知識もほとんどなく。トンネル内で亡くなった多くの日本軍兵士に対して思いを寄せることもなく、ただ言われるままに歩いて、そして出ていた。
西口に出てトンネルの上を見上げ、今もってトンネルの何処に爆薬を仕掛けて、どの辺りを山ごと爆破しようとしたのか?分からない。西口から上を見上げたら物凄い岩山だった。この“マリンタ・トンネル”内の洞窟のどこかに山ごと爆破できそうな場所があったのだろう。
「コレヒドール」=「マリンタ・トンネル」というくらい私の中では象徴的だったトンネルを実際に見た。マニラに来なければ・・・一生来ることもなかっただろう。マバラカットを思わなければ、マニラに来なかったかもしれない。縁とは面白いものだ。次はどこを思う。 -
今(2012)から67年前(1945)の2月
日米は、この地で雌雄を決して戦った
半世紀を過ぎてここに日米共に観光する -
1942/2月21日夜
トンネル上部を占領する米軍を
トンネルもろとも爆破しようとしたが
岩は地響きだけでビクともせず
一酸化炭素の爆風等で一瞬に日本軍兵士の多くが戦死
米軍は穴からガソリンを流し込み火をつけ
出入り口をTNT火薬で爆破し生き埋めにした
3,000名に及ぶ日本軍兵士がこのトンネルで亡くなった
1976年、このトンネルは修復された -
1941年12月24日:クリスマスイブのその日
フィリピン、ケソン大統領と家族は
この“マリンタ・トンネル”に避難し
1942年2月20日夜、潜水艦で脱出した -
桜隊道を守備する日本軍
-
1945年2月23日?夜
日本軍爆破での残骸 -
“マリンタ・トンネル”の東口から入って西口に出る
-
上を見上げれば巨大な岩の塊
このトンネルのどこをどう爆破しようとしていたのか?
トンネル上部を制圧されて起死回生の爆破も失敗し
コレヒドール島で亡くなられた兵士の方々の無念を思う -
内部は24本の横穴があり
米軍司令部・病院(1,000ベッド)などに使われた
日本軍もここに立てこもり、最後はトンネルを爆破す
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コレヒドール島の戦い
コレヒドール島にて
昭和16年12月、日本軍のフィリピン侵攻後、マッカーサーはコレヒドールに司令部を置いて戦闘指揮をしたが、翌17年3月大統領の命により部隊を残して家族やフィリピンの大統領らと共にオーストラリアへと逃れた。4月9日バターン半島の米比軍は降伏したが、コレヒドール島は戦いを続け、5月6日に降伏した。
日本が占領後、コレヒドールは昭和19年半ばまで海軍少尉を長とする300名ほどの兵隊がマニラ湾口の警戒をしていたにすぎなかった。米軍のフィリピン侵攻が進むに連れて、レイテ沖海戦での沈没艦の生存者を配置し、放置していた米軍の要塞砲の再使用が決まり、その整備の為に設営隊が投入され、砲台工事、トンネル工事をして米軍との戦いに備えた。
そして中部フィリピン方面に配備予定だった震洋部隊が、その配備が不可能になり、6隊全てがコレヒドールに配備された。その震洋部隊も12月23日エンジン点検中の第七山崎隊のボートが爆発、そして並べた震洋艇が次々誘発し51隻全てを焼失97名の犠牲者を出している。
昭和20年1月9日、ルソン島リンガエンに上陸した米軍はマニラに向って進撃を開始。それに伴い10日から島内にも米軍の爆撃が始まり日に日に激しさを増していった。1月20日を過ぎると上陸に備えてか、砲台は無論、道路も地表にある施設も悉く爆撃で破壊され建物は全て土台だけになっていた。
米軍発表ではコレヒドールへの爆弾投下は、1平方マイル/3千トン。南西太平洋戦線での最大密度の爆弾投下量だということである。1月28日、島内のトンネル内で火薬庫が引火大爆発を起こし300名の兵士を失い、桜トンネル以外の全トンネルの入り口が埋没した。1月末のコレヒドール守備隊は板垣大佐を長として約4,500名である。
2月3日午後戦車30台を先頭にマニラ市街に侵攻した米軍は、捕虜収容所であった「サント・トーマス大学」に突入奪取し、それに呼応して市内のゲリラも蜂起。市民を巻き込んでの烈しい市街戦となっていった。
コレヒドール島の守備隊は敵と戦うすべなくトンネル内で耐え忍ぶしかなかった。六隊の震洋部隊も250隻のボートが100隻足らずとなり第12松枝隊だけが健在だった。
2月15日午後9時第12震洋部隊:松枝隊にスービック湾内の敵船団への攻撃命令が下り、搭乗員と同じ服装をもって特攻出撃し3隻の上陸用舟艇を撃沈した。
翌2月16日、米軍が上陸用舟艇で海から、そして落下傘部隊で空からコレヒドールへ上陸してきた。米軍は直ちに合流しマリンタトンネルの上部を制圧、日本軍守備隊は東西に分断された。
17日:守備隊司令:板垣海軍大佐が戦死、小山田少佐が指揮をとることになった。
地上を制圧され武器もなく戦う術のない日本軍は、斬り込みによる奇襲を続け敵を悩ませたが戦況はますます悪くなる一方だった。
そして糧食はあったが水の確保に窮し、2月23日、最後の手段として、トンネル内に爆薬を仕掛け地上に居る米軍部隊の殲滅を図ったが、地響きすれど岩山は爆破されず一酸化炭素の爆風が日本軍のほうに逆流し、一瞬にして多数の守備隊が壊滅した。
2月24日小山田少佐は、「いま生ある者はこの島から脱出せよ。」との命令を下したのち、自らは直後の戦闘で壮烈な戦死を遂げた。コレヒドールの日本軍の組織的戦いはここに幕を下ろし、バターン半島に泳ぎ着き生還を果たした者若干名。
終戦後の昭和21年1月、18名の日本軍兵士が同島で生存しているのが発見され収容されている。
コレヒドールの日本軍かく戦えり。コレヒドールで戦死された方々のご冥福を心からお祈りします。以上
コレヒドール島玉砕記
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_036_1.pdf#search='コレヒドール 桜隊道'
コレヒドール島の戦い
http://youtu.be/Q_kfuLLcLrU
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さらばコレヒドール島!
昭和20年2月16日米軍コレヒドール島上陸
2月23日(21日?)、日本軍“マリンタ・トンネル”爆破
2月24日小山田少佐:「脱出を命ず」
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■さらばコレヒドール島
“マリンタ・トンネル”見学が最後だったのか、午後2時過ぎ北波止場に戻って来た。“エドさん”が朝の出航前に「もし午後に海が荒れて帰れなくなったら・・・」なんて言われたけど、思ったとおり「一体なんやねんそれは?」だった。“エドさん”ホンマにええ加減にしてよ。私がしょちゅうマニラに来るのだったら別だけど。
帰りも座席は同じだったが、室内で前を向いて座っていたら去り行くコレヒドールを見れないので出航してすぐに2階のオープンデッキに出た。目の前に離れ行くコレヒドール、右手にバターン半島。さらばコレヒドール!さらばぺリリュー島の時もそうだったが、二度とこの風景を見ることもないだろう。それが私の海外旅行のいつものパターンだ。
コレヒドール島からバターン半島まで約8キロの距離を泳ぎ着いた兵士が何人かいる。海上で米空軍機から機銃掃射で殺害された兵士も数多くいたようで、辿り付いた者はごく少ない。マニラに向って進む船からコレヒドールはやがて見えなくなった。そして高層ビル林立するマニラが近づいて来る。急ぎ足で駆け巡ったコレヒドールの旅も終了だ。
出航時の岸壁に付いたのは午後3時50分頃、船から下りて“エドさん”さんに何故か?200ペソのチップを渡した。朝の一件には驚いたが憎めない人柄だ。そして、あの大きな観覧車がどこにあったのか聞いたら「それはモール・オブ・アジア(Mall of Asia)」と教えてもらい、そこから客待ちで停まっていたタクシーに乗ってMOAに行った。 -
マニラに戻って来た
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正味船にのっていた時間は1時間20分ほど
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ちょっと期待して乗ってはみたけど・・・。
“MPT・ホテル”30階の眺望のほうがずっと良かった
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■MOAの観覧車
去年の12月にオープンしたそうで、5日の夜ここに来た時機会あれば乗って見ようと思っていた。55メートの高さ、でも下から見たら巨大に見えたが実際に乗ってみると、あんまり眺めも良くなくていささかガッカリ。一周10分ほどで料金は¥150ペソだった。ネットの紹介では¥100ペソとなっているけど、一人なら¥150ペソなのだろう。高いのに乗る人はいる。
その後フィリピンのCDでも土産に買おうとMOAの中をぶらぶらした。CDショップはなかったけど、歩いていたらBENTO(弁当)という文字が目に入ってお腹もすいていたし入った。マンゴジュースを飲み「焼きソバ」と「鶏の照焼」きを食う。まあ美味かった。料金は¥520ペソ、1000円ほど。短いフィリピンの滞在だが、不味くて食べられん物はなかった。
5時20分頃になってCDショップも見つからず、“MPT・ホテル”の徒歩圏内に戻ってゆっくりしようとマカティーのショッピングモール街に戻ることにした。タクシーの運転手には行き先説明が難しいので「アラヤ駅」までと言って乗った。 -
一人で乗ったら150ペソとは
と言っても日本円¥300円か -
常夏のスケート場
上手に滑っている子供たちは金持ちの子供?? -
「BENTO」の看板につられて思わず入る
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焼きソバ、美味かった
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鶏の照焼きも美味かった
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午後5時半のマニラの風景
帰宅時間なのか?歩道橋も人が多い
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■アラヤ駅前のSMシューマート
アラヤ駅前のSMシューマートに入って案内コーナーの女性にCDショップを教えてもらって早速そこに向かった。「ASTROPLUS.INC」という店で土産用のフィリピンの歌、何か分からないけど適当に三枚を買う。100・150・200ペソだった。買い物が終わって6時頃になっていたので、ここから又方位磁石を頼りにホテルに戻ろうと歩き出した。
地下道を上ったり降りたり迷って1時間弱掛ってしまったけど、マカティー通りに出て無事にホテルに戻る。四泊五日マニラの旅も明日はいよいよ最終、本番の旅はあっという間だけど帰国後が長い。明日は小野田さんの展示があるフィリピン空軍博物館に行って、11時にはホテルのロビーでチェックアウトして迎えを待たねば・・・。 -
ここでフィリピンのCDを三枚買う
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さあ夕方のアラヤ駅からボチボチ歩いて
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明日の今頃は日本かと・・・思いつつ
道を迷いつつホテルに辿り着いた
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