2012/02/05 - 2012/02/09
1086位(同エリア1796件中)
明石DSさん
朝焼けの早朝6時過ぎ
30階からの眺めは素晴らしい!
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3日目:2月7日(火):晴
マバラカットへ
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2012/平成24年2月7日(火)
■マバラカットへ行く朝
マニラ三日目の朝も薄暗いうちから眼が覚めた。今日は旅のメーンテーマである神風特別攻撃隊が出撃したマバラカット東西飛行場跡を訪ねる。“MPT・ホテル”30階から大都会の夜明けを楽しみ、写真を撮れば気合も入る。さあ、行くぞって。
まず8時待ち合わせまで、毎度の朝の散歩へ出かけた。
マカティー通りを南に歩き、昭和19年10月6日、山下奉文大将がマニラに一歩を踏み入れたネルソン飛行場跡へと歩く。その滑走路跡の道路:パセオ・デ・ロハス通りとマカティ通りの交差点を左折して、またそこからブラブラ・キョロキョロ朝の風景を見ながらホテルに戻って来た。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
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ジプニーに乗って出勤
次々とジプニーが列をなして走っている -
出勤前に屋台で朝食
私は残念ながら一度も食べずだった -
まさにホームレス
路上がねぐらも常夏ならば・・・。 -
24時間営業の両替店
こんなに多くても商売成り立つのが凄い
一体何種類ぐらいのお金が可能なのだろう -
“バージさん”のアルバムの写真
フィリピンでの日本兵遺骨収集
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■マバラカットへ出発!
そして8時前にロビーの椅子に座っていると、ほぼ定刻“バージさん”が迎えに来てくれた。マニラの朝の渋滞を避けるために9時ホテル出発を1時間早めて、マバラカットに向って出発。車中で“バージさん”がこれまで日本の慰霊団や遺骨収集で巡った時のアルバムを見せてもらった。
その写真には火葬のために木組みの上に並べられた数多くの髑髏と遺骨の写真もあった。米国は国の義務として今も継続してフィリピン各地、いや世界各地で戦死者の遺骨収集を行っている。日本は有史以来の敗戦という結果に全てを見失い、何が大切なのかさえ未だに分からなくなったままだ。 -
遺骨収集団の活動
やっと故国へ帰れる兵士たち
ご冥福を祈る -
■大西瀧治郎中将
大西瀧治郎中将は昭和19年10月16日、ダバオ事件で解任された寺岡謹平中将に代わって第一航空艦隊司令長官としてマニラに赴任した。
大西瀧治郎中将(享年54歳) -
■有馬正文少将
大西中将赴任の前日の10月15日
第26航空戦隊司令:有馬正文少将が「戦争は偉く(階級が上の者)年をとった人から死んでいかないといけない。」と「指揮官先頭 率先垂範」を自ら実践し一式陸攻に搭乗し特攻攻撃の先駆けとなっている。
有馬司令官の自爆
「神風特別攻撃隊の記録」猪口力平・中島正(共著)
有馬正文少将(享年49歳)
昭和19年10月15日、クラーク地区の指揮をとっていた第26航空戦隊司令官:有馬正文少将は、第二次攻撃隊(攻撃隊一式陸攻13機、直援隊零戦16機、陸軍制空隊四式戦70機)の一番機に搭乗して進発した。
そしてマニラの65度240浬(かいり)の地点に敵の機動部隊を発見し、午後3時54分、全軍突撃を下命し、空母に対して攻撃を敢行したが、その搭乗機は不幸にして自爆し、少将は壮烈な戦死を遂げたのである。
有馬少将は攻撃隊の出発直前、みずから指揮官機に搭乗する旨を言い渡し、軍服の少将の襟章をとりはずし、懐中から小刀を出して双眼鏡の「司令官」という白い塗料の文字を削り、参謀や司令たちの引き止めるのをしりぞけて搭乗、攻撃隊の先頭を切って離陸していったのである。
以上
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有馬正文少将の残念ながらこの時の攻撃隊の戦果の確認は今も出来ていない。そして、一式陸攻は乗員七名とあるが、その他の搭乗者は誰だったのだろう?少将と共に散華したはずの他の搭乗者が表に出てこないのを残念に思う。特攻関係の著作やネットで検索しても今の所、その時の様子が分からない。
この航空特攻での将官の死は、有馬少将(享年49歳)の戦死が「指揮官先頭 率先垂範」であり
宇垣中将(享年55歳)・大西中将(享年54歳)の両中将が、「貴様たちにだけは行かせはしない、必ず後から俺も行く」との死であった。
海軍の航空特攻関係での高官の死は、有馬・宇垣・大西の三人の将官、そして桜花特攻の野中少佐だけのようだ。
知られざる戦史【38話】陸海軍特攻隊将校戦死者の出身考察(主力は学生)
http://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/60164992.html
このような事実からも、いろんなことを考えさせられる。大東亜戦争に関しての総論各論の評価は、時代とともに紆余曲折しながらいつの日にか落ち着くところに落ち着くのだろうか?まだまだ新事実も出てくると思う。当事者・関係者の死後に出てくる資料も多いはずだ。
歴史的出来事は時の経過と共に、真相・事実から遠ざかるのか?それとも、真相事実により迫れるのか?その絶妙な時期・タイミングというのがあるように思う。近すぎても駄目、遠くなりすぎても駄目。それは何時なのか?
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■マバラカットへの道中
8時44分頃、高速道路の料金所に到達。
大西中将が門司親徳副官(もじ・ちかのり/当時26歳:平成20年/享年91歳)と一緒に午後3時半過ぎにマニラの第一航司令部からマバラカットに向った道路と方向は同じだが道は違う。
門司親徳大尉(副官:26歳)と大西瀧治郎中将
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マバラカットへの道中
高速道路の料金所
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■「決死隊を作りに行くのだ」
その時、時々左側に鉄道線路を見ながら二人は会話もなかったそうだが、右前方にアラヤット山が見える頃、大西長官が「決死隊を作りに行くのだ」と独り言のようにつぶやいた。
午前9時、トイレ休憩。高速道路の大きなサービスエリア。年中常夏の国だからか、オープンカフェがどこにもある。暑過ぎるのは嫌だけど、やはり寒いより暑いほうが私は好きだ。夏と冬どっちが良いと聞かれれば「夏」と答える。こんな問いが成り立つのも四季のある日本だからのことなのだろう。四季に感謝。
マバラカットに行く時に「大西長官がクラークに行かれるから準備しなさい」と門司副官は言われたそうだが、この“クラーク”という意味が良く分からなかった。当時の地図を見れば「アンヘレス⇔ダウ⇔マバラカット⇔バンバン」の範囲には飛行場が沢山あり、一体この“クラーク”というのは「何や?」と思っていたが、米軍が作った広大な範囲に広がるクラーク基地だった。(面積:シンガポール一国の広さ)
日本軍占領時代のクラーク
『「クラーク北」「クラーク中」「クラーク南」「クラークフィールド」「マバラカット」「マルコット」「バンバン」など複数の飛行場群を設置、運用した。これらはフィリピン基地航空隊の中心的存在であった。』
クラーク空軍基地
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E7%A9%BA%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0
ようするに沖縄駐留の米軍基地と同じで、この辺り一帯は戦前から米軍基地の町でもあった。Web頁参照『首都マニラの北西約60km、アメリカの海外最大の軍事基地。1903年~1991年まで使用された。基地名は1919年パナマ運河近くで亡くなったハロルド・M・クラーク少佐の名からとられた。』とある。
“バージさん”に聞いたら、1991年6月のビナツボ火山噴火の被害とフィリピン上院の議決で米軍撤退後この地域は四つに分割され、「①国際空港、②工業団地、③フィリピン空軍基地、④観光地域」となっているらしい。
米軍駐留時には4万人の雇用を生み、街も基地の町として活況を呈していたそうだ。今のこの地域一帯の雰囲気は田舎の地方都市であり、広大な返還地の有効活用も未だ程遠い感じだった。 -
高速道路のサービスエリア
出発後1時間経過の9時
トイレ休憩をする
日本と同じような感じだけど
オープンカフェイがここにもあった -
最高速度制限「100キロ」
快適に高速道路をひた走り、まずは“アンヘレス”へ -
アンヘレスに到着
フィールズ通り
フィールズ プラザ スイーツ コンド ホテル
Fields Plaza Suites Condo-Hotel
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「神風特別攻撃隊」編成出撃に到るまでの経緯
昭和19年8月12日フィリピン:ダバオの第一航空艦隊司令部に寺岡勤平中将が赴任した。
すでにサイパン・グアムは玉砕し、ぺリリューへの上陸真近でもあった。寺岡中将は広範囲に散らばっていた航空機を集め、その後始まるであろうフィリピンへの米軍上陸に対抗すべく集めた飛行機を温存する作戦をとった。
それは敵艦載機の攻撃に備へ敵が南に来たら北に逃げ、北に来たら南に飛行機を退避させる。苦肉の策であはるが、その移動においての消耗戦で徐々に戦力を減じ、逃げ腰となったことによる精神面のマイナスもあった。
そんな状況下、ダバオ事件が起きる。9月10日午前四時「敵上陸用舟艇を発見」との第一報が当時ダバオ(ミンダナオ島)にあった司令部に入り、続いて「敵水陸両用戦車が第二ダバオ基地の方向に向っている」との報告が来た。
その報告に従って当初の計画通り航空機の大部分をセブに集結させた。しかしその後、偵察飛行によって敵上陸は誤報と判明し、集結させた飛行機を20機、40機と分散させたが、翌日の11日にはまだセブに100機が残っていた。
そこに午前9時20分敵機が波状攻撃を仕掛け、50機が大破炎上、30機が損傷を受けた。間隙を縫って迎撃に飛び立った練達のパイロットたちも敵10機を撃墜したが、我がほうも多くが撃墜された。温存索をとっておきながら誤報によって戦う前に大損害を被ったのである。
次には10月12日〜16日にかけて台湾沖航空戦があった。米軍機動部隊の艦載機が台湾・沖縄の航空基地を攻撃し、その艦隊への攻撃に向った基地航空隊の戦果を大戦果と見間違い、その直後のレイテ沖海戦に重大な負の影響を与えた。この時の日本軍航空機の損害は300機以上に及んだ。昭和19年6月「絶対国防圏」サイパンへの玉砕、次いでグアム・ペリリューと占領され、敵はフィリピンに迫った。
この9月のダバオ事件に見られるように日本軍はジリ貧状態に陥っていた。
そんな中、起死回生の作戦として、「捷一号作戦」が発令された。「大和」「武蔵」を有する栗田艦隊はレイテ湾に突入し、湾内の輸送船団を壊滅させ上陸米軍を叩き潰す作戦だった。その実施に当たり航空機の援護のない艦隊作戦は成り立たない。そのため敵空母からの艦載機の発進を防ぐために特攻隊が編成された。それは特攻攻撃によって敵空母の甲板に穴を開け、一時的にでもレイテ湾上空の制空権を奪取することが目的であった。
レイテ沖海戦は10月23日から始まり25日にかけて発生した。それに呼応すべく大西中将が8月に赴任したばかりの寺岡中将に代わって第一航空艦隊隊司令長官となる。その大西中将は、10月17日マニラに到着19日マバラカットへ行き即日特攻編成を行う。20日にはすでに第一陣の関行男大尉を隊長とする特攻隊の部隊編成が終わり出撃準備も出来た。その翌日21日第一陣が出撃した。
神風特別攻撃隊の誕生はこのようにあっけないとも言える幕開けだったが、戦わずして航空機は陸上で破壊され零戦の可動機30機とジリ貧状況下。操縦士も圧倒的敵勢力に対してその実力を発揮することも叶わず、戦果を得ることなく、みすみす戦死していく数だけが増えて行くなかでの特攻隊編成、そして出撃となったのである。
以上
"神風特別攻撃隊"誕生までの経緯
http://youtu.be/3BggHMBa-mk -
“ダニエル・ディソンさん”宅へ
この高級住宅街の一画に
“ダニエル・ディソンさん”の自宅がある
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■「フィリピン少年が見たカミカゼ」の著者“ダニエル・ディソンさん”宅へ
マバラカットの飛行場跡に行く前に、最初に行ったのはアンヘレスに住む「フィリピン少年が見たカミカゼ」の著者でもある“ダニエル・ディソンさん”(DANIEL.H.DIZON.B.F.A)の自宅。ダニエルさんはネットのブログやいろんなところで紹介されていて、特攻に興味を持っている人は知っている人も多いと思う。
私もここに来るまで会えるとは思っていなかったが、“バージさん”というガイドに巡り合えてそれが可能になった。ダニエルさんは当時14歳、ということは67年をプラスすれば、今年81歳となる。多くの特攻隊兵士との交流があり、戦後、マバラカットから飛び立った特攻隊員の慰霊碑建立に尽力して下さった。
“ダニエル・ディソンさん”は「アジア孤高の精神カミカゼの心。カミカゼ精神とはアジア人が到達しうる究極のものである」と、自宅のカミカゼ博物館を訪れるフィリピンの学生に教えているそうだ。
戦後日本人の一部は、「特攻は犬死」などと恥知らずにも言う奴がいるが、心ある普通の人間ならば、人種民族国境敵味方を越えて“神風特別攻撃隊”の成した自己犠牲精神は、誰もが感動と畏敬の念を持つだろう。だからこそ1974年(昭和49年)このマバラカットにフィリピン人の手によるの慰霊碑が建立された。
自宅はアンヘレスのバジャオ通り(Badjao Street)にある。“バージさん”も久しぶりの来訪らしく以前の電話番号が変わっていて、前もっての来訪の連絡も出来なかった。自宅は高級住宅地の中にあり、その住宅街に入るにはゲートでのチェックが必要だった。
そして入ってからも何人かに道を尋ねやっと辿り付いた。写真や映像なんかで見ていた見覚えのあるダニエルさんが出て来てくれた。しかし、ちょうど人工透析の為に病院に出かけるところであり、残念ながらいろんな話を聞く時間はなかった。
それでもダニエルさんは、「5時には帰ってくるからそれからなら・・・」と残念そうに言ってくれたがそれは無理なので、並んでの写真を撮ってもらってお別れした。「日本人として本当に感謝しています。お体を大切に是非とも長生きして下さい」と“バージさん”に通訳してもらった。
失礼ではないからと“バージさん”に言われて、感謝の謝礼を手渡した。立派な家だった。 -
“ダニエル・ディソンさん”と話をする“バージさん”
高級住宅地の立派な邸宅だった。車庫前にて -
この住宅街の入口にはゲートがある
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「フィリピン少年が見たカミカゼ」ダニエル・ディソン(著
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“ダニエル・ディソンさん”の画
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201空本部跡
塀に掲げられている201空本部跡の由来
ここで以下の六名によって“神風特別攻撃隊”は誕生した
大西中将・吉岡忠一参謀・玉井浅一副長
指宿正信大尉・横山岳夫大尉・猪口力平
この六名に戦死者はいない
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■201空本部跡へ
次に向ったのは国道2号線沿いにある「201空本部跡」だった。
旅行前に特攻関係の本を何冊も読み、19日深夜から零時をまたいでの201空本部で特攻隊編成の緊張のやりとりも知っていたはずだった。だのに“バージさん”に「特攻隊が生まれた場所」と聞いてもその時にピンと来なかった。
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201空本部跡:特攻誕生の地
「空と海の涯で」門司親徳(著)他、参考による
10月19日、大西長官と門司副官この本部に到着した。
『道の左側にある赤瓦の比較的立派な二階建ての西洋館があった。ここが201空の本部で、低い塀についた門を入ると、前庭があり、右手に葉の繁った大きな樹があった。』
『髪の毛をボサボサに伸ばした、痩せ型の大尉が、急いで現れた。201空の先任飛行隊長指宿大尉(海兵65期、昭和32年没/航空自衛隊殉職第一号)で、体の具合が悪く、宿舎で休んでいたらしい。指宿大尉は、われわれの方にやって来ると、車から降りている長官に敬礼して「司令と飛行長はマニラに行っており、玉井副長は飛行場に行っております」と言った』
「じゃあ飛行場に行こう」と長官が言ったので、指宿大尉を共にマバラカット東飛行場に行く。コンクリートの滑走路ではなく草原だけの飛行場である。玉井浅一副長(昭和39年/享年62)と猪口力平参謀(昭和58年/享年80)が出迎えた。二人は兵学校52期の同期:ちなみに源田實中佐(平成元年/享年85)も同期。
しばらく飛行場にいたが玉井副長が「長官、宿舎に行きましょう」というと、見送りに来た搭乗員たちに「乗れるだけ乗って行け」と、長官は自分の乗ってきた車に4,5人を乗せ、窓に手を掛けてステップにも搭乗員が立って宿舎にもどった。
この宿舎は司令、副長他、准士官以上の寝室としても使われていた。人の集まれる場所は食堂以外になかったので、「ベランダにしよう」と二階にあるベランダに椅子を置き、そこに以下の六名が集った。
「大西中将」
「第26航空戦隊:吉岡忠一参謀」
「201航空部隊:玉井浅一副長」
「戦斗第305飛行隊長:指宿正信大尉」
「戦斗第311飛行隊長:横山岳夫大尉」
「猪口力平:第一航空艦隊参謀」
そして副官門司も最初そこにいたが、異様な雰囲気を感じて、その場を離れた。
上記六名があつまり、狭い深夜のベランダでビールに椰子湯を入れた灯りの下で「神風特別攻撃隊」は編成されることになった。
Web頁参照
『“神風特別攻撃隊”という名称は力平さんがつけた鳥取藩の剣道指南役だった彼の祖父・神風(しんぷう)の名からヒントを得て、大西さんの諒承をえて決定されたものである。従って(しんぷう)というのが正しい。』とある。
元寇の神風にも通じ、名前の由来はどうであれこの名前が一番心にピッタリ来る。特攻隊誕生時に、その場に居合わせた六名の内、大西長官の自決での死はあったが、他の五名は全員戦後を歩んでいる。
201空本部跡:特攻誕生の地
http://youtu.be/QYXB5uTodi8
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建物は当時のものと違う
この庭で20日大西長官の訓示があった
門司親徳副官の回想
『道の左側にある赤瓦の比較的立派な二階建ての西洋館があった。
ここが201空の本部で、低い塀についた門を入ると、
前庭があり、右手に葉の繁った大きな樹があった。』
この木は当時のものなのかも?
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帰国後に「201空本部」でのことが甦り、「そうか、あの道の傍のあの場所で、特攻隊の編成が決定され関行男大尉が呼び出され特攻隊の隊長を了承したのか・・・」と、その時の情景を思い浮かべることとなった。
今、マッカーサー通りと呼ばれるその道は、当時国道3号線(“バージさん”は2号線と言っていた)だった。マニラからの高速道路は昔と違うルートだが、このあたりは今も道の幅こそ違え同じ道のようだ。
艦爆の搭乗員であった関行男大尉が、操縦経験もない零戦での特攻隊隊長への指名は、本人は意外だったと思う。その時兵学校出の隊長候補は三人いた。
関と同じ70期
「菅野直大尉(昭和20年8月1日戦死:享年24)」
「平田嘉吉大尉(昭和51年6月没)」
菅野は不在で平田は外され関行男に白羽の矢が立った。
レイテ沖決戦を前に、編成即明日にも出撃する可能性もあり、考える余裕も与えられないまま、関大尉は「承知しました」と答えた。この期に及んで指名をされた以上軍人としてそれ以外の返事はないだろう。
母一人、そして5月末に結婚式を挙げ三ヶ月の新婚生活の後、9月初めに台湾に派遣され、次いで9月末にはこの地への赴任となった関大尉は、ここに神風特別攻撃隊:敷島隊の隊長となる。
そして、第一陣特攻隊は、隊長の選抜とともに部隊編成もこの夜慌しく編成を完了した。
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201空本部:甲10期生総員集合
「神風特攻の記録」:金子敏夫(著)「特攻とは何か」森史郎(著)より抜粋
昭和19年10月19日:『甲種飛行予科練習生(甲飛)』:甲10期生総員集合大西中将が特攻の実施に断を下した10月19日の夜、玉井副長はただちに甲10期生を集めて、長官の決意を伝えた。総員集合に出席した高橋保男(生存)は次のように語っている。
『19日夜9時頃、「甲10期生総員集合」がかかった。その時、集合した甲10期生は33名であった。飛練教程を終えて、一航艦の各戦闘機隊に配属された同期生220名の中、約三分の二は戦死していた。夜道を本部へ急ぐ途中、誰からともなく、ついに特攻かといったささやきがでた。集合した甲10期生の前には幹部たちが並んでいた。
暗い従兵室の粗末な木机の上に、椰子油のカンテラが一つ、頼りなげな灯りが揺れていた。中央に玉井副長、その後ろに指宿正信大尉が立っていた。副長は懐中電灯で整列している甲10期生の顔を一人一人覗き込むようにして、「身体の調子はどうか」と確かめながら、ゆっくりとみて廻った。やがて席に戻られ、戦況や大西長官の決意などを説明した後、「貴様たちで特攻隊を編成する。日本の運命は貴様たちの双肩にかかっている。貴様たちの手で、大東亜戦争の結末をつけるのだ」
と結んだ。この最後の声だけは、いまも耳の底に焼きついている。玉井副長はわれわれ甲10期生に、体当たり攻撃を命令したのだ。日本の運命を左右する重大な責任を負わされたことで、若いわれわれは非常に感激し、文句なく全員が賛成した。』
263航空隊松山基地時代から玉井中佐の部下として仕え、甲10期生総員集合に出席した井上武(生存)は、次のように記している。「玉井さんは、敵がレイテに上陸して来たというようなことを説明したあと、『今の状態では、とにかく貴様たちに特攻をやってもらうより仕方ない。たのむ!」といった。
私は玉井さんが言った『特攻隊』という言葉には特別な印象も、ショックも受けなかった。それまで決戦に備えて、飛行機を少しでも温存しようとしたのか、上の人たちには何かにつけて消極的であった。そんな上層幹部にたいし、搭乗員の間では、不平不満が高まっていた。われわれは徳島空の頃から玉井さんとは一緒だったので、心易く話ができた。『もっと積極的に打って出ましょう。体当たり攻撃するくらいでなければ、だめですよ』というようなことを強く訴えていた。したがって、このときも特攻というより、玉井さんが甲10期生を最後の切り札にする決心をされたんだなという感じを受けた。
もう一つ、、体当たりを命じた人が、ほかでもない263空豹部隊から一緒だった玉井さんであったということが、特攻にそれほど抵抗をもたなかった原因と思っている」
玉井副長(11月1日付け司令、昭和39年62歳没)はその時のことを、次のように述べている。「その時集合した搭乗員は23名(高橋保男は33名と明言)だったが、マリアナ・パラオ・ヤップと、相次ぐ激戦で次から次へと倒れた戦友の敵討ちをするのは今だ、と思ったことだろう。若い血潮に燃えた彼らに、自然と湧き上がった決意だった」
玉井中佐が10期生に特攻を提唱する契機となった一つの出来事があった。パラオが二回目の空襲を受けた時、ぺリリュー島のガドブス基地も敵の艦載機にたたかれて、惨々な目にあったことがある。その時可動機が少なかったせいもあるが、反撃しない味方の不甲斐なさに憤激して「俺一人でも敵空母に体当たりしてやるから、ワイヤーで零戦に爆弾をしばりつけてくれ」と泣いてごねた一人の10期生がいた。
後に第一神風葉桜隊で戦死した三四三空隼部隊にいた崎田清である。みんなでなだめたが聞き入れない。「早く爆弾をしばれ」とどななれて整備員もオロオロするばかりである。玉井中佐も説得するのに手こずって「必ず体当たりの機会を与えるから、その時まで待て」と言ってようやく思い止まらせることができた。
このような経過で、全員志願の中から、最初の爆装体当たり搭乗員の主体は全員、甲10期生の中から選ぶことで解決した。甲10期生の集合が解散したのは、午前零時を過ぎていた。
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ちなみに『甲種飛行予科練習生(甲飛)』とあるように。
甲・乙・丙という名称が付くと、うっかりすれば成績を思い浮かべてしまうが成績とは何の関係もない。もっと他に名前を付けようがあっただろうに・・・と、思ってしまう。
甲種飛行予科練習生(甲飛)昭和12年(1937年)発足。
乙種飛行予科練習生(乙飛)昭和5年(1930年)発足。
丙種飛行予科練習生(丙飛)昭和15年(1940年)発足。
操縦練習生・偵察練習生の制度に代わるもの。乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)
201空本部跡の前に大きなトラックが駐車していて写真が撮りにくかった。そしてここが特攻起源の大切な場所だということをその場で失念していて、庭にあった大きな樹がいつの物なのか?“バージさん”に問うこともせず。帰国後、写した写真を見ながら当時に思いを馳せている。
曇り空の昭和20年10月20日、この庭のどこかに木箱を置きその上に大西長官が立って訓示をした。 -
久納好孚(くのう こうふ)中尉
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昭和19年10月19日特攻隊編成から敷島隊突入の25日までのこと
19日深夜に特攻隊が編成され、翌日の20日朝には隊員の選抜、部隊編成がすでに完了し出撃準備がなされていた。そしてその20日当日午後三時ごろ、遠方のサマール島の東方海面に敵部隊発見の報が入ったので中将に出撃を問うたが、大西中将は「この体当たりは絶対のものだから、到達の公算ない場合は出させない」との返事で出撃は見送られた。
そして明くる21日(土)午前9時、哨戒機がレイテ東方の海面に敵機動部隊を発見した。マバラカットからの出撃は敷島隊と朝日隊で、敷島隊は西飛行場から出撃。朝日隊はトラックで東飛行場へ向い出撃する。しかし敵機動部隊は発見できず関行男大尉以下全機、断腸の思いでレガスビー飛行場に着陸、翌日22日マバラカットに帰投した。
その同じ21日セブ基地から大和隊も久納中尉と中瀬一飛曹の二機の特攻、一機の直掩機で特攻出撃したが天候不良のために二機は久納機と別れて帰投した。しかし久納中尉はレイテ湾に突入した模様で未帰還となった。
久納中尉は出撃前から「空母が見つからなければレイテへ行きます。レイテに行けば目標は必ずいますから、決して引き返すことはありませんよ」と言っていた。米軍輸送船団に体当たりした公算が大きいと思われるが、米軍徴用商船の被害は未発表であるので今もってその戦果の確認は出来ていない。
本来なら久納 好孚(こうふ・よしたか)中尉が関行男大尉に先駆けての特攻一号であってもしかるべきだが諸般の事情で一号の栄誉は25日出撃突入の敷島隊・関行男大尉ということになっている。それによって久納中尉は特攻「ゼロ号の男」とも言われている。
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しかしもう一人25日に先駆けて特攻出撃し未帰還になった者が他にもいる。それは23日にセブ基地から二機の特攻、一機の直掩、計三機で出撃したうちの一機、佐藤馨(かおる)上飛曹(香川県 1921生 丙飛12期 既婚 享年23)である。午前五時という早朝にスルアン沖の敵空母を目指し出撃し佐藤機は単機体当たりを決行したと思われるが詳細は不明となっている。他の一機はエンジン不調で引き返している。
敷島隊は21日に初出撃し、次いで23日、24日と三度出撃するも敵と遭遇叶わず帰投を続けた。指揮官・関大尉は副長・玉井中佐に対して「相済みません」と頭をたれ涙を流してあやまったといわれる。その心中さっするにあまりある。
そしていよいよ10月25日水曜日、その日を迎えた。敷島隊は新たに大黒上飛曹を迎え爆装六機となり、直掩はラバウルで一躍名を上げたエースパイロットの西澤飛曹長を隊長とする四機であった。しかし25日は敷島隊だけではなく、各基地から多くの特攻隊が出撃した。最初はダバオに進出していた朝日隊・山桜隊・菊水隊の計八機の特攻機であり、敷島隊に先駆けて出撃は6時30分、突入は午前7時40分頃である。
この八機の内、二機が敵空母サンティ/スワニーに命中し、それぞれ16名、71名が戦死の米軍記録がある。彼等が特攻一号とも言える。ダバオに次いで敷島隊が7時25分マバラカットから出撃、10時45分頃突入を果たす。その他にもセブから大和隊が9時出撃、爆装・直掩とも全機未帰還突入不明。若桜隊が18時30分出撃、敵未発見で帰投。そして艦爆の彗星隊の一機(二人乗り)もこの日特攻出撃をし未帰還となった。
昭和19年10月25日、13機の特攻機、14名の乗員が出撃し、突入戦死未帰還は10名である。この日、レイテ湾を目前にして栗田艦隊が敵艦隊を攻撃し、その後突如反転したその1時間後に栗田艦隊の砲撃によって手傷を負っていたスプラーグ艦隊に敷島隊が突入し多大なる戦果を上げた。以上
昭和19年10月19日特攻隊編成から敷島隊突入の25日までのこと
http://youtu.be/umky9Ut8f1I -
久納好孚(くのう こうふ)中尉
-
マバラカット東飛行場跡
最初の慰霊碑は1974年/昭和49年に
“ダニエル・ディソンさん”の尽力により建てられた
1991年/平成3年のビナツボ火山の噴火で火山灰の下に埋まり
1999年/平成13年再建された。
マバラカットにて「神風特別攻撃隊」に思う
http://youtu.be/HgSIML9xJgM
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関行男が特攻隊長指名の翌日の20日に報道員に語った言葉がある。
「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」「日本帝国のためとかで行くんなんかじゃない。最愛のKAのために行く」「命令とあらばやむおえない」「最愛の者のために死ぬ、どうだ素晴らしいだろう」・・・などと語ったことが伝えられている。
こんな言葉の端々を切り取って並べたら、関行男大尉は「特攻は犬死と叫ぶ反軍・反日日本人」の格好の象徴にされそうだが・・・。私はいささかも関大尉の国を想う心、帝国軍人としての矜持に疑いを持たない。たとえそれが真実「関行男の言葉」であったとしても、インタビューしたのは、前日夜突然指名された翌日の20日だ。
艦爆のパイロットとしてマバラカットに来たばかりなのに、実戦経験もなく操縦したこともない零戦による特攻隊隊長の突然の指名は、本人ならずとも誰しも納得できるものではないはずだ。その気持ちは23歳の新婚早々の青年の気持ちとして当然すぎると言える。しかし、その他伝えられる関大尉の態度は最後まで立派である。
19日このマバラカットに着陸した零戦隊の黒澤丈夫少佐(平成23年/享年97:海兵63期)の関行男について以下の話がある。(特攻の真意より)
『彼はその時、机に向って何か書いていました。おそらく遺書だったのでしょう。その後、一日半ぐらい行動をともにして、同じところで休んだりもしました。関君はお腹をこわしていて、決してバリバリした感じではなかったが、捨て鉢な感じも意気消沈した様子もなく、厳粛そのものの姿に見えました。関君もほかの隊員も、生への執着がなかったとは言えないと思う。それを断ち切って、自分たちが日本を救うんだ、という気持ちになりきっていたように思うんです。』
黒澤氏の講演
http://www.b-b.ne.jp/zero/zero013.html -
2004年10月25日、この銅像の除幕式が行われた
敷島隊は21,23.24日と西飛行場から出撃帰投を繰り返した
昭和19年10月25日、この東飛行場から4回目の出撃をした
敵機動部隊を発見、大戦果をあげた彼らは不帰の人なった
俳優「今井雅之」をがモデルのとのこと
何故?関行男がモデルではなかったのか? -
図は「神風特攻の記録」金子敏夫(著)より
東飛行場はV字滑走路(東西とも草原滑走路)
西飛行場までは歩いて行ける距離ではない
東飛行場は主に「着陸用」、西は「出撃用」 -
マバラカット東飛行場跡
火山灰に埋もれて当時とは大地は違っても
写真、右手遠くに聳えるアラヤット山は今も変らない
残念ながら霞がかかってアラヤット山はうっすらしか見えず -
神風東飛行場平和記念公園
“ダニエル・ディソンさん”の言葉
『カミカゼ精神とはアジア人が到達しうる究極のものである』
私は・・・。
神風特攻精神は人間が到達しうる究極のものだと思っている -
この空をレイテ湾の敵艦隊目指して飛び立っていった
「先に行く、あとを頼むぞ」
「分かった、俺もすぐ後から行くから」
「靖國で会おう」
このフィリピンから
昭和19年10月21日から翌年1月25日までの約三ヶ月間
海軍特攻は333機、陸軍は202機が特攻出撃未帰還となった -
図は「神風特攻の記録」金子敏夫(著)より抜粋
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神風特別攻撃隊、敷島隊の戦果
「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」本居宣長の詠んだ和歌を隊名とした第一陣特攻隊は関行男大尉を隊長として「敷島」「大和」「朝日」「山桜」の四隊で編成された。そして敷島隊は昭和19年10月21日に最初の出撃をしたが敵艦隊発見できず帰投、次いで23,24日と三度敵艦隊との遭遇叶わず帰投の後、四度目の出撃が25日だった。21,23、24日は西飛行場、25日は東飛行場から飛び立った。
敷島隊、爆装6機、隊長:関行男大尉(海軍兵学校70期、大正10年生、23歳)。
谷暢夫一飛曹(甲10期、大正13年生、20歳)。
中野磐雄一飛曹(甲10期、大正14年生、19歳)。
永峰肇飛行兵長(丙飛15期、大正14年生、19歳)
大黒繁男上等飛行兵(丙飛17期、大正14年生、19歳)
山下憲行一飛曹(甲10期、永峰肇飛行兵長19歳)。
午前7時25分敷島隊の爆装6機と直掩4機の零戦はマバラカット東飛行場を発進した。途中山下機はエンジン不調のためにレガスピー基地に不時着した。10時10分敷島隊は栗田艦隊の北上を眼下に見た。その30分後の10時40分、レイテ湾口タクロバンの85度、約90浬(かいり)に敵スクラーブ艦隊を発見した。レーダーを避け低高度で飛んで来た敷島隊は、接近後急角度で上昇し雲の上高度三千メートルの上空でそれぞれ目標を選んで10時49分いっせいに空母めがけて突入した。
一番機、護衛空母「キトカン・ベイ」への特攻
一番機(関大尉)は高度914メートルの雲間から40度の角度でキトカン・ベイの艦橋めがけ激しい対空砲火の中、まっすぐに突っ込んだ。艦の上空を左から右に横切り、急上昇して横転し急降下で突入、艦橋をかすめて、飛行甲板外側の通路に突っ込んだ。爆弾は左舷の海面9メートルのところで爆発し、艦の隔壁、扉、ガソリン導管に穴をあけた。ガソリンの流出で火災が発生する直前に、水で洗い流したので空母はわずかな損傷ですんだ -
二番機、三番機、護衛空母「カリニン・ベイ」の特攻
キトカン・ベイへの一番機の突入後、二番機、三番機は相次いでカリニン・ベイに突っ込んだ。一機目は前部エレベーターの後方、2機目は後部エレベーターの前方に体当たりした。爆弾の破裂によって船体にいくつかの破孔をあけ多数の負傷者を出した。このとき直掩の管川(すがわ)飛長機は、別の艦からの砲火で海中に墜落戦死した。 -
四番機、護衛空母「ホワイト・プレーンズ」への特攻
四番機がホワイト・プレーンズの艦尾に体当たりする直前、艦は取り舵を一杯とった。左舷後部の20ミリ機銃の射手は、至近距離の零戦の左翼を撃ち落した。零戦は操縦不能となり艦をかすめ、爆弾が飛行甲板より下、6メートルの空中で爆発した。この至近弾によって船体が激しく捻じ曲げられ、飛行甲板は飛行機の残骸が散乱した状態になった。11名負傷したが重傷者はいなかった。 -
五番機、護衛空母「セント・ロー」への特攻
セント・ローの戦闘報告によれば、10時49分、艦隊上空に五機の零戦を発見。10時50分一番機がキトカン・ベイに突入。つづいてホワイト・ブレーンを目指したのが二機いた。その中の一機が途中でセント・ローに向ってきた。「総員戦闘配置につけ」の号令二分後に、艦尾上空千メートル附近で急降下をやめた零戦一機が、飛行甲板に着艦するような姿勢で突進してきた。
高度200メートルのところで対空砲火をうけ(10時52分)黒煙を噴きながらセント・ローの飛行甲板に突っ込み、爆弾は飛行甲板に落下した。爆弾は甲板を貫通して格納庫で大爆発を起こした。機体は飛行甲板に沿って回転しながら、火のついたガソリンを撒き散らした。格納庫では爆発によって、ガソリン満載の飛行機がふっとび、烈しく燃え広がった。11時30分八回目の爆発で、セント・ローは艦尾を上にして沈没した。戦死者114名、救助された乗組員784名、その内約半数が負傷、火傷を負っていた。
敷島隊五機の突入によって空母一隻沈没、三隻に小破大破の損害を与えた。最初の突入は一番機:関行男と思われるが、その他は人物の特定は出来ていない。
以上が敷島隊の戦果である。
“神風特別攻撃隊”敷島隊の戦果
http://youtu.be/IejaaRalcME -
バンバンの第一航空隊司令部跡
赤い鳥居があった
ここは私有地のことだけど自由に入って行けた
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■バンバンの第一航空隊司令部跡へ
マバラカット東飛行場跡に30分ほどいて、次の目的地であるバンバンの第一航空隊司令部跡へ向った。
ここには昭和19年11月19日から2,3日掛けて、大西長官が東京に一時出張中にマニラから司令部を引っ越している。10月25日敷島隊が華々しい戦果を上げたその日、第一と第二:司令長官:福留繁中将(享年80)は合体して連合基地航空部隊となり、その長官に福留中将、幕僚長:大西中将となっている。それまで特攻作戦をとらなかった福留中将も通常攻撃の行き詰まりと、敷島隊の戦果に特攻攻撃を容認した。その後、海軍航空隊挙げての特攻攻撃へと邁進することになった。
その司令部が、マニラからこのバンバンの山里に洞窟を掘り、新たな司令部とした。洞窟は作戦室と通信班が入る二つの入り口があり中は横穴で繋がっている。その周辺に原住民の住居に似せた小屋を建て宿舎とした。
台湾への転進
やがてマニラに飛行機もなくなり陸戦隊となって複郭陣地を築き篭城を目指していたが、昭和20年1月6日、第一、第二と統合していた航空艦隊は再度、別々の道に分かれ、福留長官をはじめとした第二航空艦隊幕僚たちは、この洞窟司令部を去って大型飛行艇が迎えに来るマニラのキャビテに陸路向い台湾へと転進した。転進は第二航全員ではなく一部である。
その二日後には、飛行機搭乗員も今後の戦力に必要ということでフィリピンからの脱出が決まり司令部前に集合した。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-sentouki-fujita1.html
『旭山(朝日山)司令部に集合して見れば、在比各航空部隊残存搭乗員が400〜500名集まっていたが、ここで搭乗員のみ転進との命令が発せられた。行先は分らないが内地だろうと噂していた。その転出基地はルソン島中部のツゲカラオ基地と決められたが、およそ100浬あり、使用トラックは半分しか無く、この為ピストン輸送することになったが、先発トラックはそのまま直行してしまった。』
その翌日1月9日、結局中央からの命令によって第一航空艦隊司令:大西長官及び幕僚たちも台湾へ転進することになった。1月6日、8日、9日深夜と航空艦隊司令部中枢と搭乗員はフィリピンを脱出した。9日深夜、クラーク中基地から台湾へと飛び立った。
この時、クラーク中基地指揮官の佐多直大佐(昭和45年/享年68)は、見送りの態度を咎められ「そんなことで戦(いくさ)が出来るか!」と大西中将に一喝され、長官の右の拳が佐多大佐の頬に飛んだ。
殴られ「わかりました」と答えた佐多直大大佐は、米軍掃討戦を生き延び部隊の統制を保ったまま終戦後隊伍を整えて米軍に投降、昭和20年9月17日武装解除を受けた。大西が台湾に発つ時、「先の訓示では、長官も山に立てこもって陣頭指揮されるものとばかり思っていました。総指揮官たる者が、このような行動をとられることは指揮統率上誠に残念です」との言葉を発したことによる中将の鉄拳制裁だった。これが自決と生存となった二人の意地と意地の見事な結果だろう。
司令部中枢が転進し「クラークフィールド地区海軍防衛部隊」として陸軍の指揮下に残って絶望的な戦いを行った海軍部隊は約15,400名といわれる。残留部隊の最高指揮官は、「杉本丑衛少将」(昭和20年6月12日戦死:享年52)、No.2が佐多大佐だった。
今回の「フレンドシップ・ツアーズ」のマニラ戦跡巡りツアーは、ツアーの名称がマニラとあるようにマバラカットは含んでいなかった。しかしこの頁に掲載されていた写真がマバラカットの写真だったので私が勘違いして申し込んだ。その後マバラカットが含まれていないと知って、追加料金でマバラカット東西飛行場跡へ行く事を頼んだがこの洞窟司令部跡は含まれていなかった。
“バージさん”に、「“神風特別攻撃隊”に関して行ける所に行きたいので、マニラの戦跡は時間が無ければ行かなくても良いから・・・」と、今回ダニエルさんの家や、この洞窟にも来れることになった。この洞窟司令部跡までマバラカット東飛行場からバンバン川を車で10分も掛っていない。ネットの旅行記などで来る前に写真で見たことはあると思うが記憶になく、到着して道沿いの赤い鳥居を見て「ふ〜ん、そうか、こんな所に・・・」と、感無量の面持ちで車から降りた。
帰国後グーグルアースでこの場所を見つけたかったが今に至っても特定出来ていない。マッカーサー道路から左折し狭い道を蛇行しながら走り、最後に右に入って行って辿り付いたけど。もう一度行けといわれてもさっぱり分からない。ネット上には「バンバン旭山司令部」とい記述もあるが、ここの司令部跡のことなのだろう。鳥居の横に「AIR FLEET SHRINE(KANKU JINJA)」「ASAHIYAMA, SANNICOLAS,BAMBAN,TARLAC」 と書かれた看板もあった。「艦空神社」ということか。赤い鳥居をくぐって斜面を見上げると「大西瀧二郎平和記念碑」が建っていた。
堂々たる記念碑だが、管理も行き届かず訪れる人も少ないのか?碑は薄汚れていた。私もたまたま追加で来れて良かったと思うくらいで、この碑のことも201空本部跡の建物同様予備知識がなかった。・・・と、いうか、どこともそうだが旅行前に整理したことが現場では、来れたことだけに満足してしまうのか・・・。帰国後に後悔ばかりである。この碑も写真は撮ったがよく見ていないので「何時?誰が?建立したのか?」それも分からないままだ。
碑に貼っていた金属の銘板二つも写真に撮ったが、どっちにもそのことは書かれていない。きっとどこかに刻まれているはずだろうに・・・。ここで出会った“ジョニー・マニーポン”さんが「1998年、門司親徳さんが私費で建立した。1998年に彼は来た」と言っていた。私がここを訪れた時、ジョニーさんは碑の横で焚き火をしていた。このジョニーさんのことも知らずに来たが、帰国後ネットで検索したらいろんな年代で登場している。
http://www.manila-shimbun.com/award155144.html:「マニラ新聞:戦後60年 慰霊碑巡礼第3部ルソン編」に登場する2005年/平成17年のジョニーさんが一番若いのかもしれない。この記事には「山下財宝」を探しているように書かれているが、“バージさん”が、私に念を押して言ったのは、洞窟の入り口近くに掘られた穴を指差して「この穴は山下財宝を探しに来た者が掘った穴だ。私がいくらそんなものはここにはない。あれば私が掘っているといっても、私のいうことを聞かずに掘った」と話してくれた。
2005年から7年後の2012年2月のジョニーさんは、2005年の写真より確かに老けているが元気で聡明さを感じた。ここに201空司令部があった時、8歳だったとのこと。67年後の今年は75歳なのだろう。2005年69歳が正解なら76歳となる。久しぶりに日本人がここに来たのか?ジョニーさんは目を輝かせ能弁に私に向かって語ってくれた。そして「もってこい」「ともだち」と覚えている日本語を口にし、「見よ東海の空あけて・・・」と愛国行進曲の出だしを歌ってくれた。いつもこの歌を歌っていたそうだ。
“ジョニー・マニーポンさん”は小学校で日本語を習ったそうだ。「ソカイダ、スカダ」「フジモリ キャプテン(大尉?)」「ヤマグチ」などの名前が次々口から出て来たが不明。私が「モジ・チカノリ」さんのことは覚えているか?と聞いたら、ジョニーさんはすぐ分かったようで「オウ、モジチキノリ」「この碑は門司親徳が私費で建立した。1998年に来たのが最後だ。彼はまだ生きているでしょ?」と聞かれ私は「2008年、92歳で亡くなった」と伝えた。みんな“バージさん”の通訳だけど・・・。
「大西中将を見たことがありますか?」と聞くと、わが意を得たとばかりジョニーさんは饒舌になった。「オウ〜!太っていた。背はそんなに高くない」「普段はシャツ姿で自転車でウロウロし、いつもニコニコ優しかった。」「兵隊が集まる時には白い軍服を着ていた。」「まだ今も顔を覚えている。絵も描ける」と言うので、「それじゃあ描いて」とメモ用紙とボールペンを手渡したら、その場でジョニーさんは屈んで描き出した。
絵を描くのが好きなのか?上手にサラサラっとペンが動き、その姿は大西中将を彷彿させるものだった。よく似ていた。「ADM(アドミラル):ONISHI」と書き添え・・・。ジョニーさんにとって「マニラ新聞の記事」にあるように父親と叔父さんが抗日ゲリラで、父親が憲兵隊に顔の形が変わるほど殴られたことも見ている。しかし、ここでの航空艦隊の軍人たちとの交流がジョニーさんの「日本びいき」になったようで、それはあのダニエルさんにも通じるのだろう。「海軍は優しかった。陸軍は怖かった」「当時は川を隔てて日本軍と原住民と別れて住んでいた」・・・時間にして30分くらいここに滞在し、いろんな話を聞けた。ラッキーだった。
大西中将には子供がなく、この地を訪れる関係者は少ないという。バージさんに「田舎の人だから200ペソくらいあげて」と言われていたけど「500P」を渡した。1000P渡せば良かった。 ジョニーさんには別れ際に「また友達連れて来い」と言われた。今後、一人でも多くの日本人がこのバンバンの大西神社を訪れ、戦争犠牲者の慰霊とともに、この記念碑及び洞窟跡を守ってくれている“ジョニー・マニーポンさん”と交流されんことを願う。良い人だった。
ジョニー・マニーポンさんのことは、『旧日本軍の宝探しの人たちが住み着いている』と紹介されているものもある。私にはそのように見えなかったが、ジョニーさんがこの土地を購入した目的も、洞窟を住居として暮らしている理由も知らない。もし山下財宝を探しているなら、ここは海軍なのに?と思うが、それは夢があって面白い。記念碑はたしかに薄汚れていたが、周囲の草は生い茂ることもなく綺麗に刈り取られていた。
“バージさん”も運転手も何度もここに来ているのに洞窟の存在は今まで知らなかったとのこと・・・。“バージさん”も携帯写真を撮ったり興味深そうに見ていた。
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大西瀧治郎平和記念碑
碑は写真のように薄汚れていたが
周囲の草は刈られ整備されていた
碑の横でジョニーさんが焚き火をしていた
??http://burari2161.fc2web.com/ls2-5.htm
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1944年10月25日から1945年1月31日の間、
旧日本軍の神風特別攻撃により被害を受けた
アメリカ軍艦船の兵士と乗組員のために
神風特別攻撃隊のために撃沈されたアメリカ軍艦船
CVE St LO,DD Abner Reed,DD Mahon,APD Ward,
PT 323,DD Reid,LST 472,LST 738,LST 460,
LST 749,CVE Ommaney,DMS Long,PC 129,
AUX Porcupine,SC 744
二十の護衛空母と五戦艦、三重巡洋艦、七軽巡洋艦、
二十三駆逐艦を含む八十七隻のアメリカ軍艦船が神風特別攻撃隊により損傷を受けた。
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もう一つのプレートには
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第一航空艦隊及び第二航空艦隊記念碑
旧日本海軍 第一航空艦隊及び第二航空艦隊に所属し、フィリピン共和国と太平洋における携わった人々のために
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この上記文言と部隊名が列挙されているだけだ。この記念碑に貼られている二枚の金属銘板の簡素な文章に、“神風特別攻撃隊”に携わった人たちのすべての思いが込められているのだろう。
生き残った者も散っていった者も、この修羅場で共に過ごした者たちにだけしかわからないものがあるはずだ。第三者にいくら言葉を尽くして説明しても真の理解を得ることなど無理だ。この修飾のない銘板を見てそう思う。 -
日本から持参した煙草とビスケットをお供えし
この地で亡くなられた兵士の方々のご冥福を祈る
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■フィリピン最後の特攻
昭和19年10月21日からフィリピンで始まった“神風特別攻撃隊”も、昭和20年1月25日、転進のためにバンバンから陸路2週間以上をかけて苦難の移動をし集合地のツゲガラオに到着したその日に、士官一名、下士官三名の特攻出撃が準備され、選ばれた四名は休憩の暇もなく飛び立った。
士官は住野英信中尉(予備学生13期、長崎県 享年24)は「どうせ早いか遅いかの違いですから、私がやります」と志願し、第27金剛隊として発信したが列機の二機は故障で不時着、直援機の二機でリンガエンに向かい敵艦に真っ直ぐ突入した。米軍記録によると当日の特攻機による損害はなかった。
これがフィリピンでの最後の特攻機となった。
昭和19年10月21日から翌年1月25日までの約三ヶ月間で海軍特攻は333機(未帰還)、陸軍は202機。フィリピンから台湾に脱出した搭乗員は525人余。 -
ジョニーさんは、201空司令部洞窟跡が住まい
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大西中将を覚えているジョニーさん(当時8歳、今、75歳)
「ランニングシャツで自転車に乗っていた」
「いつもニコニコ、優しかった」 -
懐中電灯がなく奥まで行けなかった
司令部と通信班の二本の洞窟が
中で繋がっていたようだ -
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その場ですらすら大西中将を描いてくれた
ジョニー画
アドミラル:大西
2012.2.8
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“ジョニー・マニーポンさん”
http://youtu.be/JPoPnbbe_ow -
ジョニーさん曰く「よそ者が山下財宝を探して堀に来た穴の跡」
このジョニーさんについては、いろんなブログで紹介されている
平成16年(2004年)ルソン島戦跡訪問の旅 パート2
http://burari2161.fc2web.com/ls2-5.htm -
■美濃部正大尉
そんなフィリピンで昭和19年11月、大西長官の面前で特攻を拒否した美濃部正大尉がいた。
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“特攻を拒否した少佐”
バンバンの第一、二聨合航空隊司令部跡
大西長官が“神風特別攻撃隊”を「統率の外道」と語ったように、必死の作戦は邪道であり恒常的な戦法としては有り得ないものだと思っている。そんな特攻に反対した搭乗員も数多くいるのは当然だろう。ベテラン搭乗員は誰もが胸の内はそうだったのではと思う。
そのなかに大西長官に向って敢然と反対論を述べ、特攻を受け入れなかった美濃部正大尉がいる。彼は昭和19年7月夜間戦闘機隊指揮官としてフィリピンに配属された。同年11月、すでに特攻第一陣は出撃大戦果挙げた後順次特攻出撃を行っていた時である。少佐に昇進した美濃部は大西長官に呼び出された。
呼ばれた理由はパラオ島の傍らにコッソル水道があり、米軍はそこに飛行艇50機余りを進出させ日本内地との輸送妨害をしている。その飛行艇を叩き潰す相談である。美濃部少佐が「夜間、戦闘機で飛び立ち夜明けに銃撃で叩きます」と答えると、大西長官に「君は生きて帰って来れるのか?」と問われて、「冗談じゃあありませんよ」と返答した。無事に帰れる可能性は限りなく小さい。
大西長官の「君が行ってはいかん」との言葉に対して。美濃部少佐は「私以外に行ける者はおりません。もし、どうしても他の者に行かせろとおっしゃるなら、無駄死にです。彼等を無駄に殺すようなものです」
「それなら特攻でいいだろう」と言った長官に美濃部は憤然と「特攻ならいいだろうという考えには承服しかねます。(中略)どうしてもやれとおっしゃるなら、私の思うとおりにやる。部下の使い方ぐらい、私は良く知っています。どうか好きなようにやらせていただきたい」
大西長官はこのように面と向かって言った美濃部少佐を認め、その後、12月1日、再び呼び出され日本で夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の編成を命じられた。この芙蓉部隊は終戦まで多大の戦果をあげることになる。そして美濃部少佐は戦後、航空自衛隊に入り、空将として退職後は日本電装学園長となり平成7年、82歳で亡くなっている。その美濃部少佐の大西評は「剛毅な大西中将の姿ではなく、むしろ冷静に自分の意見に耳を傾けてくれる上官としての包容力が印象に残っている」とのことだ。戦後に生きた美濃部少佐も特攻を全否定しているのではなく特攻に対して次のように述べている
『戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません』(「彗星」夜襲隊より)
この言葉こそ特攻の本質を突いているように思えてならない。
以上
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特攻を拒否した美濃部正少佐
バンバンの第一、二聨合航空隊司令部跡
http://youtu.be/_qXRpG4FhDY -
大西瀧治郎中将遺書
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目前のレイテ沖海戦に向けて“やむおえず”の作戦として始まったフィリピンでの“神風特別攻撃隊”は、台湾・九州と場所を変えて継続された。特別の攻撃だった特攻も日々のこととなればやがて送り出す側は慣れてしまう。
そんな送り出す側と行く側の間には当初と違った雰囲気が出てくるのは十分想像できる。それでも若き搭乗員は、それらのすべてを胸に納め、「貴様たちだけに行かせはなしない俺も行く・・・」と散っていった戦友たちのあとに粛々と続いた。
大西長官が猪口力平参謀に「こんなことをせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだよ」「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」とボソッと口にした。
その「統率の外道」という言葉が特攻作戦の代名詞になったが、特攻によって日本は敗戦とはいえ救われたのだと私は信じる。彼らの崇高なる行為は日本人の誇りとして未来永劫の宝となり、世界もそれを成した日本人に一目置かざるを得ない。
たった一人の英雄的行為ではない。4000余人もの若き英雄たちが粛々と飛び立ち突っ込んで行った。そのすべてが10代、20代の身体強健頭脳明晰、選ばれた少年・青年たちである。こんなにも切なく胸打つ物語など、この地球上のどの民族に出来るというのか?
マニラの旅のメーンテーマだった“神風特別攻撃隊”の出撃地跡に来れて満足だった。でもその時は感傷に浸る余裕もなく、写真や動画を撮ることに忙しくていつものようにこうやって旅行記を認めながら感傷に耽っている。
私の旅は、旅の前後が旅なのかも?特攻隊のことは、ネットでも数限りなく資料が出現するのできりがない。でも知らなかったことを知るというのは嬉しいものだ。
陸海軍けんか列伝
http://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/01065443ea9daffac077849580ef56d3 -
特攻隊は日本人の悠久の誇りなり
特攻の事実あらばこそ日本と日本人は
未来に何があっても挫けることはない -
昭和19年10月20日:マバラカット西飛行場に於いて
“神風特別攻撃隊”敷島隊、最初の編成の七名
左より:関行男・中野磐雄・山下憲行・谷暢夫・塩田寛・宮川正・(中瀬清久は右端枠外)
背中:左:玉井副長/右:大西中将
10月19日夜から20日未明、特攻隊の編成が決まり20日午後3時過ぎマニラに戻る前
大西中将は特攻隊員たちとバンバン川のほとりで特攻隊員たちと20〜30分雑談した。
そのあと中将が門司副官に「副官水は入っているか?」と訊ねた
そして門司副官が水筒の蓋に水を注ぎ、まず中将が飲み、
猪口参謀、その後、玉井副長が飲んだ後に
玉井副長が並んでいる七人に順次水を注ぎ飲ませた。
大西中将はそれを黙って見ていた。
これは、その時の写真である。午後4時頃
この翌日21日最初の出撃をする
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■マバラカット西飛行場跡へ向う
来た道のマッカーサー・ハイウェイ(MacArthur Hwy)を戻り、さっきの東飛行場跡を通り西飛行場に向う。
東西飛行場は地図では近くなので「歩いて行ける距離なのか?」とここに来る前に思っていたが結構遠かった。昭和19年10月21日敷島隊の初出撃は西飛行場からだったが、その同じ時に、西飛行場にいた朝日隊の搭乗員が出撃命令のあとトラックに乗って東飛行場に行ったとあるが、なるほど歩いてすぐに行ける距離ではない。
西飛行場は空から見下ろすと草原と間違うような狭い場所であったそうだ。どこで曲がってどうやって行ったのか分からない。最初に警備員の立っているゲートがあり、そこからしばらくトウモロコシ畑の中を行くと又無人のゲートがあった。
その先は韓国が投資しているレモン畑が広がり、この中には米軍駐留時には射撃場となっていた場所もあり、今は一般の射撃場もあるそうだ。
マバラカット西飛行場跡にやって来た。
草っぱらの中に写真で見ていた「第二次世界大戦に於いて日本神風特別攻撃隊が最初に飛び立った飛行場」と正面に大きく書かれた記念碑があった。この記念碑の場所は「マバラカット西飛行場の西端」だそうだ。
やはりどこに辿り付いても感想は同じく・・・「こんな所に、こんなふうにあるのか、へぇ〜、ここがそうか」である。百聞は一見にしかず。来ないと分からない。
“バージさん”がゲートを通過してここに到着するまでに、「以前は、この辺は米軍の射撃場として使われ今は一般の射撃場になってる」と教えてくれたが、到着直後から継続して射撃音が身近に聞こえた。その時は射撃場がどこなのかさっぱり見当も付かないままいきなりの射撃音だった。
記念碑の前方は開けていたが、後ろ側方向は草が茂ったりで何も見えず。単発の銃撃音が何回も続き、自動小銃のような連射音も聞こえて来た。「バン・バン・バン」「バリバリバリ、バリバリバリ」とすぐ傍の音のようだったが、弾が風を切る音はない。こっちに向っての銃撃ではない。
戦跡巡りで戦場の雰囲気も味わうとは・・・危険だからと三人でしばし記念碑を背にじっとしていた。
その時、動画も撮らずICレコーダーのスイッチも入れずじっと射撃音が静まるのを待っていたので、残念ながらこの場所で迫力ある音が記録できなかった。でも動画の中に単発だが数発の音が入っている。
今まで自衛隊のイベントで銃の射撃音や戦車砲の音を真近に聞いたが、戦車砲は実弾の発射でなくてもその音の大きさは半端でなく空気の振動も感じた。上海・サイパン旅行で数回自分でも拳銃射撃をしたが、口径が小さくても当たれば人は死ぬことは十分分かる。
帰国後今になってグーグルアースで見れば、ちょうど記念碑を背にしたすぐ西側に射撃場?らしき場所がある。射撃方向は北側方向のようで弾が飛んでくる心配はないようだった。それならちょっと無理してでも「ワニのアゴ」と呼ばれている目の前の高台に登って全体を見渡したかった。でもその時はこんな近くにあると思わず「何処で?誰が?どっちに向って?」と不気味だった。
この記念碑の周囲をデジカメ片手に歩いた。建物跡もあったが“バージさん”の説明では「米軍が作ったもの」とのことだが何時頃?何の用途で使われていたのか?分からない。この廃墟の建物跡はグーグルアースでも確認できる。
この飛行場跡の全容が分からないので、ちょっとでも視界の広いところはないのかとそこらを歩いた。何よりもバンバン川を確認したかった。その方向に歩くと綺麗な舗装道路があった。プリンス通り(Prince Balagtas Ave)である。その向こう側が少し高台になっていたのでその上に登った。
この土手がバンバン川の土手だろうと思って、脛の出たズボンだったのでトゲのある雑草に脛を傷だらけにしながらも楽しみに上ったのに、上に立つと向こうは畑が広がり、そのまだ向こうにバンバン川が流れていた。
そして橋が見えた、その橋は「Sacobia River Bridge 」サコビア川で、サコビア・バンバン川ともある。あの橋は昔も架かっていたのだろうか?ピナツボ火山の噴火で川も流れも幅も風景もこのあたりは随分変わったそうだから。
昭和19年10月20日午後3時を過ぎたころ、マバラカット西飛行場バンバン川河原の天幕の傍で、関大尉以下敷島隊・大和隊七名の特攻隊員が車座になって座っていた。そこに大西長官がやって来て、バンバン川を背にして水盃を酌み交わした。
映画で有名なシーンである。そのバンバン川はまだ遠かった。それがどの場所だったのか知る由もないが、ここから一キロも離れた場所ではなかったろう。あの遠くの山並みは、その時も同じだったはずだ。
ビナツボ火山災害復旧援助工事
http://www2.jica.go.jp/ja/evaluation/pdf/2007_PH-P166_4_f.pdf#search='サコビア川 マバラカット'
土手から降りて又記念碑の方に戻り、やっぱり「ワニのアゴ」に上ろうと思って挑戦しようとしたがトゲのある雑草に気持ちが挫けて断念した。その下にある防空壕「Air Raid Bunker (A Known Kamikaze Tunnel)空襲掩蔽壕」に入った。
日本から小型の懐中電灯を持ってきていたのに、ここに持ってこず。ホンマに情けない。この防空壕も突き当りが二つに別れていて、右に少し行けば上に登る梯子があると“バージさん”さんは、以前入った時のことを教えてくれた。
ピナツボ火山噴火の影響なのか?火山灰のようなものが堆積して、屈まないと進めない。コウモリの巣になっているようで泣き声や羽ばたく音が聞こえる。灯りなしでは、真っ暗で進むことも適わず、時々デジカメで写真を撮ってその写真を見ながら奥まで進んだ。二つに別れていたがその先には進まず戻って来た。
西飛行場から21,23,24日と出撃するも敵機動部隊の発見ならず。10月25日マバラカット東“から敷島隊は飛び立ち。神風特別攻撃隊”として素晴らしい戦果をあげ公式記録に第一陣と記録された。 -
西飛行場に行くのにこんな検問?ゲートがあった
この先にも無人のゲートがあった -
マバラカット西飛行場跡
2004年/平成16年、“ダニエル・ディソンさんの尽力によって建てられた
「第二次世界大戦に於いて日本神風特別攻撃隊が最初に飛立った飛行場」
この記念碑は飛行場の西端に建つ
この前方(東北方向)に飛行場が広がっていた
1974年、東飛行場に記念碑を建立した時は、ここは米軍基地内だった
ピナツボ火山の噴火で米軍撤収後記念碑建立なる
私が思う「特攻作戦の総括」
http://youtu.be/FBVeZnlFsOQ -
記念碑横の防空壕
火山灰が堆積しているのか?
半分くらい埋まっているようだった -
コウモリ多し不気味
懐中電灯なくては前に進めない -
右方向に進めば上に上る梯子があるらしい
きっと梯子を登れば丘の上に出れるのだろう -
防空壕入口
記念碑のすぐ横にある -
西飛行場からの帰路
来る時も無論渡ったが、この鉄橋を渡る
さらば!マバラカット西飛行場 -
“Mang INASA”で昼食
午後1時半頃の昼食となった
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■SMクラークで昼食
鉄橋の架かる小さな川を越えてゲートを通過しマッカーサー通りに入って、SMクラークの“Mang INASA”というレストランで、午後1時半からの遅い昼食タイム。ケンタッキーフライドチキンと同じような店構えで、チキンの照り焼きを食べた。この戦跡ツアーは昼食を含むだけど、その戦跡コースにはないマバラカットまで来たので場所は“バージさん”が適当に選んだようだ。
メニューを見ても分からないので、“バージさん”にお任せだったが、私のセットは二人より一品多い分だった。何だか食べにくかったけど「それはあなたのセットの分ですから」と言われて食べた。最初に出たスープは名前は分からないけどこっちでは日本の味噌汁みたいな一般的なスープとのこと。
でも酸味があって私には美味くない、慣れれば美味くなるのだろうけど・・・。どうも食い物には執着も興味もイマイチなので、まあ美味かった。文句はない。 -
こんな店でした
-
チキンの照焼きは美味い
三人で食す -
平和観音宮
建武集団の戦いのことは白紙で来たので
なにも分からず、ご冥福を祈るのみ
今回のメーンだったマバラカットを巡って ?
集中力も途切れる
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■リリーヒルの「平和観音宮」へ
このレストランを出て、次に行ったのはリリーヒルにある「平和観音宮」に行った。
この観音像は、「1998年/平成10年10月25日」に建立されたとある。昭和19年10月25日、“神風特別攻撃隊”出撃の日を選んで完成披露がなされた。池口恵観法主とあるが、その正体如何なるや?良く分からない。まだ新しさを感じる観音像だった。
この地で陸海軍(1万7千余:1万2千余)の兵士を集めて「建武集団」が組織され、その司令官(集団長:第1挺身集団長兼務)に塚田理喜智(りきち)中将(1958/昭和33年没 享年66)が任じられた。
約3万人の兵を率いてリンガエンに上陸し進攻してきた米軍との戦闘にのぞんだが、火力・戦力の劣勢はどうしようもなく、1月25日から開始された戦闘は、はじめから戦いとならず後退を続けた。
武器弾薬食糧なく、4月には組織的抵抗最早成すすべなく「以後各自ニテ行動、自戦自活スベシ」との命を発し、建武集団の兵士の多くがクラーク周辺で異国の土となった。終戦をこの地で生きて迎えた者は「1,108名」と言われている。
この建武集団の戦いのことは何も事前に調べていないので何も分からず慰霊をし、写真を撮っただけで早々に次に向った。 -
クラーク博物館を背にして
グランドを写す
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■クラーク博物館へ行く
観音像から程近いところにクラーク博物館はある。パレード・グランド(Parade Grounds)に東端に面して建っている。800×200mくらいの広いグランドだ。昔騎馬隊がパレードをしていたようだけど。さっきの観音像もそうだが、このクラーク博物館のことも私の脳裏にはなかった。下調べの時にチラッと見たような記憶はあるけど、“バージさん”に行きますか?と問われて「ハイ、ぜひ」ということで訪れた。
期待して入館したが、日本軍関係のコーナーもあったけど日本語の説明がないので分かりにくい。ダニエル・ディソンさんの絵も展示されていた。昔の写真をデジカメで写したりビナツボ火山噴火後に作られたのか、この周辺の地形の立体模型が参考になった。零戦の搭乗員たちが見た空からの下界の風景を少しは感じることが出来る。1945年当時のクラーク・フィールド(Clake Field)の写真もあった。 -
クラーク博物館
-
クラーク基地のようだけど・・・。
-
“ダニエル・ディソンさん”作画
ダニエルさんは
フィリピンの「No.1」フィリピン大学卒業 -
腕に日の丸を縫いつけた
三人の特攻隊員 -
この写真は何?
前列に日本兵士が座り
後段二列に米軍兵士らしき?が並ぶ
その米軍兵士にも緊張感みえず
米軍捕虜なのか? -
マニラ富士とも形容されたアラヤット山が見えた
思っていたより大きな山だった
マバラカットから出撃した特攻隊員は
この山を左に見ながらレイテ湾目指した
その心中思えば胸が詰まる
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■アラヤット山見える!マニラへの帰路
帰路、今までかすかにしか見えなかったアラヤット山がはっきりとはいえないまでも、その姿を現してくれた。その姿を見て、この風景の中にアラヤット山があるのとのないのとは大違いだということを実感した。
それくらい象徴的な姿だった。マニラ富士とも形容されたように、その孤高の独立峰は悠然と聳えていた。アラヤット山は共産ゲリラ・抗日ゲリラの拠点だったそうだが、遠望のアラヤット山は泰然と人間世界を見下ろしている。
「散る桜残る桜も散る桜」この世に存在する物に永遠の姿なく地球も例外ではない。
それでもアラヤット山は人類の存在する限りその姿を留めるはずだ。マバラカットから飛び立った特攻隊員たちは誰もが決意新たにこのアラヤット山に最後の別れを告げたに違いない。大西長官も関行男大尉もこの地で戦った日本兵のすべてが見ていた山、行く時は見えなかったアラヤット山を左に見ながらマニラへと戻った。 -
谷暢夫一飛曹(20歳)。
日の本の空征くものの心なれ 散るを惜しまぬ桜花こそ
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永峰肇飛行兵長(19歳)
南溟にたとへこの身が果つるとも いくとせ後の春を想へば
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六十七回の春を重ねて、今彼らに申し訳が立つのか? -
こういった商売は貧困の目安なのか?
先進国ではないのだろうか?
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■マニラに戻る
チャイナタウン・イスラムの街を車中から見て、パッシグ川を渡ったらすぐ右手側に中央郵便局の建物、そして左側にメトロポリタンシアター(劇場)があった。このスペインが建てた二階には当時日本人の商売人が店を出し、マニラの日本新聞もここで作られていたそうだ。建物は当時のままだが今は使われていないとのこと。ここにも日本人の歴史がある。
大阪毎日新聞 1942.3.15(昭和17)/「演劇も日本もの米国色の消えたマニラ」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503840&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
そしてそのすぐ先にマニラ市役所があり、ここで私は二日間お世話になった二人に心ばかりの同額の謝礼を渡し、いつの日か又マニラでの再会を約束し車を降りた。“バージさん”との一期一会の出会いが今回のマニラ旅を有意義にしてくれた。 -
渋滞中の車を縫って水を売る
マニラの平均月収は1万〜3万??とか -
戦争当時のままの「メトロポリタンシアター」
この建物2階で日本人経営の商店が並んでいたそうだ -
マニラ市庁舎が見えた
ここで“バージさん”と別れる
二日間ありがとう!!出会いに感謝! -
警備員のボディーチェックらしきことがある
素通りに近い、止められているのは見なかった
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■市役所裏と市役所
この市役所の裏に当時は日本軍の病院があり、今そこがSMマートという巨大なショッピングセンターになっている。4時40分頃で、ちょうど買い物時なのか?いつもこの人出なか?さすが1000万都市マニラは、どこでも人が多かった。中央が吹き抜けで周囲にテナントが並ぶ。こういう店舗の形は、日本を含めて今の流行なのだろう。
アイスクリームを食べ、ジュースを飲み休憩しながらようすを見て回った。この地が67年前は日本軍の病院があり、この周辺にも日本人が多く暮らしていた。今はそんな面影もなく・・・。
そして昨日、団地マンションと勘違いしていた市役所へ向う。
マニラ防衛隊員として現地召集を受けたA兵士の証言では↓
『昭和20年2月3日、午後7時頃米軍マニラ入場の報を聞いて、我と我が身の耳を疑った。ちょうどその時、市役所一階の食堂においてタケマサ二等兵のすきやき会の招待を受けて、久方ぶりの牛肉と新鮮な野菜の味がほろ苦いビールの芳味(ほうみ)と混じり、なんとも言えぬ陶然たる気持ちになっていた。団欒の席は緊張に変わりマニラ守備隊はこの降って沸いたような米機械化部隊の突然の出現に誰も彼もキツネに包まれたようであった。』
そのマニラ市役所の中に入った。ここは何故か?拳銃を腰に下げた警備員はいなくフリーパスで入って行けた。もう5時頃だったが、やはりここも人が多く狭い廊下を行き交う人で一杯だった。日本の市役所とは建物の趣も違う。やはり中庭のあるスペイン風の建て方なのだろう。多民族、使う言語も多いフィリピン。その首都、マニラの市庁舎の仕事は、ホント大変だろう。
一階の端から端まで歩き、国立博物館、リサール公園方向に道を渡りたかったが、横断できそうなところがなく、又市役所の中を通って戻って来た。そして地下通路を渡って道を横断することが出来た。 -
最近はみんなこんな作りの建物ばかり
吹き抜け、各階回廊にテナント -
このスーパーがあった場所に日本軍の病院があった
周辺に多くの日本人が居住していたようだ -
この市庁舎も日本軍防衛隊が守備していた
??昭和20年2月3日マニラに侵攻した米軍との間で
一ヶ月に及ぶ激しいマニラ市街戦を戦うことになる
[証言記録 兵士たちの戦争]フィリピン 絶望の市街戦 〜マニラ海軍防衛隊〜
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210015_00000 -
市役所も中庭がある造りになっている
-
マニラ市庁舎
“イントラムロス”“リサール公園”の近く -
リサール像は戦時中も同じ姿で立っている。
この像は砲爆撃での崩壊はまぬがれたようだ
斬込隊はこの広場のどこからか
闇夜に紛れて包囲の米軍陣地に
突撃し帰らぬ人となった
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■リサール公園(ルネタ公園)再訪
“バージさん”曰く、「昔のルネタ公園は今のように広くはなく日本庭園、中国庭園などはなかった。リサール像から南側が公園だった」ということを聞いて、昨日は逆にこのリサール像までしか行かなかったので、道路を隔てた南側の広場に行った。
リサール像の南側の道路を渡ったらグランドのような大きな広場が広がっている。これがルネタ公園なのか?当時のニュースフィルムなどでは、やはりこの広場でラジオ体操をしたり、1943年、昭和18年5月の東條英機来比の時は、この広場に30万人を越える人が集まったとのこと。
日本ニュース「東條声明に比島の歓呼」にも、東條来比の模様やルネタ公園の様子が映っている。その時も、ホセ・リサール像は今と同じ姿で立っている。
ルネタ公園↓
1942年(昭和17年)10月28日/朗色マニラ
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300510_00000&seg_number=003
1943年(昭和18年)5月11日/東條首相比島訪問
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300538_00000&seg_number=002
1943年(昭和18年)6月30日/{1}東條声明に比島の歓呼
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300545_00000&seg_number=001
日本産業経済新聞 1943.5.10(昭和18)
ルネタ公園の歓喜“写真と同じだ”と大騒ぎ 東条首相電撃来比の反響
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00504073&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
このルネタ公園から毎夜、日本軍兵士は日本刀・竹やりで斬込に出て行った。そして行ったが最後帰ってくる者は誰もいなかったという。航空特攻は自分の命と引き換えに敵の命を奪い戦果を期待できるが、ルネタ公園からの斬込隊は、一体何を思って突っ込んでいたのだろう。遅かれ早かれ生きては帰れない。最早命を棄てることだけが自分が出来ることになっていたのだろう。
しかし、どのような死であっても戦に出ての死に犬死はない。たとえ戦わずして海の藻屑に消えようが、飢餓で倒れて死のうが、味方の撃った流れ弾に当たって死のうが、敵を百人倒して後の英雄的な死も、戦場の死は、すべては名誉の戦死である。
その死に軽重は一切ない。大切なのは結果ではなく志だ。家族を守り国を守るために軍服を着て、我が身の命を掛けて戦いの場に向うことこそがすべてだ。たそがれのルネタ公園で斬込に出た兵士たちを偲びご冥福を祈った。 -
1950年/昭和25年のルネタ公園
フィリピン空軍博物館に展示されていた -
1943/昭和18年5月の東條英機が
このルネタ公園で演説をしている -
鳥居の大きさと同じくホンマに小さな東京だった
でもあるだけましかも
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■リトル東京へ
6時前になっていたので日本食を食べにタクシーでリトル東京に向う。リトル東京に近づいたら渋滞が凄かった。そしてやっと着いてお金を払おうと思ったら、120ペソくらいだったが細かいお金がなく1000ペソを出したら「サンキュー」と笑顔で取り上げようとするので、「ノウ、ノウ」と財布を見せて「お金がないから釣りをくれ」とジェスチャーで示したら、運転手の“おっちゃん”も「釣りがないから、前の店で崩してくれ」と言われた。
ちょうど商店の前だったので、紅茶のペットボトル¥90ペソを一本買って恐る恐るレジで1000ペソを出したら、あっさり¥910ペソの釣りをくれた。待ってくれていたタクシーの“おっちゃん”に130ペソくらい渡して笑顔で別れた。
初めてのリトル東京だったが、「えっ、これだけの範囲?」というのが第一印象だった。まあちゃんと歩いていないので、はっきりとは分からないが、二つの鳥居がその範囲を示すなら思っていたよりさらに小さいリトル東京だった。
端っこにあったラーメンの店に入った。写真も写したけどピンボケで店の名前も判明せず。頼んだのは「アイスティー」「巻き寿司の太巻き4個」「餃子4個」「味噌汁」¥580ペソ也。まずくは無かった。客が少なかったからか日本人客とは出会わなかった。
置いてあった日本語のマニラ新聞を見たら「2月5日のオリンピック予選で、日本1:2シリア」と五輪日本代表が負けているのが目に入った。5日は出発の日で試合を見れなかったので気になっていたが・・・。「あ〜、ホンマ弱いな」である。 -
この角の店に入る
メニューは拉麺から寿司まで -
マニラ新聞があるくらい
日本人が多く暮らしているのだろう -
巻き寿司
-
リトル東京から夜のマニラを歩いてホテルに帰る
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■歩いてホテルに戻る
食事をし終わって、ホテルまで歩いて帰ることにした。地図で見れば北東に向って歩けばホテルに着くはず。午後7時前に出発、一路“MPT・ホテル”へ。道はまったく分からない。腕時計に装着している小さな方位磁石だけが頼りで歩き始める。何のことはなく30分ほどで、マカティー通りのネルソンタワーに辿り付いた。知っている所にくれば一安心。
ネルソンタワーの北隣のアラヤ三角庭園(Ayala Triangle Gardens)周辺は、夜はジョギングコースになっているようで、トレーニングシャツを着てジョギングしている人たちがひっきりなしだった。常夏のマニラ、太っている人も多いけどこうやって体力づくりに励んでいる人たちも結構いる。夜のマカティー通りを家路に急ぐ人たちに先を越されながらホテルへボチボチ歩いた。
ホテル到着は8時過ぎ、それでもリトル東京から歩いて1時間ちょっと掛っている。今日も朝から充実した一日だった。旅のメーンのマバラカット戦跡巡り。思いもよらなかった出会いもあり、バンバンの司令部壕跡も見れた。もうこの一日で今回の旅の目的は十二分に達成できたように思う。すべてに感謝す。
明日はコレヒドール島へ行く。 -
ネルソン・タワーに辿り着く
本屋さんだ
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