2012/02/05 - 2012/02/09
1205位(同エリア1973件中)
明石DSさん
30階の窓から北方向の眺望
マニラ市 マンダルーヨン市方向
パッシグ川(Pasig River)が眼下を流れている
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=14.564685,121.030841&spn=0.034392,0.028496&t=h&z=15&brcurrent=3,0x0:0x0,1
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2日目:2月6日(月):晴
マニラにて
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2012/平成24年2月6日(月)
■午前5時半に眼が覚めて
今日の午前中は「フレンドシップツアー」のマニラ半日観光を予約している。
http://www.friendshipmanila.com/d_tours/manila.html
マニラの二日目。旅先ではいつもだが早起きとなる。今回のマニラツアーは「関空⇔マニラの航空券とホテル」そして「空港⇔ホテルの送迎」だけで、その他は一切フリーであり食事も朝食含めてついていない。
朝起きて温水シャワーをして、りんご一個とバナナを食べ7時半ごろ散歩に行った。英語も出来ないし初のマニラだから滞在三日間オプショナルツアーを申し込んだ。
初日の今日はガイドさんにいろんな情報を聞くため戦跡巡りではなく普通のマニラ半日観光。でも市内観光といってもマニラの市街戦があった場所もあり戦跡と多くがダブっていた。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
ホテルの玄関前にて
東方向を写す
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■朝の散歩
午前9時にロビーで待ち合わせなので9時までに戻るようにホテル周辺、マニラの早朝散歩を楽しんだ。やはり国が違えば言語は無論、顔形、町の様子、何もかもが違う。「百聞は一見にしかず」を何度経験しても驚くことが多い。それがこそが海外旅行。最近は韓国企業の進出が多いらしく日本語看板よりハングルの看板のほうが多かった。
スペイン植民地時代(1565年-1898年)の333年間、アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1941年)の43年間と日本の軍政下の3年ほどの影響があちこちに混在しているのだろう。
教会や建物・レストラン・食い物はスペインを感じる物が多い。スクールバスは米国。大都市マニラとマバラカット・コレヒドールのなかに日本の影響なのか?と思ったのは、見た目で学生服だけ。
そりゃあスペイン統治の333年はフィリピンの歴史で大きすぎる比重を占めている。そして『母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。』とあるから100を軽く越す民族が共生する多民族国家だ。
それだけでも日本とは全く違う。日本への移民導入は何がなんでも絶対反対、共生は地球規模の範囲で良い。多民族国家にだけはなりたくない。綺麗ごとはやめてくれ!
他国がいくら共生を進めようが、それは“やむおえない”だけで、日本のことを羨ましく思っているはずだ。共生が世界の趨勢だからと自らもその道を選択すれば国を滅ぼす。この50〜100年間経済が成長しなくとも超高齢化社会を迎えようとも、その先の日本を思えば、この時期を耐えて忍べば間違いなく将来日本はバランスのとれた健全なる国になる。江戸時代の人口は3千万人だった。
過去も今も在日韓国朝鮮人や在日中国人にこれだけ頭を悩まされ害されている日本人が多民族を受け入れることは日本人にとって百害あって一利も無い。多民族国家を見るのは面白いがこれが日本の姿になると思えばゾッとする。国の中に国を作り対立が生まれ、結局世界の現状と何も変らない。
キョロキョロしながら“MPT・ホテル”の周辺を歩き回った。 -
ホテルの玄関前にて
西方向を写す
百メートル歩けばマカティー通り -
韓国企業の進出が多いようだ
このハングル看板が示している
日本にこんな光景はゴメンだ! -
スクールバスは米国仕様?
サイパン・グアムみんなこんな感じだった -
ホテル近くの教会にて
出勤・通学前に朝のお祈りに・・・
こんな雰囲気も良いものだ
私も朝夕神棚仏壇に手を合わせ
般若心経を詠む、感謝! -
高校生なのか・・・。
やはり学生は制服がいい -
側車付きオートバイ・タクシー
これも乗らなかったけど
乗り心地は如何に? -
この連中は何?
もうすぐ雇い主が迎えに来るのか?
朝のいつもの光景なのだろう -
渋滞のマニラ
やはり日本車が多かった -
この電線の様子が
国家のレベルを示し
国民性を表す
フィリピンの現在はこのようだ
こんがらがっている
十年後は如何に? -
“MPT・ホテル”の30階エレベーター前
正面突き当たり右側が3000号室
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■マニラ半日ツアーに出発
そして9時前にホテルに戻り準備をしてロビーの椅子に座っていると、すぐに声を掛けられた。女性のガイド、名前は「VERGIE D.G.SOLIS」。“バージさん”二人の母親で、すでに三歳の孫がいる。
この“バージさん”との出会いで今日の半日市内観光と明日の戦跡巡りは、ホントに有意義な旅となった。“バージさん”はフィリピンNo.2のマニラ大学(卒)で、ちなみにNo.1はフィリピン大学。マニラ大学の第二外国語の選択が必修となっての「日本語教室」の一期生8名のうちの一人。“バージさん”の第一外国語は「スペイン語」。スペイン系で日本の血も混じっている。
経歴も凄い!
小野田さんがルバング島(ルバン島)から出て来て収容されたその日、日本大使館と現地の村長との通訳(“バージさん”は現地語が話せる)として現場に同伴していた。その他、日本から来る名士の通訳、慰霊団のガイド、ハワイから帰ってきたマルコス大統領夫人イメルダにも日本語通訳として呼ばれている。イメルダの友達、日本のデビ夫人にも何度かあっている。
イメルダ夫人は今フォートマッキンレーのグローバルシティーに一人で居住し、沢山のお手伝さんが世話をしている。“バージさん”も日本人の来訪者やデビ夫人が来た時に通訳として呼ばれイメルダ夫人の手料理を何度か食べたそうだ。マルコス政権時代イメルダはマニラの知事。今、下院議員、次期大統領選挙にはイメルダの長男も立候補予定とのこと。
いろんな興味深い話や、戦跡にも詳しくて本当に幸運だった。ICレコーダーに録音しながら話を聞いた。小野田さんは銃ではなく刀を両手で頭上に掲げて降伏の意思表示をして出てきたそうだ。ボロボロの服、痩せて真っ黒な顔、若かりし“バージさん”小野田さんの通訳をしたのではないが、小野田さんが話す日本語は理解できなかったそうだ。
そのあと三機の軍用ヘリコプターでマラカニヤン宮殿まで直行した。その時、小野田さんたちは別の機に乗っていたそうだが。“バージさん”もヘリコプター初搭乗で恐かったと言っていた。
麻生・安倍晋三元首相・渡辺謙・貴乃花、有名人がマニラを訪れた時も通訳をしている。 日本からの慰霊団にも良く随行しているそうで昨日もコレヒドール島に行っていたとのこと。フィリピンへの旅は“バージさん”を指名すれば百倍有意義な旅となるはずだ。プロフェッショナルを感じた。
今日の半日ツアーは私一人。一台の車に“バージさん”と運転手の貸切、贅沢なツアーだ。車の中で今日行く順番の説明をしてもらう。その途中「最後はリサール公園で終わって欲しい。周る順番は変えてもらっても構わないですから」と頼んだので、まず最初にマッキンレーの米軍記念墓地公園に向うことになった。フォートマッキンレーは日本軍占領時代、桜兵営があり第14方面軍司令部も置かれていた。 -
“バージさん”の名刺
「旅行記完成したら連絡して」
と名刺をもらった -
車中でもあれやこれやと質問しまくり
“バージさん”は間髪おかず
どんな質問にも丁寧に答えてくれた -
墓標は大理石
イタリア産:75%
フィリピン/ロンブロン島産:25%
遺骨の9割は本国へ
ユダヤ教・キリスト教の墓標
イスラム教の墓標はない
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■フォート・マッキンレー、米軍記念墓地へ
マカティ市の西南方向に位置し、少しばかりの高台になっている。第14方面軍司令部があり、山下奉文大将も一時指揮をした桜兵営。一体そこがどんなとこなのか?そして昭和19年10月20日、山下大将に遅れること2週間、腹心:武藤章中将がこのフォートマッキンレーに到着し山下と再会している。
山下は武藤の着任を喜びながも「何もかも駄目だ宜しく頼む」と言った。この期に及んでの山下大将・武藤中将の赴任は遅きに失したのは明らかだ。その20日レイテ島に米軍は上陸した。
マッキンレーの米軍記念墓地は綺麗に整備されている。9日に一人で再訪した時は門で警備員からパスポートの提示を求められた。ここにはフィリピンだけでなく東南アジア全域で亡くなった米軍兵士17000余の墓標が立てられている。遺骨はすでに遺族が本国に持ちかえっているものが多く、ここには墓標だけで遺骨は10%くらいしかないとのこと。
このフォートマッキンレーは米軍基地として広大な敷地の中に防空壕(バンカー)・兵舎など軍事基地として全ての設備があり、日本軍進出以後司令部も置かれていた。1995年当時ラモス大統領が民間に売却し開発が始まったそうだ。
「米軍:マッキンレー基地」→「日本軍:桜兵営」→「米軍基地」→「フィリピン国軍基地」があったところは今高層マンションが建ち並ぶ景観に様変わりしている。その一画にイメルダ夫人の住む高級マンション街「グローバルシティー」がある。
当時の規模も全容も今ではまったく分からないが、“バージさん”曰く「この米軍基地返却の時に、マニラの一等地にこれだけ広大な土地を米軍が基地として占有していたことに怒りを感じた」とのこと。1948年に作られたこの米軍墓苑が戦跡を面影を留めるに過ぎない。桜兵営は墓地に向って左手側附近、日本人学校近くにあったそうだ。
“バージさん”の話しでは「桜兵営」から脱出用なのか?バッシグ川までの秘密の地下通路があったそうだ。それを「米軍が作ったのか?」「日本軍が作ったのか?」分からないそうだけど。
2001年2月、日本人学校(Manila Japanese Shcool)もパラニャーケ市からここに移転して来ている。68年前/1944年10月20日この地で山下大将・武藤中将が再会したことを誰が知る。 -
太平洋の戦いの様子が
このような形でたくさん紹介されている
極東の小さな島国日本が
連合国相手に単身良くぞ戦った
空母決戦は後にも先にも日米決戦のみ
先人を心から誇りに思う
大切なのは結果ではなく志だ!
今の日本を子孫は誇りとするのか? -
戦死者の名前が刻まれている
このフィリピンで
日本軍兵士約50万人が戦死した
今もこの地に眠る遺骨は多い
日本は経済大国になりながら
この違いは一体なんだ -
墓苑中心より入場門方向を写す
左右に墓標が整然とならぶ
国家の総力を挙げての遺骨収集もやらず
国の代表が靖国神社に参拝もしない
そんな国家国民の未来は、おして知るべし
因果応報はまぬがれぬ全ては自業自得なり -
マッキンレーの日本人学校
高校まであるようだ
パッシグ川にも近い
昔この近くに桜兵営があったとのこと
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山下奉文大将の最後
山下大将は、昭和20年9月3日ルソン島バギオでの降伏調印式にのぞんだ。そこにはシンガポールで山下に降伏したパーシバル中将とコレヒドールで本間中将に降伏したウェンライト中将も参列していた。
パーシバル、ウェンライト英米の二人の将軍は台湾・満洲で捕虜生活を送り、両者とも9月2日の戦艦ミズリー号での日本の降伏調印式にも立会い、次いでその翌日行われたこのフィリピン、バギオにもわざわざ来ている。これはマッカーサーの指示とも言われている。
マッカーサー自身がコレヒドールから逃げたことへの負い目の裏返しであり、敗者をことさら侮辱し騎士道精神の余裕もないマッカーサーの人間の器を示している。こんな人間に戦後日本は統治され今に及ぶ無様な日本が形作られていることを忘れてはならない。
山下奉文大将は2・26事件当時、陸軍エリートが集う統帥派ではなく、クーデーターを起こした若手将校の立場に近い皇道派に属した。それが故に天皇陛下の怒りをかい東条英機との間にも確執があったと言われている。
そんな山下だが、昭和21年2月22日午後、自らの絞首刑執行の数時間前、教戒師としてその時初めて山下と対談した森田正覚氏によれば、雑誌「ライフ」に拘置所で東条がひとりぼっちにされている写真について森田が山下に質問した。
「あの閣僚たちが責任を問われるとなると、さも自分は平和論者であったかのような顔をして、東条一人を責めているようで極めて不愉快です。あなたもああいう一人ですか?」・・・と。
それに対して山下は・・・。
「私も確かにあいつらは怪しからんと思います。戦争に敗けて友情まで失ってしまったのです。私はもし無罪だったら東条のために弁護してやろうと思いました」
森田は「東条からあらゆる迫害を受けた山下さんの心の中には今や一点のくもりもないのである。東条も、もしこの友情ある言葉を聞いたなら必ずやうれし泣きに泣いたに違いない」と書き残している。
山下の戦犯裁判で弁護士となった米国人リールは山下の人柄に魅せられた一人である。
彼は
『「私が知る限り、山下を知って、個人的に彼にひきつけられなかったアメリカ兵は一人もいない」また山下をマニラから護送し、法廷の出入りもつねに警備を受け持っていたケン・ワーシー少佐も、リールに対して、「法廷がどのようなことを言おうとも、私は、いつも彼を偉い奴、本当の紳士だと思っているということを山下大将に告げてもらいたい」と頼んだ』という。
山下への判決は昭和20年12月7日、日本時間の8日。4年前の真珠湾攻撃のその日である。復讐裁判のなにものでもない。そして処刑は昭和21年2月23日午前3時、享年61歳。軍服の着用も許されず囚人服のままで行われている。
死刑執行に立ち会った森田が最後に聞いた言葉は「皇室の弥栄(いやさか)を祈り奉る」だった。
辞世の句は
待てしばし勲のこしてゆきし友あとなしたいて我もゆきなむ
妻に対して
満ちて欠け晴れと曇りにかわれどもとわに冴え澄む大空の月
処刑が行われたロス・バニョスには『山下将軍を偲ぶ会』の石碑があり、その碑には山下の人柄を偲ばせるかのように部下やお手伝いさんの名前が刻まれている。
山下奉文陸軍大将のご冥福を祈ります。以上
山下奉文大将の最後
http://youtu.be/woiiHK20hgM -
“バージさん”の話しでは
このあたりがスラム街とのこと
マルコス亡命のあとの
女性大統領「アキノさん」が優しくて??
こんなスラム街が出来てしまったそうだ
行政の小善は、人を不幸にするだけだ
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■“イントラムロス”に向ってマニラ市内を走る
マッキンレーから場所は忘れたがマニラの下町、スラム街?を車中から見て、ロハス通り(Roxas Boulevard:ロックサス・ブールバード通り)を走りながら日本大使館・アメリカ大使館・「ベイビュー パーク ホテル (Bayview Park Hotel) 」の前を通った。
内部は知らないが「ベイビュー・ホテル」は、今も外部は3階まで昔の建物をそのまま使っており、戦中このホテルは日本軍が使用していた。
「日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper93a.pdf#search='日本軍の命令 マニラ'
上記サイトは日本軍のマニラで行った非道?を当時の電報や米軍押収資料を探し出し、マニラ市街戦の一面を紹介している。
そこにもこのホテルで「何があったのか?」が書かれている。
上記サイトの内容の真偽を確かめることは私には出来ないし、する気もないので書かれていることが真実だとも嘘だとも思わない。しかし、そこで何が起きても、何があっても「それが戦争だ!」である。
戦争での残虐と言っても、そこには多種多様な状況があり、私はその状況を踏まえての人間性を問う。戦後の似非平和を享受する今の日本人が、その行為だけを取り上げて、当時の日本軍や日本兵士の残虐性を糾弾し、敵だった相手国に安易に謝罪するのは天に唾することだ。
それは戦争の悲惨さんと平和の尊さを訴えるために、異郷の地で国を守るために死んで行った先人を、己の都合で利用し貶めているに過ぎない。そんな奴を偽善者と言う。
米軍は、フィリピン人に武器弾薬を支給するだけではなく。マッカーサーは日本兵の命に懸賞をかけたり、ゲリラになって日本軍と戦えば米軍兵士と同じ給料を払うといったり、あの手この手で女・子供を問わずフィリピン人を日本兵殺しに利用した。マニラだけではなくフィリピンの至るところで男は無論、女・子供を含めて誰かゲリラなのか分からない状況下での戦いとなっていた。
米軍は勝利を手中にしながらマニラを包囲した挙句に無差別に爆撃し、地下にガソリンを流し込み火を放った。マニラ防衛隊日本軍は追い詰められた絶望的な状況下で、敵味方の区別も出来ず己が命を守るために子供や女を銃剣で突き殺した???銃弾が無かったからだ。
米軍やゲリラは自動小銃を乱射した。爆撃や砲撃、その他あらゆる手段使って子供・女も大量に皆殺しにするのとどちらが残虐なのか?
そして、遠く故郷を離れ国を守るために戦いの場に立ち、あのような状況下で自らの命を守るために、或いは絶望で自暴自棄となって住民を銃剣で突き刺した同胞を非道だと非難することが、子孫として、人として正しい道なのか?
お前は同じ状況下で
「ゲリラかどうか分からない民間人や女子供を殺すくらいなら、そいつにどのような酷い殺され方をしても甘んじて受け入れる」と言い切れるのか・・・。
戦争は悲惨だ、その修羅場は幾ら想像を逞しくしても、その想像を軽く凌駕したものだろう。誰だって当事者になりたくない。国家の独立と名誉と誇りを守るために、そんな戦争に踏み切った先人たちに心からの敬意を表し感謝する。我大東亜戦争を賛美してやまぬ。
戦争の残虐行為
http://youtu.be/TsFCEstDsvc -
モール・オブ・アジアを通って
子供用靴販売から成功した
華人財閥ヘンリー・シーが中国の投資を受け
このMOAを作ったそうです
正面に観覧車 -
アメリカ大使館前を通る
道路を挟んでほぼ斜め対面に
「ベイビュー パーク ホテル (Bayview Park Hotel) -
「ベイビュー パーク ホテル (Bayview Park Hotel)
日本軍が使っていた
3階まで昔のホテル -
左前方:マニラホテル
手前の5階建てが旧マニラホテル
5階のフロアー全てがマッカーサーの居住区
ここで息子の
アーサー・マッカーサー4世が
洗礼を受けた -
スペイン国王から贈られた神様
これはレプリカで本物は小さく
セブ島の大聖堂にある
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■サン・オウガスチン教会
“イントラムロス”(イントラ・モーロス:Intramuros)に着いた。“イントラムロス”は、昔ここだけがマニラ市街で、スペイン人しかこの中に入ることも出来ず、この外はマニラ郊外だったとのこと。夜の10時には、スペイン人以外は退去しなければなず、近くには日本人街やチャイナタウンが出来たそうだ。
まずサン・オウガスチン教会(San Augustin Church)の博物館の方から見学した。この教会は戦争で瓦礫とならず当時のまま残っている。しかし最初はこの教会も正面から見て左右対称だったのに左側の上二層の塔は18世紀の地震で崩れてそのまま再建せれず、そのままとなっているそうだ。
やはりこういった場所は、その時は説明を聞きながら「フム、フム、そうか・・・」と頷いて写真を写したりしているが興味も知識もなく、すぐに何がなんだか?分からなくなる。帰国後一体どこに入ったのか?順番はどうたっだのか?写した写真を見ながら時系列で思い出している。興味がないとはこういうことを言う。
サン・オウガスチン教会も世界遺産に登録されているだけに、人によっては見応えがあるのだろう。名前の入ったプレートが掲げられている部屋があり、“バージさん”曰く「この教会にはマニラ市民が戦時、教会内は安心だと避難していたが、ここでも多くの人が亡くなった」
「名前入りのプレートはマニラ市街戦の時にここで亡くなった方、そして教会に寄付をした人」と“バージさん”との説明を聞いた。
博物館内もフラッシュを使わなければ撮影OKだった。 -
博物館は奥行きがあり、雰囲気がある
教会もそうだが、この建物も表から見た感じと
内部に入っての感じがどうも違う
外見より中味の凄さ・・・か
そんな白人の文化には一目置かざるをえない -
教会の天井も絵画のようだが
レリーフの如く立体感がある
なかなかやるなあ -
名前の書かれたプレート
今時日本で流行っている
ビルの中の個人墓のようだ -
こんなデッカイのか
ゆっくり見ないと分けが分からない -
日本渡来の花瓶もあった
いつの物か分からないが
聞いたような?忘れたような? -
シエスタ(昼寝・Siesta)の時間で博物館は閉じているらしい
観光地なのに遠来の客への気遣いもなく
まあ、それでこその異文化体験
日本人は日本人らしくが一番!
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■カーサ・マニラ博物館
その後、カーサ・マニラ博物館に行った。ちょうど昼で中には入れず。
帰国後写真を見ながら、「あ〜、この写真か、ここがそうだったのか」と思い出しながら、行き先を辿りながらの旅行記だ。次々と巡る名所旧跡観光には、いつもながら私の頭はまるでついていけない。
「中庭があり、旅番組なんかでよく見るこれがスペインの建物なのか・・・」という感じだった。 -
テレビの旅番組でこんな感じの建物は良く見た
これがスペイン風ってものか
なかなか良い -
サンチャゴ要塞門のそばにあるアカシヤの大樹
“バージさん”の説明では
樹齢は不明だが、戦乱を生き抜いてここに立つ
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■サンチャゴ要塞へ
米国統治時代は米軍司令部、そして日本の統治時代には日本軍の憲兵隊本部が置かれていた。このサンチャゴ要塞内でも日本軍兵士は沢山亡くなったのだろう。憲兵隊本部建物や要塞周囲の壁にくっきりと残る生々しい弾痕跡が物語っている。
ここの地下牢で多くのフィリピンゲリラ?マニラ市民?が犠牲になっているそうだ。サンチャゴ要塞・イントラムロス・マニラ市役所・国会議事堂・農林省ビル・リサール公園(ルネタ公園)は、徒歩で歩ける範囲に集約しており、“イントラムロス”を含めて激しい市街戦の戦場になった場所だ。
「マカピリ哀歌」
http://www.h3.dion.ne.jp/~ya.ike/makapili.html
「マカピリ哀歌」に、マカピリ(比島愛国同志会)と共に戦った日本の特別工作隊のことが詳しく書かれている。その中には「フィリピン戦線における日本軍の直接の敵は、正規の米比軍よりも、むしろ彼ら抗日ゲリラだったといって過言ではない」との文言もある。そしてフィリピン同胞同士「マカピリvs抗日ゲリラ」の凄惨な戦いでもあった。
参照↓
『マッカーサーが、レイテ島に上陸直前、「フィリピン人は皆立ち上がって日本軍と戦え」とのアジ放送に続いて、「米軍に編入されているフィリピン全将兵には、米陸軍と同等の給料を与える」と。即ち、ジェネラル・オーダー百号を公布。
更に、彼と共に帰国したオスメーニヤ大統領も、大統領令二十二号を公布して「ゲリラの待遇は、米兵と同等にする」と、呼びかけたから、その効果は絶大で、約五十万のゲリラは、フィリピン各地で正規軍の矜持をもって一斉に蜂起した。
だが、この二つの公布は、戦後不渡り手形同様なものに終わっているのは皮肉という外ないし、日本軍にとっては、不幸で悲惨極まりない様相を呈したわけである。』・・・以上。
マニラ及びフィリピンでの日本軍の戦いは、こういった状況下でもあった。
サンチャゴ要塞内の憲兵隊本部は弾痕跡をそのままに寂しく建っている。
その玄関に「Senator Elpidio Quirino was Imprisoned in This Building For 16 Days In 1943(上院議員エルピディオ?キリノは1943年/昭和18年に16日間この建物の中に投獄された)」と書かれたプレートが貼り付けられていた。第六代:フィリピン大統領であるキリノの家族四人がマニラ市街戦で米軍の無差別爆撃で死亡している。
ウィキペディア抜粋
『第二次世界大戦中のマニラの戦いでは、妻のアリシアと5人の子のうち3人が日本兵に殺されている。高山正之は、キリノの家族は米軍の無差別空爆で死んだが、元NHKプロデューサーでノンフィクション作家の中田整一が、キリノの家族は日本軍に虐殺され、末の娘は放り上げられ銃剣で刺されたという、キリノの作り話か中田の創作を番組として制作したと主張している。』
家族が日本軍兵士に惨たらしく殺害されたという主張をしていたエルピディオ・キリノだが、1953年/昭和28年、大統領の時にモンテンルパの日本人戦犯の恩赦をし全員の帰国を許している。
これはキリノの政治的人道的配慮と言われているが、高山正之氏の調査結果である「キリノの家族は米軍の無差別空爆で死んだ」が事実だろうと私は思っている。
戦後に生きる日本人。
それは元兵士でも戦後生まれでも、戦死した戦歿兵士或いは帰還兵士に関して英雄的行為については、それが例え間違いや誤解に基づき真実ではなかったとしても、その個人・遺族・子孫を大きく傷つけるまでに至らないと思う。
しかし、その兵士が戦場で成したという残虐行為や卑怯な行為については、風聞・噂を事実であるかのように喧伝することは許させれることではない。例え実際にその場に居合わせたとしても十二分に配慮に配慮を重ね、慎重の上に慎重にそのことを語るべきだ。もし対象の人物が戦死していた場合、反論は何一つ出来ない。
ましてや戦後生まれの人間が、例え個人ではなく日本軍或いは部隊を特定して残虐・卑怯を語るのは、余程慎重を要する。自国軍隊を貶め部隊に関係する全ての人を貶める。それが一個人に対してなら尚更だ。個人の名誉を踏みにじり、遺族・子孫を未来永劫不当に苦しめることになる。
例え残虐が真実でもそれは戦場という非日常世界での出来事であり、そこは平和な時代を生きる者の想像以上の極限状態にあると思う。それをまるで自分が正義の使者であるかのように裁く権利が誰にあろうか?
まず国を守るために遠い戦場で戦った同胞に対して感謝の気持ちと“かばう”気持ちを持って戦争を考えるというのが人の道だ。“かばう”というのは「他から害を受けないように、助け守る。いたわり守る心」であり、悪でも非道徳でもない。
同胞を“かばう”こともせず、相手の言い分をそのままに日本軍の非道をあげつらい、自分が日本国・日本人の代表になったかのように謝罪し、自国を貶め自らを善人ぶる日本人こそ人として最低だ。
サンチャゴ要塞は海に面しバッシグ川(Pasig River)の川沿いであり、地下牢は溺死させるような構造になっている。これは日本軍の仕業ではなくスペイン人がなしたことであり、白人植民地支配の冷酷非道さの証である。
日本軍がここにゲリラを収容し多くの死体があったというのも事実なのだろう。しかしマニラ防衛隊日本軍約12000名がこのマニラ市街戦で殺されたのも事実だ。日本兵を殺したのはマニラの市民ゲリラであり米軍である。それが戦争だ。
ホセ・リサール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB
ホセ・リサールが二ヶ月余入っていた監獄もある。“ホセ・リサール”は、日本で言えば江戸末期に生まれ明治29年35歳で銃殺されたフィリピンの独立運動の英雄だ。
独立運動といっても彼の掲げたことの第一番目に「フィリピンはスペインの一地域であること。」とある。これが一体独立を目指すことなのか?と、思うが、逆にそれだけ当時の白人支配の強固さが分かる。
要塞から川向こうのチャイナタウンが見える。そしてパッシグ川に掛る橋は河口から一番手前の橋でマッカーサー橋。この橋を渡ってチャイナタウンに行く。“バージさん”の説明では戦中も「この橋は爆破されなかった」ということだった。
一通り“イントラムロス”を見学して堡塁の下に設置された日本軍の大砲があるというので見に行った。それは「San Diego Garden」のすぐ東北・鋳造所跡の北東のすぐのところにある。武器に詳しくないのでこの大砲が何のか?ネットで検索しても分からず。
大砲には漢字表記があり日本軍のものだということである。格子越しなので確認は出来ず。小さなデジカメを一杯ズームしても分からず。
ここでマニラ半日市内観光の終了となった12時はすでに過ぎており、「昼食はさっきの中庭のあるスペインレストラン(カーサ・マニラ博物館横)で食べる」と言ったら、そこまで送ってくれた。そして明日の戦跡巡りツアーでマバラカットへ行くのにロビー8時集合を約束して別れた。 -
日本占領時代、ここが憲兵隊司令部だった
弾痕跡が生々しい
いつの時代の大砲なのか? -
サンチャゴ要塞の門
-
フィリピン独立の英雄
リーサルの入っていた監獄
独立の英雄が打ち出した方向性
「フィリピンはスペインの一地域であること。」
これでも独立の英雄となる
それだけ独立は夢物語だったのだろう
大東亜戦争がそれを現実にした -
地下牢
満潮時に溺死させ
干潮時に門を開いて死体を流す
手を汚さず虐殺は自動的に
これが白人植民地支配である
その白人がカトリックを広めた
宗教とは?一体なんぞや -
サンチャゴ要塞からパッシグ川を眺める
昭和20年2月〜3月
ここは砲爆撃と銃撃戦で殺戮の修羅場と化した
マッカーサー橋が見える
郵便局が見える
ここで多くの日本軍兵士が亡くなった
冥福を祈る -
日本軍の大砲だ
今も黙してその任を全うする
主は戦いに敗れた
そして生き残った者も戦後生まれも自虐を快感とし
戦争を悪と叫び、軍隊軍人を忌避し
そんな己を善とする醜い者たちよ -
ホワイト ナイト ホテル イントラムロス
このホテルのレストランで昼食
美味かった、安かった、満足した
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■ここから一人でぶらり散策。
まず昼食を・・・。
私が入ったのは「ホワイト ナイト ホテル イントラムロス (White Knight Hotel Intramuros」のレストラン。帰国後分かった。そこがどこなのか?何も分からず適当に入った。言葉もしゃべれないので「オンリー・ワン」と言ったら案内してくれた。
そして写真付きメニューを見て、鶏肉テリヤキ風なのを適当に頼んだ。飲み物は「マンゴージュース」甘くて美味い。出てきた照り焼きも小ぶりで丁度良い。美味しかった。値段も¥310Pで安かった。グッド!西洋人客多し。
半時間で食べ終わり、一人散策の開始。
まず、昨日の約束をキャンセルしておこうと携帯で電話をした。朝も掛けたが出なかったので・・・今度は一回で掛った。昨日のオバちゃんの声だった。私のことはすぐに分かったようで「今日用事が出来て行けなくなった。アイムソーリー」と断った。
オバちゃんは「じゃあ明日は?いつまでマニラに?」とか聞いてきたけど「アイムソーリー」と何度か繰り返して断った。仕方がない。 -
雰囲気はバッチリ
一人客だが丁寧に応対してくれる
日本人グループも来ていた -
マンゴージュースと鶏照り焼き
量も丁度良い -
石畳に時代とスペインを感じる
こんな所で生まれ育ったらどうなるの? -
昔教会は左右対象だった
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■“イントラムロス”を再度散策す
午前中の復習として、サン・オウガスチン教会を外からまじまじ眺める。
そして次に、マニラ大聖堂の写真撮影。
この大聖堂は1958年日本の援助によって再建された。時の神奈川県知事:内山岩太郎が日本の国連加盟に反対するフィリピンの譲歩を引き出すためにこの再建に尽力したそうだ。 -
正面:サン・オウガスチン教会/右:博物館
ここから見れば色も形も妙な取り合わせだし
中に入れば、博物館も奥行きが途方もなくあり
不思議な感じだ -
グーグルアースで見たら一目瞭然
サン・オウガスチン教会と博物館は
こんなにも広くて大きい -
マニラ大聖堂
ここに入ったのか?入らなかったのか?
それらしき写真がないから入っていないのだろう -
左:入場券売り場
右:アカシヤの大樹
サンチャゴ要塞に午前・午後二度入る
入場券も二度買う、ムムムまけてはくれぬ。
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■食後の再訪!サンチャゴ要塞
そこからサンチャゴ要塞に向かい、入り口の屈強なる警備員に「さっき券を買って入ったから、もう一回入れて」とセコク粘ったが通じず、再度¥75Pの入場券を買って入る。
入り口のアカシヤの大木は“バージさん”さん曰く「樹齢???年」詳しくは忘れたが戦火を逞しく潜り抜けその一部始終を見ている。そして今も将来をも見続けるはずだ。
デジカメ動画撮影をしながら要塞内を歩く。サンチャゴ要塞の門に米軍戦車が突入している写真がある。そして目の前に修復された門がある。67年前ここで戦争があった。そして又川沿いに立ち激戦だったろう往時を偲ぶ。
でも、状況は思い浮かべること叶わず、城壁のアチコチに数限りなくある弾痕跡を見ても何の音も聞こえず。ただ今の青空広がる平和なひと時をここに過ごす。 -
要塞の門を内部から写す
米軍戦車が向こうから進攻してきた -
リサール記念館はサンチャゴ要塞内に建っている。
どこかで内部の写真はダメとあったが・・・。
写真撮影OKだった
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■“ホセ・リサール”記念館
“ホセ・リサール”記念館は「月曜日は休館」と“バージさん”が言っていたが開いていた。
入ったらすぐに“ホセ・リサール(享年35)”の等身大看板があった。記念館の方に頼んで写真を撮ってもらう。私の肩くらいしかない小さな人物だ。医師であり多言語を駆使し画家でもあり独立の闘志だったフィリピンの英雄である。記念館には画家である彼が描いた日本人の恋人「白井勢似子」の肖像画も掲げられていた。
スペインからの独立と言っても、混血になってしまえば被害者だった子孫が加害者の末裔ともなる。白人の植民地統治は、白人との混血を作ることから始まる。覇権者の血が混じると被害者の子孫は加害者の立場にもなる。そうなってしまえば、独立の意味は?となる。
今の新疆ウィグル・チベット・内モンゴルもそうだ。漢族との混血を進めることが民族浄化・同化に繋がる。もとより侵略が目的であり取り返しがつかない。世界が雑種になってしまえば、独自の面白みも特徴もなくなる。
それぞれに特徴ある身体特性・言語・慣習・文化を保持してこそ互いに研鑽し、違いを尊重しあい豊かな人類世界を保つことが出来る。フィリピンは、ごく少数派である中国系に政治経済の大方を牛耳られ、その他の民族は悔しい思いをしながらそれに甘んじている。そんな国になるのはゴメンダ。 -
日本人の恋人「白井勢似子」
『旗本育ちのつつましく
、編み物と絵画が得意で
英語とフランス語を学んでいた』
日本に立ち寄ったリサールと知り合う -
サンチャゴ要塞西北側はパッシグ川に面している
観光客がチラホラ歩いていた
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■サンチャゴ要塞の散策
サンチャゴ要塞をゆっくり散策し、この中に数軒並んだ土産物店の一角に昔の映像シアターがあると“バージさん”に聞いていたので行ってみた。ここだろうと思ったところは鍵が掛っていたが、覗き込んでいたら傍に立っていた“おっちゃん”が声を掛けてくれた。
その“おっちゃん”が鍵を開けて中にいれてくれた。そこはミニシアターで座席が並んでいた。座ったら早速映画が始まった。“イントラムロス”の昔〜今、20分くらいだったと思う。昔の“イントラムロス”の映像は一見の価値あり面白かった。
大東亜戦争敗戦に学ぶ今後の日本の課題
「戦うつもりはなくても戦いは始まることもある」
日本は米国との戦いを誰ものぞんでいなかった。しかし相手から仕掛けられた戦争は、相手が自分より強い敵であることがわかっていても引き下がることが出来ないこともある。大東亜戦争がそれである。
これからもそういったケースがあるだろう。「世界でも」「会社でも」「個人でも」・・・こんなことは日常的に普通によくある話しだから。そして日本はそんな大東亜戦争に敗れ、敗戦の惨めさを今も引きずっている。二度と同じ事を繰り返さないために今何をすべきか?答えは簡単だ。
やりたくない相手に仕掛けられることがあるのだから、そんな時でも相手に勝つには、相手より強くなるしかない。しかし総合力において強くなるのは、「国土の大きさ」「資源の多寡」「経済力」「人口」「民族の資質」等々いろんな条件があるので、幾ら努力してもどうしようもない一面がある。
しかし今なら、そんな諸条件など関係なく、これさえ持てば相手がどこであれ「対等」といえる兵器が存在する。それは大量破壊兵器「核兵器」。そうだ・・・。大東亜戦争の反省なら、一発で答えが出る。そしてこれ以外にない。
軍事力では世界No.1の米国を葬るだけの核ミサイルを備え、核ミサイル装備の原子力潜水艦を常時遊弋させていれば、どこの国であろうが「戦うつもりはなくても戦いが始まる」ことの確率は大幅に下げることが出来る。
そして「万万が一やられても」それに匹敵しての「報復が可能だ」。
国の独立を守り、誇りと名誉を守り、国土と国民の安全を守り、今後二度と戦争をしないためにも、仕掛けられないためにも、これしかない。このことについては議論の余地もない。 これが私が大東亜戦争敗戦を省みての今後の課題である。
大東亜戦争敗戦に学ぶ今後の日本の課題
http://youtu.be/r0BiklNYfUY -
地下監獄・・・か
親も国も時代も選べず
しかし、生き方は選べる
奴隷でなくば・・・。
自分の人生がどうであろうが
親や国や時代の“せい”にするな!
と、我が身、息子に言い聞かせる
サンチャゴ要塞
http://youtu.be/I2XsheDxgdA -
左側:リサールの監獄
右側:リサール記念館 -
もう生涯ここに来ることはないだろう
たぶん -
日本軍憲兵隊本部跡
過酷な戦時をこの地で苦労呻吟された兵士諸氏に
心からの感謝と、万感の敬意を表します
今は無様な日本ですがいつの日か -
憲兵司令部左横に建つ建物
激しい弾痕跡が無数にある
“バージさん”の話では
ここに本間雅春中将も
山下奉文大将も
来たことがあるらしい
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マニラにて「大東亜戦争を考える」
http://youtu.be/fn5Af_mmFMk -
この街には馬車が似合う
常夏の国はのんびりしている
大都会マニラであっても
そんな感じがする
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■サンチャゴ要塞を出て“イントラムロス”を歩く
そしてサンチャゴ要塞を出て、“イントラムロス”のマニラ湾側の堡塁沿いを歩いた。堡塁の外側は何故か?ミニゴルフ場となっている。この堡塁は幅が広く内部は建物としていろんな用途に使われていたのだろう。所々に説明の掲示があるけど英語はさっぱりなので分からない。
この堡塁でPC(警備員)の訓練をしていた。
この警備員たちのことを“バージさん”さんは「PC(ピーシー)」と言っていた。フィリピンの治安が悪かったこともあるが、雇用対策でもあり、ある程度の会社やデパートなど人の出入りの多いところは警備員を置くことが法律で定められた。
彼らの警備範囲は周囲50メートルで、それ以上離れたところには行かない。この仕事は終身できるのではなく、将来は警察官への道や独立起業、他への転職が必要になるそうだ。これだけ町中に銃を携帯した逞しい警備員が立っていれば安心感はある。
日本軍の大砲の傍にマニラ大学(Pamantasan ng Lungsod ng Maynila:タガログ語)があった。“バージさん”は大学生も制服といっていたように制服を着ているので最初は高校だと思っていたが、「フィリピン情報マニラ大学」のようだ。
制服を着た大学生と前後しながらマリア・オローサ通り(Mria Orosa Ave)を歩いてリサール公園に向った。昔のルネタ(Luneta Park)公園に。 -
ココナツジュースで喉を潤す
値段は忘れたが安い、美味い -
“イントラムロス”の周囲が
ミニゴルフ場になっているのが面白い
芝生もよく育つだろう -
PCの訓練
いたるところ彼等あり
腰に拳銃ぶらさげて
安心感あるけどホンマに大丈夫? -
マニラ大学のキャンパス
制服着てるので高校生かと?
“バージさん”曰く
「大学生も制服です」
それは良い -
マニラ大学の大学生たちと同じ方向に歩く
いざ!リサール公園に、“イントラムロス”の隣
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■ルネタ公園(リザール公園)へ
昭和20年2月〜3月、敵陣の手前にあったルネタ公園から毎晩一個小隊(30〜40人)が、銃もなく刀、竹やりで突撃したが敵陣地に辿り着く前に機銃掃射で次々と倒され戻って来る者はいない。 そして士官が亡くなれば隊はまとまりをなくし、ますます絶望的な状況に追い込まれてゆく。
そんな状況下で日本軍は戦っていた。今のリサール公園は広大な敷地だが、“バージさん”の話しでは「当時のルネタ公園は、リサール記念碑より海側だった」とのこと。昔の映像を見れば式典なんかは海側の広いグランドで行われていたようだ。
日本庭園は入場料がいるようで入り口に切符販売の“おっちゃん”がテーブルを置いて座っていた。「ハウマッチ?How much」と聞いたら、“おっちゃん”は一瞬間があったが、私に目配せをしながら「行け!」と無言で合図してくれた。「サンキュー」と言って入った。池に水もなくお金を取れるような公園ではなかったが、一応他の人からは徴収していた。
日本庭園から出て公園をマニラ湾方面へと歩いた。翌日“バージさん”から聞くまで、この時はこの辺もルネタ公園だと思い込んでいた。だからリサール・モニュメントまで行って次の目的地である観光省ビルを探しに戻る。翌日7日もこのルネタ公園に来た。
この時は、観光省ビル(昔:農林/農務省ビル:Agriculture Bldg)も、国立博物館(昔:国会議事堂/財務省/Finance Bldg)も、マニラ市役所もまだどれがどこに有るのか?何も分からず「地球の歩き方」を見ながらに歩いていた。
一度確認すれば「ああこれだった」と地図との比較が出来て頭の中で位置関係がはっきりするが、それまでは初めての街、初めての道で東西南北含めて、すぐ傍にあっても分からないし全体の位置関係が掴めない。幾ら日本でグーグルアースで見ていても、地図を見てても、やはり歩いて確かめてこそ全体像が把握出来る。
今では、あ〜こんな近くにそれぞれのビルがあったのかと思えるが、その時はなかなか分からない。 -
日本庭園に入る
正面建物が入口
“おっちゃん”が待ち構えていたが
「ハウマッチ?」と聞くと
私の顔を睨みつけて、アゴで「行け!」・・・と
料金取らずに入れてくれた -
料金払って入るような庭園とは思えぬが
今は池に水もなく改修中のようだった
それでも若いアベックや女性連れがチラホラ -
戦時中もこの記念碑は立っている
東條英機首相もこのルネタ公園で演説をした
1943年(昭和18年)5月11日/東條首相比島訪問
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300538_00000&seg_number=002 -
ここを歩いていたら女性に声を掛けられた
彼女が悪い女性ではないことを願う
そして彼女に幸運が訪れることを願う
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■リサール公園内で声を掛けられる
リサール像から観光省ビルを探して歩いていたら、昨日のように20代後半から30代はじめのような可愛い女性から声を掛けられた。何故?声を掛けられたのか分からなかった。午後3時過ぎである。
夜の街角ではない、昼間の公園のなかで周囲にも多くの人がいた。私が日本人だと分かると、急に積極的になり「私の姉がもうすぐ名古屋に行く、初めて日本なので不安だ。姉は少し日本語を話す。姉に電話するから代わって欲しい」と携帯で電話を掛けた。
そして私が電話を代わったらつたない日本語で話しかけてきた。内容はほとんど聞き取れないが、妹と二人で会いたいというようなことだと思う。そして電話を彼女に返したらタガログ語で話していた。そして、彼女が私を誘っているようだった。
「日本のことを教えて欲しい、聞きたい」と、超カタコトの日本語と英語と身振りで。私がこれから行く所があるというと「明日は?あさっては?」と熱心に誘ってくる。昨日の二人連れもそうだったが、何が目的なのか分からないがその熱心さには驚くしかない。
そして昨日の二人、今日の彼女もどう見ても悪い女には見えない。見た目も商売女ではなく化粧も普通だ。私が「アイムソーリー・バイバイ」と言って行きかけると、困ったような顔して諦めていた。その顔が悲しそうだった。何でこんなオッサンにどんな用事があるというのか?
ここに来る前のマニラ情報として、日本人のオッサンがフィリピン女性を伴ってツアーに参加してる姿を良く見かけるというのがあったが、私がこっちに来てよく見かけたのは、白人初老の男性とフィリピン女性の二人連れが多かった。最近日本は景気が悪く、日本人オッサンは金がないのかも・・・。
彼女たちが旅人から騙して金を巻き上げるのは犯罪だが売春は批判しない。人類最古からの仕事の一つであり、職業に貴賎はない。生きて行くための手段だ。努力も必要だし体を張って生きている。綺麗ごとばかり喚く市民活動家の女や病気でも無いのに生活保護を受けている人間より遙かに立派だ。 -
昭和20年2月26日(月)、この地にて
マニラ防衛隊司令官:岩淵三次少将自決
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■戦跡のビルを探して
そこからすぐに観光省ビルに辿り着いた。ここが昔、農務(農林)省ビル。
昭和20年2月26日、このマニラ海軍防衛隊司令官:岩淵三次少将(享年50)が、部下を脱出させた後に農務省ビルの司令部で自決した。
昭和20年2月3日、マニラ市内に侵攻した米軍と、3月3日にかけての一ヶ月にくらいの間に市庁舎・農務省・国会議事堂(財務省)・イントラムロス・パコ駅周辺を含んだ一帯に陣を構えた日本軍と米軍及び抗日ゲリラ・便衣兵・一般市民を含んでの激しい市街戦が行われた。米軍は自国兵士の犠牲を極力抑えるために2月12日から無差別攻撃を開始する。
追い詰められた日本軍は、第14方面軍司令部が2月17日に撤退命令を出すが時既に遅く、米軍は周囲を包囲し現状は脱出不能の状態であった。そして2月20日に米軍が投降勧告するも応じず、その後更に米軍の攻撃は容赦なく建物は次々と破壊され、マニラ市民を巻き込んでの殲滅戦となる。
その頃農務省ビルから600メートルほど離れたイントラムロスにも日本軍と共にマニラ市民1万人余がいた。その中にはゲリラの掃討として日本軍の惨殺もあっただろうが、米軍の無差別攻撃によって犠牲となった。
マッキンリーにも1900名くらいの日本兵が残存し東部への脱出をはかったが、動けない傷病兵は軍医によって処置されている。そして3月3日アメリカ軍はマニラでの戦闘終結を宣言した。日本軍かく戦えり、ここに戦歿日本軍兵士・亡くなった在留邦人に満腔の敬意と感謝、そして哀悼の意を表す。 -
アメリカ軍のイントラムロス地区侵攻経過
①Agriculture Bldg(農務省ビル)/②Finance Bldg(財務省ビル)/④City Hall(市庁舎)
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■財務省ビル(Finance Bldg)へ
農務省ビル(Agriculture Bldg)から次に旧国会議事堂、今の国立博物館へ向う。
国立博物館(National Museum)は、農務省ビルと公園を挟んで対面するようにありすぐに分かった。しかしそこから市役所を探して地図を片手に歩きかけたら、すぐ北側にもう一つ立派な国立博物館があった。その時点では「えっ?国立博物館が二つか?」と不思議に思ったが、そまま市庁舎(City Hall)目指して歩いた。
帰国後、旧国会議事堂が今の国立博物館だと思っていたが、ウィキペディアの「マニラの戦い」の「アメリカ軍のイントラムロス地区侵攻経過」に財務省ビルが、農務省ビルと公園を挟んで対面する国立博物館の場所になっていて国会議事堂は印されていない。
当時のマニラの国会議事堂は一体どこにあったのか?そして今、国立博物館が二つ並ぶようにある。多分一つが財務省ビル、もう一つが国会議事堂だろうと思いながらも分からなかった。博物館に入って展示を見るか、“バージさん”に聞いていればすぐにそこで分かっていたのだろうが、その時は「国立博物館=旧国会議事堂」で財務省ビルのことは頭の片隅にもなかったので仕方がない。
帰国後これを書きながら、いろんな疑問点が出て来て旧国会議事堂の場所をネットで探していたら「フィリピン退屈日記」に旧財務省ビルが観光省ビルと対面するリサール公園の国立博物館で、Burgos St沿いの立派な本館が旧国会議事堂だと分かり疑問が解けた。
「フィリピン退屈日記」
http://blog.livedoor.jp/takanori_sugiyama/archives/50842871.html
2月12日から米軍は無差別砲撃を開始し、2月22日マニラホテルを占領、23日~24日“イントラムロス”占領。2月27日に国会議事堂、3月1日に農務省ビル、最後の3月3日に財務省ビルが米軍の手に落ちマニラ市街戦は収束した。
「地球の歩き方」を片手に次はマニラ市役所を目指して歩いた。すぐにそれらしき建物が目に付いて「これだろう・・・」と思ったが、近づくと建物の窓を見れば生活感を感じて市役所と思えずに、又明日“バージさん”との戦跡巡りのコースに「市役所裏」というのがあるのでスルーしてしまった。結局翌日分かったが、ここがやはり市役所だった。 -
①農務省ビル(観光省ビル)/②財務省ビル(国立博物館)/③国会議事堂(国立博物館)/④市庁舎
⑤郵便局 ⑥憲兵隊司令部跡/⑦リサール記念碑/ ⑧日本軍病院(スーパーマーケット) -
②旧財務省ビル(現在:国立博物館)
公園を挟んで観光省ビル(農務省ビル)の対面にある
この北側にも道沿いに国立博物館(National Museum)がある -
③国会議事堂(国立博物館)
国会議事堂は「現在:国立博物館」とのことだった。
でも国立博物館が、すぐ近くに別の建物として二つあった
こっちが旧国会議事堂
この写真、左正面遠くが市庁舎
この時、何故か?団地と思っていた -
市庁舎に来る人が多いのか
ずらっと並ぶジプニー
この道路を隔てた向かいが市庁舎
この近くでタクシーに乗りサント・トーマス大学へ行く -
サント・トーマス大学/西側の入口
入口に屋根付き体育館がある
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■サント・トーマス大学へ行く
もう4時頃になったので、ここからサント・トーマス大学に向う。
マニラ二日目にして初めてタクシー(多分白色?)を呼びとめ乗った。英語も話せず、行き先を地図で見せて頼んだ。タクシーは白色・黄色があったが帰国後に「マニラのタクシー・白色・黄色」でネット検索するすれば「黄色はカンパニー(メーター付き)」「白色は白タク」との説明だけど、私が何度か乗ったタクシーにはデジタル・メーターがついていた。
マニラ市役所附近からタクシーに乗ってサント・トーマス大学までのタクシー料金は84p(168円)。タクシーを降りたのは大学の西南側で、通りは学生相手の店が並んでいて、そこで私もジュースを飲んだ。大学には自由に入れた。入ったらすぐ左側に屋根つきの屋外体育館?のような物があり学生がバスケットをしていた。
そして右手にグランドが広がってて、陸上部・サッカー部など放課後のクラブ活動が行われていた。このサント・トーマス大学はリンガエンに上陸した米軍が、この捕虜収容所の解放を目指して昭和20年2月3日最初に辿り付いた場所だ。
「マカピリ哀歌」には・・・以下のように記されている。
『昭和二十年二月三日の夕方、米軍先遣隊(第十四軍団第六軍第一騎兵師団)の戦車を伴う快速隊があたりを威嚇射撃しながら、マニラ市北部に突入した。その先端は、パシック河のケソン橋に達し、一部は分かれてセント・トーマス大学、そしてマラカニヤン宮殿へ。
セント・トーマス大学には米英民間人三千五百二十一人抑留されていて、その中二百二十一人を人質とした形で、林中佐は「所長以下の全員(六十五名)を武装のまま完全に振武主陣地に送り届ける条件下の捕虜移譲」を折衝し、五日朝、その了解ができ、米軍の護衛の下に出発して小林兵団右地区に入っているのである。』
この時、パッシグ川を越えたサント・トーマス大学から直線距離2キロちょっとのマニラ市役所では、米軍進撃を知らない日本軍が暢気に「すきやき会」を開いていたのである。マニラ防衛隊は、各拠点の相互の情報も皆無でこの期に及んでもまだそんな調子だったというのが分かる。
「捕虜 日米の対話」
http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm
米国カリフォルニア州の非営利団体 「US-JAPAN DIALOGUE ON POWS」 により運営されている日本語サイトの中にこのサント・トーマス大学収容所も紹介されている。
「サント・トマス民間人収容所の開放」
http://www.us-japandialogueonpows.org/Santo%20Tomas%20liberation-J.htm
「マニラ開放63周年:日本軍米民間人捕虜の集い」
http://www.us-japandialogueonpows.org/Manila%20liberation%20reunion-J.htm
「あァ これがサント・トーマス大学か」と最初に入った建物は、大学ではなく教会だった。中には自由に入れた。この建物の中心にもやはり中庭がある。米軍侵攻時にはこここでは戦いが行われず捕虜は解放されたので主要な建物は当時のままのようだ。フィリピンは大半がカトリック教徒らしく熱心に祈りを捧げる学生の姿があった。
この大学は以下Web頁抜粋
『1611年に開校したアジアで最古の総合大学です。現在、キャンパスはマニラ市サンパロックの広大な敷地内にありますが、開校当時は城壁都市イントラムロス内にありました。生徒数の増加に伴い、1927年に現在の場所に移動。修士課程も併せれば現在の生徒数は約35,000人で、世界最大規模のカトリック大学になるそうです。』
この教会が大学だと思っていたが、そこから出て少し歩くと、こんどはもっと大きな立派な大聖堂のような建物が目に入った。「一体これは何ていう教会?」と思いながら近づいたら「University of Santo Tomas」との看板が掲げられていた。
玄関の警備員に「サント・トーマス大学か?」と聞いたら「イエス」との返事、「あっちは?」と聞いたら「チャーチ」との返事だった。その時初めてこっちが大学で、さっきのは教会だったと分かった。
そして中に入り屋上まで上っていった。ここも玄関に警備員は立っているが出入り自由。2月3日、米軍侵攻当時のことを思い浮かべる余裕もなく、写真と動画を撮ることと屋上からのマニラ市街の眺望を楽しみにひたすら階段を上った。そして屋上に出ることが出来て嬉しかったが、景色は今一で周囲のビル群が見えるだけ。マニラ湾も展望できなかった。
屋上には軽食喫茶コーナーがあって制服姿の大学生が友人たちと“駄弁って”いた。そのあとキャンパス内でしばし佇み夕方のサント・トーマス大学からタクシーでホテルに帰る。
「“MPT・ホテル”はタクシーの運転手に言っても知らないだろう」と、ガイドのMさんに言われていたのでホテルの名刺を運転手に見せたらチラッとしか見ずに「OK」だった。
不安で「ユー、ノウ?」と確認したら「OK!」と言う。このタクシーの色も確か白色だったけど、デジタルメーターも付いており、スイッチもすぐに押してくれた。料金は180pほど。190p渡して釣りはチップ。マニラ二日目にして初めての単独行動らしきことをしたが、満洲同様そんなに不安はなくタクシーも二回連続何の問題もなかった。 -
学生相手の店でジュースを飲む
美味しかった、何を飲んだか分からないけど -
名門私学、サント・トーマス大学
制服の女子大学生は新鮮だ・・・。 -
ここがサント・トーマス大学かと思っていた
ここは教会(Chapel)だった -
UNIVERSITAS PONTIFICIA
SANCTI THOMAE AQUINATIS
と玄関上に表記されている -
戦中はここに多くの捕虜が暮らしていたのだろう
-
中庭のある建物
-
帰宅前の学生が三々五々祈りの場に
こんな光景は見ていてもホッとする -
向って右となりの教会と思ったこっちが
サント・トーマス大学だった
重厚な感じでいい雰囲気だ -
玄関を入ればこの光景が
女性が階段上で両手を挙げている
どんな風にここで捕虜は暮らしていたのだろう
そして、それを管理する日本軍兵士たちは
マニラが戦場になったのは、昭和20年2月
いつから食い物も乏しくなったのか? -
サント・トーマス大学の中庭
創建→戦前→戦中→戦後→今、と
いろんな人たちがこの中庭で過ごした -
屋上から中庭を望む
-
屋上からマニラ湾方向を写す
高層ビルにさえぎられて遠望は望めず -
サント・トーマス大学キャンバス
正面:左側「教会」、中央「大学」、右側「病院」
グランドに十字架 -
学生相手の商店が並ぶ
この前からタクシーに乗ってホテルへ戻る
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東洋の真珠と謳われたマニラでの市街戦
1945/昭和20年2月2日〜3月3日
第14方面軍:山下奉文陸軍大将はマニラは無防備宣言をして司令部をバギオに移動し、持久戦を図ろうとしたが、海軍が港を守ることにこだわり大本営陸軍部も反対した。それによって、岩淵三次(さんじ)海軍少将を司令官とするマニラ海軍防衛隊が編成された。
マニラ海軍防衛隊はマニラ駐留の第31特別根拠地隊を基幹として、レイテ沖海戦での沈没艦生存兵士、現地召集兵を含め当初は総数約24000〜26000名であった。しかし、その後兵器の大幅な不足から部隊を各地に後退させ、2月3日、戦闘となったときの兵力は約1万名であった。
その中には海軍防衛隊の指揮下に入った陸軍:野口部隊の大隊も含まれるが、これも現地召集の兵が大半である。
昭和20年1月9日(火)、リンガエンに上陸した米軍はマニラに向って進撃した。2月3日米軍の先鋒が捕虜収容所となっていたサント・トーマス大学を解放するために日本軍に攻撃を開始したのが最初である。日本軍は国会議事堂・農務省ビル・イントラムロス・マッキンレー(米軍の要塞跡・マカティ市フォート・ボニファシオ:桜兵営)等々各所に分散配置されていたが、サント・トーマスへの攻撃が始まった時も各部隊への連絡はなく、午後7時頃市役所で「すき焼き会」を開いていた兵士たちもおり砲撃音を聞いて緊張感に包まれたという。
[証言記録 兵士たちの戦争]フィリピン 絶望の市街戦 〜マニラ海軍防衛隊〜
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210015_00000&seg_number=001
米軍の進撃以降、フィリピン人約3千人とも言われるゲリラ活動も活発化し、米軍から支給された自動小銃を乱射してくるフィリピン人ゲリラ。なかには軍服を着た兵士もいたようだが、民間服のままの便衣兵ゲリラに日本軍兵士は追い詰められていく。
そんな中でゲリラの掃蕩も適わず、当然のように自分たちが殺されないためにゲリラと見境がつかない現地人に対しての殺傷に及ぶこととなる。その数は不明だが、これに対しての批判は到底出来ない。殺すか殺されるかの世界である。米軍もビルの地下にガソリンを流し込みそれに火を放って無差別に殺傷し、市街地への砲撃も無差別砲撃である。
マニラでの民間人死者が10万人とも言われ、それをもって日本軍の「マニラ大虐殺」との非難があるが、その大多数は米軍の殺戮によるものと私は思っている。2月3日に米軍は突入、3月3日にはマニラでの戦闘終了を宣言している。その間、各所に陣を構え貧弱な武器のみで戦い、あっという間に守備隊が殺されてゆく状況下で民間人の大量殺戮など、誰がどのように考えても出来ようもない。もとより武器も弾もないのだ。
市街戦の実情は、どこから誰の弾が飛んでくるのかも分からず、米軍、ゲリラ(便衣兵)、そして味方同士の撃ち合いにもなってしまうのが市街戦である。後方支援もなく兵士たちは自暴自棄に陥っていく。そんな状況下、ルネタ公園、その他から決死の斬り込み隊が毎夜のように出て行くが、武器は僅かな銃に刀や竹やりという状態となってしまっていた。
そして士官が亡くなれば隊はまとまりをなくし、ますます絶望的な状況を迎える。 2月20日に米軍は降伏勧告をするが日本軍は無視し、攻撃再開後は今までより更に烈しい米軍による無差別な殲滅戦となった。
そんな中、農務省ビルにいた台湾人巡査(マニラ到着後・陸戦隊に配属、名前は巡査、任務はマニラの治安維持)、劉さんたちは隊長:廣枝音右衛門警部から『お前たちは台湾から来た 連れて帰れないのが残念だ。どこまでも生きて帰れ、国には妻子父母兄弟が待っているだろう。俺は日本人だから責任は持つ』と米軍への降伏を命じた。そして廣枝隊長はその後自決した。
その台湾人の巡査は2月23日白旗を掲げて米軍に投稿し劉さんたちは戦後に生き延びている。2月25日残存日本軍は脱出命令を受けて脱出を図るも途中野口大佐も戦死した。2月26日岩淵少将も、部下を脱出させた後に農務省ビルの司令部で自決した。ここにマニラの攻防は収束する。
そうか・・・。こんな状況だったのかと、マニラ攻防の様子が分かった。マニラの無防備都市宣言を具申した山下奉文大将は、いわれなき市民虐殺についての責任を問われてマニラ軍事裁判で裁かれ、絞首刑となった。
以上:2011/10/15.記
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廣枝音右衛門警部
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マニラ市街の惨状
米軍侵攻のその時点でも「70万人」がマニラ市内に残って暮らしていた
米軍の無差別砲爆撃によって破壊し尽くされたマニラ市街地
マニラ市民10万人の犠牲者は
この米軍無差別爆撃の結果だということが一目瞭然である
日本軍兵士が民間人を殺戮した数は不明であるが
日本軍防衛隊1万に対してフィリピン(便衣兵)ゲリラ3000名が
米軍供与の自動小銃を持ちマニラ市街地で積極的に活動していた
そんな状況下で日本軍のフィリピン人殺戮は致し方がない
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東洋の真珠と謳われたマニラでの市街戦
http://youtu.be/DA6fKiniD3w
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生演奏の真横の二人掛け
席はイマイチだけど仕方なし
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■「LA TIENDA:ラ・ティエンダ」で夕食を
明るいうちにホテルに無事に帰り着き一休み。6時過ぎ頃にまたぶらぶらホテル周辺を散策し、適当に“とあるレストラン”に入った。一人なので入り口近くの二人掛けのテーブルに案内された。目の前で三人のギター生演奏があり、入ってすぐに日本人客が多いのに気がついた。
隣のテーブルも、その向こうも・・・と、いうように出張中の会社員グループのような人たちも日本語で賑やかに盛り上がっていた。日本人客が多い店には来たくなかったが最早仕方がない。
私は残念ながら酒も飲めず、コーラとパスタ、そしてパンを食べる。このパンが冷めないように分厚い布巾のような布に包(くる)まっていたので、バターらしきはあれどパンがないと思ってパンが来るのをずっ〜と待っていた。痺れを切らしてウェイトレスに聞いても“ニコッ”とするだけで持ってこない。
なんでやねん?と、思いながら・・・ふと気がつく。
もしかしたら・・・・。おもむろにその包みを広げると、まだ温かいパンが二つ。
「あったァ〜!」と、周囲に気付かれないよう知らん振りをしながらひそかに喜ぶ。美味しかった。そのあと運ばれてきたパスタも美味しかった。ギター生演奏も日本語の歌もあり、黙々と歌い続けてくれる“おっちゃん”三人グループに好感が持てた。
満足して462pを支払った。ホンマ安い。日本円で900円ほどとは、席を立ち、帰りがけに三人に「サンキュー」と、手を挙げたら三人は演奏しながら満面の笑みを浮かべ会釈を返してくれた。「あ〜、チップの500pでも渡せば良かった」と後悔先に立たず。例え商売用の笑顔でも構わない、プロの対応に癒された。
何も知らずに入ったレストランの名前は「LA TIENDA:ラ・ティエンダ」スペイン料理の店で、日本人の間では有名らしく多くのブログで紹介されている。
今日は“バージさん”との出会いもあり、充実のマニラ半日観光が出来た。そして、その後、“イントラムロス”もサンチャゴ要塞、ルネタ公園もゆっくり散策できたし。サント・トーマス大学にも行けた。十二分の充実の一日だった。
さあ、明日はいよいよこの旅のメーンである、神風特別攻撃隊のゆかりの地。マバラカットへ向う。
気合いを入れて行こう。 -
バターはあれど、待てどくらせどパンが来ない
バターを持ってきてパンがない、パンはどこ?
しびれを切らしてウェイトレスに「パンを!」
と言ったら、お姉さんニコッっと笑うだけ
「パン」はなんでこんの???
このグリーンの包みに冷めないようにくるまれていた
メチャ恥ずかしかったけど・・・美味かった。 -
貝のパスタ
美味かった
ひたすら食い・・・すぐ食い終わる -
三人にサンキューと手を振ったら
満面の笑顔で送ってくれた
ありがとう!それだけで幸せになれる -
ホテルから徒歩五分のところにある
たまたま入ったけど、ラッキーだった
余は満足なり
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